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---悩む力---

少し前にベストセラーになった本である。

悩む力 姜尚中著

漱石好きの(カン)さんが漱石とマックス・ウェーバーをとりあげてそれに自分の生い立ちを絡めてどうすれば生きずらい世の中でより良く生きていけるかを説いた本である。

全9章のうち"何のために「働く」のか"と題した章を読んであっと思った。

著者は働く目的を一言、"他者からのアテンションを得るため"と書いている。ここで言うアテンションとは"承認"の意味である。言われてみれば確かにそうで、他人から何の役にも立たないやつだと思われて生きていけるものではない。

自分の存在が何かの役に立っていると思うことで正常の精神状態で生きていけるのだ。何かとは家族でも、近隣でも、被災者でも誰でも良い。

著者はまた、"「変わらぬ愛」はあるか"という章で愛とは…、と一言で書いているが、このことについては時をあらためて述べることにしたい。

(2012.12.24)

---父の詫び状---

何回目かの"父の詫び状"。何回読んでも面白い。

父の詫び状 向田邦子著

娘から見た昔ながらの頑固親父と彼に従いながらもしっかり手綱を握っている母親の話。作者は私より少し年上だが彼女の少女時代の日常風景は私の子どものときと似かよっているので懐かしい。

いつもは作者の思惑通り、頑固親父と娘のやりとりに笑いながらもほろりとしながら読むのだが、今回は少し違った。

手術の後、病室で読んだせいかもしれない。妙に気になった人物がいた。作者の祖母、父親の母の存在である。

同居している祖母は作者の子ども時代、いつも家にいて父親と作者のやり取りを黙って見ているのである。そもそも父親と祖母は作中一度も会話をしない。祖母が会話をするのは嫁と孫たちに限られている。作中語られている祖母は若い頃奔放な人で自分の欲望を我慢できない人だったらしい。未婚のまま父親の違う兄弟を生み、その一人が作者の父親である。父親はそれをずっと苦にして育ってきたらしい。今では黙って家の片隅に暮らしている祖母が若い頃はかなり華やかな生活をしていたらしい。

作者は祖母のことを思いながら、未婚のまま過ぎてしまった自分の人生を振り返るのである。

(2012.12.24)

---海辺のカフカ---

村上春樹を再読。

海辺のカフカ 村上春樹著

二つの物語が交互に進んでいく。"世界の終わりとハードボイルドワンダーランド"に似た構造だ。

ひとつは田村カフカという15才の少年が中野区の自宅を出て四国の高松にある甲村記念図書館という私設の図書館へ行く。そこで佐伯さんと大島さんに会う。

ひとつは戦争中不思議なことが起こって文字が読めなくなったナカタさんが中野区の自宅を出て何故か甲村記念図書館をめざす。そこで佐伯さんに会う。ナカタさんを助けて同行するホシノさん。

結局田村カフカとナカタさんは最後まで会わないのだが、二人に会う人物として佐伯さんが登場する。

あらすじはそれだけなのだが、あっという間に600ページの文庫本二冊を読み終えてしまった。面白かったが何の話なのか良く分からなかった。

何でということが多いのだ。何で15才のカフカがこんなに大人っぽいのか。ナカタさんは何がしたかったのか。佐伯さんはどうして…。村上春樹独特の隠喩なのだろうが、意味するところがよく分からない。

村上春樹は好きで初期の作品から"1Q84"まで全て読んでいる。彼の小説を中短編と長編に分けると"ノルウェイの森"以外の長編は隠喩が多くてよく分からない。だからといって決してつまらないという訳ではない。彼の小説はひとつもつまらないものはない。もって生まれた、としか言いようがない、"ページをめくらせる力"を彼は持っている。

彼のようには決して書けない。何でこれが、というイメージの膨らませ方。まるで…のようにという…が彼でなければ絶対に思いつけないが、書かれたものを読むと…以外には考えられないほど適切な表現だと思ってしまう。そういうものを読むために私は村上春樹を読むのかもしれない。

(2012.12.21)

