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---夢の女・恐怖のベッド---

by ウィルキー・コリンズ

by ウィルキー・コリンズ「夢の女・恐怖のベッド」

「月長石」や「白衣の女」で有名な英国の作家ウィルキー・コリンズの短編集である。

ミステリーばかりでなく恐怖小説や奇妙な味の小説、冒険小説の部類の短編も収められている。ウィルキー・コリンズはエドガー・アラン・ポーとコナン・ドイルに挟まれた時代に活躍した作家である。現代ほど分野が明確に決まっていたわけでは無い。

8編の小説はどれも面白いが、江戸川乱歩が世界の推理小説のアンソロジーで選んだ「探偵志願」がしゃれた構成で面白かった。

無能な男が政治的なコネで警察に入ってきて使わざるを得なくなった。心配な上司は捜査の状況を逐一書面で報告するようにと命令する。小説は上司と無能な男との手紙のやり取りで構成されている。

上司と読者は無能な男の書簡から真犯人を見つけなければならない。当然無能な男が指摘した犯人は真犯人では無い。

「夢の女」は恐怖サスペンスである。ある男が夢の中で見知らぬ女にナイフで襲われる。あまりに現実的な夢だったので女の特徴をメモしておく。何年か後彼の前に現れた女は夢の中で彼を刺し殺そうとした女にそっくりだった。…。

「グレンウィズ館の女主人」は親の因果が子に報い的な因縁話。

その他どの小説も基本的には恐怖がモチーフになっている。岩波文庫に収められているだけあって格調の高い恐怖小説集である。


(2018.12.29)


---暇と退屈の倫理学---

by 國分功一郎

by 國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

カール・マルクスが「資本論」を書いた時代はイギリスの産業革命直後で労働に関する意識が低かった。資本家は労働者を極限まで働かせても差し支えないと考えていた。女性や子供でも1日18時間働かせていたという。残りの6時間で睡眠やその他のことをしなければならない。流石にそれでは体力が持たず作業中居眠りをしたりミスが増えて製品の歩留まりが悪かったという。

マルクスは「資本論」の中で労働時間を減らさなければ人間的な暮らしはできないと述べた。現代では当たり前のことであるが当時としては新しい考え方であった。

翻って現代ではどうなのか。電通の過剰残業の問題から明らかになってきたように会社員という名の労働者は月に40時間から200時間残業している。マルクスが指摘したような時代と大差ないのではないか。

今も資本家による搾取の時代から進歩していないのか。そうともいえるしそうでないとも言える。自主的に過剰労働をしている人もいるのではないか。

なぜ? 「暇と退屈」が怖いからではないか。

電車の中やホームを歩いている人、歩道を歩いている人、スーパーで買い物をしている人、皆スマホを見ている。先日スマホを見ながら平然と赤信号を渡っている人を見た。まるでこれがあれば車はぶつからないと信じているように。

ひとびとは恐れている。「暇と退屈」を。自分の現在の状況や行く末を考えることを。

スピノザ学者の著者は言う。芸術や文化を生み出したのは「暇と退屈」である。人間の教養や創造力は「暇と退屈」から生まれる。


(2018.12.24)


---世界推理短編傑作集1,2---

by 江戸川乱歩

by 江戸川乱歩編「世界推理短編傑作集2」 by 江戸川乱歩編「世界推理短編傑作集1」

読んだ本の中からベスト10を選ぶことは昔から行われている。サマセット・モームは「世界の十大小説」という本を書いている。S・S・ヴァン・ダインは「推理小説論」という論説を書きポーのデュパンから始まる探偵たちについて述べている。内藤陳の「読まずに死ねるか」は古今東西のミステリーを解説したものだし、植草甚一のミステリー論も興味深い。
これは江戸川乱歩が選んだ短編推理小説の傑作集である。日本の探偵小説の大家であり優れた評論家でもある乱歩が選んだだけに選ばれた作品は誰もが納得するものばかりである。

【傑作集1】
  1. 盗まれた手紙…ポー
  2. 人を呪わば…コリンズ
  3. 安全マッチ…チェーホフ
  4. 赤毛組合…ドイル
  5. レントン館盗難事件…モリスン
  6. 医師とその妻と時計…グリーン
  7. ダブリン事件…オルツィ
  8. 十三号独房の問題…フットレル

【傑作集2】
  1. 放心家組合…バー
  2. 奇妙な跡…グロラー
  3. 奇妙な足音…チェスタトン
  4. 赤い絹の肩かけ…ルブラン
  5. オスカー・ブロズキー事件…フリーマン
  6. ギルバート・マレル卿の絵…ホワイトチャーチ
  7. ブルックベンド荘の悲劇…ブラマ
  8. ズームドルフ事件…ボースト
  9. 急行列車内の謎…クロフツ

ポーの「盗まれた手紙」やドイルの「赤毛組合」は誰もが納得する傑作である。チェーホフの「安全マッチ」は初めて読んだ。落語の「紙入れ」に似ていると思った。時代や国を飛び越えてこのような男女の関係は不変的なことなんだと思った。

有名な「十三号独房の問題」は思考機械といわれたヴァン・ドーゼン博士が頭を使えば難攻不落の独房からでも脱出できると豪語し、実行する話だ。読んでみるとあまり頭を使っているようにもみえず、しかもこれは不可能ではないかと思った。

「放心家組合」はドイルの「赤毛組合」から発想したものと思われるが、「赤毛」の代わりに「放心する人」をターゲットにした点が成功している。

「奇妙な足音」はチェスタトンの「ブラウン神父もの」である。このシリーズはいずれも名作ぞろいと言われているが理に落ちすぎていて感心したことがない。

「ギルバート・マレル卿の絵」は長い連結の貨物列車から真ん中の車両だけを抜き取って消失させるという手品のような話で、まるで手品の種明かしをされたように感心した。

「オスカー・ブロズキー事件」は昔小菅の踏切で起こった下山総裁事件を連想させて不気味な印象が残った。

クロフツの「急行列車内の謎」は種明かしをされれば特別に謎とも言えずなんということもない事件だと思った。


(2018.12.18)


---文豪---

by 松本清張

by 松本清張「文豪」

坪内逍遥、尾崎紅葉、斎藤緑雨について書かれている。この三人が "文豪" と呼ばれたことがあったのかどうかは疑問であるが。

清張はこの三人の何を描きたかったのか。それは一読するとわかる。名声の裏側をえぐり出したかったのだ。彼らの虚像をさらけ出す、という目的であえて "文豪" という表題を選んだのかもしれない。

東京大学を卒業し、「小説神髄」を執筆し、日本で初めてシェイクスピアを翻訳し、高校の教授を歴任し、「国語読本」を執筆する。エリート中のエリートという印象を受ける。

清張は東京大学在学中に根津遊郭に通い詰め娼妓を落籍して妻にした逍遥に焦点を当てる。そこかよ、という感じである。

高等小学校を卒業したのち電気会社の給仕に就職して文学を独学で勉強した清張はエリートの化けの皮を剥がすつもりでこの本を書いたのではないだろうか。

清張の追求によると若気の至りで娼妓を妻にした逍遥は生涯そのことで苦しむ。初めは妻を教育しようとするがとても手に負えない。自分はどんどん出世するが、無教養でヒステリックな妻を公的な場に出すことはできない。追い詰められた逍遥は…。ここで清張は逍遥の死に関して公にされているものとは違う独自の説を唱える。

読み終えてインターネットで逍遥の端正な肖像写真をあらためて眺めた。エリートにも苦労はあるんだなーと思った。

尾崎紅葉の巻では紅葉とその弟子泉鏡花の確執が描かれ、斎藤緑雨の巻では緑雨の才能のなさが描かれている。

清張が書く "文豪" は一筋縄ではいかない。


(2018.12.8)


---未成年---

by ドストエフスキー

by ドストエフスキー「未成年(上)」 by ドストエフスキー「未成年(下)」

作者は本書を主人公の未成年時代のまとまりのない精神状態を描写した、と述べている。確かに本書はまとまりがない。誰が誰に対して陰謀を謀り、結果どうなったのか。主人公アルカージイの周辺の人々はどのようなひとなのか。良い人なのか悪い人なのか。

作者が本書の前に書いた三冊の本(罪と罰、白痴、悪霊)ではだれがいつどのようにしたかは白日のように明瞭である。「罪と罰」ではラスコーリニコフが老婆の頭に斧の背を振り下ろし、その後どのようになったかまではっきり記述している。まるで死体の上を飛び回っていたハエが記述したように。

本書は全編アルカージイの視点で記述されている。アルカージイが見ていないことは描きようがないのである。実際我々が経験できる範囲は狭い。自分で見たことよりも情報として他から聞いたことの方が多い。新聞、雑誌、インターネット等で仕入れた情報をそれが正しいかどうかを判断することなく受け入れてしまう。アルカージイの時代は現代よりも狭い。自分で見る以外の情報は他人から仕入れるほかない。

本書が分かりづらいのは世の中に出たばかりの未熟な青年がある陰謀に巻き込まれるが、自分が見聞きできる場所は限られ、断片的な他人の意見から情報を補てんしなければならない。その意見もそれぞれの思惑がからんで必ずしも正しいとは限らない。我々はアルカージイが記述したことから物語を判断せざるを得ない。

