2022年 一覧へ
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---力をぬいて---

by 銀色夏生

力をぬいて 力をぬいて

銀色夏生という作家はずいぶん昔から知っている。ただ、名前だけで作家が男だか女だか若いのか年配なのかはまるでわからないまま今日まで来てしまった。

今ではわかる。本書の中に2度離婚歴のある59才の女性で、娘と息子がいると書いてあった。2019年出版だから現在はプラス3才になっている。

ブックオフで本書を手に取ってパラパラ流し読みしていたら、以下の文章にぶつかった。
「大人になった今、私が子どもの頃に意見を言えなかった理由を考えてみた。 私に意見がなかったわけではない。本当に思うこと、言いたいことを言えるなら言えただろ う。でも私が思うこと、自由に思うこと、好きなことと、学校世界はかけ離れていて、ちょっとやそっとのことで乗り越えられないほど違う世界だったのだ。だから私はぐっと小さくなって、おとなしく過ごすしかなかった。・・・つまり、私に意見がなかったのではなく、あの場があまりにもアウェーだったから・・・」

というわけで小学校中学校高校とクラスに馴染めなかった。と書いてあった。著者は女性で筆者は男性だけど、あれれ、と思うほど境遇が似ていた。俺だけじゃなかったんだ。

「ちょっとやそっとのことで乗り越えられないほど違う世界だった」とはうまい表現で、筆者はただなんとなく、馴染めないなー、と思っていた。作家のすごいところはその時の状態や気持ちを適正な文章で表現できるところだ。こうして読書感想文を書いていると、考えていることをそのまま表現することがいかに難しいかが切実にわかる。

上記の文章がトリガーとなって、本書を購入した。220円だった。

「私の子育て」「声と話し方」「私から見える人の姿」「男と女はかなり違う」「健康の秘訣」「いばっていないとは」「下手に人に相談しては危険」「神様のストップ」「新しいことを始める人に」「男性の素敵な姿」「息子に対する母の思い」「いつも顔を合わせているということ」「見晴らしのいい場所」と短いが鋭いエッセイが続く。

「"声"にはその人の生まれつきの性質、"話し方"にはその人の後天的な考え方やセンス、好みが表れると思っています」という「声と話し方」。健康の秘訣は、「自分の心と体の快適さを知っていること」という「健康の秘訣」。「小物、心が狭い、視野が狭い、器が小さい、我欲が強い、恐怖心が強い人ほどいばってる」という「いばっていないとは」。それぞれ自分が普段から思っていることではあるが、文章にして書かれると、考えがはっきりして気持ちがいい。

著者は筆者と同じ四緑木星の生まれである。これらのエッセイがまるで自分が書いたかのように思える。

(2022.5.6)



---似て非なる友について---

by プルタルコス

似て非なる友について

プルタルコス(Plutarchus、A.C.46年 - 119年)が著した「倫理論集(モラリア)」から4篇を抜粋して編集した本である。

本書には「似て非なる友について」「健康のしるべ」「怒らないことについて」「爽快な気分について」の4篇が収められている。

「似て非なる友」とは一見友情で結ばれた友人のなかには、打算から自分に近づいてきた者と自分のことを本当に思ってくれている者とがいる。それらは見分けがつきにくい。自分に都合の良いことだけを口にする者は、自分の勢力が無くなると見るや離れていく。本当の友人は時には厳しいことを言うが、自分が苦境に陥った時も近くにいて、助言してくれる。

世間では良くあることである。2000年以上前に生きた著者も自分の経験や先人たちの著書の中からそのことを見出し、我々後世の者たちに助言してくれている。

「健康のしるべ」で著者は、腹八分目、酒の代わりに水、疲れた時は休む、など当然のことを述べる。ストレスを受けた時は酒を飲み、腹が減った時は暴食をしてしまう我々は当たり前のことがなかなかできない。

「怒らないことについて」で著者はスラの問いかけに対してフンダヌスが答えると言う形で、怒りについて述べている。弱い精神の持ち主、健康人よりは病人、若者よりは老人、運のいいものよりは不運な人の方が怒りやすいものだ、という。怒りに取り憑かれたものは病的な状態で、その時の表情を鏡にうつしてみると良い、とも述べている。

「爽快な気分について」で著者は「生きる技術も下手、生き方について思慮も欠いているなどというのは、・・・幸運にあえば有頂天になり不運に見舞われれば身をちぢめてしまう、つまりどちらからも心を乱される」者でそういうことは改めなければ爽快な気分になれる者ではない、と述べる。また、「自分自身の生活の中にもけっこう多くの楽しい風景があるのには観察の目が向かず、いつも外ばか 眺めては、他人の名声や幸運に目をみはる。これでは浮気男が他人の細君にばかり目をやって、おのれの妻をないがしろにするのと同じだ」と述べ、爽快な気分になれるものではない、と断定する。日本語でいう、上も見てもキリがないし、下を見てもキリがない、というやつだ。

プルタルコスの「倫理論集」という書物は哲学というよりも処世訓という方があっている。発生時の哲学はそういうものだったのかもしれないが。

(2022.5.5)



---アクロイド殺人事件---

by アガサ・クリスティ

アクロイド殺人事件

昨年読んだ「アクロイド殺し」を別の翻訳者で読んでみた。昨年のはハヤカワ文庫で羽田詩津子・訳(2003年)、今回は新潮文庫で中村能三・訳(1958年)である。

ロジャー・アクロイドは登場人物たちの紹介が終わった(60ページを過ぎた)あたりで、誰によるものかはっきりわかる形で殺された。

読者を(だま)しているわけでも誤魔化しているわけでもない。騙されたとすれば、読者の先入観によるものだろう。

本作はポワロものの第3作目である。著者はポワロに以下のように言わせている。「わたしはもう年をとりまして、昔ほどの力はないかもしれません」「おそらく、これはわたしが手がける最後の事件となりましょう」だが、著者はこのあとポワロものを30作以上書いている。

推理小説は犯人がわかってしまうと、2度と読む気が起こらない作品がある。本作は違う。2度3度読んでも面白い。それは著者が事件と同じくらいかそれ以上の比重で登場人物たちの人物とその関係を描いているからである。

今回面白かったのはシェパード医師の姉キャロラインの性格である。せんさく付きでお節介な老嬢であるが、同情心に厚く、いざとなるとせんさくすることなどどうでも良くなってしまう。

本作から4年後に書かれた「牧師館の殺人」で初めて登場するジェーン・マープルの原型は彼女だったのではないか。

本作品はある意味で画期的な作品と言われている。筆者は別の意味で画期的であったのだろうと思っている。それは倒叙ミステリーとしても画期的であったということである。倒叙ミステリーの代表作としてF・W・クロフツの「クロイドン発12時30分 」、リチャード・ハルの「伯母殺人事件」、フランシス・アイルズの「殺意」があげられているが、本作も引けを取らないと思う。

(2022.5.1)



---雪と罪の季節---

by パトリシア・モイーズ
雪と罪の季節

舞台はスイスのモンタラという小さな村。夏は避暑地、冬はスキーで混雑するが、春と秋は村人だけの静かな場所にフランスの閣僚一家とフランスの歌手と女優のカップルの豪華な別荘がある。

夫と死に別れたイギリス人の女流彫刻家が廃屋になりかけた丸太小屋に引っ越してくる。

第1章は女流彫刻家ジェーンの一人称で村の様子が描かれる。村に一軒あるカフェの娘とスキーのインストラクターの青年の恋と結婚式の模様が語られる。

インストラクターがナイフで殺され、娘が犯人とされる。娘は有罪になり、執行猶予期間修道院に預けられる。

ジェーンのイギリス時代の友人ヘンリ・ティベットとエミー夫妻が招待され、ジェーンの小屋に滞在する。ヘンリは有罪になった娘の状況を聞き、不審に思い、調査を始める。場所がスイスのため、自由に調査することができない。

スイス--モンタナ

ヘンリの調査から話し手はエミーに代わる。ヘンリ夫妻とそれぞれ個性的な登場人物たちのやり取りでスイスの村の生活が語られる。読んでいて飽きることがない。著者は事件よりも、それを使って様々な暮らしを語るのがうまい。

事件は解決するが、クリスティのような派手なトリックや仕掛けはない。なんだかよくわからないまま解決する。最後に胸が温まるエピローグが待っている。

読者はひと冬とひと夏、スイスの小さな村に滞在していた気分になる。

(2022.4.27)



---死の贈物---

by パトリシア・モイーズ

死の贈物

事件を担当しない刑事ヘンリ・ティベットは妻のエミーと共に富豪の未亡人の屋敷に招待された。未亡人の命が狙われている、という知らせを受けた上司の命令によってである。

だが未亡人はティベットの目の前で死んでしまう。検死の結果死因は不明となり、事件性はないとされた。ティベットはこれは殺人事件だと確信し、妻エミーと共に個人的に捜査することにする。

誕生パーティに招待されたのはティベット夫妻の他に未亡人の3人の娘たちとその夫たち。未亡人と同居する話し相手の老婦人。ティベットは彼らの錯綜した人間関係を解きほぐしていく。

個性的な登場人物たちとティベット夫妻との虚々実々のやりとりが興味深い。探偵小説で退屈なのは、探偵役が容疑者たちにする尋問とその返答が繰り返されるシーンなのだが、本シリーズでそれを感じたことはない。ティベット夫妻は捜査員としてではなく、招かれた客、あるいは捜査員に協力する者としての立場で容疑者たちに接するからだ。

読者はティベット夫妻と共に上流社会における交際、演劇や映画界の内輪の交際、ヨットマンたちやスキーヤーたちの仲間に入って、その世界を知ることができる。

(2022.4.25)



---ニーチェ・セレクション---

by 渡邊二郎編

ニーチェ・セレクション

ドイツ哲学の研究者であった編者がフリードリヒ・ニーチェのすべての著作の中から、自分が考えるニーチェの本質を表す箴言(しんげん)を集めたアンソロジーである。渡邊二郎氏が全て翻訳している。

「ツァラトゥストラ」を除くほとんどのニーチェの著作は箴言集のようなものなので、この企画はニーチェ自身も望むところなのではないだろうか。

我々読者としても長い推論の果てに結論を述べるような哲学書よりも、この方が手っ取り早く著者の考えに触れることができる。

ということで読み始めたら、始めのページから納得できる言葉に触れることができた。

ある思索者が無理をして何年間も性に合わないことをテーマに思索をしているとそのうちに神経をやられて病気になるであろう、とか、自分が信用できるのは君の彼に対する嫌悪感だけで、その理由ではない、とか、不器用で気の小さい人々が凶悪な殺人者になれる、とかいうことは自分の普段考えていることと一緒で、ニーチェを身近に感じられた。ニーチェもおんなじ人間だろ。

「最も恐ろしい復讐。敵対者に徹底的に復讐しようと思うならば、手に一杯の真実や正義を携えて、それを相手に平然と切り出せるようになるまで、待つべきである。そうすれば、復讐するということは、正義を実行することと同じことになるからである。 これこそ、最も恐ろしい復讐の仕方である。というのも、それはもはや控訴などのなされうるような上級審を全く持っていないからである」というのはどうだ。個人間の復習だけでなく、日本が韓国に、ウクライナがロシアに、というように国同士の関係にも当てはまるではないか。

ニーチェは「生きるとはこういうことだ」と述べる。「死んでゆくもの、哀れなもの、年老いたものに対して、敬虔の念を持たないこと」と。

また「その人の由来、環境、身分、官職、もしくはその時代の支配的見解から推して当然その人が抱くであろうと予期される考え方とは違う考え方をする人は、自由精神と名付けられる」と述べる。ハイデガーの言うダーザイン(現存在)としての生き方と同じことを言っている。 世人(世間)のひとの考えに流されない、自分独自の生き方が大切であると。

紅葉

「哲学上の研究者、あるいはもっと広く一般に学問的な人間というものと、命令者・立法者 哲学者とを混同することは、今こそついにやめるべきだと私は主張する」とは筆者も気になっていた。テレビの番組で大学の哲学科の教授を「哲学者」として紹介するのに違和感を感じていた。哲学者というのはプラトンやアリストテレスのことを指す言葉で、それを研究している学者は哲学者ではないだろう。ニーチェやハイデガーのように独自の哲学の体系を構築したひとであって初めて哲学者と呼ばれるべきだろう。ニーチェは自分は哲学者だが大学の哲学研究者は違う、と思っていたのだろう。

「精神が駱駝となり、次にその駱駝が獅子となり、そして最後にその獅子が小児となる」と「神は死んだ。だから今やわれわれは欲する、超人が生きることを」という文章は「ツァラトゥストラ」に出てくる有名な言葉である。「ツァラトゥストラ」は叙事詩というべきもので、体系的な哲学書とは言えない。そこに表現される言葉の解釈は難しい。だが変に力強い。

ニーチェは弱者を嫌う。仏教を疲れたニヒリズムと言い、キリスト教を同情の宗教と呼ぶ。善とは力への意志のことであり、劣悪とは弱さに由来するすべてのもののことである。弱者や出来損ないの連中は没落すべきである、とも述べている。「神は死んだ。だから今やわれわれは欲する、超人が生きることを」とは比喩ではなく本気で言っている。「生のあるところにのみ、意志もまたある。しかしその意志は、生への意志ではなく、むしろ力への意志なのだ!」

現代日本では弱者優先の思想がはびこっている。公園や建物の内外、駅等いたるところでバリアフリー化がすすみ、エスカレーターはびっくりするほど遅くなった。こんなに弱者優先にしたら強者の立場はどうなってしまうんだろう。ニーチェは反対の意見を持っている。それを堂々と発表している。晩年の10年間は自身が弱者となり、施設で暮らすことになるのだが、本人は死ぬまでそれを認識していなかったろう。

「人間に降りかかるさまざまな出来事は、意識的か無意識的にか、当人自身によってひき起こされたのであってその当人にふさわしいものであるはずだ」ということから、運命と言われているものは偶然ではなく自分自身に原因がある。誰でも自分のことは見ることができない。実際に現れた運命という形でしか。

「人は愛することも憎むことも学ばなければならない」。愛することを教えられなかった子供は、自分が大人になっても、自分の子供に愛することを教えることができない。怒鳴りつけられながら育った子供は普通に話しかけられても反応しない。どう反応したら良いかわからないからだ。悪い連鎖は永久に続く。それがニーチェの言う永遠回帰か。

(2022.4.23)



---ルーヂン---

by イワン・ツルゲーネフ

ルーヂン

ツルゲーネフはロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男として生まれた。ペテルブルク大学哲学部やベルリン大学で哲学や古典語を学んだ。1843年、内務省に職を得るが翌年に辞したのち、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。ドストエフスキーは原稿料を稼ぐために苦労したが、ツルゲーネフは働かなくても食っていける身分だった。

本書の主人公ルーヂンもツルゲーネフ同様働く必要はない身分だが、それもギリギリで、金持ちの家に居候する生活をしている。

ドストエフスキーの「悪霊」に登場するステパン・ヴェルホーヴェンスキーのような人物である。つまり、頭は良く、理論派であるが、実行力がない人物である。

ルーヂンも若者に理論を吹き込み、行動を起こさせることはできる。だが自分は何もすることはできない。何かをするには先が見え過ぎてしまうのだ。

著者は作中でルーヂンのことを、初めは尊敬されるが、のちに誰にも相手をされなくなる人物と評している。「父と子」のバザーロフがその発展型なのだろう。

19世紀後半に彼らのような虚無的な人物像を描くことができたのは、著者自身がモラトリアム型の人間、社会に貢献も期待もしない人間だったから、なのではないか。21世紀の現在、そのような人物は珍しくもなんともないのであるが。

現在、原稿料を稼ぐためにあくせくと働いたドストエフスキーの作品がもてはやされている。大多数の現代人の本質は、誰かにこき使われてあくせく働くよりも、フリーターでもして自分ひとりだけ気楽に生きていければ良い、とするモラトリアム型なのではないだろうか。19世紀に生きたツルゲーネフはそういう者たちの大先輩になる。ほとんどの作品が絶版になっているか、手に入れにくい状況のなかで、ツルゲーネフ復活の運動が気だるく起こることを期待する。

(2022.4.17)



---春の水---

by イワン・ツルゲーネフ

春の水

「春の水」とはどういう意味だろう。甘い水という意味か、生暖かい水という意味か。読後感じたのはこれはかなり苦い水だったな、というものだ。

著者がモデルの若いロシア人がフランクフルトのカフェである女性と知り合う。女性には婚約者がいた。

女性と彼女の婚約者、それと主人公が馬車で遠出をする。途中寄ったレストランで女性が兵士にからかわれる。婚約者は無視するが、主人公は兵士をたしなめると、兵士から決闘を申し込まれる。

という展開から女性の心は婚約者から主人公に傾く。この辺までは絵に描いたようなボーイ・ミーツ・ガールの物語で、純愛物語のロシア版かよ、と思いながら気楽に読んでいた。

ページが3分の2を過ぎたあたり、ポローゾフ夫人・マーリア・ニコラーエヴナが登場すると様子は一変する。旧友の妻マーリア・ニコラーエヴナがとんでもない妖婦で、主人公の心はいいように弄ばれる。