---自転車の本---

自転車本を三冊。

こぐこぐ自転車 伊藤礼著自転車入門 河村健吉著自転車生活の愉しみ 疋田智著

たまたま手に取った本が"自転車入門"。 特に自転車に興味があったわけではない。ただ何となくだ。

しいて言えば著者が57才で引退してから始めた、というところに何か感じたのかもしれない。

読んでみると著者が始めたロードバイクというのはわれわれが普段乗っているママチャリとは別の乗り物であるらしい。これに乗ると世界が違って見えるらしい。

だんだん興味が出てきて"こぐこぐ自転車"と"自転車生活の愉しみ"を買って読んだ。"こぐこぐ自転車"の伊藤礼さんは68才から始めている。来年80才になるがまだ現役で乗っている。どこかで見覚えのある名前だと思ったら、"チャタレイ夫人の恋人 完訳版"を翻訳した人だ。

"自転車生活の愉しみ"の疋田さんは現役のテレビ局ディレクター。毎日12kmを自転車通勤している。

読み終えてみると、自転車は乗ってみなければわからない、という当然の結論になった。

買うか買わないかは決心を必要とする。なにしろここで言う自転車は15万円くらい出さなければ買えない代物だからだ。

(2012.11.24)

---戦争と平和(10)---

第四巻エピローグ第一部では主人公達が一堂に会する。

あのはつらつとした少女のナターシャは中年のおばさんになっていて四人の子ども達の母親である。 ピエールはナターシャと結婚し尻の下に敷かれている。1869年ロシア版初版 ニコライと公爵令嬢マリヤ(今は伯爵夫人マリヤである。)は結婚して子どもが二人いる。 ソーニャは相変わらず独身、デニーソフも相変わらず独身、戦死したアンドレイ・ボルコンスキーの遺児は考え深い青年になっている。

今までそれぞれの人生を歩んできた人々が初めてニコライの屋敷で団欒を楽しむ。 死んだ人も数多い。ニコライとナターシャの父親、弟、アンドレイ・ボルコンスキー公爵、その父親…。

本の良い所はここからまた第一巻で少女のナターシャが居間に駆け込んでくるあのシーンに戻ることができる点だ。

でも本当の人生では子ども時代の自分に戻ることはできない。
数年に一度の"戦争と平和"体験をここで終えることにする。

第四巻エピローグには第二部があり、トルストイ独特の歴史論が述べられている。これは退屈な論文で何故実在の人生にも匹敵するこの本の最後にこれをもってきたのか理解できない。私には蛇足に思える。

(2012.11.9)

---戦争と平和(9)---

第四巻の終わり近く、ピエールはアンドレイ・ボルコンスキーを失った傷心のナターシャに、ニコライは長い間離れていた公爵令嬢マリヤに結婚を申し込む。

しおれた花のようなナターシャが植物に水をやったようにみるみる生き生きしてくるシーンはトルストイの独壇場だ。人間をこんな風に書けるなんて、トルストイはいつも簡単なことばで的確にそれを表現する。

没落したニコライが父親の財産を相続して金持ちになったマリヤにわざとよそよそしい態度を取る。 どうしてだか分からないマリヤは混乱する。そして別れる寸前に次のように言う。

「わたしの人生にはあまりに幸福が少なかったものですから、何を失うのも身を切られるように辛くて…お許しくださいませ、では失礼いたします」

このように言われたニコライが何と言い返すかは…。ぜひ自分で読んでみてください。

(2012.11.6)

---戦争と平和(8)---

第四巻ではクトゥーゾフ率いるロシア軍とナポレオン率いるフランス軍の戦いがメインに語られている。 トルストイはその中で繰り返し、何が戦争の勝敗を決定するか、についての考察を述べている。これがどうにも退屈だ。 家庭生活や個人生活についてはあれほど正確に人間の心理を洞察するトルストイが戦争論を始めるとどうにも退屈なのだ。 この戦争論はトルストイはどうしても語らなければならなかったに違いない。だけど、この部分がなくても"戦争と平和"は世界文学の最高峰の位置を外れることはないと確信する。