浮かび上がってくるのはアルカージイの父親ヴェルシーロフの複雑な性格である。理想論を述べるかと思えば情熱に負けて恋人を撃ち殺そうとする。それに失敗するや否や自殺未遂を図る。「罪と罰」のスヴィドリガイロフや「悪霊」のスタヴローギンのように描写してくれればはるかにわかりやすいのに。

女性主人公アンナ・アンドレーエヴナとカテリーナ・イワーノヴナの輪郭も分かりづらい。「白痴」のナスターシャ・フィリポヴナやアグラーヤのようにくっきりと描写してくれたら…。

我々は歯がゆい思いをしながらアルカージイによって語られる世界を追体験するしかないのである。


(2018.11.26)


---赤毛のアン---

by L.M.モンゴメリ

by L.M.モンゴメリ「赤毛のアン」

赤毛でそばかすだらけでやせっぽちの孤児、アン・シャーリー。彼女は11才でクスバート家にもらわれてくる。

自分は醜い女の子だと思っているが、登場した瞬間からマシューおじさんと読者の心をつかんでしまう。アンは孤児だが心がまっすぐだ。嬉しい時も悲しい時も人の3倍感じ取ってしまう。こんな子が世の中に出ていけるのかと誰もが心配になってしまう。

アンの唯一の武器は想像力。それがあるから人の3倍の悲しみにも耐えられる。

読者は山あり谷ありのアンの生活に11才から16才までの6年間付き合う。そして思春期の女の子とドキドキしながら生活を共にすることになる。

翻訳は村岡花子さん。この小説を日本に紹介した先駆者だ。原作は不変だが翻訳は時代に応じて変化しなければならない。さすがの名訳も66年経つと古くなる。今の女の子はこんな話し方はしないだろう。普遍的なことを扱っているのだが、翻訳しだいでは物語が古臭く感じられてしまう。


(2018.10.31)


---死刑執行人のセレナーデ---

by ウイリアム・アイリッシュ

by ウイリアム・アイリッシュ「死刑執行人のセレナーデ」

犯人当てのミステリーではない。アイリッシュ独特の夜の雰囲気を味わうためのミステリーである。

「ヤンキー・ドードル」の口笛のメロディとともにやってくる殺人者。一見共通点のない被害者が次々に自殺に見せかけられて殺されていく。犯人を追う休暇中の刑事。知り合ったばかりのガールフレンドに忍び寄る魔の手。

刑事が見守る中おとりになる女性。「ヤンキー・ドードル」の口笛のメロディが聞こえてくるが刑事は足止めをくい到着できない…。

サスペンスを盛り上げて読者を引っ張る手法はアイリッシュの独壇場だ。助かるに決まっていると思いながらもドキドキする。


(2018.10.27)


---グリフォンズ・ガーデン---

by 早瀬 耕

by 早瀬 耕「グリフォンズ・ガーデン」

「未必のマクベス」の作者早瀬耕の処女作である。本作品は早瀬耕の卒業論文を手直しして作ったものであるらしい。こういう卒業論文もあるのか、と思ったが読み進めていくうちに確かに論文らしいと気がつき始めた。

コンピューターの基礎的な知識がなければついていけない箇所がいくつもある。そういう部分を飛ばし読みして彼と彼女の会話だけを追って読み進めた。この作者の会話の文章はすばらしい。まるで二人の息遣いまで感じられるほどだ。

この小説には2組の男女が存在する。1組は実在の、もう1組はプログラムによってコンピューターの中に作られた男女である。プログラムされた方も無から有を作り出すことはできず知り合いとか自分の中から少しずつ要素を借りて作ってある。

リアルとヴァーチャルの2組の男女がそれぞれ共同生活をするうちに様々な問題が発生したり互いに協力したり慰めあったりする。そのうちにリアルとヴァーチャルの境目がはっきりしなくなり…。

読み進めていくうちにわれわれ読者もリアルなのかヴァーチャルなのかわからなくなってくる。そのうちに男女の関係そのものがリアルなのかヴァーチャルなのか不明になってきて、結局どちらでもいいのではないかと思えてくる。


(2018.10.25)


---プラネタリウムの外側---

by 早瀬 耕

by 早瀬 耕「プラネタリウムの外側」

「未必のマクベス」の作者早瀬耕の最新作である。説明的な表現が皆無の文章、難しい単語、過去と現在、リアルとヴァーチャルの混在する世界。これが早瀬ワールドである。

早瀬耕の小説は2度読まなければならない。1度目で全体の構成をつかみ、2度目でゆっくり文章を味わう。独特の理論的な文章は読み飛ばしたのでは頭に入ってこない。

早瀬耕のもう1つの特徴。会話の妙である。会話が実に良い。会話の文章を読むだけで話し手の表情が浮かんでくる。特に男性と女性の会話がいい。

本作には5編の短編が収められている。5編はそれぞれ語り手は違うが中身はつながっている。「有機素子ブレードの中」「月の合わせ鏡」「プラネタリウムの外側」「忘却のワクチン」「夢で会う人々の領分」の5編である。

それぞれが男女の微妙な気持ちを表現している。「忘却のワクチン」の最後の文章「花びらのような雪が、…」、「夢で会う人々の領分」の最後の文章「ここは…?」を読むとまるで恋愛小説の大作を読了したかのような気分にさせてくれる。


(2018.10.23)


---きままな絵筆---

by 池波正太郎

by 池波正太郎「きままな絵筆」

池波正太郎のエッセイと絵本である。時代小説で有名な池波正太郎はすぐれた画家でもあった。小説を書かなくても画家として一流になれた人だと思う。

エッセイだけ読んでも、挿絵だけ見ても楽しいお得な本である。絵は池波にしか描けないタッチで色使いも池波独特。特に人物を描いた時の線と色使いは余人の追随を許さない。

原画展をやったら見に行きたいが膨大な数の原画は今どこにあるのだろう。


(2018.10.21)


☆ 池波正太郎ギャラリー(きままな絵筆より)
肉屋 カルチェ・ラタンにて おしゃべり 老夫婦
オード・カーニュ ル・アーブルの港 田舎のホテルにて ルーアンの城

---未必のマクベス---

by 早瀬 耕

by 早瀬 耕「未必のマクベス」

企業小説であり、ハードボイルドであり、冒険小説であり、恋愛小説でもある。評論家の北上次郎は「究極の初恋小説」と評した。またある書店員は「本の形をしたラブレター」とも評した。

100ページくらいまでは企業戦士の話だと思った。できる主人公が出世していくんだろうと…。ちらっと挿入される高校生時代の甘酸っぱい話が後々どう関係してくるのか気にしながら読み進めた。

100ページを過ぎてからギアが切り替わり、はてこれから話はどう進むんだろうと思った。ギアが切り替わるきっかけはマカオのカジノで会った娼婦から告げられた「あなたは王になる」という予言からだ。後から考えるとこれはマクベスが3人の魔女から告げられた有名な予言だ。マクベスは魔女の予言通りに行動し王になった。ではこの小説の主人公は…。

物語は予想した展開からどんどんずれていく。高校時代、気になっていた彼女は…。「究極の初恋小説」の意味は…。

舞台は日本から香港へ、マカオからホーチミンへ、そしてバンコクへとめまぐるしく変わっていく。先の読めない展開は最後まで続く。

久しぶりに本を読んで興奮した。筋を追うのに夢中で細かい部分を読み飛ばした。渋谷の"Radio Days"というバーでかかっていた曲、"Everything but the Girl"という名前のアコースティック・バンド、バレンタインデーに主人公がもらった義理チョコの名前、ホーチミンのマジェスティック・ホテルの屋上のレストランから見えるサイゴン川の風景、主人公が高校時代聞いていた深夜放送、等々。

神は細部に宿る。God is in the details. あらすじをたどっただけでは著者の書きたかったことの半分しか読んでいない。今度は細部を読むとするか。


ちなみに筆者が聞いていた番組とDJは以下の通り。
☆ TBSパックインミュージック
大村麻梨子
DJ : 大村麻梨子
野沢那智、白石冬美
DJ : 野沢那智、白石冬美

(2018.10.20)


---かくれさと苦界行---

by 隆慶一郎

by 隆慶一郎「かくれさと苦界行」

「吉原御免状」の続編である。松永誠一郎対裏柳生の戦いは本作でひとまず決着する。

「吉原御免状」と本作品は昔の東映映画が映画化したら素晴らしい作品になったのではないか。吉原者対裏柳生の戦い、幕府の老中対吉原の惣名主との御免状を巡る因縁話、惣名主となった松永誠一郎と柳生義仙との果てしのない戦い。花魁との濡れ場。絵になるシーンが続出する。