30年後の今、52才になった主人公サーニンは昔彼女からもらった十字架のネックレスを眺めながら悔恨の涙を流す。

ツルゲーネフは自分の体験を元に、人生には甘さもあれば苦さもあるんだ、ということを本作品で描いた。

本書は1961年に岩波文庫から初版第1刷が出版された。1991年に第2刷が出版された。30年間で1回しか増刷されていない。同じ1961年発行の岩波文庫版「ルーヂン」は1989年に14刷している。新潮文庫の「はつ恋」は1952年発行で1967年に改版ののち1978年に54刷している。「春の水」の読者がいかに少ないかを示している。

本書が「ルーヂン」や「はつ恋」あるいは「猟人日記」と比べてつまらないわけではない。後半、サーニンとマーリア・ニコラーエヴナが馬で森の奥にまで入っていくシーンなどはドキドキするほど迫力がある。デヴィッド・リーンが監督した映画「ライアンの娘」で本書のこのシーンがそっくり利用されているほどである。

本書が日本で売れなかった原因は題名ではないかと推察する。「春の水」ではインパクトがない。本書と同様のテーマで書かれたバルザックの「谷間の百合」は1973年発行で10年後の1983年には16刷になっている。本書も別の題名ならばもう少し多くの読者を獲得していたのではないか。

(2022.4.16)



---遠い山なみの光---

by カズオ・イシグロ

遠い山なみの光

4人の女が登場する。ニキとその母親、悦子と佐知子と万里子。

現代のイギリスで、ニキとその母親が景子のことを話している。ニキの母親悦子は遠い昔、戦後何年も経っていない頃、長崎に住んでいた。その頃知り合った佐知子のことを考えている。佐知子には万里子という娘がいた。

小説の大部分は悦子が長崎時代を思い出して読者あるいはニキに語る話で占められている。説明的な文章は排除されていて、読者は彼女たちの噛み合わない会話によって状況を推察するしかない。おおよその人間関係がわかってくるまで、読者には忍耐が必要になる。

良妻賢母型の悦子がなんで嫌味の多い佐知子と付き合うのか。可愛げのない万里子という娘の面倒を見るのか。理解できないまま最後のページまで読み進めることになる。

そして意味不明の文章に出会う。「あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」 。えっ。一緒にケーブルカーに乗ったのは万里子だったよな。

ここで今まで読んできた話がひっくり返る。景子は万里子なの。それでは・・・。

原題の「A PALE VIEW OF HILLS」は「記憶の彼方の景色」という意味を持っていたのだ。昔の記憶を「あの時はこうだった」と思い出す時、必ずしも事実そのものではなく、自分にとって都合の悪いことは消えてしまうという、自己防衛の意識が働く。悦子と佐知子の微妙に噛み合わない会話、夜、万里子を探しに出た時、河原で足に引っかかった泥のついた縄。そのイメージは記憶の彼方で強く印象付けられたものであろう。

処女作でこんな手の込んだ心理小説を書いていた著者はのちにノーベル賞を受賞することになる。ひとつ残念なことはイシグロは日本語で書けないことだ。本作の翻訳者は女性の話し言葉の語尾に「わ」を付け過ぎる。漱石が書いた女性の登場人物たちの会話を参考にしてほしい。

(2022.4.14)



---荒野へ---

by ジョン・クラカワー

荒野へ

主人公の名前はクリス・マッカンドレス(Chris McCandless)、実在の人物である。彼は単身アラスカの荒野へ行き、壊れたバスの中で寝起きし、土地で採れるものだけを食べ、1992年8月に亡くなった。死因は餓死であった。

著者のジョン・クラカワー氏はクリスがなぜ不十分な装備でアラスカの荒野へ行ったのか、知りたい思った。

著者はクリスが残した日記や手紙、本などを丹念に調べ、クリスの家族や友人たち、生前クリスがアルバイトをしていた関係者たちをインタビューして彼が考えていたことを突き止めようとした。

調べていくうちに、著者のジョン・クラカワーとクリスはいずれも父親とうまく行っていないことがわかった。いずれも社会的に成功していた父親は自分の価値観を息子に押し付けようとしていた。

アラスカ

我々と同様、クリスの人間性は矛盾に満ちたものであった。大学の法学部を優秀な成績で卒業したが、就職しないで、2年間国内をヒッチハイクで旅行した。多くの友人から好かれていて、社交的であったが、同時に孤独を好んだ。愛読書はパステルナークの「ドクトル・ジバゴ」、ヘンリー・ソローの「森の生活」のほか、トルストイやジャック・ロンドン、マーク・トウェインの著作であった。

なぜひとりの青年の死が著者を惹きつけ、その著書が多くの読者を惹きつけ、クリスがその中で亡くなったバスが「マジック・バス(Magic Bus)」、または「フェアバンクス・バス142(Fairbanks Bus 142)」と呼ばれ、多くの若者たちが巡礼に訪れるまでになったのか。

全18章を読了するとその輪郭が見えてくる。ひとことで言えば、彼の旅は「青春の(あかし)」なのだ。

本作はショーン・ペン監督・脚本により2006年に映画化された。

(2022.4.12)



---罪と罰---

by フョードル・M・ドストエフスキー

罪と罰(上)罪と罰(中)罪と罰(下)

前回読んだ時の翻訳者は工藤精一郎氏であった。今回は江川卓氏翻訳である。生まれた年は工藤氏1922年、江川氏1927年だから大して変わらない。

それ以外だと中村白葉氏(1890年生)、米川正夫氏(1891年生)、池田健太郎氏(1290年生)、亀山郁夫氏(1949年生)が翻訳している。外国の小説は翻訳によってガラリと印象が変わってしまうので注意が必要である。最近の人の方が言葉づかいや風俗描写などがわかりやすい面がある。翻訳で大切なのは原文の読解能力と日本語の文章を表現する能力である。古い翻訳書を読むと後者が欠けている場合が多い。原文が正確に訳されていれば日本語の表現などどうでも良い、と考えた先生が多かった。

例をあげれば、「ルパンもの」を訳した堀口大學氏、「グレイト・ギャツビー」を訳した野崎孝氏の文章はまともな日本語になっていない。

ロシア文学者は日本語の表現能力に優れた先生が多く、ロシア文学を読んで意味不明な文章に遭ったたことはない。19世紀生まれの米川氏や中村氏が翻訳した本を読んで違和感を感じたことはなかった。

今回は「謎とき『罪と罰』」や「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」を書いた江川氏による翻訳書である。独自の見解による「罪と罰」を楽しむことができた。

1821年生まれのドストエフスキーは1860年、39才で「死の家の記録」を、1861年、40才で「虐げられた人びと」を発表して文壇にデビューした。その後、1864年に「地下室の手記」を、1866年45才の時に「罪と罰」を書いた。さらに、1868年「白痴」、1871年「悪霊」、1875年「未成年」、1880年「カラマーゾフの兄弟」と続き、59才で亡くなった。一人の作家が一生のうち1作でも書ければ歴史に残るほどの作品を5作、クオリティを落とすことなく、むしろ上昇しながら発表したことは驚きとしか言いようがない。

第一部のラスコーリニコフが老婆を殺すまでの描写は、まるで自分が現場にいるような実在感に満ちている。著者の構成は巧妙で、酒場でマルメラードフの独白を聴き、公園で少女を付け狙う男を追い払い、センナヤ広場でリザヴェータが話しているのを立ち聞きするシーンをワンカットで観せられた後、下宿に戻り、外套と斧の準備をする。映画のような手法で読者をラスコーリニコフの視点に同化させる。

殺人のシーンでは読者は完全にラスコーリニコフと一体になっている。彼が老婆の部屋で外の物音に敏感になると、読者も胸がドキドキする。下から上がってくる者たちを2階の空き部屋でやり過ごすシーンでは思わずこちらの息も止まってしまう。ここまでは文学と犯罪小説の垣根は無い。

第二部ではラスコーリニコフの関係者たちが登場する。これは殺人者ラスコーリニコフの内面の変遷の物語であるが、同時に彼を取り囲む人々の物語でもある。

警察署長、副署長、初期のザメートフ、友人のラズミーヒン、母親のプリへーリヤと妹のドーニャは手紙の中で登場する。第一部で酒場のシーンで登場したマルメラードフは瀕死の重傷を負い、家族に囲まれて死んでいく。そして副主人公のソーニャが瀕死の父親の元に駆け込んでくる。マルメラードフの死に立ち会ったラスコーリニコフは一瞬他人の人生の一端に触れたことで、それまでは感じることのなかった実生活を肌で感じる。ラスコーリニコフとマルメラードフの遺児ポーレニカの会話は本章のクライマックスである。「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャと子供たちの会話も印象的だったが、ドストエフスキーは大人と子供の会話がうまい。

第三部ではラスコーリニコフを追い詰める予審判事ポルフィーリイが登場する。ポルフィーリイとラスコーリニコフの心理戦は本章から始まる。丸顔、短躯、小太りのポルフィーリイが、「どうもしつこくて恐縮なんですが」とか「もうひとつちょっとした質問をさせてもらえませんか」とか言いながらしつこく食い下がるシーンは、そのまま刑事コロンボに盗用されている。

第三部の最後のページで本書で最も印象的な人物スヴィドリガイロフが登場する。芝居がかりの効果的なやり方で。筆者が本書を初めて読んだのは10代後半、このシーンでドキリ、思わず周りを見回してしまった。

ドストエフスキーは作品の中にそれとなく自分の意見を差しはさむ癖がある。「結婚相手を見定めるには相手の笑い顔を観察しなさい」とか・・。本章では「 プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、年こそもう四十三だったが、・・年よりもはるかに若く見えた。これは、老年まで精神の明晰さと、印象の鮮明さを持ちつづけ、心に誠実で、清純な熱を失わない人にあっては、たいていそうなのである」とか「服装の貧しさが、このふたりの婦人にはある種の気品をさえ添えている。これは、貧しい服を上手に着こなすすべを心得ている人にはいつも見受けられることである」と述べている。著者ドストエフスキーがラスコーリニコフの母親プリへーリヤを指して述べていることだが、一般論としても通じる意見だと思う。


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第四部は下宿にラスコーリニコフを訪れたスヴィドリガイロフの長い述懐から始まる。

スヴィドリガイロフは妻マルファの幽霊について語る。このシーンで思い出すのは「カラマーゾフの兄弟」でイワンの部屋に訪れる悪魔のことである。

古隅田川の桜

スヴィドリガイロフの語り口がこの悪魔の語り口に似ている。この時彼は自分の死を覚悟している。なかば霊界から語りかけるように感じるのはそのためだろう。

そしてポルフィーリイとの2度目の対決。ポルフィーリイの嫌味と思わせぶりは前回にも増して冴え渡り、自分が犯人だったら耐えられないだろうな、と思ってしまう。

今回のクライマックスはソーニャの部屋で、ラスコーリニコフが口にした言葉「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」である。この言葉によって、本作品が犯罪小説から一段高いところへ持ち上がったような気がした。かつて人類のすべての苦悩をひとりで引き受けて昇天したのはイエス・キリストであった。著者はソーニャにその役目を追わせようとしている。後にソーニャが「聖なる娼婦」と呼ばれるようになったのもこの言葉からではあるまいか。

第五部はマルメラードフの寡婦カチェリーナ一家の悲喜劇が語られる。マルメラードフの葬儀後、追善供養の昼食会をめぐる騒ぎはドストエフスキー得意のドタバタ喜劇である。「カラマーゾフの兄弟」におけるミーチャとグルーシェニカのモークロエ村でのどんちゃん騒ぎのシーンとか、「白痴」におけるイッポリートの自殺未遂騒ぎとか、ドストエフスキーは大勢の人間が騒ぎまくるシーンがうまい。

その前後ラスコーリニコフはソーニャに自分の罪を告白する。ソーニャは義理の母親の発狂とラスコーリニコフの告白をほぼ同時に受けとめる。

第六部はポルフィーリイとラスコーリニコフの3度目の対決から始まる。ここでのポルフィーリイは思わせぶりを捨て、切々とラスコーリニコフを説得する。

ラスコーリニコフの分身、スヴィドリガイロフはドーニャの説得に失敗すると迷走する。雨の中を歩き回った後、早朝拳銃自殺する。何物にも価値を見出せない彼は自分の生にも価値を見出せなかった。

ラスコーリニコフは警察に自首し、裁判の後シベリア流刑となる。金貸しの老婆とその妹リザヴェータの2名を殺した罪に対して8年間のシベリア流刑とは軽すぎると思うが、犯行時心神喪失状態であったということが考慮された。24才のラスコーリニコフは32才になれば解放される。それはまた、別の話になるだろうと著者は述べ、長い物語は終わる。

ある若い殺人者の1ヶ月間の精神の彷徨と彼の周りの人々のある期間の人生を見せられ、まるで自分も19世紀後半のペテルブルグの片隅で生活していたかのように感じていた。読了後、人生の重みがどっと肩にのしかかってくるかのような感じを受けた。短期間で本書を読了した読者が同じような体験をするに違いない。

(2022.4.8)



---ポーカー・フェース---

by 沢木耕太郎

ポーカー・フェース

「バーボン・ストリート」「チェーン・スモーキング」に続くエッセイ集である。

沢木耕太郎のエッセイはいつも切れ味が良くて、ハッとさせられる。

本書も「男派と女派」「マリーとメアリー」「恐怖の報酬」など、題名を見ただけでどんなことが書いてあるんだろう、と思わせるタイトルが多い。

「ブーメランのように」と題されたエッセイに興味深いことが書かれていた。

アメリカにはブーメラン・ジェネレーションという世代があるそうだ。一旦就職した学生が不況で企業に居られなくなり、故郷に帰ってくるという。日本でも一時、Uターンとか、Jターンとか言われたことがある。故郷を出て都会に出た若者が都会に失望して故郷に帰ってくるUターン現象、あるいは帰ってくる途中、途中下車した街に留まるJターン現象というのがあった。ブーメラン・ジェネレーションというのはベビー・ブーマーの世代の子女たちが、一旦企業に勤めるが、仕事の過酷さに耐えかねて両親の家に戻ってくる現象のことを言うらしい。その時に両親は年金生活に入っていて、働かない息子たちが戻ってくると生活が苦しくなる。日本では50-80(フィフティーエイティ)というのが問題になっている。50代の未婚の息子または娘が80代の親を介護することである。最近では60-90(シックスティーナインティ)または70-100(セブンティーハンドレッド)というのもあるらしい。

という話題から自分の新入社員時代の話に移り、その頃作家の吉村昭氏にお世話になった。という話から五味康祐の時代小説「薄桜記」の主人・公丹下典膳の生き方の話になる。自分の生き方と丹下典膳の生き方の類似点について述べた後、話題はブーメランのようにベビー・ブーマーや団塊の世代に戻ってくる。どこまで飛んで行ったかと思わせて、曲芸のように元に戻ってくる。

本書には、このようなエッセイが13収められている。

(2022.4.5)



---沖で待つ---

by 絲山秋子

沖で待つ

2005年、第134回芥川賞受賞作である。

本書には「沖で待つ」の他に「勤労感謝の日」と「みなみのしまのぶんたろう」が収められている。

「沖で待つ」は著者が大学を卒業して住宅設備機器メーカーに総合職として勤めていた頃の話である。エピソードはほぼ実話をつなぎ合わせたものらしい。

主人公はほぼ著者と同一人物である。総合職として福岡に就職して住宅機器を設置する現場の担当者になる。そこで一緒になった同期の男性社員との交流がユーモラスに描かれる。

女と男としてではなく、職場の同期の友情はこういうものだろう、と思った。一緒に修羅場を乗り越えてきた戦友という感じか。

「勤労感謝の日」も著者の体験であろうと思われる。30代半ばのキャリアウーマンが見合いの席を途中で抜け出し、後輩の女性と渋谷へ飲みにいく。女同士のリアルな会話が心地よい。

「みなみのしまのぶんたろう」は中身の文章もオールひらがななので読みづらく、途中下車した。

土下座をしても芥川賞が欲しかった太宰治の重い作品を読んだばかりなので、こういう軽めの短い作品で受賞してしまうことに違和感を感じた。二つの作品を並べてみたら、どちらが歴史に残る作品か一目瞭然なのだが。

(2022.4.4)



---人間失格---

by 太宰 治

人間失格

本書はある作家が昔馴染みのバーのマダムから預かったノート3冊に書いてあったことを発表するという構造になっている。それは大庭葉蔵という男の手記であった。

作家が登場するのははしがきとあとがきだけである。太宰が小説を入れ子構造にしたのは、そのままでは生々しすぎると思ったからだろう。手記はほぼ事実である。女と情死をして女だけが死んだこと、自殺未遂をしたこと、酒浸りになったり薬をやったこと、本人の性格が人の意思に流されやすいことは太宰そのままであろう。

50年ほど前に本書を読んだ時は、なんて恐ろしい小説なんだろうと思った。葉蔵という人物はなんて悪魔的な男なんだろうと。今読むと、葉蔵はただの「いい人」なんだと思う。こういう「いい人」は世間にたくさん存在する。本書が長く読み継がれてきたのは読者が葉蔵を自分のことだと思うからだろう。

50年前はわからなかったが、「いい人」とは優柔不断で意志が弱い者のことを言うのだ。だからそういう人は他人に優しくなれるのである。太宰治は気の優しい人だったに違いない。