ここではピエールがフランス軍の捕虜になり、捕虜仲間のプラトン・カラターエフと知り合いになる。全体からするとわずかなページ数だが、このプラトン・カラターエフの人物像が実に良い。典型的なロシアの農民だが生活に即した知恵を持っている。ロシアの大地から生まれたプラトンはわずかなページ数の中でわれわれに強い印象を与えた後、フランス兵の銃によってロシアの大地に戻っていく。

(2012.10.30)


---幸福論---

アランが全93章のプロポ(断章)で言っていることはひとつ。

心身ともに健康に生きるには過去や未来にとらわれず、まず行動し、行動しながら方向を修正していく、ということに尽きる。

アラン著 「幸福論」

アランは頭だけで考えるのではなく、体と頭を使って行動しながら考えることが現実的なやり方である、と説く。現代人は体の存在を忘れて頭だけで物事を考えようとする。どんなことでも頭で考えるだけで一応の答えは出る。答えは出るがそれだけで悩み事を解決できるかというとそうはいかない。悩み事の渦に巻き込まれさらに混乱してしまう。

こんな時、アランの説く93章のプロポを折に触れ熟読し、その方法を身につけていくのが我々悩み多き現代人の採るべき道である。

アランのプロポ---例---アラン著「幸福論」 岩波文庫より

「音楽が好きになりたいなあ」と愚か者は言う。しかし音楽をやってみなければだめだ。…

「ああ、どうしておれは学んでおかなかったのか」これは怠け者の言い訳である。それなら学ぶがいい。学んだといっても、もう今やめてしまったならば、それはたいしたことではない。…

いったいだれが、行く道を選んでから出発したか。だれも選択はしなかった。なぜなら、われわれはみんな 最初は子どもであるから。みんな、まず行動したのだ。…

等々。

(2012.10.8)

---戦争と平和(7)---

戦争と平和、新潮文庫 第三巻 第2部 13〜14

ここは公爵令嬢マリヤとニコライ・ロストフが運命の出会いをする重要なシーンです。
"運命の出会い"というのはお互いがお互いのことを"運命"の人と思う最高の状況で出会うことです。 この状況以外では容貌に難のあるマリヤと気は良いけれどがさつなロストフとでは"運命"の出会いにならなかったでしょう。
トルストイはだいぶ前から入念な準備をして自然にこのシーンにもっていきます。 このシーン以降マリヤの出番は減るので、今まであまり良いことの無かったマリヤへのトルストイからの贈り物と言えるかもしれません。

マリヤという人にずっと注目していた私としては涙が出るほどうれしいシーンでした。

(2012.9.5)

---まともな人---

先日ニュースでニホンカワウソが絶滅したという発表がありました。最後に目撃されたのは高知県須崎市にある新荘川で、1979年6月ということです。

養老孟司著 「まともな人」

トキにせよニホンカワウソにせよ絶滅するのは仕方が無いことじゃないか、と思っていたのですが、この本を読んでドキッとしました。

著者は最近出生率が少ないのは自然環境が減ったからではないかというのです。というのは子どもは自然の中で生きるもので、自然が無い社会では早く大人になってしまうというのです。してみるとヒトの子どももトキと同じように絶滅危惧種になる可能性があるということです。

ニホンカワウソのニュースが急にヒトゴトではなく思えてきました。

養老孟司著 中公文庫 (2012.9.2)

---戦争と平和(6)---

戦争と平和、新潮文庫 第二巻 513ページ〜600ページ

このエピソードは全編の中で一番ショッキングな場面です。ヒロイン、ナターシャ・ロストワがプレイボーイ、アナトーリ・クラーギンに誘惑され、連れ去られそうになります。

17、8才、一番世間知らずな頃の女の子というのはイケメンの口のうまい男にはこんなに簡単にだまされてしまうものかと思います。

トルストイはどうしてこんな年頃の女の子の気持ちがわかるんだろうというくらい、ナターシャの気持ちを描写します。トルストイはこう描写します。"彼の目を見つめていると、彼女が自分と他の男性たちとのあいだにいつも感じてきたあのはじらいの垣が、彼とのあいだにはまったくないのを感じて、恐ろしい気がした。" これが会ってから5分〜10分くらいしか話していないのにナターシャが感じた気持ちです。実に簡単なことばで若い女の子の複雑な気持ちを的確に表現しています。