伝奇小説は荒唐無稽なだけでは読み進めることはできない。移り気な読者はひとつのシーンをバカバカしいと思っただけで本を閉じてしまうからである。

隆慶一郎は徳川家康の入れ替わりに始まり、宮本武蔵に育てられた高貴の御曹司が遊郭吉原の惣名主になるまでの壮大なフィクションを組み上げた。そのひとつひとつの挿話に至るまで裏付けとなる資料を提示する。いかに荒唐無稽な話でも堅固な理論の上に乗せると真実味を帯びてくる。読者にもしかしたらこれは本当のことかも、と思わせたら作家としては成功であろう。

著者の魔術に乗せられてこの2冊を夢中で読み終えてしまった。

(2018.10.15)


---吉原御免状---

by 隆慶一郎

by 隆慶一郎「吉原御免状」

隆慶一郎の処女作である。処女作にはその作家のすべてが詰まっている、といわれるが確かにそうだ。

この作品には後に作者が展開する「道々の輩」「傀儡子」「幻術師」「山窩」「忍者」等が出てくる。大作「影武者徳川家康」を短くした章が出てくる。遊郭「吉原」の成り立ちや仕組みについて詳しく述べられている。 伝奇小説としての様々な要素がすべて盛り込まれている。

表向きの筋である松永誠一郎対裏柳生の戦いの決着がついていないのが気にかかる。それは続編の「かくれさと苦界行」を待たなければならないようである。

(2018.10.12)


---インペリアル---

by 赤川次郎

by 赤川次郎「インペリアル」

「ショパンに飽きたら、ミステリー」というミステリー紹介本の中で著者青柳いずみこが紹介した本である。

ピアニストである青柳が紹介したとっておきの本はピアニストの話であった。赤川次郎にしては珍しくこの本はミステリーではない。

この本には4人のピアニストが登場する。現役のソリスト、ソリストとして行き詰まった人、ポピュラー音楽に行った人、引退して結婚した人。それぞれの人の性格や人間関係が描かれていて興味深かった。

クラシック音楽好きの赤川次郎だけにどの挿話も真実味がある。音楽大学を卒業してもプロの音楽家になる人は、ましてソリストになる人は限られた少数であろうと思われる。

「インペリアル」というのはベーゼンドルファーのピアノの名称で普通のピアノより鍵盤が1オクターブ分多くついている。いい演奏家が弾けば独特のきらめきのある音を出すという。

(2018.10.10)


---青柳瑞穂の生涯〜真贋のあわいに---

by 青柳いずみこ

by 青柳いずみこ「青柳瑞穂の生涯〜真贋のあわいに」

先日「ショパンに飽きたら、ミステリー」というミステリー紹介本を読んだ。独特の視点からミステリーを論じていて面白かった。そして著者が青柳いずみこという人でピアニストだと知った。

紹介されたミステリーの中に「『幹山』真贋の殺人」というのがあった。幹山というのは陶芸家の尾形幹山という人でその筋では有名な人だそうだ。「幹山」を集めていたのは著者の祖父で青柳瑞穂というフランス文学者で…、というところで興味が湧いた。青柳瑞穂といえば「モーパッサン短編集」を翻訳したあの人ではないか。「モーパッサン短編集」は愛読書のひとつだ。

というつながりで本書を読む次第になった。

いやはやこんなでたらめな人だったとは。時のサラリーマンに比べて数倍もの収入があったにもかかわらず稼いだ金は家に入れずほとんど骨董の購入費に当ててしまう。沿線の文学者仲間が集うサロンのような家の中心人物であった。必然的に妻は質屋通い。うまいものをふんだんに食べさせないと妻は明け方までお小言を食らう。妻は自殺。そして後添えには酒場の女を引き込む。典型的な無頼派の作家の生活である。

ちなみに当時サロンに集まった仲間は井伏鱒二、木山捷平、太宰治、河盛好蔵、火野葦平、亀井勝一郎等々というそうそうたるメンバーである。とはいっても皆当時は世の中に出るか出ないかの新進であったのだが。

俺の好きなことをやって何が悪い。芸術のためには何をやってもいいのだ。という時代ではあったのだが。

(2018.10.8)


---親指のうずき---

by アガサ・クリスティ

by アガサ・クリスティー「親指のうずき」

トミーとタペンスものの4冊目である。20台でデビューしたトミーとタペンスは60才台後半か70才台になっている。

犯人に襲われたタペンスが争いの途中自分の年に愕然とするシーンがある。考えることは同じでも体がついて行かない年齢である。

物語はトミーの叔母さんが住む養老院でタペンスがある出来事に遭遇したことから始まる。釈然としないタペンスはそのことについて調べ始める。日常に出会うちょっとした疑問を追求するうちに日常から少し外れた事件に出会う。
トミーとタペンスシリーズはそのパターンが多い。

中でもクリスティー女史晩年のこの作品は日常と非日常の対比が色濃く出ていておもしろかった。

(2018.10.8)


---不器用な愛---

by 風間一輝

by 風間一輝「不器用な愛」

「不器用な作家」風間一輝独特の短編小説が9編収められている。「男たちは北へ」の作家である。

「男たちは北へ」の解説書みたいな本である。特に「疾走」や「国道4号線」は共通する人物が出てくる。その他の作品「湖畔亭の客」「夜行列車」「されど卑しき道を」も「男たちは北へ」の挿話として使える。

いろいろな職業をやり、4〜5冊の本を書いて56才で逝ってしまったひとりの男は結局1冊の本を書けば満足だったのではないか。


(2018.10.5)


---ショパンに飽きたら、ミステリー---

by 青柳いずみこ

by 青柳いずみこ「ショパンに飽きたら、ミステリー」

著者はフランス文学の翻訳者青柳瑞穂先生のお孫さんである。職業はピアニスト、エッセイストである。

本書は著者唯一のミステリー案内書である。ピアニストだけに音楽に関するミステリーが多く選ばれている。

普通のミステリーでも著者独特の読み方をしているものがあり、新しい発見だった。例えばモーリス・ルブランのルパンもの「三十棺桶島」の解釈やコナン・ドイルのホームズもの「緋色の研究」の解釈など今まで誰もしていなかったのではないだろうか。

赤川次郎や内田康夫、西村京太郎のような軽いミステリーを取り上げているかと思うとバルザックの「領主館」やアーサー・マッケンの「パンの大神」のような珍しい作品も取り上げている。縦横無尽のミステリー案内となっている。

著者の紹介で筆者が読んでみたいと思ったのは、ジャック・ヒギンズの「暗殺のソロ」、紀田順一郎の「古本屋探偵の事件簿」、中津文彦の「『乾山』真贋の殺人」、エラリー・クイーンの「靴に棲む老婆」である。

(2018.10.4)


---虚栄の館---

by 梶山季之

by 梶山季之「虚栄の館」

この本はもともと1964年にサンケイ新聞から出版された。それを徳間文庫が1988年に再出版した。現在は絶版になっている。

梶山季之の著書は山口瞳とか結城昌治とか松本清張と似通ったところがある。一口でいうと昭和の雰囲気といったものがある。

昭和30年代の日本には独特の雰囲気があった。池田勇人内閣がとなえた「所得倍増政策」という名の高度成長政策が一番盛んな時代であった。官民そろってそれに邁進した結果給料はどんどん上がった。生活もどんどん豊かになった。反面切り捨てていったものもある。環境や弱い者への配慮、人権などが切り捨てられていた。

そういう時代のど真ん中で通奏低音として経済を置き、その上に人間のドラマを乗せていくという小説を書きまくって成功した作家が梶山季之である。梶山自身時代の渦に巻き込まれて膨大な量の小説を書きまくった挙げ句45才の若さで亡くなっている。

本書には8編の短編が収められている。共通の主人公は津村公という得体の知れない男である。津村は毎回高額の報酬で客の要望を叶えてやる。依頼の内容は会社の乗っ取りだったり、人材の引き抜きだったり多岐にわたるがいずれも経済活動によって生じた問題の解消が主体になっている。

かといって硬い内容ではなく、お色気あり、騙し合いありの娯楽小説になっている。バカバカしくなる一歩手前で読み進めることができるのは梶山の情報量の豊かさと的確に時代を読む鋭さによるものだろう。

(2018.10.3)


---宿命〜警察庁長官狙撃事件捜査第一課元刑事の23年---

by 原 雄一

by 原 雄一「宿命」

「未成年」がしんどくなってきたのでしばらく休憩し、別の本を読むことにした。

本書「宿命」は通っているスポーツクラブでたまたま見たテレビで知った。NHKで著者原雄一さんのドキュメンタリーをやっていた。内容は國松長官を撃った真犯人を突き止めた。彼の名は中村泰といい、現在別の罪で岐阜刑務所に収容されている。刑期は無期懲役。87歳という年齢から死ぬまで刑務所ぐらしである。ただ彼は別の殺人事件で刑を努めているが國松長官狙撃事件では訴えられていない。何故か。次週それをもとにしたドラマを放映するという。

狙撃事件が起こった直後から犯人はオウムだ、とされていて自分も含めて国民全体もそう思っていた。オウムの悪逆非道なやり方が次々と明らかにされていた時期だったのでこれもそうだろうと思っていた。

原雄一さんも捜査本部の担当刑事としてそう考えていた。だが操作を進めていくうちになにか違うのではないかと思い始めていた。数年後別件で逮捕されていた中村泰を調べていくうちに彼がやったのではないかという気が芽生え、徐々にそれが確信になっていく。