古今亭志ん生のギャグに「おい姐さん、帯が解けているよ」「あら、そうお」「これで一緒になっちゃった」というのがある。葉蔵は「お宅は、どちらなのですか?」「大久保です」これで28才の未亡人と同居してしまう。また、京橋のスタンド・バーのマダムに「わかれてきた」それだけ言って同居してしまう。優しさがにじみ出ているからそういうことが可能なのだろう。

太宰には「子供より親が大事、と思いたい」や「富士には月見草がよく似合う」などの名言が数多くあるが、本書の決め台詞は「もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました」である。現代に生まれていたら、トップクラスのコピーライターか作詞家になっていたのではないか。

太宰は本書を執筆した1ヶ月後に情死に成功した。

太宰治inルパン

バー・ルパンでの太宰治

(2022.4.3)



---情報は1冊のノートにまとめなさい 100円でつくる「万能情報整理ノート」---

by 奥野宣之

情報は1冊のノートにまとめなさい

情報処理は全てこの一冊でOKというハウツー本である。

日記、ちょっと思いついたこと、映画を見た後のメモ、電話番号、パスワード等々、なんでもA6版のノートに時系列で記入していく。それだけ。確かにメモはスマホのメモ帳に打ち込むより、手書きで走り書きするほうが簡便で速い。

著者はさらに発展して、映画のチケットやチラシ、スケジュール帳なども貼り付けてしまうという。

さらにさらに、ノートを袋とじにしてテレカやお札なども入れてしまう。まさに万能ノートである。

原価は100円。百均やコンビニで購入する。百均やコンビニで購入するメリットは、無くなったらすぐ補充できるから。これはうまい発想だ。そこでなければ買えない、というものだと長続きしない。

筆者も以前、右のような罫線のないノートをメモ帳として使っていた。これは実に使い勝手が良かった。

パラパラめくって以前のことを懐かしむには良かった。ただ、これを資料として使うとなると難しい。どこに何が書いてあるかわからないからだ。

著者は業界誌の記者である。ノートを年間20〜30冊使うという。どうやって必要な情報を取り出すのだろう。

そこに著者独自の工夫があるらしい。

実際にやってみると、なるほど。情報を自由自在に取り出せる。これは便利。

ワンアイデアで一冊の本が書けてしまうだけのことはある。

 

(2022.4.1)

筆者の使っていたノート(表紙)

筆者のノート(表紙)
筆者の使っていたノート(中身)

筆者のノート(中身)



---なぎさホテル---

by 伊集院 静

なぎさホテル

著者は1970年代後半から1980年代前半までの7年間神奈川県逗子市の逗子なぎさホテルに滞在した。年齢で言うと20代後半から30代前半にあたる。本来であれば仕事をバリバリこなしている年齢である。

その時にあった出来事を約30年後の2011年に小説として発表した。それが本書である。本書は15の章から成り、章ごとにエピソードを記している。

それまでコマーシャル・フィルム制作ディレクターをしていた著者が仕事を辞めてふらっと逗子の海岸を見にきた。数日間滞在するつもりで海岸近くのホテルに宿泊した。それが最終的に7年間の滞在になってしまった。

7年間という長期間滞在は、ある時からホテルの支払いは出世払いでいいと言ってくれた支配人の存在が大きい。見ず知らずの若者をそこまで応援するということは、その若者に対して何か感ずるところがあったからだろう。

現代のおとぎ話のような話である。7年間も滞在したら様々な人間関係が生じ、嫌なこともあったろうが、本書では書かれていない。30年の間に良い思い出だけが残ったようである。

著者は再び人生に踏み出すために、1984年に女優の夏目雅子と結婚する。7年間の交際ののちに結婚した彼女は翌年の1985年、白血病のため27才で亡くなる。その物語は別の小説で語られている。

(2022.3.31)



---検索(けんさく)刑事(デカ)---

by 竹内謙礼

検索刑事

題名はミステリー風であるが、本書はSEOの指南書である。SEOは「Search Engine Optimization」の略で「検索エンジン最適化」の意味である。「検索エンジン最適化」とは、自分のホームページをグーグルとかヤフーの検索エンジンに引っかかりやすくする技術のことである。

せっかくホームページを作っても万人に見てもらわなければ何にもならない。営業目的のホームページであれば、死活問題になる。趣味のホームページにしても、さまざまな人に見てもらわなければ、独りよがりの自己満足に終わってしまう。本ホームページのように。本ホームページなどは日記がわりに作っているようなものだ。

そこでSEOが登場する。たとえばGoogle検索で「ミステリー」と検索したら、1ページ目か2ページ目で「BeanJam-Diary」というホームページが出てきたら、多くの人に見てもらえるし、10ページ目に出てくるようなら誰にも見てもらえない。何かを調べるためにググッた時、2ページ目以降を見ることはまずない。

以前の検索エンジンではキイワードに「ミステリー」と書いておけば拾ってもらえた。10年前、筆者が「ホームページの作り方」教室で習ったのはそこまでだった。現在は違う、と著者はいう。検索エンジンの中身は非公開だが、各社AI(人工知能)を導入していて、かなり深くまでホームページの内容を調査しているという。

第一番にキイワードを見にくるのは当然であるが、次に構造を見にくる。整然としたツリー構造になっていることが大切である。形式だけでなく、内容も充実していなければ取り上げてもらえない。

最後に殺人犯人は判明し、あっこれはミステリーだったんだ、と気づく。

主人公は「結局のところ、人間の才能なんて、トコトン突き詰められる人間か、そうでないかの違いでしかないんだ」、「優秀な人は、何事にもストイッ クに突き詰めることが得意な人である」という。事件の捜査をする警察官にも、ホームページ作りに勤しむウェブ制作者たちにもあてはまる言葉である。

(2022.3.30)



---二度読んだ本を三度読む---

by 柳 広司

二度読んだ本を三度読む

ここで紹介された本は以下の通りである。

  1. 月と六ペンス・・・・・・ ・・・・サマセット・モーム
  2. それから・・・・・・ ・・・・・・ 夏目漱石
  3. 怪談・・・・・・・ ・・・・・ ・・小泉八雲
  4. シャーロック・ホームズの冒険・・ コナン・ドイル
  5. ガリヴァー旅行記・・・・・・・・ ジョナサン・スウィフト
  6. 山月記・・・・・・・・・ ・・・・ 中島敦
  7. カラマーゾフの兄弟・・・・・・・ フョードル・ドストエフスキー
  8. 細雪・・・・・・ ・・・・・・・・谷崎潤一郎
  9. 紙屋町さくらホテル・・・・・・・ 井上ひさし
  10. 夜間飛行・・・・・・ ・・・・・・サン=テグジュペリ
  11. 動物農場・・・・・・ ・・・・・・ジョージ・オーウェル
  12. ろまん燈籠・・・・・・ ・・・・・太宰治
  13. 竜馬がゆく・・・・・・・・・・・司馬遼太郎
  14. スローカーブを、もう一球・・・・ 山際淳司
  15. ソクラテスの弁明・・・・・・・・ プラトン
  16. 兎の眼・・・・・・・・・ ・・・・灰谷健次郎
  17. キング・リア・・・・・・・・・・W・シェイクスピア
  18. イギリス人の患者・・・・・・ ・・M・オンダーチェ

三度以上読む本となると、よほど面白い本か、思い入れのある本に限られる。上記のラインアップを見ると、名作ばかりである。当然のラインアップと言える。

「月と六ペンス」を著者は「何度も繰り返し読んだ。プロの小説家として、この小説から多くを学んだ」と述べている。著者がモームから学んだことは「小説家はサービス精神旺盛でなければならない」ということと「皮肉とユーモアは小説の必要条件」ということだ。「ただし、それだけでは足りない。愛崇高さ。不思議な感銘。何と呼ぶかは勝手だが、“何か”が必要」と述べている。

著者は「それから」を漱石の小説の中で唯一「不穏な小説」である、と書いている。その理由は「それから」を「不倫を」書いているのではなく、「不倫で」書いている、と述べている。丸谷才一は日本の近代小説の100冊を選んだ時に、そのなかに漱石の「それから」を入れた。他の作品にない“何か”を感じたのかも知れない。

著者は「山月記」を音読する小説である、と書いている。確かに黙読すると辛くなるが、音読してみると調子よく読める。

筆者も「カラマーゾフの兄弟」は五度以上は読んでいる。あらすじは完全に頭の中に入っている。そうなると今まで気が付かなかった細部に目が届くようになる。何度読んでも面白いのは、読むたびに新しい発見がある、ということもある。

「細雪」は関西の若い女性たちの会話から成り立っている。関東の女性たちの会話では成り立たない小説である。著者は谷崎が「細雪」を書かなかったら「大谷崎」とは言われなかったであろう、と述べている。

サン=テグジュペリの「夜間飛行」と「人間の土地」は今まで何度も読もうと思ってページをめくってきたが、半分まで行かないうちに途中下車してきた。著者は高校生の時に二度読んで感動した、と書いてある。あれを高校生で面白いと思うとは、将来作家になる人は違う。

「竜馬がゆく」と「スローカーブを、もう一球」は間違いなく面白かった。2冊とも文章にリズムがあって読みやすい。一度引き込まれたら最後まで一気読みしてしまう。

「ソクラテスの弁明」を読んで難しいと思っていた哲学が身近なもので、わかりやすいものだと思った。合成したような難しい熟語を使わないでくれれば哲学は難解なものではない。「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」の三部作でソクラテスの死の経緯とその後の弟子たちの様子がわかる。新潮文庫のみ三部作が一冊にまとまっていて539円と一番安く、親切である。岩波文庫だと「ソクラテスの弁明、クリトン」572円と「パイドン」792円の2冊を買わなければならない。

「兎の眼」と「キング・リア」と「イギリス人の患者」は、紹介文を読んでも、とても面白いとは思えない。

(2022.3.29)



---秘密諜報員サマセット・モーム---

by 田中一郎

秘密諜報員サマセット・モーム

著者は英文学者ではない。1939年生まれ、慶応義塾大学文学部社会学科卒業後、大森実国際問題研究所などを経て、1972年から駐日スウェーデン大使館勤務。 主席商務官を務めながらサマセット・モームを研究している。市井の研究者である。仕事柄ヨーロッパへ出張することが多く、その途中モームのゆかりの地を訪れて見聞を広めている。

表紙の首像はロンドンの古書店で購入したものらしい。* * * *ポンドでクレジットカードの限界枠を増額しなければならなかったと書いてある。100万円前後か。モームの孫が古書店に売りにきたものだそうだ。

本書はファンによるサマセット・モームの評伝である。さまざまな文献をつなぎ合わせてモームの足跡を追い、さらにモームが活動した土地を著者が訪れ、自分が感じた印象を記述して、評伝に現実感を与えている。

モームは第一次世界大戦中英国の諜報部員をしていたので、ヨーロッパ各地を訪れている。これは事実であった。彼はMI-6の長官直々に任命された、かなり大物のスパイだったようだ。著者の研究によると、「英国諜報員/アシェンデン」で書かれたことは実際にあったことだった。

「英国諜報員/アシェンデン」は軽い調子で書かれているので、モームは作家活動の合間に気分転換兼取材活動のつもりでスパイをやっていたのだろうと思っていた。上司の「R」も想像上の人物だろうと思っていた。

著者の研究によるとそれはまるで違っていた。モームはかなり本格的にスパイ活動をしていた。チャーチル、チェンバレンなどの政治家たちとも対等に付き合っていた。「R」も実在の人物で、MI-6の局長クラスの人物であった。彼は実際に「R」と呼ばれていた。モームは第一次、第二次世界大戦でロシア革命を阻止しようとしたり、日本を取り巻くABCD包囲網の構築に貢献した。

イアン・フレミングの「007シリーズ」の主人公ジェームズ・ボンドのモデルはモームであったらしい。ボンドはいわゆるボンド・ガールズを使ってスパイ活動をしていたが、モームは多勢の男女のスパイを使っていたらしい。手足として使っていた側近のスパイはモームの秘書兼恋人の男性のスパイだった。モームは妻との間に娘がいたが、妻とは離婚し、娘を廃嫡して男性秘書を養子にしようとしていたらしい。

著者の調査が進んでいくうちに、今まで持っていたサマセット・モームのイメージが変化してきた。ゴーギャンをモデルにした「月と六ペンス」の作家ではなく、怪物的な、得体の知れない人物に思えてきた。

モームの熱狂的なファンである著者田中一郎氏は調査すればするほど深みのある、モームの巨大な全体像に惹かれていたのだろう。祖父のモームを嫌った孫が売りに出した首像を見ると、第一次、第二次世界大戦を裏側からコントロールしようとした得体の知れない巨魁の像に思えてくる。

(2022.3.28)



---功利主義者の読書術---

by 佐藤 優

功利主義者の読書術

【資本主義の本質とは何か】
☆「資本論」第一巻 カール・マルクス ☆「うずまき」 伊藤潤二 ☆「夢を与える」綿矢りさ ☆「資本論に学ぶ」 宇野弘蔵

著者には以下の通り、資本論に関する著書が多い。「国家と神とマルクス:『自由主義的保守主義者』かく語りき」「私のマルクス」「いま生きる『資本論』」「『資本論』の核心:純粋な資本主義を考える」「希望の資本論:私たちは資本主義の限界にどう向き合うか」「マルクスと日本人 社会運動からみた戦後日本論」「21世紀に『資本論』をどう生かすか」。
外交官としてロシアで勤務した経験が長いからであろう。
筆者も経験があるが、共産主義国に滞在すると資本主義国の良いところが見えてくる。ソビエト連邦の衛星国であった頃のブルガリアに2ヶ月滞在した後、デンマークのコペンハーゲンに出たら周りの景色が明るく見えた覚えがある。浅薄な話ではあるが、帰国後それまで左翼的だった筆者が右翼的な思考に変わってしまった。
外交官として10年近くソビエト連邦に駐在した著者は思うところが多かったことであろう。資本主義とは何か、ということを考える時、一番良いテキストが「資本論」なのではないだろうか。産業革命初期のイギリスの労働者の状況を見据えて、商品、貨幣、資本について深く考え抜いた初めての書物なのだから。

【論戦に勝つテクニック】
☆「山椒魚戦争」カレル・チャペック ☆「ふぞろいな秘密」石原真理子/「負け犬の遠吠え」酒井順子

山椒魚がとった論戦に勝つ秘訣とは・・・。はぐらかしとはね。「山椒魚戦争」はSFの古典でもある。
石原真理子がDV男・玉置浩二にとった対抗手段とは・・・。極めて理性的であり、正攻法である。酒井順子の負け犬の定義は、こじつけで納得できない。

【実践的恋愛術を伝授してくれる本】
☆「孤独の賭け」 五味川純平 ☆「我が心は石にあらず」 高橋和巳

五味川純平という作家は純文学なのか、大衆文学なのか。「人間の条件」も「戦争と人間」も読んだことがない。高橋和巳の「我が心は石にあらず」と「邪宗門」はかなり長期間持っていたが、ついに未読のままになってしまった。現在のありかは不明。大江健三郎と同じ匂いがする。

【「交渉の達人」になるための参考書】
☆「北方領土交渉秘録 失われた五度の機会」 東郷和彦 ☆「カラマーゾフの兄弟」フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 亀山郁夫訳 ☆「カクテル・パーティー」 大城立裕

東郷和彦氏は先日テレビに出ていた。かなり昔の人のように思っていたが、若々しい人だった。著者の元上司である。著者が本書を書いた時点(2009年)でプーチンはファシストである、と明言していた。2022年の今それが証明されている。
著者は亀山郁夫氏翻訳の「カラマーゾフの兄弟」を名訳だと褒めている。筆者は亀山氏に対してうさんくささを感じたので亀山氏訳の「カラマーゾフ」を途中下車した。まともなロシア文学者がロシア人の名前の父称を省略したり、「カラマーゾフ」の続編を書いたりするだろうか。
「カクテル・パーティー」 という小説は初めて知った。著者が沖縄県人で、沖縄について問題意識を持って書いた作品ということである。沖縄文学というのは沖縄についての問題意識を持って書かれた作品が多い。関東出身の筆者は沖縄については知識としてしか共感できない。久米島出身の佐藤氏は皮膚感覚として共感して本書を紹介している。

【大不況時代を生き抜く智慧(ちえ)
☆「恐慌論」 宇野弘蔵/「恐慌前夜 アメリカと心中する日本経済」副島隆彦 ☆「経済学の国民的体系」 フリードリッヒ・リスト ☆「蟹工船・党生活者」 小林多喜二

著者はマルクスの「資本論」の解説者としての、または改良者としての宇野弘蔵氏を高くかっている。資本主義社会においてはリーマンショックに見られたような恐慌は定期的に繰り返される、という宇野弘蔵氏の理論は説得力がある。好景気になり人手不足になると、賃金が上昇し、資本家の儲けが少なくなる。商品は再生産が効くが、人材は効かない。人材の育成には時間がかかるからだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」式に納得できる。「資本論」は現代にも通用する。
ドイツの経済学者リストは「経済発展の背後には精神力がある」という理論を唱えた。精神力とは教養のことであり、読書によって鍛えられる。識字率の低い国は経済が発展しない。近年日本の国力が停滞しているのと、本屋の減少は関係があるという。
著者は「蟹工船」の 小林多喜二はエリート銀行員であり、「蟹工船」に見られる労働者の姿は頭の中で作り出したものだという。プロレタリア文学としては葉山嘉樹の「海に生くる人々」の方をかっている。