トルストイはそれぞれの場面で簡単なことばを使って老若男女あらゆる人の内面を的確に描写します。アナトーリ、エレンのクラーギン兄妹やアンドレイ、マリヤのボルコンスキイ兄妹の描写を読むとそれぞれの考え方に共通点があって、同族だとわかります。これを自然にできるのはすごい才能だと思います。他の小説家でそのようなことを感じたことはありません。

(2012.8.25)

---戦争と平和(5)---

戦争と平和、新潮文庫 第二巻 375ページ〜468ページ

というのは第二巻、第四部の90ページあまりのエピソードです。ここには狩りの話と仮装パーティの話が納められています。特に狩りの話がすばらしく、全部を読むのが億劫なときはここの部分だけ読むこともありました。

おだやかな冬の朝、ニコライ・ロストフが猟犬係のダニーロを呼び、「いい日和だな、あ? 追い立てるにも、突っ走るにもな、あ?」と言うところから始まります。一族郎党を率いての狩りだから大掛かりです。狼狩りから始まり、狼を生け捕りにしたあと、ウサギ狩りをします。このシーンが臨場感に満ちていてすばらしい。馬の息遣い、犬の息遣い、狼の息遣いまで手にとるように伝わってきます。実際にこのような狩りをしたことのあるトルストイだから描ける場面です。

狩りが終わった夕暮れ、一緒に狩りをした伯父の家に休みに行きます。伯父の家の夕食の場面。家政婦、はっきり書いてはいないがどうやら伯父の愛人らしい、が作ってくれたきのこ、麦粉を凝乳で練った焼き菓子、とりたての蜜、焙った胡桃や蜜につけた胡桃、ハム、焙りたての鶏、そしてウォトカと果実酒。飲んだり食べたりした後、猟師部屋から聞こえてくるバラライカの音に耳を傾ける。そのうちに伯父がギターを取り上げロシア民謡を弾き始める。ナターシャがそれにあわせて即興の踊りを踊り始める…。

こういうシーンを読むと、ドストエフスキーも良いがトルストイも捨てがたい、と思います。
ここには誰でも子どものころに経験したことのある、落ち着いた人間らしい生活があります。

(2012.8.21)

---戦争と平和(4)---

戦争と平和、新潮文庫 第二巻 287ページ〜290ページ、ピエールの日記から

12月3日。わたしは妙な夢を見た。暗がりの中を歩いていると、ふいに数匹の犬にかこまれたが、…。
12月7日。ヨシフ・アレクセーエヴィチが私の家に来ているような夢を見た。
12月9日。夢を見た。胸がどきどきして、目がさめた。

いずれの夢も夢でしか見られないようなつじつまが合わない奇妙な話なのだが、 これを読んで「こんな夢を見た。」で始まる夏目漱石の"夢十夜"を思い出した。 "夢十夜"もそれぞれの夢が奇妙でおもしろい。

もしかしたら漱石は"戦争と平和"のこのシーンからヒントを得て"夢十夜"をつくったのではないかと思った。漱石の日記を読むとニーチェの"ツァラトゥストラ"やドストエフスキーの"罪と罰"を読んで感心したという記述がある。ドストエフスキーと同時代人のトルストイを読んでいても不思議はない。

(2012.8.14)

---戦争と平和(3)---

戦争と平和の"平和の部"の話だが、これが必ずしも"平和"ではない。
今朝読んだところはこんな感じである。

ピエールが妻の愛人(ドーロホフ)に決闘を申し込む。決闘の場でピエールの撃った弾はドーロホフの腹に当たり、ドーロホフは重傷を負う。 ニコライのいいなずけ(ソーニャ)に振られたドーロホフはいかさま博打でニコライから4万3千ルーブル(現代の日本の金で数億円に相当する。)巻き上げる。

15才のナターシャと踊ったデニーソフはその魅力に抗しきれず思わずプロポーズしてしまうが、母親からやんわりと断られる。 決闘のシーンの厳粛さ、博打のシーンの脂汗が滲み出るほどの緊張感、父親に金を無心する時のバツの悪さ、舞踏会のシーンの躍動感、…。