本書を読んでこれだけ証拠を集めながらなぜ中村泰が逮捕されないのかという疑問が浮かぶ。そこに浮かんでくるのが警察庁の中の公安部と刑事部という二つの組織である。題名の「宿命」とはそのことを指している。

読み進むうちに徐々に明らかになってくる狙撃犯中村泰の数奇な経歴と興味深い人柄。原刑事とともに彼のことを探っていくうちに読者である我々ものめり込んでいく。ニーチェのことばに「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである」というのがある。原雄一さんとともに自分も「深淵を見入」っていた気分であった。

(2018.10.2)


---謎とき『悪霊』---

by 亀山郁夫

by 亀山郁夫「謎とき『悪霊』」

江川卓の「謎とき『罪と罰』」以来「謎とき」ものは次々出版されている。亀山郁夫の本書は江川卓が執筆途中で亡くなったので出版社に依頼されて書いたものだそうだ。

筆者としては江川卓先生に「謎とき『悪霊』」「謎とき『未成年』」を執筆していただき、ドストエフスキーの5大長編の「謎とき」を完成させてほしかった。

本書は亀山郁夫が調べたドストエフスキーの遺稿から完成作品の隠された意図を想像するという形になっている。遺稿や資料に基づいているので江川卓のようにアクロバティックな想像力を働かせたりはしない。

「悪霊」の主人公はあくまでスタヴローギンであり、ピョートルとステパンの親子は脇役に過ぎないという立場をとっている。一般論としては当然であり、世界中の研究者もそう考えている。

筆者は誰かによって語られるスタヴローギンと実際に目の前で活動するスタヴローギンとの違いが大きく主人公としては物足りないと考えている。むしろピョートルとステパンの親子のほうが現代の病理学的な意味で面白い。

世界中の研究者はショッキングな「スタヴローギンの告白」の章に目をくらまされているのではないかと思っている。スティーブン・キングやトマス・ハリスを日常的に読む現代の研究者に「悪霊」の謎を解いてもらいたい。

(2018.9.19)


---死刑にいたる病---

by 櫛木理宇

by 櫛木理宇「死刑にいたる病」

死刑囚で一生拘置所から出られない男が外部の者をあやつって何事かをするというシチュエーションはトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」で有名である。

本書は同じ試みをして読者を退屈させないばかりか次から次へとページをめくらせることに成功している。

成功の原因は死刑囚がレクター博士同様魅力的であるからである。彼に嫌悪感を感じたら小説を読み進めることは困難になる。
冷静に考えると嫌悪感を感じないわけには行かないのだが、著者はそれを巧みにマスキングしている。まあレクター博士にも同じことが言えるわけだし…。

つぎに死刑囚が外部の者をどういう手段であやつるか、という手口が見事である。ここが不自然だとやはりそれ以上小説を読み進めることはできない。

「死刑にいたる病」という題はキエルケゴールの「死にいたる病」からとったようだが、題材にピッタリのタイトルだと思う。

(2018.9.18)


---セロニアス・モンクのいた風景---

by 村上春樹

by 村上春樹「セロニアス・モンクのいた風景」

天才ピアニスト、セロニアス・モンクに関係のあったひとびとが雑誌等に寄稿した文章を村上春樹が拾い集めて翻訳し一つの本にした。過去村上春樹が発表した文章も入っている。

これを読むとセロニアス・モンクというピアニストはもっと評価されていい人物だと思えてくる。少なくともマイルスやコルトレーン並みに。というものマイルスやコルトレーンやロリンズが脱皮してジャズ・ジャイアントになる直前にモンクの指導を受けているからだ。彼らの素質をモンクは的確に見抜き指導しているのだ。

この本を読んでからモンクのレコード何枚か聴いた。ピアノの音はいずれも唯一無二、過去にも現在にも存在しないモンクだけの音であり、曲想であった。

あまりにも変人であったために最期まで不当に扱われていた生涯はモーツァルトにも匹敵する。現在ジャズ・ジャイアントの一人として評価されているモンクであるが、さらにもっと評価されるべきひとであると思った。

最期に著者村上春樹が推薦するモンクのレコードが5枚紹介されていた。「5 by MONK by 5」「UNDERGROUND」「WE SEE THLONIOUS MONK」「THLONIOUS MONK SOLO」「MILES DAVIS ALL STARS VOL.1」の5枚であり、「THLONIOUS MONK SOLO」だけ持っていた。

(2018.9.17)


---夜になると鮭は…---

by レイモンド・カーヴァー

by レイモンド・カーヴァー「夜になると鮭は…」

1988〜89年、中公文庫で出版された2冊の本「僕が電話をかけている場所」と「夜になると鮭は…」は村上春樹がはじめて日本に紹介した作品集である。

著者のレイモンド・カーヴァーは村上春樹が日本に紹介した中で最も重要な作家である。

本書に収められた短編は「羽根」「雉子」「ヴィタミン」「クリスマスの夜」「犬を捨てる」「二十二歳の父の肖像」と詩3編。カーヴァーの短編集の中から村上がこれはと思って選んだ作品たちである。

どの作品を読んでもそこには負の感情を持つ登場人物がいる。彼らの立場に自分をおいてみると自分もそう考えるだろうなと思う。どの物語の中にも負の自分がいることに気付かされる。

カーヴァーの小説は読者にとって口当たりの良いものではない。だが時にはそういうものに身を浸してみたくなることがある。

(2018.9.14)


---太宰治の辞書---

by 北村薫

by 北村薫「太宰治の辞書」

「朝霧」から13年、「円紫さんと私」シリーズの復活である。

おなじみ高野文子の表紙の絵もすっかり中年の主婦になっている。「空飛ぶ馬」で登場したときの"私"はほやほやの大学生という感じだったのに。

今回の私はすっかり編集者家業が板についている。挑戦するのは太宰治。彼の「女生徒」をめぐるあれこれ。大真打ちとなった円紫さんも登場する。だが今回は円紫さんに相談するような難しい謎はない。

調べ魔、北村薫が調べた太宰の「女生徒」にまつわるあれこれを愉しむだけの小説になっている。

それだけでは物足りないと思う読者に対して「白い朝」という掌編が用意されている。20ページほどの作品だが何回も読み返したくなるほど後味が良い。日常の何気ない謎も、それが解き明かされたときの驚きも良かった。

シリーズを最初から読み返したくなった。

(2018.9.13)


---悪霊---

by ドストエフスキー

by ドストエフスキー「悪霊(上)」 by ドストエフスキー「悪霊(下)」

5大長編のうち「罪と罰」「白痴」についで3番目に発表された作品である。

ドストエフスキーの犯罪シリーズの第3冊目である。「罪と罰」はラスコーリニコフによる老婆とリザヴェータの2重殺人。「白痴」はロゴージンによるナスターシャのストーカー殺人。そして本書はピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーによるレビャートキン兄妹、フェージカ、シャートフ殺し。ローザは群衆になぶり殺しにされ、キリーロフとスタヴローギンは自殺する。また「スタヴローギンの告白」という章でマトリョーシャという少女が自殺する。

ちなみに「未成年」には殺人は出てこない。最後の長編小説「カラマーゾフの兄弟」には父親殺しという大きなテーマが描かれている。

こうしてみると「悪霊」には一番多くの殺しが登場する。そのほとんどすべてに関係しているのが本書の副主人公ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーである。ほとんどの解説書では主人公はスタヴローギンとされているが、筆者は本書の主人公はピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと彼の父親ステパン・ヴェルホーヴェンスキーだと思っている。

本書のテーマは共産主義革命を信じる最小分子が犯す犯罪についての考察であり、それを指導するのがピョートル・ヴェルホーヴェンスキーである。また最小分子の構成員たちに思想的根拠を与えたのがピョートルの父親ステパン・ヴェルホーヴェンスキーである。

ピョートルとステパンの特異な性格をドストエフスキーは見事に描ききっている。ふたりとも心理学的にはパーソナリティ障害である。ピョートルは典型的なアスペルガー、人の気持ちを察することができないひとであり、ステパンはADHD=発達障害、精神的におとなになりきれないひとである。

それに比べると一般的に本書の主人公とされているスタヴローギンは人間としての輪郭がぼやけている。精力絶倫かと思うと不能でもあり、サディストかと思うとマゾヒスト的なところもある。以前はこうであったと誰かが語るスタヴローギンと実際に目の前で活動するスタヴローギンとの違いが大きすぎるのだ。これも海千山千のドストエフスキーによる企みかもしれないのだが。

(2018.9.12)


---円朝ざんまい---

by 森まゆみ

by 森まゆみ「円朝ざんまい」

明治時代に生きた落語家、三遊亭圓朝。

彼がいなければ「芝浜」「死神」「文七元結」という今盛んに高座にかけられている演目が、「心眼」「鰍沢」「黄金餅」のようなたまには聴いてみたい落語が、そして「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」のような夏には欠かせない怪談噺がこの世に存在しなくなってしまう。古典落語の魅力がかなり削がれてしまう。