【「世直しの罠」に(はま)らないために】
☆「邪宗門」 高橋和巳 ☆「歌集 (とこ)しへの道」 坂口弘/「レッド」 山本直樹

著者は高橋和巳の愛読者のようである。高橋和巳の作品は現在はなかなか見つけることができない。1972年前後にはどの書店にもあった。全共闘時代の作家である。
坂口弘は連合赤軍のメンバーで死刑囚、山本直樹は連合赤軍のことを漫画にした作家である。筆者の周りでも、賛同するにせよ反発するにせよ、少なからずの同級生が全共闘の影響を受けていた。

【人間の本性を見抜くテクニック】
☆「長いお別れ」 レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳/ 「ロング・グッドバイ」 レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 ☆「死と生きる 獄中哲学対話」池田晶子 陸田(むつだ)真志(しんじ)

チャンドラーの「The Long Goodby」のふたつの翻訳について、自身翻訳家でもある著者が鋭い意見を述べている。あとがきで村上春樹が書いた言葉、「翻訳は賞味期限があるもので、50年経ったら新しくしなければならない」というのは先輩清水俊二に対する礼儀として言ったもので本音は違う。清水訳にはチャンドラーが書いた微妙なニュアンスが欠けている。そこのところを村上は見事な日本語で表現している。確かに著者が挙げた何か所かの文章を読むと、村上訳に比べて清水訳には文学的なニュアンスが欠けている。もっとも50年前と今とではチャンドラーに対する評価は変化している。当時この手のアメリカの翻訳小説が大量に出回っていたことを考えると、清水氏はチープなアメリカ製ハードボイルド小説を翻訳したつもりでいたのだろう。
「死と生きる 獄中哲学対話」は哲学者池田晶子と死刑囚 陸田真志の往復書簡集である。陸田真志は金のために二人殺した犯罪者である。獄中で池田晶子が書いた記事を読み、プラトンの「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」と池田晶子の「さよならソクラテス」を買って読んだ。感動して著者の池田氏に手紙を出した。それがたび重なって往復書簡になった。それを読んだ著者が陸田の哲学的な思考に感心した。1960年生まれの池田氏は2007年に47才で亡くなり、1970年生まれの陸田氏は2008年に38才の時に死刑を執行された。

【「沖縄問題」の本質を知るための参考書】
☆「琉球王国」高良(たから)倉吉(くらよし) ☆「テンベスト」池上永一

著者の母親の出身地が久米島であることから、沖縄および琉球の歴史は著者にとってルーツとも言えるものであ。資料として高良倉吉の「琉球王国」(岩波新書)を、小説として池上永一の「テンベスト」を勧めている。
かつて琉球は王国であった。日本と中国に対して対等の貿易をしていた。中国が沖縄の領有権を主張するとすれば、琉球王国以来の歴史を持ち出すに違いない。日本国民および政治家はその歴史を勉強しておかなければならない。

【再び超大国化を目論むロシアの行方】
☆「ソビエト帝国の最期 予定調和説”の恐るべき真実」 小室直樹 ☆「イワン・デニーソヴィチの一日」A・ソルジェニーツィン ☆「他者の受容 多文化社会の政治理論に関する研究」ユルゲン・ハーバーマス

現在進行中のロシアによるウクライナ侵略は唐突に発生したものではなく、歴史がある。ロシアによるポーランド侵略、チェコ侵略、そしてグルジア侵略の歴史をかえりみなければならない。その根っこには民族と国家という問題がある。一民族一国家が正しいのか、多民族国家が正しいのか、という問題である。一民族で国家の全ての機能を運営することができるのか、と問われると、日本は運営できるが、少数民族では無理だろう。ロシアは182の民族が存在する多民族国家である。182の国に分裂するのは非現実的である。この国を統治するのは並大抵のことではないと想像できる。

【日本の閉塞状況を打破するための視点】
☆「はじめての唯識」 多川俊映 ☆「公共性の構造転換 市民社会のカテゴリーについての探究」ユルゲン・ハーバーマス ☆「共同幻想論」吉本隆明 ☆「新約聖書 新共同訳」

「はじめての唯識」は仏教哲学、「公共性の構造転換 市民社会のカテゴリーについての探究」は経済哲学、「共同幻想論」は哲学に見せかけた宗教書という定義で説明している。最後に新約聖書を持ってきたのは著者の専門が神学ということからそうなったのだろう。最後に功利主義者の説明がある。受肉主義者という意味でそう名乗ったのだという。受肉とはキリスト教関係の言葉である。キリストの肉を食べキリストの血を飲むということから、自分にとって欠くべからざる読書という意味か。

本書は単なる書評ではない。著者の人生に何らかの意味で影響を与えた本の紹介である。

(2022.3.25)



---欠落---

by 今野 敏

欠落

「同期シリーズ」の第2巻である。

宇田川と蘇我の若い同期生、植松と土岐(とき)の古い同期生の物語である。本書では宇田川と蘇我のもう一人の同期生大石陽子が登場する。

前作では若い刑事の宇田川は50才前後の先輩植松と土岐から事件を通してさまざまな教育を受ける。本作では所轄署の佐倉という一癖も二癖もある先輩と一緒に行動することになる。事件の捜査は年配と若いふたりの刑事がペアで活動することが多い。

初めは箸にも棒にもかからないと思われていた佐倉が徐々に優秀な刑事だということがわかってくる。本シリーズは若い刑事宇田川のイニシエーションの物語でもある。

物語は立て篭もり事件から始まる。大石陽子は人質の身代わりになって犯人に連れ去られる。宇田川はもう一つの事件若い女性が殺害された事件の担当になる。事件の捜査は進むがまるで解決の兆しが見えない。刑事たちの徒労の捜査が続く。

本作では殺人強盗などを取り扱う刑事部と外事や諜報関係を取り扱う公安部との駆け引きが描かれる。一般の会社でも部や課が違うとまるで別の会社のようで、まるで何をやっているのかわからないという現象が見られるが、警察組織でも同様である。刑事部と公安部、警視庁と県警はまるで敵対関係であるかのようである。

著者の興味は事件よりも組織内の人間関係や組織間の対立に向いている。

(2022.3.23)



---触発 警視庁捜査一課・碓氷弘ー1---

by 今野 敏

触発

登場人物ひとりひとりがプロである。テロリストは爆弾作りのプロ、警視庁捜査一課の碓氷弘は刑事のプロ、自衛隊の岸辺は爆弾解除のプロ。それぞれのプロフェッショナルが自分の腕を信じて活動する。

そこに警視庁、警察庁、内閣情報調査室、大学の社会科学科の教授などが絡んで物語は進んでいく。

これは議論小説でもある。登場人物のそれぞれが自分の生き方を議論する。警視庁の刑事は公安課、警備課、警察庁、内閣情報調査室、爆弾処理班のメンバーと自分たちの立場ややり方について議論する。自衛隊員は国防に関して自分たちのあり方を、大学の教授たちは社会科学という学問について真剣に議論する。テロリストは傭兵としての自分の生き方と現在の日本の状態、特に若者たちの生き方について自問自答する。

著者今野敏はさまざまなテーマに関して、自分の考えを述べるためにこの小説を書いたようだ。もちろんクライマックスにおける戦いの迫力、エピローグのカタルシスは著者の独壇場である。

(2022.3.22)



---マクリーンの川---

by ノーマン・マクリーン

マクリーンの川

読了後、透明な川の流れと水飛沫(みずしぶき)、跳ねる魚の残影が頭の中を何度も行き来した。

著者のノーマン・マクリーンは英文学の教授を引退後、生涯に一冊の本を書いた。出版されたのは著者が74才の時であった。

これは自伝であり、「あの時はああだった」ものである。著者は1976年に、1938年のころのモンタナでの釣り行を描いた。単なる釣り行ではない。ここで描かれる釣りは人生そのものである。

当時弟のポールは35才、著者は38才。何かというと釣りに出かける。フライフィッシングである。エサ釣りは釣りとして認めていない。

二人の釣り行は弟の突然の死によって断ち切られる。だからこそ二人で行った釣り行のひとつひとつが、著者の脳裏に鮮烈に刻み込まれることになる。

釣り行と並行して何組かの家族の様子が描かれる。著者の父と母。著者とその妻。妻の母、兄、弟。妻の弟の妻。それとなく、一家の厄介者(やっかいもの)の存在が描かれる。妻の兄と弟のポールが社会に対して居づらさを感じている。妻の兄は酒に、弟のポールは釣りにはけ口を求めている。

モンタナ州ブラックフット川

透き通った急流の中での人間と魚との一騎打ち、あるいは一体感。通奏低音のように描かれる家族関係。著者は個人的な思い出を語ることによって、普遍的な人間の関係を書いた。

本書は1992年にロバート・レッドフォード監督によって映画化された。題名は本書の原題と同じ「リバー・ランズ・スルー・イット」(A River Runs Through It)であった。本映画は弟のポール役を演じたブラッド・ピットの出世作になった。

(2022.3.21)



---いま生きる「資本論」---

by 佐藤 優

いま生きる「資本論」

佐藤優氏の講義録である。まえがきによるとどうやら大学ではなく、一般の聴衆に対して1回1時間半の講義を合計6回行った時の講義録のようだ。費用は全部で1万9千円、1回あたり3千2百円というのは安い。機会があれば筆者も聴講したい。

1867年にプロイセン王国出身の経済学者カール・マルクスによって出版された。マルクスは1949年以降はイギリスに住んでいたようで、彼が批判した資本主義はイギリスのものだった。

1991年にソビエト連邦が崩壊した後人気のなかった「資本論」が近年脚光を浴びている。ソ連や中国の共産党によって歪曲されたものを、本来の姿で理解しようとする試みが、若い経済学者や哲学者たちによってなされている。著者の佐藤氏が言うように「資本論」は「論語」「旧約、 新約聖書」「国家」(ブラトン)、「形而上学」(アリストテレス)、「存在と時間」(ハイデガー)、「善の研究」(西田幾多郎)などとともに人類の財産であり、危機の時代を乗り越えるだけの力を持っている。

哲学書を読み解くには個人の力では無理で、指南書あるいは指南役の教師が必要である。佐藤氏は本書で絶好の指南役を果たしてくれた。

偉大な業績を残したマルクスであるが、性格は悪く、身近にこういう人がいたらかなわないな、と思う人だったようである。ある者は「マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語り、ある者は「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない」と語っている。

第1日 : 労働者の賃金は【飲食、衣服などの生活費+住居費+明日への英気を養うためのレクリェーション費+家族を扶養し、子供に教育を受けさせるための資金+自己教育ための資金】から成り立っている。利益を等分に分配しているわけではない。マルクスが生活していたイギリスでは経営者が利益を不当に多く取り、労働者には最低生きていくだけの賃金しか渡さなかった。最近の先進国では再び産業革命後のイギリスのようになってきている。アメリカの経営者の給料は天文学的な数字になっている。それに対して、労働者の給料はこの30年間ほとんど変わっていない。近年、マルクス・ガブリエルや斎藤幸平など、気鋭の学者たちが「資本論」の新しい解釈を提案している。

第2日 : 論文を書くにあたって役に立つ参考書は、昔は澤田節蔵の「論文の書き方」、最近は小林 康夫、 船曳 建夫の「知の技法」が良い、という話は参考になった。マルクスは社会制度を考えたけど、国家には触れていない。資本家は労働者の労働を搾取という形で奪うが、国家は税金という形で有無をいわせずに収奪する、という考えはなるほどそうだ。搾取が激しい会社は辞めてしまえば済むが、脱税すればイヤも応もなく刑務所行きになる。

資本論

マルクス「資本論」


第3日 : フランス語は愛を語るのに適した言葉であり、ロシア語は家畜を追うのに適した言葉である。ドイツ語は哲学を語るのに適している。日本語に翻訳された哲学の本は読みにくい。造語ばっかりで哲学科の学生でなければ意味不明である。ドイツ語では普段使う言葉でギリシャ語やラテン語から哲学を翻訳したので一般の人にわからない言葉がない。なるほど。
マルクスは資本主義が煮詰まったあげく、革命が起こり社会主義へ進まざるを得ない、と述べたが、実際には煮詰まってくると内部でイノベーションが起こり、資本主義は進歩する。なるほど、確かにそうだ。

第4日 : マルクスは資本主義が発展したあげく、社会主義にならざるを得ない、と述べた。マルクスの見ていた資本主義は産業革命直後のイギリス社会だった。日本で言えば女工哀史の時代である。誰が見てもこれは資産を持たない労働者にとって悪い時代だった。マルクスが後100年生きていたら考えは違っていただろう。特に日本の資本主義の発展を見れば。

戦後の日本の社会は半分アメリカによって作られたようなものである。マッカーサーは天皇制の影響を削ぐために戦後の一時期、共産主義を取り入れた。その影響で日教組ができ、年金制度ができ、健康保険制度ができた。高度成長期までの日本の社会は資本主義の社会に社会主義の良いところを取り込んだ理想的なモデルであった。

資本主義に限らず人間の社会は発展し、その後腐敗する。定期的にイノベーションが必要になってくる。現在の資本主義国の多くは富が一部に集中している。極端に言えば産業革命直後のイギリスのような状態になっている。さまざまな意見が提案されているが、この閉塞状態を脱却するのに有効な手段はいまだ実行されていない。著者は「小説を読むことで鍛えられ、磨かれ、身についていく想像力や感受性、知性や品性は極めて大切になっていくと思っています。それは金銭に還元不可能なものであり、すなわち資本主義の網の目から逃れているものでもあるのです」と述べている。金が全てを支配する社会で「金銭に還元不可能なもの」を追求する姿勢は大事だと思う。

第5日 : ギリシャ人は何が根源的かということを徹底的に考えた。マルクスは徹底的に商品と貨幣のことについて考えた。ギリシャ以外の国のひとやマルクス以外の学者はそれらについて徹底的に考えることをしなかった。金と商品の価値、資本家と労働者の関係、「そういうもんなんじゃないの」というところからは学問は生まれない。150年前にマルクスが立てた理論は現代では間違いであったり、通用しないものがあったりする。が、マルクスがその時点でなにを徹底的に考えたかということは現代でも十分役に立つ。

第6日 : 資本論は最後まで行っても資本主義の構造と仕組みについて詳細に分析しているだけで、革命だとか階級闘争に類した言葉は出てこない。最終章「諸階級」のところで「賃金労働者、資本家、土地所有者は、近代の、資本主義的生産様式に立脚する社会の三大階級をなす」と出てくるのみである。カール・マルクスが資本主義の本質を解き明かすために徹底的に分析したのが「資本論」であった。

1991年ソビエト連邦が崩壊すると、資本主義国にも変化が現れ始めた。社会主義国があることで歯止めがかかっていた資本家による労働者への搾取が止まらなくなってきたのだ。その頃から日本ではグローバル化という言葉が表面に現れ始めた。なんでもグローバル化するのが良いという考えが大手を振って歩き始めた。正社員が減り、派遣社員が増え始めた。正社員が減るということは社会主義的な健康保険や厚生年金などの各種保険が減るということである。資本主義が100パーセント正しいというわけだ。

社会の流動性も無くなり、階級が固定化し始めた。親の収入と学歴の関係が言われたのもこの頃だ。親の収入と学歴が比例するというのだ。親の収入が高いと学歴が高い。学歴が高いと社会の階級が上がる。学歴が低いと派遣社員にならざるを得ない。つまり金持ちは代々金持ち、貧しい人は代々貧しい、ということになる。

マルクスが「資本論」を書いた頃のイギリスと今が似てきている。マルクスは資本主義の構造を精密に分析した結果、資本主義は腐敗し、社会主義を経て共産主義に代わると予想した。予想というものはなかなか当たるものではない。資本主義はイノベーションを繰り返しながら生き延びている。流血の闘争によって帝政を打倒したレーニンと毛沢東は、共産主義革命と称して自分が皇帝に置き換わっただけだった。

現代に生きる我々はこの社会をどのようにしたら良いのか。著者の佐藤氏は独自の考えを提案する。マルクス・ガブリエルや斎藤幸平などの若い経済学者たちも、それぞれ独自の方法論を展開している。いずれも、カール・マルクスが分析し、考察した資本主義という制度を現代の世の中に調和させるにはどのようにしたら良いのかを真剣に考えている。

(2022.3.20)



---存在感をめぐる冒険 批判理論の思想史ノート---

by 大熊昭信

存在感をめぐる冒険 批判理論の思想史ノートる

著者はあとがきで「人間は多層的存在である。その多層性の経験を楽しまない手はない」と述べている。さらに「人生の形は人さまざまで、多種多様である。一人の人間にとっても人生は複雑にして怪奇、 多重的にして多面的である。たとえば・・・」と続いている。

ハードカバーで500ページにわたって展開された考察は、74才の文化人類学者の多岐にわたる読書やその他のさまざまな経験から形造られたものである。

内外400冊以上の書籍、多数の映画や演劇のセリフから引用され、それに対して考察を加えられている。色とりどりの思想が展開されているが、結論は後書きの文章であろうと思われる。