今朝の通勤電車の車中ではナポレオン戦争の時代のロシアの上流階級の家庭生活を追体験した。 トルストイの筆は流れるようにそして的確に表現する。読者は居ながらにして雪の中の決闘シーンや、抜けるに抜けられない博打シーンを体験することになる。これに比べたらたいていの現代の小説は薄っぺらで物足りない。村上春樹でさえ長編はトルストイほどの密度を保持できない。

私は公爵令嬢マリヤが好きで、彼女の登場シーンは念を入れて読む。 公爵令嬢マリヤが貴族のボンボンのプレイボーイ、アナトールと見合いをするシーンはたまらない。公爵令嬢マリヤの面目躍如たるものがあるのだが、次回にまわす。

(2012.8.7)

---コルトレーン---

この本は単なるジョン・コルトレーンの評伝ではない。藤岡靖洋という人が自分の足で調べあげたコルトレーン像で、藤岡さんの血の通っていない文章はひとつも無い。

藤岡靖洋「コルトレーン」

藤岡靖洋はジャズ評論家ではない。世界で唯一人のコルトレーン評論家で、大阪に古くからある呉服屋さんの二代目だ。ちなみに私よりひとつ年下の1953年生まれ。
ということはコルトレーンが亡くなった1967年は14才の中学生で、リアルタイムでコルトレーンを聴いていたわけではない。著者もどこかで言っているが大人になってからLPで聴いて感動して追いかけ始めたそうだ。

ただその追いかけ方がただ事ではない。コルトレーンが生きていたあらゆるところに行ってしまうのだ。コルトレーンを知っていたあらゆる人に会ってしまうのだ。その中には奥さんのアリスは言うに及ばず、前の奥さんのネイーマ、その連れ子のサイーダ、元マネージャー、元プロデューサーetc.。とにかくあらゆる人に会ってしまい、友達にまでなってしまう。

という人が書いたこの本を読むと生きているコルトレーンに会える。藤岡さんにしか撮れない、あるいは藤岡さんしか持っていない貴重な写真を見ることができる。

(2012.8.5)

---戦争と平和(2)---

戦場の場面でのトルストイは、戦争映画を撮っている時のキューブリックのように移動車やクレーンを駆使してロングショットやクローズアップを多用する。例えば騎馬で突撃したニコライ・ロストフが撃ち落とされて地面に落ち、一人だけ取り残される。横たわるロストフは青空を見上げながらぼうっとしている。この場面をトルストイは、疾駆するロストフを移動車で追いかけ、横たわるロストフをクローズアップの手法で写し出す。

丘の上の孤立した陣地で、大砲部隊をあずかるトゥーシンが部下を指揮しながら、4門の大砲を自在に操って取り囲むフランス軍を手こずらせるシーンがある。やせて猫背で動作のぎこちないトゥーシンが、パイプタバコの火を撒き散らしながら屈強な40人の部下を指揮する。まるで歌舞伎の荒事のシーンを見ているようだ。

パーティ、家庭劇、遺産相続争いの場面でのトルストイは違う面を見せる。別の機会に書こうと思います。

(2012.7.25)

---翻訳について---

日本は世界で一番翻訳が発達している国だそうです。 日本の文化が中国の文字を通して中国文化を導入することによって発展してきた、という歴史があります。

昔漢文という授業がありました。今でもあるかもしれません。 漢詩は本来中国語の発音で読んでリズムを味わうもので、レ点をつけて日本語でひっくり返して読むということは曲芸のようなもので、こういうことは日本だけの現象ではないでしょうか。 無理やりにでも翻訳して自分のものにしてしまおうという、当時の日本人の外来文化に対する貪欲さが現れていると思います。