「谷根千」の編集者森まゆみが円朝全集をもとに円朝がたどった旅をなぞりながら彼が作った噺を考察する。森まゆみによると円朝はジャーナリストのような人で噺の舞台になる場所を正確にトレースしながらそこに自分の作ったキャラクターをのせていくという手法をとったらしい。

「真景累ヶ淵」のような主人公が東京、埼玉、栃木、群馬、千葉にかけて広範囲に移動する噺も円朝は丹念に足で歩いて舞台を決めていった。羽生村のシーンや松戸の寺で大団円を迎えるシーンのリアルさは円朝の緻密な取材から成り立っている。

この本を読むと先にあげた古典落語の名作を聴く上でひとつ厚みが増したような気がする。

(2018.8.18)


---虐げられた人びと---

by ドストエフスキー

by ドストエフスキー「虐げられた人びと」

初期の作品ではあるがドストエフスキー特有の登場人物が出てくる。中でも準主役のピョートル・アレクサンドロヴィチ・ワルコフスキー公爵は「罪と罰」のスヴイドリガイロフ、「悪霊」のスタヴローギン、「未成年」のヴェルシーロフの系譜に所属する悪魔的人物で興味深い。ワルコフスキー公爵がナターシャを前に繰り広げる本音は身震いするほど悪魔的だ。

本作品は公爵の息子アリョーシャ、落ちぶれた貴族の娘ナターシャ、金持ちの貴族の娘カーチャが繰り広げる三角関係の恋愛話と語り手の作家イワン・ペトローヴィチ(ワーニャ)と14才の孤児ネリーの話が並行して語られる。

ナターシャとカーチャの間を行ったり来たりする優柔不断なアリョーシャ。なんでこんな優柔不断な男を取り合うのだろう、と思うのだがドストエフスキーは作中でその答えを述べている。アリョーシャは永遠の子供であり、女たちはその子供の部分を愛するのだ、と。アリョーシャの行動を表す心理学用語がある。アスペルガー症候群である。

もう一つの話、ネリーの話を黒澤明は映画にしている。「赤ひげ」である。「赤ひげ」に出てくる「おとよの話」はそっくり「ネリーの話」である。 おとよ=ネリーを演じているのは14才の二木てるみ、遊女屋の女将=ブブノワを演じたのは杉村春子であった。この二人の迫真力のある演技は映画に力を与えていた。二木てるみは最年少の助演女優賞を得ている。

本作品の題名が「虐げられた人びと」のようなセンチメンタルな題名ではなく、「悪霊」とか「白痴」のように漢字二文字だったら五大長編でなく六大長編といわれていたかもしれない。

(2018.8.16)


---廃墟の唇---

by 黒岩重吾

by 黒岩重吾「廃墟の唇」

昭和30年代のテレビドラマの世界である。もちろん主演は天知茂。

弱小医薬品メーカーの社長が主人公。彼の周りに渦巻く陰謀、終戦後の進駐軍と日本政府の謀略。

ハードボイルド小説ともスパイ小説とも企業謀略小説とも取れる内容。

主人公に絡む女性たちはテレビドラマでは上月佐知子(あきら)、緑魔子、野川由美子、宮城千賀子、加藤治子、沢たまきという豪華メンバーであった。

文庫本700ページでたっぷりと謀略の世界に浸れた。

(2018.8.1)


---白痴---

by ドストエフスキー

by ドストエフスキー「白痴」 by ドストエフスキー「白痴」 by ドストエフスキー「白痴」

「白痴」は2組の三角関係から成り立っている。1組は金持ちの囲いものだったナスターシャと将軍令嬢のアグラーヤがムイシキン公爵を奪い合う物語。もう1組は育ちは悪いが金持ちのロゴージンとムイシキン公爵がナスターシャを奪い合う物語である。2組の男女がいるのだからそれぞれに別れればいいのに、と思うのは男女の機微がわからない唐変木である。

こういう話ではラストはハッピーエンドになるはずがない。ナスターシャの死体を前にしてロゴージンとムイシキンが抱き合いながら一晩を過ごすという印象的なシーンで終わっている。2組の三角関係と1組のボーイズラブの話であったのかもしれない。ドストエフスキーのたくらみは深い。

同じテーマの話をトルストイが書くと勧善懲悪の「アンナ・カレーニナ」になってしまう。その50年前にイギリスのジェーン・オースティンは牧歌的な「高慢と偏見」を書いた。ドストエフスキーの男女関係は行き着くところまで行っていて常人では体験することはできない。

作品の構成は以下のようになっている。ほとんどそれぞれの家や別荘の中での出来事であり、題材の過激な割には家庭劇の形を採っている。ブラックな「高慢と偏見」である。

第1部
・スイスからサンクト・ペテルブルクへの汽車の中  ムイシキン、ロゴージン、レーベジェフと会う。
・エパンチン将軍邸  ムイシキン、エパンチン将軍の家族と会う。
・ガヴリーラの家  ムイシキン、カヴリーラの家族と会う。  そこへナスターシャ・フィリッポヴナが訪れる。  そこへロゴージンとその仲間たちが訪れる。
・ナスターシャ・フィリッポヴナの家  誕生パーティに主要な人物が招待されている。  そこへムイシキンが訪れる。  さらにロゴージンとその仲間たちが訪れる。  ナスターシャ、ロゴージンと一緒に出ていく。

第2部
・6ヶ月後、ロゴージンの家でムイシキンとロゴージンの会話。
・ムイシキン、ホテルで帰国後初めて癲癇の発作。ロゴージンのナイフの幻想。
・レーベジェフの別荘で全員集合。
・イッポリート登場。

by 黒澤明「白痴」

第3部
・エパンチン家の別荘。
・レーベジェフの別荘。
・イッポリートの弁明。
・公園でのアグラーヤとムイシキンの会話
・ふたたびエパンチン家の別荘。

第4部
・エパンチン家の別荘。
・レーベジェフの別荘。
・ロゴージンの家。

ちなみに黒澤明はナスターシャ→原節子、ムイシキン→森雅之、ロゴージン→三船敏郎で白痴を映画化している。ドストエフスキー好きの黒澤は原作の雰囲気を見事に映画で表現していた。ナスターシャ(原節子)の死体のわきで気が狂っていくロゴージン(三船敏郎)の顔や頭を撫でながら自らも気が狂っていくムイシキンの役をやった森雅之の演技は鬼気迫っていた。

観てから読むか、読んでから観るか。名作といわれる作品は本だけでなく映画でも堪能したい。

(2018.7.24)


---赤ひげ診療譚---

by 山本周五郎

by 山本周五郎「赤ひげ診療譚」

「赤ひげ診療譚」は8編の短編からなっている。現存したといわれる小石川養生所を舞台に所長の赤ひげこと新出去定と若い医師保本登とのふれあいを描いた物語である。読むきっかけは最近黒澤明監督の映画「赤ひげ」を観て原作はどうなっているのか知りたくなったからである。

映画は原作の精神を忠実に描いていた。また、映画は原作のあるエピソードとあるエピソードをつないだり、脚本家の想像力で膨らませたりしていた。

ちなみに膨らませていたのは佐八とおなかのシーンとおとよと長坊のシーンである。

佐八とおなかの物語は原作では火事がもとでおなかが去っていくのだが、映画ではそれに地震を加えて迫力のあるシーンにしている。破壊された江戸の町を桑野みゆき扮するおなかが呆然と彷徨う姿はこの映画の中で最も印象的なシーンである。

原作ではおとよと長坊は会うことはないが、映画ではこの二人を会わせることによってよりドラマチックなエピソードにしている。おとよを演じた時14才だった二木てるみはブルーリボン賞の助演女優賞を最年少で獲得した。

by 黒澤明「赤ひげ」

三船敏郎演じる新出去定と加山雄三演じる保本登は原作のイメージそのままだった。映画で唯一のアクションシーンは遊郭の用心棒7、8人と新出去定が素手で闘うもので、これは黒澤監督の観客へのサービスだろうと思っていたが原作にも同じシーンがあった。用心棒たちをさんざん痛めつけた挙句手当てをしてやり、「医者がこんなことをしてはいけない」という去定の反省の言葉もそのままだった。

観てから読むか、読んでから観るか。というのは角川映画のキャッチコピーだがそれよりずっと以前の黒澤映画で同様のことをやっていた。こちらは映画も本も本物の名作である。

(2018.7.15)


---ロートレック荘事件---

by 筒井康隆

by 筒井康隆「ロートレック荘事件」

昨年9月3日にUPした「このミステリーがひどい!」を最近読み返してみた。内容をほとんど忘れていて楽しんで再読した。古今東西のミステリー作品をけなしていて小気味いい。
なにしろシャーロック・ホームズからアガサ・クリスティからエラリー・クイーン、松本清張から森村誠一から宮部みゆきに至るまで軒並みけなしているのだ。