「マクロな自己感を育む人間の歩みを一筆書きのように言い切っているのが、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女』でサッチャーが父親の教訓として語る言葉である。『考えが言葉になり、言葉が行動になり、行動が習慣になり、習慣が運命になる』」という文章にぶつかれば、DVDを借りてきて、映画を見るのも良いだろう。

トルストイの「戦争と平和」の中で、「戦場で重症を負ったアンドレイ・ボルコンスキーの眼に映る『どうして俺は今までこの高い無限の空を見なかったんだろう? 今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。 […] この無限の空以外のものは、みんな空だ、みんな偽りだ』」という経験を著者は「根源的存在感」である、と言う。

「たとえばハーバート・リードがいる。リードは・・・」「 コリン・ウィルソンもリードと同様な・・・」「『侏儒の言葉』で芥川龍之介は・・・」「たとえばトドロフの『幻想文学論序説』を思い出そう。そこでトドロフは・・・」「ぼくらにとってワイルドのサロメは・・・」「預言者ヨナカンはすべてに象徴的意味を見出そうとしている。ヨナカンの言説は・・・」というふうに引用される箴言によって導かれた考察は人間の存在感、実在感のあり様を多角的に描き出す。

読者は本書を座右に置き、先人たちの心の煌めきを掬い取るように読むべきであろう。

(2022.3.17)



---万暦赤絵(ばんれきあかえ)---

by 志賀直哉

万暦赤絵

「万暦赤絵」他22篇の短篇が収められている。

著者は生涯23回引っ越しをした。有名な場所には松江、鎌倉、尾道、我孫子、京都、奈良などがある。父・直温は明治期の財界で重きをなした人物であり、母・銀は、伊勢亀山藩の家臣・佐本源吾の娘であったことから幼少期から恵まれた生活をしていた。さらに30歳前後に発表した小説「網走まで」「大津順吉」「清兵衛と瓢箪」などで若くして夏目漱石に認められるほどの作家となっていた。1971年、88才で亡くなるまで名声を保ち、生涯恵まれた人であった。

「山科の記憶」「痴情」「瑣事」「晩秋」は「山科もの」四部作といわれ、著者が祇園花見小路の茶屋の仲居と浮気をした時の体験を基に書かれたものである。主人公は浮気をしても罪の意識を感じておらず、妻の嫉妬に自分が困った様子だけを記述する。現在読むと、身勝手な男の身辺雑記としか読めないが、発表当時は読者にどのように受け取られていたんだろう。本書は1938年初版の岩波文庫だが、この時55才であった著者はあとがきで「『山科の記憶』と『痴情』には今もある愛着を持っている」と書いている。

「濠端の住まい」は著者が松江に住んでいた頃の話。濠とは松江城址の濠である。「矢島柳堂」は著者が我孫子に住んでいた頃の話である。手賀沼のほとりの志賀直哉住居跡は現在も保存されていて、筆者も見学したことがある。天下の志賀直哉がどうしてこんなジメジメした薄暗いところに住んでいたのだろう、と疑問に思った。我孫子在住期間は他所に比べて長く、8年間に及んでいる。ジメジメしたところが好きだったのだろうか。

「プラトニック・ラヴ」。松江の旅館で原稿を書いているうちに雪になり、徒然なるままにこたつに寝転んで雑誌を読んでいたら、旧友里見とんの小説が出てきた。読むうちに小説中に出てきた芸者が昔からの知り合いだった。セリフも彼女の話し言葉の癖をよく捉えていて、読むうちにいろいろなことが思い出されてきた。という話。

「鳥取」。鳥取県の東郷湖のほとりにある東郷温泉の旅館に滞在して、原稿を書こうとしたが、なかなか書けない。ということを書いた小説である。東郷湖の侘しい風景、鳥取駅で見た新渡戸稲造の疲れた様子などの描写は「小説の神様」と言われただけに的確で鋭いものがある。が、切羽詰まった思いの描写、これは書いておきたい、という迫力のあることばは著者には見られない。

「万暦赤絵」「朝昼晩」「日曜日」「池の縁」「颱風」は身辺雑記。小説というよりは随筆である。

我孫子の旧志賀直哉邸跡

我孫子の旧志賀直哉邸跡

就寝前床の中でジードの「狭き門」を読んでいると、息子の直吉がふとんに入ってきて背中合わせに「水戸黄門」を読んでいる。自分よりも息子の方が面白がっているようだ。という「池の縁」。志賀直哉といえばなんとなく怖そうなイメージだが、家庭では普通のお父さんだったようだ。

「菰野」も家庭もの。ただし、ほのぼのしたものではない。著者には直三という弟がおり、放蕩もので著者や母親にさんざん迷惑をかけた。菰野温泉に滞在して原稿を書こうと思ったがなかなかうまく書けない、という話。温泉旅館の様子や周りの情景などは細密画のように的確に書かれている。自分の弟のことを書くとなるとなかなかうまく行かない、ということを書くだけで小説になってしまうところが「小説の神様」ということか。

「邦子」は「山科もの」四部作を敷衍し発展させて小説化した作品である。芥川龍之介の「戯作三昧」「地獄変」で表現したもの、歌舞伎役者における「芸の肥やし」といわれるものを著者志賀直哉は巧みに表現した。こういう話はすっきりした読了感を得られるものではない。

「豊年虫」「雪の日」「雪の遠足」「十一月三日午後の事」は我孫子時代の身辺雑記。「暗夜行路」の大部分は我孫子時代に書かれた。そのせいかいつもイライラしているお父さんという感じの著者の様子がうかがえる。当時我孫子には友人の柳宗悦、武者小路実篤らが住んでいて、文化人たちの溜まり場のようになっていたようである。

「荒絹」「老人」「クローディアスの日記」はいずれも創作もの。「クローディアスの日記」は「ハムレット」を逆から見たもので面白かった。確かにシェイクスピアが書いたハムレットは感情的、自己中心的すぎる。

(2022.3.16)



---死とやさしい伯父---

by パトリシア・モイーズ

死とやさしい伯父

原題は「Death and The Dutch Uncle」。翻訳者は「The Dutch Uncle」を「やさしい伯父」と訳している。

英語で「Dutch」は「オランダの」以外ではあまり良い意味ではない。「Dutch Widow」「Dutch Account」「Dutch Dating」「Dutch Treat」どれもあまり良い意味ではない。辞書を引くと「Dutch Uncle」は「厳しく批判する人」と出ている。

翻訳者の意図はいずれでもない。本書を読了したものだけが分かる仕掛けになっている。

物語の発端は下層階級の者が行くパブで小者のヤクザが殺される。国際機関の委員が立て続けに事故で死ぬ。ヘンリ・ティベット警視は、何の関係もなさそうなふたつの事件を担当する。捜査を進めるうちにこのふたつの事件の間につながりがあることを発見する。

物語が半分を過ぎたあたりで、ヘンリは妻エミーとともにオランダへ行く。ここでオランダの風景や建物、部屋の内装などが語られる。夫妻はヨットを借りてオランダの網の目のような運河を航海する。もちろん捜査のためである。

本書が風俗推理小説としての本領を発揮するのは、夫妻がオランダに入国するあたりからだ。それまでは一見関係のなさそうな事件を取り扱うヘンリの地味な活動が語られるだけで、なんとなく物足りない。

読了後、これは政治謀略活劇小説だったんだ、と思った。

(2022.3.13)



---大空に消える---

by パトリシア・モイーズ

大空に消える

パトリシア・モイーズはアイルランドに生まれ、第二次世界大戦中に17歳にして空軍補助部隊のレーダーを扱う部署に属し、退役するときは准尉であった。本書は彼女の軍隊時代の経歴をもとにして書かれている。

副主人公のエミーは著者そのものである。軍隊時代の同窓会に出席したエミーは、憧れていたパイロットのボウ・ゲストの妻バーバラにそそのかされて軍隊時代のボウの伝記を書く手伝いをすることを約束させられる。実際に伝記を書くのは同期の主任管制係ロフティーである。

ロフティーはただの伝記では面白くない。ボウがなぜ死んだのかを明らかにしたい、と主張する。後に引けなくなったエミーは昔の仲間たちにインタビューしていく。

本書は「過去への遡行もの」である。戦争中イギリス空軍にいた著者はそこで青春時代を過ごした。作家になった彼女は自分の青春時代に副主人公のエミーを投入し、追体験させる。

青春時代は輝かしくも、時には物悲しく、残酷でさえある。

過去へ遡行すると、過去から狙撃される恐れもある。著者はノスタルジックな過去と残酷な過去を組み合わせて、ほろ苦いミステリーを作り上げた。

本書の原題は「Johnny Under Ground」。ジョン・パドニーの詩「ジョニーは空の彼方、すこやかに眠る、土の下のジョニー」の一節である。

(2022.3.10)



---殺人ファンタスティック---

by パトリシア・モイーズ

殺人ファンタスティック

イギリスの小さい村のできごと。お屋敷に集まる一族。お屋敷の庭で年に一度のわれるお祭り。アガサ・クリスティの作品に出てくるような状況である。

クリスティと異なるのは、重点が置かれているのが人物のキャラクターとそれぞれの人間関係であり、あっと驚くような謎の解明やトリックはない。

クリスティの作品は新訳や重版が出ていて、全ての作品を書店で購入することができる。パトリシア・モイーズの作品はすべて絶版になっていて書店での購入は不可能な状態である。図書館で借りるか、古書店で購入するしかない。クリスティは面白いが、モイーズも面白いのだが。

本作に登場するマンシプル家のひとびとはそれぞれ独特のキャラクターを持っている。ひとりひとり工夫された状況の中で、家族が登場するシーンはまるでジェーン・オースチンの作品を読んでいるようである。たとえ事件が起こらなくても、普通小説として面白い作品になったろう。

やがてある人物が死ぬが、事故なのか殺人なのかわからない。物語が進むにつれて、事故でも殺人でも良いような気分になってくる。後半にもうひとりの人物が死ぬが、やはりどちらでも良いと思えてしまう。

登場人物たちのキャラクターが際立っていて、その言動を追うのに気を取られてしまうからだろう。

ラストシーンで描かれたある人物の言動を読むと、著者が本書を一般的なミステリー小説ではなく、独自のものとして書いていることがわかる。

(2022.3.8)



---流れる星---

by パトリシア・モイーズ

流れる星

映画会社のオーナーであり、プロデューサーでもあるパッジが語り手である。スコットランドヤードの主任警部ヘンリ・ティベットは物語が3分の1ほど進んだところで脇役として登場する。

本書は映画「街の風景」のクランクインからクランクアップまでの出来事が映画の制作者の視点で語られる。

老眼の主演男優、わがままな主演女優、制作経費のことなどまるで念頭にない監督、等々映画界の裏話が語られていく。

撮影の最中、主演男優が事故で亡くなる。次に有能なスクリプターが自殺する。さらに・・・。

次々に事件が起こり、この映画は完成するのだろうか、と心配になる。プロデューサーはじめ関係者たちの努力によってなんとかクランクアップの日まで漕ぎ着けることができた。

物語は時にはシリアスに、時にはドタバタ喜劇のように、時には恋愛ドラマのように進んでいく。読者は事件の解決を望むとともに、映画の完成をハラハラしながら見守っていくことになる。

本書は映画化されていないようだが、ヒッチコック監督で映画化したら面白いものになったろう。配役は老眼の主演男優にケーリー・グラント、わがままな主演女優にヴィヴィアン・リー、美術監督にアンソニー・パーキンス、その妻の脚本家にキャサリン・ヘップバーン、身勝手な監督にジョン・ヒューストン、語り手のブロデューサーにミッキー・ルーニーといったところではどうだろう。

著者のパトリシア・モイーズは23才から31才まで8年間、ピーター・ユスティノフの技術助手、個人秘書としてイギリス映画界で生活していた。今回の事件の舞台である映画界という世界は、彼女にとって自家薬籠中のものであったろう。

(2022.3.5)



---同期---

by 今野 敏

同期

「同期」とは警察学校の同期の意味である。二組の同期生が登場する。宇田川と蘇我は30才前後の若い同期、植松と土岐(とき)は50才前後の古い同期である。それぞれ警察組織の部署は違うが互いに関係しながら仕事をしている。

警察の組織もさまざまで、警察庁と県警本部の関係、県警本部の中でも東京都だけは都警本部とは言わずに警視庁という。それぞれの中に警備、公安、刑事等の部署を抱えて捜査活動をしている。

著者今野敏氏の関心は、それぞれのセクションが重なった時の人間関係にある。

警視庁の刑事である宇田川は公安へ行った同期生蘇我が懲戒免職になったことを知る。同時期に東京湾でヤクザ者の死体が発見され、所轄署との合同捜査本部に配属になる。

捜査をしていくうちにふたつのことが微妙に関係していることに気づく。初めは単純と思われた殺人事件が徐々に複雑になってくる。

物語が進むうちに若い刑事とベテランの刑事、ベテランの刑事同士のやりとりや関係が興味深くなってくる。

「同期シリーズ」は合計で3作あるが、本書はその第1作目の作品である。

(2022.3.3)



---レッド---

by 今野 敏

レッド

日米政府間の政治家が暗躍する、ポリティカル・フィクションである。それにサヴァイバル・アクションが加わって陰謀、冒険小説となっている。

ある時期、日本政府は非核三原則などと言って、保有しない、製造しない、持ち込まないとしていたが、実は沖縄の米軍基地や佐世保に駐留していた空母には核爆弾が持ち込まれていた。日本政府は認めないだろうが、今でも普通に持ち込まれているだろう。

戦後の一時期までは国民に対してそういう宣伝活動が必要だったろうが、現代の世界情勢を考えると、時代遅れのずれた考え方としか思えない。

ビル・クリントンがアメリカ合衆国の大統領だった時代、日本の総理大臣は細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎と日替わりのように変わっていた。その時期に極秘裏に核が本土に持ち込まれていた、という設定で物語は進行する。

主人公は上司に逆らって左遷された警察官と、優秀すぎて周りと相容れない自衛官。彼らは政府の外郭団体で窓際の仕事をしている。形ばかりの仕事をしていればよかったのだが、元々優秀なスペシャリストたちである。調査活動をしているうちにある陰謀の一端に触れてしまう。さて・・・。

舞台は山形県鶴岡市の近くの過疎の町。町のはずれに蛇姫沼という沼があり、そこに近づいた者は昔非業の死を遂げた蛇姫の祟りで気が狂ったり死んでしまったり、ただでは済まない。

日米の政治問題と森の中でのサヴァイバル・アクションが絡み合い、物語は予想もつかないラストへ・・・。

(2022.3.2)



---蓬莱(ほうらい)---

by 今野 敏

蓬莱

「蓬莱」と名付けられたゲームソフトをめぐって殺人事件が起こる。「蓬莱」とはどのようなゲームなのか。その意味するものは。

ゲームソフトの制作会社社長が主人公である。シリーズの主人公・安積警部補は脇役として登場する。

「蓬莱」とは中国の三つの神聖な山、【方丈】【えい州】【蓬莱】のひとつである。

「蓬莱」の謎を追求するのはゲームソフト会社の社長・渡瀬。社員は自分も含めて5人しかいない。社員の一人は殺されてしまうので、4人の社員で謎に挑むことになる。

物語はこのゲームソフトの成り立ちとその内容を解き明かすのがメインになる。なぜひとつのゲームソフトが政治家やヤクザを動かし、殺人事件にまで発展してしまうのか。絵空事のように思えた。読み終えるまでは。

日本の古代史に興味がある者は途中で本を閉じることはできない。

(2022.3.1)



---変幻---

by 今野 敏

変幻

「同期シリーズ」の完結編である。

二組の同期の警察官たちが主人公である。30才前後の若手と50才前後のベテラン警察官である。彼らはそれぞれ別の部署でそれぞれの活動をしている。何かあると頼りにする。それが同期の特権になっている。気が合わなければダメなのだが。

臨海署の管内で殺人事件が起こった。殺されたのは半グレのヤクザである。警視庁と臨海署で合同捜査本部を立ち上げ、捜査を進めていくうちに麻薬の密輸組織に行き当たる。組織には警察の潜入捜査員がいて、彼女は警視庁捜査一課に勤務する宇田川と同期の警察官であった。

所轄の臨海署、警視庁の刑事部、公安部、警備部、方面本部などの部署が協力して捜査を進める。のちに厚労省の麻薬取締官が関係してくる。それぞれたてまえ上は協力するが、本音は自分たちの部署が手柄を立てたいと思っている。麻薬取締官は警察庁よりも厚労省の方が上だからという理由で、警察官たちに高圧的に対応する。

著者は事件の解明と同じくらいの比率で、セクショナリズムに振り回される刑事たちを描く。

宇田川はセクショナリズムの網の目をかい潜りながら、殺人事件と潜入捜査員救出の任務を進めていく。

(2022.2.28)



---去就 隠蔽捜査6---

by 今野 敏

去就 隠蔽捜査6

本作のテーマはストーカーである。竜崎は大森署管内で発生したストーカー殺人事件に対処する。同時に竜崎の家庭の事情も語られる。

今回の竜崎はシリーズ中、比較的楽に捜査を進める。原理原則を重んじる竜崎に対抗する者も第二方面部長ひとりくらいしか見当たらない。かつて悪役だった野間崎副本部長はすっかり竜崎の味方になっている。

「去就」という題名は、大森署で楽に活動ができるようになった竜崎が他の部署に移動になることを暗示している。困難を乗り越えて自分の信念を押し通す竜崎を描くには、より強力な抵抗勢力が必要なのである。

解説の川上弘美さんは本シリーズの特色として、女性を等身大の人間として描いていると述べている。かねてより男性作家が描く女性像には違和感を感じていたらしい。今野敏にはそれがないと言う。

また、主人公・竜崎の特色として忖度(そんたく)しないひとである、と言う。忖度する者たちに囲まれながらひとりだけ忖度しないから、抵抗されたり、反発されたりするのだ。女性作家の意見は一味違う。

(2022.2.27)



---本物の読書家---

by 乗代雄介

本物の読書家

著者は「最高の任務」で第162回、「旅する練習」で第164回、「皆のあらばしり」で第166回の芥川龍之介賞候補になっている。今年35才である。

2018年、本書で第40回野間文芸新人賞を受賞している。

【本物の読書家】
「私」は高萩の老人ホームに入れるために、大叔父=祖父の弟をつれて常磐線に乗る。大叔父の希望で勝田行きの普通電車で行く。

ボックス席の隣に座った男から大阪弁で話しかけられる。男に歳を聞かれた大叔父は76才と答える。男は自分の祖父の誕生日を大正8年1月1日であるという。「私」はそれは1919年1月1日、J.D.サリンジャーの誕生日ですね、という。「私」は「本物の読書家」というタイトルの読書録のブログを持っていた。

という発端から物語は進んでいく。男と「私」が何気なく話す内容は、シャーウッド・アンダーソンの「黒い笑い」、ナボコフの「ロリータ」、太宰治の「徒党について」、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」など多岐にわたる。二人はまるで見えない剣を持って決闘するかのように文学論を交わす。

話が川端康成の「片腕」におよんだ時、物語はクライマックスに達する。「片腕」は実は大叔父が書いたもので、川端康成はそれを盗用したのだというのだ。

「私」は大叔父を高萩まで送ることなく、水戸で引き返してしまうことになる。

文学談義が始まった時は、これは面白くなった、と思ったが、あることをきっかけに大阪弁の男と大叔父が消えてしまうところから、著者の意図がわからなくなった。何が言いたかったんだろう。

【未熟な同感者】
本篇の主人公の「私」は20才前後の女子大学生である。これは彼女が採ったゼミのクラスの話である。

男子1名、女子3名の人気のないゼミである。物語は担当の准教授と学生の関係、学生同士の関係、そしてゼミの内容の3点から成り立っている。

准教授はフローベールと宮沢賢治の手紙の文章のなかから「完全な同感者」ということばを見つけ出し、それをキーワードにしてカフカとサリンジャーに迫っていく。准教授と著者の最終目標はサリンジャーである。

サリンジャーの指示で、本国では重版されることはなく、なぜか日本でだけ読むことができる「ハプワース16,1924」についての講義録が延々と太字で引用される。参考図書として二葉亭四迷の手紙と随筆が引用される。

著者はサリンジャーに対する自信の共感を書いたものなのか、ゼミの参加者たちの人間関係を描いたものなのか、筆者にはわからない。著者の意図はどこにあるのだろう。

(2022.2.26)



---殺人ア・ラ・モード---

by パトリシア・モイーズ

殺人ア・ラ・モード

物語の舞台はイギリスのファッション・ビジネス界である。ロンドンの中心部にある、ファッション雑誌の編集部とファッション・デザイナーのアトリエの様子が描かれる。

ファッション雑誌の編集者が毒殺される。疑いのかかるのは編集部のメンバーということになる。スコットランド・ヤードの主任警部ヘンリー・ティベットの捜査活動が進むうちに雑誌のオーナー、編集長、編集部員、その他の人々の錯綜した人間関係が明らかになってくる。

今回のティベット警部は事件の捜査を直接担当している。本作では妻エミーは家庭の主婦に専念し、捜査に参加するシーンはない。代わりにファッションモデルをしている姪のヴェロニカが事件の解決に大きな役割をする。

物語が進むにつれて読者はファッション雑誌を作るための取材や、編集作業のやり方について知ることができる。

著者は事件の謎解きやトリックよりも、ファッション業界の仕組みや裏話を語ることに力を入れている。スキー場やヨットの操作方法を語るのと同様に。

クリスティのような解き明かされて驚くような謎やトリックを期待する読者は物足りなさを感じるだろう。

イギリスのさまざまな風俗を楽しみながら読むべき物語である。

スコットランド・ヤード

スコットランド・ヤード

(2022.2.24)



---死の会議録---

by パトリシア・モイーズ

死の会議録

風俗探偵小説の元祖・パトリシア・モイーズの3冊目の舞台はジュネーブの国際連合本部内にある会議室である。

麻薬撲滅についての会議に出席するために、イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパ各国から警察関係者がジュネーブに集結した。本書の主人公ヘンリ・ティベットはイギリス代表兼議長として出席した。もちろん妻のエミー同行である。

事件は通訳の一人が殺害されたことから始まる。第一発見者はヘンリである。死体の発見された状況からヘンリが疑われることになる。

身の潔白を晴らすため、そして刑事としての本能からヘンリは独自の操作を始める。もちろん妻のエミーを使って。

本シリーズでスコットランドヤードの主任警部ヘンリは、本来の職業である警察官としての捜査はしない。メインの捜査は土地の警察官が行い、ヘンリは妻エミーと共にその補助活動をする。最後に真相にたどり着くのはヘンリなのである。

本シリーズで楽しいのはヨーロッパ各地の風俗を堪能できることである。

1作目はイタリアのリゾートホテルに滞在しながらスキーをする。2作目はロンドン郊外のイプスウィッチという港町に滞在し、ヨットを楽しむ。

本作ではスイスのジュネーブにある国際連合本部で国際会議をする。ジュネーブ近郊の湖で泳いだり、ダウンタウンの酒場で会話を楽しむ。

国連会議室

国連会議室

事件の謎もトリックも大したことはない。少しこじつけ気味のところがあるくらいだ。
著者はそういうところに力を入れるよりも、土地の風俗や登場人物同士の会話を大切にしているようである。

(2022.2.23)



---自覚 隠蔽捜査5.5---

by 今野 敏

自覚 隠蔽捜査5.5

「隠蔽捜査」のスピンオフ(外伝)作品集2である。本書に収められた「漏洩」「訓練」「人事」「自覚」「実地」「検挙」「送検」の7篇の短篇が収められている。7篇の視点は竜崎ではなく、それぞれ別の捜査員になっている。

「漏洩」の視点は副署長の貝沼である。痴漢の容疑で捕まえた会社員は冤罪なのか。悩む貝沼に竜崎は的確にアドヴァイスする。短篇に出てくる竜崎はシャーロック・ホームズのようだ。

「訓練」の視点は「隠蔽捜査3」と「隠蔽捜査3.5」に登場した警視庁警備部のキャリア・畠山美奈子である。彼女はハイジャック犯に対抗するための組織「スカイマーシャル」の訓練に参加する。銃の取り扱い、素手による格闘等女性にとっては過酷な訓練に挫けそうになる。夜、「隠蔽捜査3」で大統領警護の仕事を一緒にした竜崎に電話をする。竜崎は彼女にアドヴァイスをする。翌日からの彼女は人が変わったように熱心に訓練に参加し、打ち上げの日、教官から誉められる。竜崎のアドヴァイスとは・・・。
ラストの2行が泣ける。

「人事」は第二方面本部の管理官・野間崎の視点で語られる。野間崎は「隠蔽捜査2」で竜崎が大森署に配属になって以来の敵役である。敵役ではあるが、巻が進むにつれて内心では竜崎に信服するようになってきている。第二方面本部に新しい本部長が就任し、野間崎は管轄の所轄署の概要を紹介する。話題が大森署の署長のことになった時・・・。

「自覚」は大森署の刑事課長が主人公。強盗人質事件が発生し、戸高という署員が強盗に発砲して身柄を確保した。事件は早期に解決したが、発砲ということが問題になった。さて、竜崎署長の考えは・・・。

「実地」の主人公は大森署の地域課の久米課長である。毎年配属されてくる新入警察官を初めに受け入れるのは地域課である。配属されたばかりの捜査員が職務質問で失策をし、窃盗犯を取り逃した。署内で問題化し、竜崎署長に相談した。竜崎の意見は・・・。この場面の竜崎はシャーロック・ホームズというよりも大岡越前守のようだ。まさに大岡裁きをする。

「検挙」。主人公は大森署の強行班係長。警察庁から各所轄に強行犯罪の検挙率を上げろ、との命令が届いた。捜査員の戸高は無理やり検挙率を上げ始めた。さて、竜崎署長は・・・。

「送検」。主人公は警視庁刑事部長の伊丹俊太郎。警視庁の伊丹が大森署の管轄で起きた殺人事件の捜査本部長になって捜査を進めた。早期解決を急いだために無実の者を逮捕させてしまった。さて、竜崎は・・・。

いずれの話も、竜崎の大岡裁きが冴え渡る。

(2022.2.22)



---清明 隠蔽捜査8---

by 今野 敏

清明 隠蔽捜査8

「清明(せいめい)」というのは中国・唐の詩人・杜 牧(と ぼく)の詩からきている。意味は「すがすがしく明るい季節」のことであり、旧暦では3月、現在の暦でいうと、4月の上旬ということである。この詩が物語の中である役割をする。洒落たラストシーンにも関係している。

本作から竜崎は神奈川県警の刑事部長となる。所轄の署長より一段階昇進したことになる。

位は上がったが上司に、警視庁でいえば警視総監にあたる県警本部長がいる。今までみたいに一国一城の主というわけにはいかない。

東京都と神奈川県の県境に近い町田市で殺人事件が起きる。県境に近いことから警視庁と神奈川県警が合同捜査本部を作る。反目し合っている同志の合同捜査ということでさまざまな行き違いや摩擦が生じる。間に入った竜崎は原理原則に従って行動しようとするが、なかなかうまくいかない。

国家公務員のセクショナリズムがこれほど酷いのか、これでは仕事が進まないではないか。仕事で同じような経験をしたことのある読者は、そう思うだろう。筆者もかなりイライラした。

だがこのシリーズの救世主・原理原則の鬼・竜崎はじわじわと、固く凍りついた氷を溶かしていく。読者のイライラ感は徐々に溶けていく。

大森署の署長から、神奈川県警に移動した竜崎は今後、警視庁との長年の不和をどのように溶かしていくのであろうか。

(2022.21)



---棲月 隠蔽捜査7---

by 今野 敏

棲月 隠蔽捜査7

「棲月」は造語だろう。棲(せい)は暮らすとか住むという意味だから、ここに暮らした年月という意味だろう。

著者は「隠蔽捜査1」ではキャリアの警察官僚として中央省庁で働いていた時の竜崎を描いた。

「隠蔽捜査2」から本書までの竜崎は中央から降格され、大森署の署長として活動した。大森署で暮らした歳月を「棲月」という題名で表現したのだろう。

本書で事件を起こした犯人はシリーズ中でも特異なキャラクターである。現代という時代を一番反映しているキャラクターと言っても良い。

竜崎と大森署のメンバーの息はぴったりと合い、仕事もやりやすくなってきた。竜崎は所轄署の署長という、キャリアとしての地位は低いが一国一城の主という立場に愛着を抱き始める。

竜崎に転勤の噂が流れる。キャリアに転勤はつきものである。2、3年に一度は配置転換の対象になる。その度に地位は一段ずつ上がっていくのだが。

読者は竜崎と共に、大森署に別れを惜しみつつ、新しい職場に思いを抱く。

(2022.2.20)



---宰領 隠蔽捜査5---

by 今野 敏

宰領 隠蔽捜査5

「宰領」を辞書で調べると、「監督する」とか「請け負う」という意味になっている。

今回の竜崎の仕事は大森署の署長でありながら、警視庁の捜査副本部長となり、さらに神奈川署の前線副本部長になる。まさに現場監督のような役割をすることになる。

事件は国会議員が行方不明になったという知らせから始まる。羽田空港に到着した国会議員が移動の途中で何者かに襲われ、神奈川県に誘拐された。捜査本部は警視庁の大森署に立てられるが、誘拐された現場は神奈川県というややこしい状況である。東京都の所轄署である警視庁と、神奈川県警本部とは実際に仲が悪いので有名らしい。

合理的で直線的な行動を好む竜崎としては、いつにも増してやりにくい状況の中で仕事をしなければならない。

誘拐事件の場合、人質の生存確率は事件が発生してから24時間が分岐点になる。物語は全編緊張感に満ちたタイムリミット・サスペンスである。

本シリーズは事件と並行して竜崎の家庭の様子が語られる。今回は息子の東大受験である。

竜崎はさまざまな困難を乗り越えながら、捜査活動を進めていく。

(2022.2.19)



---集金旅行---

by 井伏鱒二

集金旅行

「集金旅行」「追剥の話」「因ノ島」「白毛」「丑寅爺さん」「開墾村の与作」「釣場」の7篇の短篇が収められている。

「集金旅行」は著者独特の惚けた語り口で書かれている。「私」は将棋の手ほどきをしてもらったアパートの主人との関係から、家賃未納のまま退去した住人に家賃を支払ってもらうために西日本方面に旅に出る。その話をするうちに「7番さん」といわれているアパートの住人が一緒に旅に出たいと言い、ふたりで取り立ての旅に出かける。「7番さん」ことコマツさんは中年の美人で、昔ひどい目にあわされた男たちから慰謝料を取り立てるのだという。

「私」は亡くなったアパートの主人の遺児に金を渡すために取り立てに出る。自分の旅費や手数料は勘定に入れていない。旅先では美人のコマツさんと一緒の部屋にに泊まるが何事も起こらない。非現実的な話だが著者の語り口に乗せられて、現実的な話として読まされてしまう。

「追剥の話」。村人の会議。村に出た追い剥ぎについて、体験や対策について村人たちが話し合う。老人、主婦、若者それぞれの語り口が楽しい。追い剥ぎとはまるで関係ない愚痴を言い始める老人がいたりする。現代の町内会の会議も似たようなものだ。

「因ノ島」。因島に海釣りに行った話。そこで出会った人々との交流。

「白毛」。渓流釣りに行ってテグスを忘れてきた若者たちに白毛を抜かれる話。著者自身の体験記のように語られている。

「丑寅爺さん」。牛作りと種牛の名人・丑寅爺さんが息子と反目したわけは・・・。田舎ののどかな話。

「開墾村の与作」。元禄時代、ある開墾村の発展と消滅の顛末。

「釣場」。池のほとりで釣りをするのが日課の梅屋さんが結婚式に招待された。だが、結婚する男女を知らない。はて・・・。

井伏鱒二独特の語り口を楽しむ作品集である。

(2022.2.18)



---初陣 隠蔽捜査3.5---

by 今野 敏

初陣 隠蔽捜査3.5

「隠蔽捜査」のスピンオフ(外伝)作品集である。本書に収められた「指揮」「初陣」「休暇」「懲戒」「病欠」「冤罪」「試練」「静観」の8篇の短篇小説はすべて、「隠蔽捜査」では副主人公だった警視庁の伊丹刑事部長が主人公になっている。

伊丹は豪放磊落で親しみやすいキャラを装っているが、実は小心で常に上司や部下の思惑を気にしている。ことを行うにあたって判断がつかない場合は同期の竜崎に電話をして意見を仰ぐ。竜崎の原理原則に忠実な意見を聞くと安心してことを進めることができる。なんでこんな簡単なことがわからなかったんだろう、と呟きながら。

本書では竜崎の出番は少ないが、伊丹は困った時に竜崎に電話する。竜崎はめんどくさそうに解決策を言い、それによって伊丹は窮地を脱する。「試練」以外の作品はそのパターンになっている。本書での竜崎はシャーロック・ホームズのようである。

「試練」は「疑心 隠蔽捜査3」のバック・ストーリーになっている。いつも平然としている竜崎を窮地に追い込んだのは・・・、という話になっている。

(2022.2.17)



---転迷 隠蔽捜査4---

by 今野 敏

転迷 隠蔽捜査4

今回の竜崎は3つの事件が同時に起き、それら全ての捜査本部長を引き受けざるを得なくなる。さらに娘の恋人が外国で行方不明になるということが重なる。

竜崎は形骸化した官僚組織の妨害をものともせず、、どんなことでも原理原則に従ってことにあたれば良い、できなければできないまでのことという覚悟で処理していく。

日本の強固な官僚組織を個人の力で打ち破るなど、到底無理とは知りつつも、読者は竜崎に拍手喝采を送る。水戸黄門のノリである。

本シリーズは今年の1月までで9冊出ているが、最新作「隠蔽捜査9」は1冊の本に対して119のリクエストがある。ひとりが1週間借りるとすると2年半待たなければならない。ベストセラーを図書館で借りるのはあまり現実的ではない。

(2022.2.16)