じゃあどんな物なら筆者のメガネにかなうの? 最後の章に著者の選ぶミステリーが書いてある。
1位「天使の傷痕」と「ロートレック荘事件」、3位「硝子のハンマー」、4位「殺す者と殺される者」、…。7位まで7冊の本の題名が書かれているがいずれもホームズ物やクリスティに比べて、へーーそうなの? 、と思うものばかり。

by 小谷野敦「このミステリーがひどい」

それでもそういうならと西村京太郎の「天使の傷痕」を借りてきて読んで見た。西村らしい軽くて格調に欠ける文章。ご都合主義な内容。なんだこれは。推理小説を何百冊も書きまくった西村京太郎の粗製乱造ものではないか。途中下車した。

ということで筒井康隆の「ロートレック荘事件」である。筒井康隆なら初期の作品をほとんど読んでいる。間違いはないだろう。

と読み始めたがなんとも読みづらい。主語がはっきりせず、人と人との立ち位置がよく掴めない。なんか変な文章だなと思った。

それでも読み進んでいくうちに登場人物の性格が分かり始め、面白くなってきた。これがホームズものより名作になるの? と思いつつも。

by 西村京太郎「天使の傷痕」

結局読みはじめた時に感じた違和感がこの本の肝であることがわかった。ワンアイデアの際物に近いミステリーであった。

小谷野氏はどうしてクリスティをけなせるんだろう? 「このミステリーがひどい!」は古今東西のミステリーをけなしまくった面白い本だが、この本そのものが際物であるということを暴露している。

ミステリーの評論というのは人それぞれの見方があるので面白い。だれでも自分が面白いと思ったものが一番だと思っている。

最近の読書では筆者はウイリアム・アイリッシュの「幻の女」とドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいる時が一番胸がドキドキした。

(2018.6.24)


---最後の証人---

by 柚月裕子

by 柚月裕子「最後の証人」

「検事の本懐」「検事の死命」の作者柚月裕子の長編2作目である。本書が書かれたのち検事時代の佐方貞夫シリーズが書かれたことになる。

本書での佐方は中年のヤメ検弁護士である。ヨレヨレのワイシャツとボサボサ頭は若い頃のままである。

佐方という名字は発音するとサカタで、筆者の感覚では坂田または阪田が普通である。たまに酒田という名字に出会うこともある。違和感があった佐方という名字も3冊目になると自然に頭に入ってくる。

弁護士佐方が引き受けた事件は痴情のもつれからくる単純な殺人事件。容疑も明確で間違いようがない。この容疑者を弁護して助けることができるのか。

容疑者を救うことは不可能に思える事件を佐方はどうあつかうのか。作者はミスディレクションを駆使して読者の頭を混乱させる。最後の最後にわかった真実は…。

「俺の正義は罪をまっとうに裁かせることだ」と検事時代の佐方はいう。弁護士になった佐方がその言葉どおりに依頼人を救うことができるのか。長編2冊目でこの難しい作業を成し遂げた柚月裕子はすごいと思った。

(2018.6.17)


---検事の死命---

by 柚月裕子

by 柚月裕子「検事の死命」

検事の本懐の続編である。27、8才の若い検事を主人公にした前作が面白かったので図書館から借りた。

「心を掬う」「業をおろす」「死命を賭ける」「死命を決する」の4編からなっている。

「死命を賭ける」と「死命を決する」は2編を合わせて一つの物語になっていて中編といえる。前作で国家公務員による贈収賄という巨悪と戦った佐方が本作では電車内での痴漢という小さな悪と戦う。

佐方は大きな悪も小さな悪も同じように全力で戦う。

あの手この手を使って言い逃れをする容疑者と法廷で争う佐方。最後のどんでん返しが鮮やかに決まって溜飲が下がった。

検事佐方貞人ものは前作と本作のみである。残るは弁護士佐方貞人ものが1冊あるのみである。

(2018.6.16)


---近代能楽集---

by 三島由紀夫

by 三島由紀夫「近代能楽集」

観阿弥、世阿弥が作った能の世界を現代によみがえらせようとした連作短編集である。

「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」「道成寺」「熊野」「弱法師」、それぞれ元の話は知らない。三島由紀夫は現代の言葉使いで現代に生きている者としてそれぞれの話を作った。

戯曲であるから話し言葉だけで物語は進んで行く。

はじめの数行のセリフで容易に話の中身に入り込むことができる。三島の文章力は見事である。

それぞれドキドキするような話である。「卒塔婆小町」と「道成寺」に物語のキレの鋭さを感じた。

「葵上」は源氏物語の六条御息所が生き霊になるくだりだが、換骨奪胎して見事に現代の話にしている。

(2018.6.14)


---検事の本懐---

by 柚月裕子

by 柚月裕子「検事の本懐」

27、8才の若い検事を主人公にした連作短編である。

第一話「樹を見る」はある街の上級警察官同士の鍔迫り合いから始まる。主人公の検事佐方はなかなか出てこない。これは警察小説かな、と誰にも思わせたところで登場する。
登場するやいなや物語の主導権を握ってしまう。鮮やかな登場ぶりである。事件に対する読みが的確で説得力がある。

第二話「罪を押す」では窃盗の常習犯が犯した罪を鮮やかなどんでん返しでひっくり返す。

第三話「恩を返す」では佐方の過去の友人からの頼みを受けて個人的に事件に取り組む。青春時代の佐方の生活が明らかになる。

第四話「拳を握る」では公務員の贈収賄を暴く。ただし国家権力の前に苦い思いも味わう。

第五話「本懐を知る」は佐方の父親の話。弁護士だった父親は業務上横領の罪で実刑判決を受ける。甘んじて刑に服し、刑務所で病死した父親の実の姿は…。真実を探る新聞記者が主人公。佐方は後半少ししか出てこないが鮮やかに場面をさらってしまう。涙無くしては読めない。

(2018.6.12)


---罪と罰---

by ドストエフスキー

by ドストエフスキー「罪と罰(上)」 by ドストエフスキー「罪と罰(下)」

10年ぶりの「罪と罰」である。

読んだ年代によって以前とは違う箇所に感動を覚えたりするのが古典の良いところである。

本書を初めて読んだのは中学生だった。よく言われることだが世界が違って見えたほどショックを受けた。

今回は登場人物たちを身近に感じた。

神経症のようなラスコーリニコフは自己中心的な坊ちゃんのように思えたし、その母親プリヘーリヤは老婆のように感じたものだがよく読むとまだ45才である。金貸しのババアにいたっては60才前後と筆者より若いのには驚いた。

悪魔の化身とも思えたスヴィドリガイロフでさえ自分の分身のように感じた。

中学生の時は魑魅魍魎(ちみもうりょう)のように思えた小説の世界が50年後にはごく普通の人間たちのように見えるとは。自分の目が世間の汚濁を見慣れてしまったせいか。

本書の構成に以下のようになっている。

第1部
  • 自室から老婆の家まで730歩。
  • 自室の端から端まで6歩、中に半分ほど占めるソファ(兼ベッド)、椅子3、机1、小さいテーブル1、天井は頭に使えるほど(2m程度か)
  • 居酒屋でマルメラードフと会話、酔い潰れたマルメラードフを家まで送り金を置いてくる。
  • 母プリヘーリヤからの手紙。
  • ペトロフスキー島で昼寝。百姓馬の夢。
  • 別の居酒屋で大学生と士官の会話を聞く。老婆を殺す計画と理由。
  • 老婆とリザヴェータを殺し、自室に戻る。
  • 第2部
  • ラスコーリニコフ警察へ行き、失神。
  • ラズミーヒン登場。
  • マルメラードフの死。
  • マルメラードフの家族と会う。
  • 第3部
  • 母と妹ドーニャが来る。
  • ポルフィーリイと会う。
  • スヴィドリガイロフ登場。
  • 第4部
  • スヴィドリガイロフとの会話-1。自問自答のよう。
  • ソーニャとの会話-1。自問自答のよう。
  • ポルフィーリイとの会話-1、鋭い追求と我慢の受け。
  • 第5部
  • ルージンとレベジャート二コフの興味深い会話。
  • カテリーナ・イワーノヴナの法事での大騒ぎ。
  • ソーニャとの会話-2、告白。自問自答のよう。
  • カテリーナ・イワーノヴナの死
  • 第6部
  • ポルフィーリイとの会話-2。
  • スヴィドリガイロフとの会話-2。
  • ドーニャとスヴィドリガイロフとの会話。
  • スヴィドリガイロフの悪夢と死。
  • ラスコーリニコフの自首。
  • エピローグ
  • ラスコーリニコフの改心。

  • 勘違いしていたことがある。

    ラスコーリニコフの部屋は「部屋というよりは納戸に近かった」と書かれているように小さくて穴蔵のような部屋だと思っていた。
    だが第1部で「自室の端から端まで6歩、中に半分ほど占めるソファ(兼ベッド)、椅子3、机1、小さいテーブル1、天井は頭に使えるほど(2m程度か)」と書かれている。端から端まで6歩だと日本の普通のマンションのリビングくらいの大きさである。病気のラスコーリニコフを囲んでプリヘーリヤ、ドーニャ、ラズミーヒン、ゾシーモフ、ソーニャ、ナスターシャ、ルージンの7人が入れるのだから決して狭い部屋ではない。