---疑心 隠蔽捜査3---

by 今野 敏

疑心 隠蔽捜査3

大森署に署長として配属になった竜崎に新たな仕事が舞い込んだ。アメリカ合衆国大統領来日のための警備だ。羽田空港を管轄する第二方面警備本部長としての仕事だ。

本来所轄署の署長に回ってくる仕事ではないのだが、なぜか回ってきた。竜崎は自分をおとしいれるための警察庁警備課長の陰謀ではないかと疑っている。

それでも警察官として上司の命令には従わなければならない。やっかいなことが一つあった。秘書官として暫定的に配属されたキャリアの女性警察官に恋してしまったのだ。

恋愛感情を持て余しながら、大統領警護の重責を果たさなければならない。アメリカから来たシークレットサービスの一員が膨大な監視画像の中からテロリストと思われる人物を指摘した。竜崎は警察庁と警視庁、アメリカのシークレットサービスの板挟みになりながら行動しなければならない。自分の信念に直線的に従っていく竜崎はもはやここにはいない。

竜崎は「恋愛は神聖だけれども罪悪だと、夏目漱石の「こころ」の中に書かれていたことを、 唐突に」思い出したりする。こんな恋愛感情に襲われたのは高校生以来だ。

竜崎は混乱した心をなんとかしたいがために、禅宗関係の書物を何冊か購入する。その中の一冊、「五灯会元」(ごとうえげん)という南宋時代の中国の灯史に書かれている「婆子焼庵」(ばすしょうあん)という公案を読み、ぼんやりとではあるが何かが掴めたような気がした。

大統領来日の日は近づき、警備は佳境に入る。テロリストの行方はわからない。

四面楚歌の中をもがき苦しみながら自分の行く道を模索する竜崎。ラストに近づくにつれてページをめくる手ももどかしいほど、緊迫感のある描写が続く。

(2022.2.15)



---果断 隠蔽捜査2---

by 今野 敏

果断 ー隠蔽捜査2ー

出世コースに乗っていたキャリア官僚の竜崎は、息子の不祥事で降格人事の対象となり、警察庁から大森署の署長に配置転換になる。

原理原則に忠実であろうとする竜崎は、以前にも増して周囲との軋轢に晒されることになる。

竜崎は「東大法学部卒は伊達ではないのだ。 キャリア官僚の書類処理能力が今より数パーセ ント落ちるだけで、省庁の仕事はパンクしてしまうだろう」、また「受験で脱落する程度の者に、キャリア官僚の激務はつとまらない」と考えている。

それだけだと鼻持ちならない学歴主義者だと思うが、「本音とたてまえを使い分ける人がまともで、本気で原理原則を大切だと考えている者が変人だというのは、納得できない」とも考えている。

本書の主人公・竜崎の生き方が読者の共感を呼ぶのは上の二つの考え方を警察という場所で実践している、あるいは実践しようとしているからである。

竜崎が着任してまもなく、大森署の管内で人質立てこもり事件が発生した。現場の責任者としてSWATに犯人の射殺を命じる。ところが犯人が持っていた銃には実弾が尽きていて・・・。ということから責任者として査問にかけられることになる。

家族のことで降格された竜崎は、新しい職場に着任したばかりで、自身の判断ミスで再び降格されなければならないのか。物語は混迷の真っ只中へ突き進んでいく。

それにしても原理原則に従って生きようとする者が、どうしてひとりで風呂や洗濯機のスイッチを入れられないんだろうか。エアコンのスイッチを切ることができず、夏でも家の中でコートをはおらなければならなかったお父さんの話を聞いたことはあるが。

(2022.2.14)



---ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女---

by ダヴィド・ラーゲルクランツ

ミレニアム4(上) ミレニアム4(下)

スティーグ・ラーソンはミレニアム・シリーズを5作書くつもりでいた。残念ながら第3作目を書き終えたところで寿命が尽きてしまった。世界中のリスベット・ファンは悲しんだ。

本書の著者・ダヴィド・ラーゲルクランツもそのひとりである。彼はスウェーデンのジャーナリスト・作家である。スティーグ・ラーソンはノートに第5作までの構想を書きしるしていたらしい。ダヴィド・ラーゲルクランツはあえてその構想を使わず、独自の物語を第6作まで完成させた。どうやら第6作で物語は完結するようだ。

上巻では伏線を設定するために、話の展開は遅い。何を説明しようとしているのかわからない部分もある。

下巻になってリスベットが登場し、活動を始めると話は急速に進展し始める。リスベットの双子の妹カミラが登場するとその異常な存在感に圧倒される。

物語はおどろおどろしい復讐の物語とNSA(アメリカ国家安全保障局)とロシアがからんだスパイ活動の物語が交互に現れる。

リスベットはストックホルムの街を時には車で、時には足で、自らの過去の暗闇を振り払うように疾走する。

ストックホルム市街

ストックホルム市街

次巻を意識したものだろうが、スティーグ・ラーソンによる前3巻に比べてすっきりした完結感がない。リスベットが万能のスーパー・ウーマンになっていて危機感に乏しい、という弱点はあるが、よくできた「ミレニアム」である。それにしてもラーソンの急逝は惜しい。

(2022.2.13)



---隠蔽捜査---

by 今野 敏

隠蔽捜査

キャリアの警官が不祥事で左遷され、所轄署に配属される、というパターンは安東能明の綾瀬署シリーズでお馴染みである。綾瀬署シリーズの第1作目は2010年の「撃てない警官」であったが、本書は2006年の刊行だからそれより4年先んじている。

主人公は警察庁の総務課課長・竜崎伸也、46才。46才でその地位はかなり優秀な国家公務員であることを示している。

物語はある事件を通して、竜崎の仕事のやり方、上司や部下、同僚との交流、家庭での行動を詳細に描いていく。

国家公務員のキャリアの生活というのはつくづく過酷なものだと思う。国を背負って立つということは生半可な覚悟でできるものではない。

竜崎の家庭も受験生の息子が麻薬をやっていることが判明してから崩壊寸前になる。警視庁の刑事部長をしている以前の同級生伊丹の家庭も崩壊している。

そういう状況でどのように仕事を全うしていくか、どのように家庭を導いていくか。竜崎の悩みは深刻である。

本書はシリーズの第1作目であるが、国家公務員が出世と自分の生き方のどちらを採るか、という主題を完結させており、独立した一冊となっている。

(2022.2.9)



---スペンサーヴィル---

by ネルソン・デミル

スペンサーヴィル(上) スペンサーヴィル(下)

男二人女一人の三角関係の清算という単純なテーマにさまざまな味付けを施して、退屈しない長編小説に仕上げられている。さすがアメリカのベストセラー作家、ネルソン・デミルの作品である。

主人公は政府機関を退職した40台半ばの男性。ただの政府機関ではない。国家安全保障会議、軍事・諜報の部門である。

25年前に別れた女は高校時代の同級生の妻になっている。25年ぶりに故郷に帰り、昔の同級生の妻を奪うという話に正当性をつけるために、この同級生が悪辣なサディストである、という設定にしてある。

彼は自分を「騎士として、悩める乙女をモ ンスターの手から救い出すんだ。これは善い戦いであり、騎士はこれをひとりでやる」という立場に追い込む。そしてモンスターと戦う。

舞台はウェストバージニア州のスペンサーヴィルという地方都市。主産業は農業で主人公の実家もトウモロコシ農家である。

筆者も同州のウィーリングという中都市の近くのワートンという小さな町に数カ月間滞在したことがある。メインストリートが一本だけあって、買い物も飲食もそこにある商店やレストランでするしかない。地域の住民は皆顔なじみであり、商店などで顔を合わせると親しげに声を掛け合っていた。その後アメリカの何箇所かの州に滞在したが、どこも最小単位はそうした小さな町であった。

本書の主人公・キースもワシントンという大都会から、生まれ故郷の小さな町・スペンサーヴィルに帰ってくる。多くの大都市で働き、引退した男がそうするように。他人に関わりを持たない大都会の暮らしから、閉鎖的な地方都市に帰ってきた多くの者が味わう疎外感を、キースも強烈に味わうことになる。

(2022.2.8)



---生き抜くためのドストエフスキー入門---

by 佐藤 優

生き抜くためのドストエフスキー入門

本書には「五大長編 集中講義」という副題がついている。ドストエフスキーの五大長編はいずれも読み始めたら止まらなくなるくらい悪魔的な魅力を持っている。佐藤氏は彼ならではの視点から、五つの長編小説を解説する。

【罪と罰】
五大長編のうち、初めに書いたのが本書で、その後、レベルが落ちるどころか上がる一方なのは凄い、としか言いようがない。

著者は「罪と罰」の最重要シーンを、ラスコーリニコフがソーニャに金貸しの婆あとリザヴェータを殺したことを打ち明けるシーンである、としている。その時にソーニャはラスコーリニコフに大地に接吻して謝りなさい、と訴える。それを著者はロシア独特の「土壌主義」である、と述べる。それはキリスト教ではなく、むしろ全体主義に近いものだという。

【白痴】
ドストエフスキーはムイシュキンを創造するに当たって「完全に美しい人」「完全に無垢な人」を創り出す、と述べている。著者はそれはドストエフスキー独特のごまかしで、本当のムイシュキンは「困った人」「周りをかき乱す人」である、という。ムイシュキンは「巨人の星」の「星飛雄馬」に似ていて、「自分独自の価値観でどんどん動き、周囲の人びとの善意を無駄にし、無用の混乱を招き、人の恋愛などにも過剰に干渉して、自分も傷つきながら、大変なトラブルメーカーになる」と述べているが、言われてみれば確かにそうだ。ムイシュキンがスイスから帰ってこなければあの騒動は起きなかったろうし、ナスターシャ・フィリッポブナがロゴージンに刺し殺されることもなかったろう。

ムイシュキンは全てが終わった後、廃人のようになってスイスに戻っていくのだから、騒動を巻き起こすためにやってきた地獄の使者と言わざるを得ない。

また、「なんだか三谷幸喜の芝居を観ているようだった」という評があるように、場面場面はシチュエーション・コメディめいたところもある。 「この長編、登場人物が真剣で深刻なせいで笑えもするという重喜劇としても読める」という。

確かにイッポリートの狂言自殺のシーンや、レーベジェフが病床のムイシュキンを見舞うシーンなどは迫力満点の喜劇という感じがする。

また、「このムイシュキンの無力さは、やがてキリストの無力さへと繋がっていきます。 イエスのように、彼もまた無力であるがゆえに勝利するのです」という論旨から、家庭内暴力への効果的な対処法を述べるところは、著者独特の考察であり、目から鱗が落ちる思いがした。著者は「神がいったんイエス・キリストを見棄てたがゆえに、人間は救済されるのだ」という。

【悪霊】
革命家の内部崩壊という主題を扱った本だと思っていたが、著者によるとそれだけではない。キリスト教と国家という問題が大きく関わっている、と述べる。

著者は「ドストエフスキーのような比較的新しい古典を含めて、古典を現代のわれわれが読む時には、自覚しているかどうかは別として、じつは補助線を引いて読んでいるんです」と述べる。「補助線がないと古典はなかなかピンと来ないし、無自覚に補助線を使っていることもあるし」という。悪霊を読む時に有効な補助線として「亀山郁夫」「小林秀雄」「高橋和巳」の著書をあげている。

【未成年】
本書で最も読みたかったのはこの章であった。他の4作品は主題が明確で、表現方法も確立していた。真意はともかく、物語としてはわかりやすかった。本作は過去4回読んでいるが、どうも真意も主題もわかりずらい。主人公・アルカージイの行動には一貫性がないし、副主人公・ヴェルシーロフの肖像も「罪と罰」のスヴィドリガイロフと比べるとなんとなくはっきりしない。スヴィドリガイロフの発展型がヴェルシーロフだと思うのだが。

著者は「私は"未成年"こそ、ドストエフスキーの集大成だと思っています。なぜなら、"未成年"にはドストエフスキーがこれまで書いてきたテーマ、そして書きたかったテーマが全部入っている」と書いている。これを読めば今までぼんやりしていた「未成年」の本質がわかるに違いない、と思った。

読んでもわからなかった。「ドストエフスキーがこれまで書いてきたテーマ、そして書きたかったテーマが全部入っている」と拡げた割にはどこにそのテーマがあるのか、著者は示していない。ドストエフスキーが書いた「未成年」の最後の一文「そこから、当時の混乱時代のある未成年の心の中にどのようなものがひそみえたかを、推察することができるでしょう。この発掘は決して価値のないことではありません、なぜなら未成年たちによって時代が建設されていくからです」をコピペして終わりである。結局のところ、佐藤優氏にも「未成年」という混沌とした作品を理解することはできなかったのだ。

【カラマーゾフの兄弟】
世界文学の中でも定評のある本であり、その世界観や思想は解釈する時代や人が変わるたびに新しくなっていく。難しいことを抜きにして、ひとつひとつの挿話を追うだけでも十分に面白い本である。フョードル殺しの犯人探しはミステリーのようだし、長男のドミートリイがモークロエ村でグルーシェンカとどんちゃん騒ぎをするシーンはカーニバルを見ているように心が躍る。次男のイワンが居酒屋の片隅で弟のアリョーシャに「大審問官」の物語を語るシーンは知的な興奮に襲われる。

著者は本書の重要な部分として「大審問官」の章を採り上げる。神学を学び、チェコの神学者フロマートカを研究した学者として、独自の意見を述べる。ドストエフスキーは大審問官を支持していた。また、ゾシマ長老が亡くなった時の腐敗臭に関して、ドストエフスキーはゾシマを支持していなかったという、独自の解釈を述べる。

本書は本そのものも面白いが、研究者による解釈も面白い。

(2022.2.4)



---沈んだ船員---

by パトリシア・モイーズ

沈んだ船員

スコットランド・ヤードの主任警部・ヘンリ・ティベットはロンドンから北東へ直線距離で100キロにあるイプスウィッチという中都市の郊外の港にいる。妻のエミーと共に友人夫妻とヨットを楽しむためである。

ヘンリ夫妻は友人のアラスティアからヨットの取り扱い方法を習いながら、港付近の海を航海する。港には居心地の良いパブ・ベリイ・ブッシュ亭がある。2組の夫妻は何かというとパブに出入りして、エールやウイスキーを飲み、語り合う。

アラスティア夫妻を通じてパブのメンバーと会話を楽しむようになる。

物語はヨットの操縦と付近の海の描写、パブての人間関係を描いていく。中盤を過ぎても事件は起こらない。

パブでの会話を通じて、人間関係がわかってくる。それぞれが若干のトラブルを抱えているようだ。

ヘンリはパブで数年前に干潟で亡くなったヨットマンのことを聞き、そこに犯罪の匂いを嗅ぐ。追及するうちに、それが現在までつながっていることに気づく。

物語はこの辺から徐々に動き始める。過疎地帯にある一見平和な村に存在する不穏な空気。本庁に所属する警部ヘンリは地元の警察に協力しながら、捜査に当たっていく。

イプスウィッチの河口近くの港

イプスウィッチの河口近くの港

スコットランド・ヤードの主任警部という肩書きを持つヘンリ・ティベットは今回もメインの捜査官ではない。妻エミーと共に独自の捜査にあたる。モイーズのヘンリ・ティベット・シリーズは変種の巻き込まれ型ミステリーと言える。

(2022.2.3)



---死人はスキーをしない---

by パトリシア・モイーズ

死人はスキーをしない

パトリシア・モイーズが1959年に出版した処女作である。処女作にその作家のすべてが出るというが、確かに本書には著者の特徴が出ている。

主人公はスコットランド・ヤードの主任警部であるが、事件の捜査責任者ではない。妻と一緒に捜査する。事件は妻と旅行中に起きる。

主人公は休暇をとって、妻と共にオーストリアとの国境に近いイタリアのスキー場に行く。二人ともスキーは初心者である。

スキー場のリゾートホテルに滞在中、殺人事件に遭遇する。警部はイタリア警察の担当者の捜査に協力する。

ホテルは山の上にあり、そこへ行くにはリフトに乗らなければならない。リフトの稼働時間は昼間に限られることから、ホテル周辺は密室状態となる。密室殺人事件である。

ホテルにはさまざまな国から来た個性的な人物たちが宿泊している。著者は事件の捜査と並行して宿泊者たちの人間関係を描いていく。

警部ヘンリ・ティベットはイタリア警察のスぺッツィ署長が作成した宿泊者たちのタイム・スケジュール表から犯人を探り出す。捜査が煮詰まっていくにつれて、物語の緊張感は高まっていく。

それはそれとして、この小説の面白さは主人公の警部がシュテム・クリスチャニアを習う描写であったり、男二人女一人のイギリス人旅行客の関係性など、個性的な登場人物たちの描写にある。

イタリアの村

イタリアの村

なかでもイギリス軍大佐の妻バックファスト夫人やイタリア人男爵フォン・ウルトバーグの個性は他を圧倒している。

(2022.1.30)



---単身赴任---

by 山口 瞳

単身赴任

「単身赴任」「三宅坂渋滞」「靴と蒟蒻」「木犀」「時雨るるや」「恋愛論ふうに」「ママ」「南瓜」「逃げの平賀」の7篇が収められている。

「単身赴任」。会社ものである。日本の会社というのは独特のところで、会社でしか通用しないような風習がある。ひとつの会社に長くいればいるほど、その会社の風習に慣れきってしまって、その中で生息するような人種がいる。本篇は著者がサラリーマン時代に遭遇したであろう、独特の上司が出てくる。