    ラスコーリニコフは小柄で腺病質で神経質な人間だと思っていた。
    しかしドストエフスキーはこう書いている。「彼は黒い目がきれいにすみ、栗色の髪をした、おどろくほどの美青年で、背丈はやや高く、やせ気味で、均整がとれていた」。「カラマーゾフの兄弟」のイワンを連想する容姿である。作者の頭の中ではラスコーリニコフがイワンになったのかもしれない。このふたりは容姿だけでなく世間に対するシニカルな態度が似通っている。

    ショックなシーンがある。

    ラスコーリニコフの部屋に初めてスヴィドリガイロフが現れるシーンである。
    まるで地獄の底から亡霊が現れたかのようである。

    そしてドーニャとスヴィドリガイロフの会話、というより対決のシーンである。
    手に汗握るというのはこのことである。ドーニャが部屋から逃れ出た時はホッとして脱力感におそわれたほどである。

    スヴィドリガイロフが深夜、安宿の寝床で見るネズミと少女のシーンは怖い。
    そして早朝のピストル自殺。フィルム・ノワールの1シーンを観るかのようである。

    アル中の下級官吏マルメラードフの壮大なグチ。

    カテリーナ・イワーノヴナのみじめな死。

    ポルフィーリイの陰湿で執拗な追求。

    見どころ、読みどころ満載の小説である。

    (2018.6.8)


    ---表象詩人---

    by 松本清張

    by 松本清張「表象詩人」

    中編2編が収められている。「山の骨」と「表象詩人」である。

    「山の骨」は変わった構成になっている。作家が数年の間隔をおいて起こった事柄を考察する。考察していくうちにまるで関係のないと考えられた事件が一つのストーリーの中に当てはまってくる。

    最後に全体を見通すことができた読者は人間の弱さ、はかなさについて考えざるを得なくなる。

    「表象詩人」は清張が若い頃住んでいた小倉が舞台になっている。20才を過ぎたばかりの清張を思わせる語り手が同年代の友人二人と文学サークルのような付き合いをしている。友人の先輩に東京から来た若妻がいて三人の若者たちは彼女に惹かれている。作者の青春時代を語るように話は進んでいく。

    盆踊りの番、先輩の奥さんが殺されたことから小説はミステリーの世界に入っていく。

    40年後、老人になった二人の登場事物はひなびた温泉に行く。そこで語られる真実は…。

    青春のひとこまを語りながらじわじわとミステリーの雰囲気に持ち込んで行く。清張の手際が際立つ一冊である。

    (2018.5.25)


    ---鴎外の婢---

    by 松本清張

    by 松本清張「鴎外の婢」

    中編2編が収められている。「鴎外の婢」と「書道教授」である。

    「書道教授」は犯人側から事件を描く、いわゆる倒叙ものである。バレそうでバレないが、思わぬところからバレる。最後はハラハラドキドキする。

    「鴎外の婢」は清張の好きな歴史ものである。作家が森鴎外の婢、女中を調べる。すると意外な事実がわかる。鴎外という人は女中運に恵まれない人で、盗癖があったり男に貢いでいたり雇う人のことごとくがハズレであった。

    その中でモトさんという女中のことを調べ始める。すると子孫が九州の行橋市にいることがわかる。行橋市というところは邪馬台国があったのではと言われているくらい遺跡の多い土地である。

    女中の末裔を追いかけているうちに日本の古代史とも関わりを持ち始める。どこまでが史実でどこからが虚構かわからないほどよくできたミステリーである。

    (2018.5.22)


    ---球形の荒野---

    by 松本清張

    by 松本清張「球形の荒野(上)」 by 松本清張「球形の荒野(下)」

    松本清張は題名の付け方がうまい。この本を初めて手に取った読者は「球形の荒野」とはなんのことだろうと思うはずである。

    昔、世の中の仕組みを知らない時に本書を読んだ。その時は一種のSFとして読んだような気がする。

    年月を経てからあらためて読んでみるとこれは推理小説というよりも隠された日本の戦後史である。

    冒頭、登場人物がJR西ノ京駅で降りて薬師寺から唐招提寺を参拝するシーンがある。この道は筆者も何回か通った道なのでリアルに小説を読むことができた。

    唐招提寺の門を通ってすぐ右側の土産物屋で芳名帳を見たことから物語は動き出す。見事な導入部から戦後の裏面史に入り込んでいく。

    (2018.5.19)


    ---巨人の磯---

    by 松本清張

    by 松本清張「巨人の磯」

    松本清張は題名の付け方がうまい。この短編集には5編の小説が収まっている。それぞれ「巨人の磯」「礼遇の資格」「内なる線影」「理外の理」「東経139度線」と気になる題名である。

    題名が独特なら主題の発想も独特である。どういう風にしたらこのような発想が出るんだろう。しかもその数が膨大である。

    「理外の理」は落語や講談の幽霊話のような題材を現代の出版界に置き換えるという構成にしている。

    東経139度線を卑弥呼に置き換えるなど、時には無理矢理に取ってつけたような構成もあるのが清張文学の特徴である。

    我々が清張文学を読むのはあっと驚くトリックではなく人間の、男と女の情念を垣間見たいからである。

    (2018.5.12)


    ---ゼロの焦点、Dの複合---

    by 松本清張

    by 松本清張「ゼロの焦点、Dの複合」

    松本清張の初期の代表作が収められている。全集の中の一冊である。

    全集の端本を古本屋で買うとそれほど汚れていないのに安い。本書も100円で購入した。清張の代表長編が2作読めてこの価格は安い。

    「ゼロの焦点」は探偵役が女性である。清張の膨大な推理小説群の中で探偵役を女性がやるのはかなり珍しいのではないか。

    時代の流れに翻弄されながらも必死に生きる男と女。清張独特の暗い流れを堪能するにはもってこいの小説である。

    「Dの複合」は変わった題名だ。小説の中で登場人物が説明するが少しこじつけ気味である。それでも小説の題名としてはキャッチーで謎めいていて思わず手に取ってしまう。清張は題名の付け方がうまい。

    羽衣伝説や浦島伝説を追いかけて旅をする小説家と編集者。途中まではパズラー小説と思わされるが後半から清張節全開となる。時代に翻弄される男女の運命は…。

    清張文学は昭和の暗い歴史から離れることはない。

    (2018.5.10)


    ---ジゴロとジゴレット---

    by サマセット・モーム

    by サマセット・モーム「ジゴロとジゴレット」

    モーム傑作選、表題作を含む8編が収められている。

    翻訳者は金原瑞人である。読む前から安心できる数少ない翻訳者の一人である。

    どの作品を採っても傑作でありおもしろい。中でも印象に残ったのは「良心の問題」という作品。

    モーム自身と思われる作家が刑務所を慰問する。そこで妻殺しの罪人と会う。彼は他の罪人とは違い教養もあり上品な様子をしている。

    興味を持った作家は妻を殺したいきさつを尋ねる。妻殺しジャンは親友と一人の女を取り合い、友達を裏切って妻にする。好きだった女を手に入れ幸せになるはずだったジャンは当てが外れたことを知る。

    慎ましく穏やかと思われた妻の性格は実は平凡で教養がなく無神経なだけだった。どうにも我慢ができなくなったジャンは…。

    人は結婚するときに相手の何を見て決断したら良いのか。刑期を終えたジャンは作家にいう。次に結婚するなら金持ちの女とするつもりです。

    「サナトリウム」はアシェンデンものの外伝。結核で寿命が6ヶ月と言われた男が療養所で見初めた女にプロポーズする。女の返事は…。

    「ジェイン」は50才のオールドミス、ジェインが27才の男からプロポーズされる。親友はお金目当てだから断りなさい、と勧める。ジェインは申し出を受けて結婚する。そして…。

    どれも興味深く面白い作品である。

    (2018.5.3)


    ---真景累ヶ淵---

    by 三遊亭圓朝

    by 三遊亭圓朝「真景累ヶ淵」

    落語、講談でおなじみの「真景累ヶ淵」である。

    落語や講談では「宗悦殺し」とか「豊志賀の死」とか「深見新五郎」という有名な場面はやるが全部やることはない。かねがね全体はどうなっているんだろう。と思っていたが古本屋で岩波文庫の「真景累ヶ淵」を見つけ、飛びつくように購入した。

    読んで見ると幽霊じみた話は「宗悦殺し」と「豊志賀の死」くらいで後の90%は物語の発端となる深見新左衛門の次男、深見新吉を中心とするピカレスク・ロマンであった。

    次から次へ人物が登場しその数30名、その半数くらいが因縁で結ばれている。最後に解き明かされる因縁にはアッと驚いた。ミステリーじみた話でもあった。

    中心となる舞台は江戸と栃木県の羽生、千葉県の小金原である。「累ヶ淵」というのは羽生にある鬼怒川の支流のことらしい。物語の最後のシーンの舞台は藤心(ふじごころ)の観音寺というから驚いた。子供達が小さい頃、時々自転車で連れて行ったところだ。

    この本は圓朝の口演を速記者が記録したものである。全97章、460ページ。「宗悦殺し」とか「豊志賀の死」はそれぞれ50ページくらいなものだ。全部口演すると9時間ほどかかることになる。

    どなたかこの日本を代表するピカレスク・ロマンを連続ものとしてやってくれないものか。

    (2018.4.25)


    ---漱石と三人の読者---

    by 石原千秋

    by 石原千秋「漱石と三人の読者」

    著者も漱石好きの学者の一人である。江藤淳を筆頭に漱石好きの学者は徹底的に漱石が好きである。

    テキストの数は限られているのによくもまあ新しい発見があるものだと思う。

    本書における新しい発見は「三四郎」における美禰子の謎についてである。三四郎が初めて美禰子にあった時の池の周りの配置から美禰子の心理状態を推理する。著者はそれを現役東大生にしかわからないことだと断定する。

    筆者も昔からの漱石好きなので「なるほど」と感心するばかりである。

    著者は「虞美人草」を解析し、「彼岸過迄」を解析し、「門」を解析する。

    それではあの作品をどう解析するのだろう、と期待した。

    「坑夫」は通り一遍の分析にとどまっていた。

    筆者は「坑夫」こそ漱石が書いた唯一のハードボイルド小説である、と思っている。まず一人称であること。周りで起こることをあるがままに受け入れ、自分の感情を外に出さないこと。観察力が鋭いこと。

    それらはダシール・ハメットが作り上げたハードボイルド小説の条件を満たしているのではないかと思っている。いつか誰かがそういう観点から「坑夫」を分析してくれることを期待する。

    (2018.4.17)


    ---ロレンス短編集---

    by D.H.ロレンス

    by D.H.ロレンス「新版ロレンス短編集」 by D.H.ロレンス「ロレンス短編集」

    D.H.ロレンスは「チャタレイ夫人の恋人」で有名なイギリスの作家である。1885年にイギリスの炭鉱町で生まれた。

    彼の作品はいずれも土俗的、本能的なものを感じさせる。

    「チャタレイ夫人」は都会的なものを代表する夫と土俗的なものを代表する森番との対比を性をモチーフにして表現した作品であった。

    「新版ロレンス短編集」の13編と「旧版ロレンス短編集」の7編は古い時代のしがらみを解き放ち自由を得ようともがく主人公のことが書いてある。

    「旧版ロレンス短編集」の7編のうち4編が新版とダブっている。翻訳者によって作品がどのように変わるかがわかって興味深かった。

    旧版の翻訳はまるで英語を習いたての高校生が訳したようで文学作品としては読めないような代物(しろもの)であった。

    「長年の、生涯に亘る習慣の鉄のような深いリズム、深く打ち下ろされた力である」とか「渡船は、光の窓の列を積んだ大きな皿の様に、未だハドソン河を曲線状に横ぎっていた。あの黒い口はラッカワンナ・ステイションに違いない」のような文章が連続すると読み進める気力が薄れる。

    新版はこなれた文章になっていて読みやすかった。

    (2018.4.15)


    ---真夜中の相棒---

    by テリー・ホワイト

    by テリー・ホワイト「真夜中の相棒」

    30年前だいぶ評判になった本である。作者が女性であることと、ゲイが主人公の小説であるということから敬遠した。

    久しぶりに再刊になったので手に取り、パラパラっとめくってから解説を読んだら一行目に「ああ、いい小説だなあと率直に思った。…。こんなにいい小説だったのか…」と書いてあった。

    解説の一行目を読んで購入し、読んでみたら確かにいい小説だった。まず次から次へとページをめくらせる力を持っている。小説ではこれが一番重要である。筋なんかなくてもこれがあればページをめくることができる。

    ゲイらしき者が主人公ではあるが直接的な描写はなく、むしろ人間の根源的なものを表現した小説だと思った。

    原題の「Triangle」とは何を意味するのか途中まではわからなかったが最後まで読んでみてそういうことか、と思った。

    ニーチェの「善悪の彼岸」に、「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」という言葉が載っている。

    「真夜中の相棒」はニーチェのその言葉を小説化した本のように思える。

    (2018.4.1)


    ---レキシントンの幽霊---

    by 村上春樹

    by 村上春樹「レキシントンの幽霊」

    7つの短編が収録されている。村上春樹独特の現実の中に夢を溶け込ませたような作品が6つと現実感のある作品が1つ。

    人を殴ったことがありますか、と問われてしばらく言い淀んだあげく一回だけあると答える。答えた大沢さんは堰を切ったように話し始める。「沈黙」という作品である。

    中学時代の同級生に青木という男がいた。他の友人にとって青木は成績優秀で活発な人気者である。だが大沢さんは青木の嫌なところしか目に入らない。なぜあんな奴がみんなに好かれるんだ?

    この作品だけ他の6つの作品とは違い、ファンタジーがない。実際にあるような話で毒がある。あいつの嫌なところがなぜ他の人にはわからないんだろう、と中学時代の村上春樹は切実に思った。そう思わせる非常に現実的な作品である。

    村上春樹が多くの読者に支持されるのは誰もが無意識のうちに考えていることをこうではないですか? と目の前に差し出してくれるからだと思った。

    (2018.3.25)


    ---幻の女---

    by ウィリアム・アイリッシュ

    by ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」

    「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」。はじめの一行を読んだ途端、一気に小説に入り込んでしまった。

    第1章「死刑執行日の150日前」は若く不機嫌な主人公が夜に入りかけたばかりの繁華街をうろつく。行き当たりばったりに入ったカウンターバーで「幻の女」と出会う。レストランで食事をし、劇場でショーを見る。ショーの後、再び出会ったバーに戻り、乾杯した後別れる。6時間のアバンチュールだ。

    若い頃は夜の街に何かしらの期待感を抱く。ほとんどの場合何事も起こらないが、それでも夜の街に出る。

    主人公のように数時間付き合ってくれる相手がいることなど滅多にない。嬉しいはずなのだがなにしろ妻と喧嘩してきたばかりだ。最後まで相手のことを考えることもなく別れてしまう。

    物語はこのように始まり、主人公は妻殺しの罪で死刑の判決を受ける。死刑執行日はだんだん近づいてくる。自分のアリバイを知っているのは「幻の女」だけ。あと50日、あと10日、あと5日…。頼みの綱は友人と恋人と一人の刑事。いよいよ死刑当日、誰も予想し得なかった結末をむかえる。

    物語は「知らない相手を劇場に連れていったりしてはいけない」という文章でおわる。

    今回数十年ぶりに読み返して、この本はアイリッシュの最高傑作だと思った。

    (2018.3.23)


    ---魔の山---

    by トーマス・マン

    by トーマス・マン「魔の山(上)」

    昨年短編ばかり読んでいた頃物足らなさを感じ始めた。どっぷりその世界に入り込んで呼吸するように読書してみたい。

    そろそろ「戦争と平和」かな。それとも「カラマーゾフの兄弟」かな。そういえばこの読書録に「魔の山」が入っていない。ということは少なくとも6年は読んでいないんだ。

    ということでトーマス・マンの「魔の山」にする。手に取ってみたら30〜40年以前に購入した文庫本なのでページが黄ばんでいる上に文字が小さくて読みにくい。

    新しく購入することにした。新刊は高いので中古本にした。中古とはいっても中身はきれいだ。新刊と変わらない。

    by トーマス・マン「魔の山(下)」

    読み始めたら「その世界に入り込んで呼吸」するにはこの本よりふさわしいものは他にないことに気がついた。

    無垢な青年ハンス・カストルプがスイスのダヴォスにある結核療養所を訪れるシーンからこの長い物語は始まる。

    ハンス・カストルプは療養所に入院しているいとこを見舞うために来た。下界の喧騒に疲れた彼はついでに2〜3週間滞在して休息を取るつもりでいた。

    療養所でのハンス・カストルプの生活がこれから上下巻1,500ページにわたって語られる。

    正月から読み始めた本を読み終えるのに2ヶ月かかってしまった。2〜3週間滞在の予定が結局7年間にわたって滞在することになったハンス・カストルプに比べたらわずかな日数である。

    長い時間がかかったがこの本に退屈することはなかった。ハンスの療養所での生活がいつも新鮮であるようにハンスの目で追体験する読者も新鮮な気持ちで読むことができる。

    ハンスは療養所という特殊な世界にいたがハンスの回りの人々はどこにでもいるような人達で一般社会にいるのと少しも違わない。ハンスに大きな影響を与えるセテムブリーニ、ナフタ、ペーペルコルン、ショーシャ夫人。一般社会にいるのと同じように彼らと付き合う。

    読者はハンスの気持ちが心が徐々に複雑な思考をたどるようになるのを読み取る。本書が成長小説、教養小説といわれるのはそのためであろう。彼らが難しい話をしているわけではないのに哲学的な話を聞いたように感じてしまう。

    ハンスが療養所にいる限りいつまでも終わらない。徐々に下界の不穏な空気がこの山の上にも漂い始める。セテムブリーニとナフタの決闘、そしてナフタの死。

    物語が戦争という破局に向かうに従い、友人知人は少しずついなくなり、ハンスも下界に戻っていく。長い小説は悲劇的な雰囲気を漂わせながら消えるように終わっていく。

    (2018.3.5)


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