「三宅坂渋滞」。主人公は郊外に家を持つサラリーマンである。家の近くに居酒屋とスナックがある。会社の帰りにどちらかの店に寄るのが習慣である。妻子が留守の時は両方の店に寄る。スナックの女性と親しくなり、彼女のパトロンについて想像を巡らす。ある時・・・。

「靴と蒟蒻」。主人公が学生の頃から出入りしていた先生の家に小学生の娘がいた。主人公が就職し、結婚し、子供ができても先生一家とは付き合いが途絶えなかった。いつの間にか小学生だった娘は陶芸家として世間に認められるようになった。40才になっていた。

「木犀」。主人公が以前から付き合っていた酒場の女がいつの間にか、自分の親友と親しくなっていた。ある時、2組のカップルで伊豆に一泊旅行に行くことになったが・・・。

「時雨るるや」。女4人、男2人の同窓生が久しぶりに会うことになった。女ひとりと男ひとりが来なかった。そこには複雑な事情が・・・。

「恋愛論ふうに」。学校や会社で同期生がいるように、酒場にも同期生がいる。出世する同期生が増えたら、酒場も格上げになる。ある酒場に20年来通っている男と、酒場のママの会話。

「ママ」。ママというのは母親のことなのか、酒場の女将のことなのか不明である。物語は数人の男女の会話で進んでいく。

「南瓜」。中学校の同窓会の幹事数人が集まって、いろいろな話をする。全員男だから、自然女の話になる。

「逃げの平賀」。題名は「逃げ馬に騎乗するのを得意とする騎手・平賀鷹志」の意味である。本作品は騎手・平賀鷹志の独白体で書かれている。獲得した賞金はすべて酒と女に使ってしまうような破滅型の男が、ある女に惚れる。惚れた女の素性は、実は・・・という話で、こういう性格の男の人生は結局破滅するしかない。

日常生活を題材にした小説でデビューし、その後日談とも言える「男性自身シリーズ」や「なんじゃもんじゃ」や「迷惑旅行」などの「写生紀行シリーズ」、「血族」や「家族」などの私小説を得意とした著者はこの時期(昭和52年)、本作品のような男女関係の微妙な心理を描いた小説を書いていた。「人殺し」(昭和47年)はその代表作であろう。

(2022.1.27)



---本のなかの本---

by 向井 敏

本のなかの本

文芸評論家・向井敏氏による書評集である。

未知の本を買うには誰かの書評がなければ不安である。古典はすでに評価が定まったものであるし、おおよその内容はなんとなく知っているからそれほどでもないが、ミステリーや冒険小説となると、買ってみようと思うまでが大変である。

幸い、ミステリーでは丸谷才一、冒険小説では北上次郎という100%信用できる書評家がいる。谷沢永一、福永武彦、それに本書の著者・向井敏も信用できる書評家である。

本書では150冊の本と、その4,5倍の関係書物が紹介されている。

著者が推薦する本の中で、筆者が読んでみたい本を以下に列挙する。

"気魄のこもった書物随筆" 谷沢永一「完本・紙つぶて」は信用できる書評家・谷沢永一の書評集である。

"人物評伝の極め付き" E・H・カー「カール・マルクス」。毀誉褒貶の多いマルクスの実像を暴く。彼は本当にロシアのような共産主義国家を理想的な国家と想定していたのか、知りたい。

"得がたいSF・ミステリーガイド" 石川葉司「夢探偵」。確か以前読んだことがあるが、著者が推薦するなら再度読んでみたい。

"完成度随一のスパイ小説" ブライアン・フリーマントル「別れを告げに来た男」。以前読んだことがある。このシリーズを購入したが、今は持っていない。シリーズ中、本書が一番印象が強かった。もう一度読んでみたい。

"「豊かな乱世」の発見" 山崎正和「室町記」。自己主張 と、権謀と、力の論理が剥き出しで渦巻く足利時代。 この時代は、同時に、生け花、茶の湯、連 歌、水墨画、能、狂言、それに座敷、床の間、庭など、日本文化の伝統の半ば近くを創造した「偉大な趣味の時代」でもあった。これは読まざるを得ない。

"さらばリュウ・アーチャー" ロス・マクドナルド「ウィチャリー家の女」。この本も持っているが、著者がそう言うならもう一度読んでみようか。

"虹の国の住人たちの哀歓" サミー・デイヴィス・ジュニア「ハリウッドをカバンにつめて」。今でも時々読み返している。

"現代国際政治の葛藤を描く雄編" ドミニク・ラピエール/ラリー・コリンズ 「第五の騎手 」。ハヤカワ文庫で発売された当時、何度か挑戦したが途中下車した。今なら読めるかも。当時の本は既に無いが。

"冒険物語をしのぐ昂奮" 宮脇俊三「時刻表二万キロ」。パラパラっとめくって購入するまでに至らなかった本。著者がそれほど入れ込んで推薦するなら読んでみようか。

"破産したエリート政治" デイヴィッド・ハルバースタム「ベスト&ブライテスト」 。ケネディ兄弟およびその優秀なスタッフたちが政権を握っていたにもかかわらず、アメリカはヴェトナム戦争に突入してしまった。何故そうなったのか、ということを解き明かした本。読まざるを得ない。

"エンターテインメントの王者" トム・マクナブ「遥かなるセントラル・パーク」。 "手に汗握る大伝奇" ロバート・ラドラム 「暗殺者」。いずれも何度となく取り掛かったが挫折してしまった本。今読んだらどうなるのか、試したい。

(2022.1.24)



---駅前旅館---

by 井伏鱒二

駅前旅館

旅館の女中部屋で育ち、さまざまな旅館を渡り歩いた現在47才の男=上野駅前の旅館の番頭の独白体で書かれている。著者は処女作の「山椒魚」をはじめとして、「多甚古村」「黒い雨」など独白体の小説が得意なようである。

作中、旅館のしきたりや、旅館独特の符牒が紹介されている。例えばご祝儀を「バッタ」と言ったり、客を「キャラ」と言ったり、女連れを「ガマ連れ」と言ったりする。

小説は旅館独特の風習や、客扱いを紹介しながら、主人公の女性関係を描いていく。口では自分は好色で女性関係にだらしない、と言いながら、実際は意外に礼儀正しい。元置屋の女中で今工場の女工さんの世話をしているお菊さんや赤提灯の独身の女将との関係は淡いもので、危なくなると終夜営業の居酒屋へ逃げたりする。

女から見ると優柔不断な男である。男から見ると、肝心なところでブレーキがかかってしまう、ごく普通の男である。

本作品は1958年7月12日に豊田四郎監督が映画化している。主人公に森繁久彌、添乗員にフランキー堺、近くの旅館の番頭に伴淳三郎という配役である。原作のほんわかした雰囲気を猥雑にして喜劇化しようとする意図が感じられる。映画は当たってシリーズ化されている。

(2022.1.22)



---冬の紳士---

by 大佛次郎

冬の紳士

昭和25年、敗戦直後の新橋ガード下の小さな酒場「エンジェル」に時々現れる50年配の紳士、酒場仲間は密かに彼のことを「冬の紳士」と呼んでいた。

他人のことを詮索しないのがこの酒場の礼儀、その時々の話題が盛り上がればそれで良い、というのがメンバーの決まり事であった。

物語が進むにつれて、徐々に紳士のことがわかってくる。あるとき、彼は酒場で知り合った若者にこう言う。

「身分なんて、僕にはないさ。それがあるように見たのは、君の錯覚だ。もともと身分と社会的地位なんて、在るように勝手に他人が考えるだけで、本人には関係ないものだろう。本人から見たら、人間はいつも裸か一貫なのが、建前としてほんとうだ。 だから、いつでも新しく出直すことさ。自分にまで、錯覚を起して何か偏見を作り上げたら、もうお終いなのだ。そう思わないか」

彼は大会社の社長をしていたのだが、50才の時、そのことに気がついて息子に跡を継がせて引退する。

「身分と社会的地位なんて、在るように勝手に他人が考えるだけで、本人には関係ない」ということにはなかなか気がつかない。むしろ、むりやり自分に錯覚を起させて、身分と社会的地位を作り上げようとする人が多い。

著者は敗戦直後に生きる数人の若者と「冬の紳士」との交流を通して、戦後の日本人に正しい生き方の方向性を説く。

(2022.1.19)



---死のクロスワード---

by パトリシア・モイーズ

死のクロスワード

スコットランド・ヤードのヘンリ・ティベット警視はある出版社の社長から招待を受けていた。犯罪に関するスピーチを依頼されていた。会が開かれる直前、出席者と思われる者からクロスワードパズルの問題が送られてきた。解いて見るといずれも出席者と思われる者たちが犯したと思われる過去の犯罪についてのワードが当てはめられていた。

というところから物語は始まる。「孤島パズラー」もの、または「過去からの狙撃者」ものに分類されるミステリーである。

主人公の警視は「せめて妻のエミーといっしょに、すこしばかりくたびれてはいるけれども居心地の良いチェルシーのアパートでくつろいでいたい」と考えている家庭的な男である。

「ヘンリはかなりの年代物だが充分に手入れが行き届いている自家用車で、 朝早くポーツマスに向かった。天気はあい変わらず快晴で、波は穏やかで海原には白い帆が点々と浮かんでいた。まもなくディベット夫妻は島に上陸すると・・・」というところから舞台の幕は上がる。島というのはイギリス南部のワイト島である。

招待された7,8人の出席者の中から新たに被害者が発生し、警視は過去の犯罪と現在の犯罪の両方と向き合うことになる。

事件は本庁のスコットランド・ヤードに依頼されていないため、警視は個人の立場で事件を調査せざるを得ない。妻のエミーと一緒に休暇を利用しながらそれとなく調査することになる。

土地のひなびた旅館に滞在したり、風光明媚なワイト島を観光しながら活動する警視を追いながら、読者もイギリスの田舎を旅しているような気分になる。

チェルシーのアパート

チェルシーのアパート

警視は過去から繋がる長い鎖を徐々に解きほぐしていく。明らかになった真相は・・・。

明らかになった真相に驚くよりも、警視とともにイギリスの邸宅を訪問したり、そこでさまざまな人たちと食事をしたり会話をしたりするシーンが興味深かった。

(2022.1.18)



---迷惑旅行---

by 山口 瞳

迷惑旅行

著者は近所に住む彫刻家の関保寿氏とともに日本各地に写生の旅に出かける。「なんじゃもんじゃ」から始まった写生紀行の第三弾である。

今回は月に一度、12回にわたって日本全国を旅する。

「なんじゃもんじゃ」の旅の隠れテーマが小説「人殺し」の執筆であったように、今回の旅も隠れテーマがあった。小説「血族」の執筆である。

最終回「父祖の地佐賀、 塩田町久間冬野」は「血族」のラストのシーンそのままである。「知多半島、篠島、大夕焼」の章では母方の伯父について言及する。

旅が始まって間もない「強風強雨、稲取海岸」の章では同行者・関保寿氏の自宅が火事で全焼する。本書のもうひとつの隠れテーマとして、関氏の家が灰燼と化し、それをいかに再建するか、という顛末が語られる。

もちろん本書の本来のテーマは写生旅行である。行く先々の風土や人々との交流、絵を描く過程がユーモアを交えて語られる。個々の章はルポルタージュであるが、全体としてはひとつの小説に見える。

沢木耕太郎による解説は本書の解説であると同時に、「山口瞳」論になっている。通り一遍の解説ではない。

(2022.1.15)



---書物愛[海外篇]---

by 紀田順一郎 編

書物愛[海外篇]

書物愛に関する小説を集たアンソロジーである。編者の紀田氏が書物愛に満ちた人なので内容は確認せずに購入した。

フローベール作の「愛書狂」はそのものずばり、内容は関係なく本そのものを偏愛する人である。こういう気持ちもわからなくはない。筆者自身も装丁や紙の質が良いと、それだけで欲しくなってしまう。装丁や紙の質が良い本で内容の薄っぺらな本は無いと信じている。

アナトール・フランス作「薪」。下宿屋に住む老学者は古い羊皮紙に書いた古文書を研究している。ある寒い日、屋根裏部屋に住む赤ん坊を産んだばかりの寡婦に暖を取るために薪をあげた。7年後、小さな子供があるものを届けにきた。ディケンズの「クリスマス・カロル」を思い出す話。老書物愛者はこういう話に泣いてしまう。

「シジスモンの遺産」は本物の愛書家・ユザンヌによる悲喜劇。シジスモンの遺産を滅ぼそうとする老嬢と愛書家の攻防。もちろん勝つのは・・・。

「ヘンリー・ライクロフトの私記」の作家によるある愛書家の物語。

「ポインター氏の日記帳」は古文書学者・M・R・ジェイムズによる奇談。古書好きの男が、古書市で仕入れた日記を調べていたら、中から珍しい模様の布地が出てきた。この模様を大きな布に刺繍させてカーテンを作った。すると・・・。ミステリー風の話。

「羊皮紙の穴」はミステリー作家H・C・ベイリーによる「フォーチュン・シリーズ」中の1篇。もたもたしたミステリーで切れ味がいまひとつであった。

「目に見えないコレクション」と「書痴メンデル」はいずれもシュテファン・ツヴァイクによる。前者は絵画に、後者は書物に人生の全てをかけた男の物語である。「書痴メンデル」のラストで語り手が述懐する「 この私こそ、本が作られるのは、自分の生命を越 えて人々を結びあわせるためであり、あらゆる生の容赦ない敵である無常と忘却とを防ぐためだということを、知らなければならない人間だったのである」という言葉は、ツヴァイクが後世のすべての自分の読者たちに語りかけた言葉であろう。

「ロンバード卿の蔵書」グルイネ。読書好きのロンバード卿を引っ掛けるにはそのことを利用するのが一番。利用されたのがイギリス人なら誰でも知っている、ジェーン・オースティンの「マンスフィールド・パーク」とは。

「牧師の汚名」ジェイムズ・グールド・カズンズ。牧師ともあろうものがこんな書物を、でもありうる話だな、と思わせておいて、さらに落とし穴が、というミステリー小噺。

世界中の短編小説の中から紀田氏が選んだものは以下の通りである。

  1. 愛書狂・・・・・・ ・・・・・・ギュスターヴ・フローベール 生田耕作訳
  2. 薪・・・・・・ ・・・・・・ ・ アナトール・フランス 伊吹武彦訳
  3. シジスモンの遺産・・・・・・ ・オクターヴ・ユザンヌ 生田耕作訳
  4. クリストファスン・・・・・・ ・ ジョージ・ギッシング 吉田甲子太郎訳
  5. ポインター氏の日記帳・・・・・ M・R・ジェイムズ 紀田順一郎訳
  6. 羊皮紙の穴・・・・・・ ・・・・ H・C・ベイリー 永井淳訳
  7. 目に見えないコレクション・・・ シュテファン・ツヴァイク 辻理訳
  8. 書痴メンデル・・・・・・ ・・・シュテファン・ツヴァイク 関補生訳
  9. ロンバード卿の蔵書・・・・・・ グルイネ 大久保康雄訳
  10. 牧師の汚名・・・・・・ ・・・・ジェイムズ・グールド・カズンズ 中村保男訳

(2022.1.11)



---血族---

by 山口 瞳

血族

アレックス・ヘイリーは1976年に小説「ルーツ」を発表し、それは全米でベストセラーになった。翌年テレビドラマ化され、空前の視聴率をとった。

西アフリカの小国ガンビアに生まれ、1767年にアメリカ合衆国に奴隷として連れて来られたヘイリーの6代前にあたる先祖クンタ・キンテを始祖として、子孫の人間模様が描かれている。舞台となる時代は1760年代から1870年代頃までの約100年間である。

本書は山口瞳の「ルーツ」である。1979年に出版されている。アレックス・ヘイリーの「ルーツ」に触発されたことは間違いない。家族 文藝春秋 1983

これは著者の母親のルーツである。母親は56才で死ぬまで自分の出自を隠した。著者は自分の誕生日にずれがあること、母親の結婚前後の写真がないことに不審を抱き、その頃のことを親戚の誰彼に質問するが、誰もはっきりしたことを言わない。

調べていくうちに、母親から親戚だと聞かされてきた人々が、血のつながりのない他人だったことを知る。調べていくうちに少しずつ事実が明らかにされてくる。著者は何度も、これ以上事実を追及するのをやめようかと思う。読者も徐々に明らかにされていく事柄に胸がドキドキする。そのあたりの文章の迫力は、まるで推理小説を読むかのようである。

全てが明らかになった時、著者自身の私的な事柄を書いたものであるにもかかわらず、筆者やその他の人々にも共通する事柄ではないかと思い始めた。誰にでも丑太郎のようなどうしようもない伯父がいて、君子のような怖い叔母がいるのではないだろうか。

本書は「私は、大正十五年一月十九日に、東京府荏原郡入新井町大字不入斗八百三十六番地で生まれた。 しかし、私の誕生日は同年十一月三日である。母が私にそう言ったのである」という印象的な文章で終わっている。

山口瞳は1979年に「血族」で母親のルーツを書き、1982年に「家族」で父親のルーツを書いた。

(2022.1.6)


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