ここで問題にしたいのは私たちが普段読む翻訳小説についてです。

華麗なるギャツビー

昔、ロバート・レッドフォード、ミア・ファーロー主演の「華麗なるギャツビー」という映画を見ました。 その時に新潮文庫から同名の翻訳小説が出ており、表紙が主演の二人の写真でした。レッドフォードの足(ひざから下)が不自然に長い印象の表紙です。翻訳は野崎孝(1917年生まれ)で解説を読むと原作はスコット・フィッツジェラルドでアメリカ文学の古典だという。早速買って読んでみたが、なんだか文章がふわふわしてよくわかりませんでした。 結局映画で見た筋を追って確認しただけという結果になりました。果たしてこれがアメリカ文学の古典なんだろうか? ヘミングウェイのほうが高級なんじゃない? という疑問が残りました。

グレート・ギャツビー

その後30年以上たって村上春樹(1949年生まれ)が「グレート・ギャツビー」を翻訳して出版しました。読む本が無くなったある日、ブックオフで村上訳のギャツビーを買って読んでみました。 こんな面白い本だったのか! 確かにこれは優れたアメリカ文学だ、ヘミングウェイに引けをとるものではない、と思いました。 人生経験が30年以上増えている分だけ面白く感じたのだろうか。と思って、ためしに村上訳と野崎訳を比べてみました。 するとやはり野崎訳では物足りない。
たとえば
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野崎訳;ところで、このように自分の寛容の精神を一応誇った後で、それにも実は限界があるということをぼくは認めざるをえない。

村上訳;とまあ、自分の忍耐心についてこのように偉そうに講釈を垂れたあとで、それにもやはり限度があることを、進んで認めなくてはならない。
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荒野のおおかみ

最近、昔読んで感動した本を読み直していますが、その中に高橋健二(1902年生まれ)訳のヘルマン・ヘッセ作「荒野のおおかみ」があります。 えっ、こんな読みにくい文章だったのか。よくこれを読んで感動できたものだ。と思いました。これじゃあ学生が授業で訳した直訳の文章ではないか。
たとえば
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どんな人間の種類でも、それぞれ特徴、記号を、それぞれ美徳と悪徳を、永遠の死に値する罪を持っている。…。
朝は彼にとって、彼の恐れていた、けっしていいことの起こらない悪い時であった。
いつか朝ほんとに生活が楽しかったということは、ついぞなかった。

「荒野のおおかみ」ヘルマン・ヘッセ作 高橋健二訳 新潮文庫55ページ
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ここまできて読むのを中止しました。
この「Der Steppenwolf」を読んで自分たちのグループのバンド名にしようとするロックグループは日本では出てこなかったわけです。

戦争と平和

昔の翻訳者は直訳調で訳すのがはやりだったのか。と思い、中村白葉(1890年生まれ)訳の「戦争と平和」の文章を確認してみました。 すると、みずみずしい文章は決して直訳調ではありませんでした。
たとえば
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ここまで読んできて公爵令嬢マリヤはほっとひとつため息をつき、右手に立っていた姿見をふり返ってみた。鏡はみにくい弱々しいからだと、やせた顔とをうつしだした。いつももの悲しげな目が、今はことさらたよりなげに、鏡の中で自分を見ていた。「あのひとわたしにお世辞なんか言って」…

「戦争と平和」レフ・トルストイ作 中村白葉訳 河出書房81ページ
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翻訳者は原文の知識だけではなく、日本語の力もなくては良い翻訳文は作れない、というあたり前の結論になりました。
どこかの出版社で「荒野のおおかみ」の新訳を出してくれたら、すぐ買いに走るんですが。

(2012.6.30)

---戦争と平和---

戦争と平和

数年に一度読み返す本の中にレフ・トルストイの「戦争と平和」があります。感心する文章は数限りなくあるのですが、その中で下の文章は折に触れ思い出します。

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「どうしてわたしは、三月まえのように、あなたのやさしい、おだやかな、何でも透視するようなまなざし、わたしがあんなに好きで、いまこの手紙を書いていると目のまえに見えてくるような、あのまなざしから、新しい魂の力を汲みとることができないのでしょう?」
ここまで読むと、公爵令嬢マリヤはほっと溜息をついて、右側のほうに立っている大きな姿見を見やった。鏡面は格好のよくない弱々しい身体と痩せた顔を映した。いつも悲しげな目が、いまは特に絶望的に鏡の中の自分を見つめた。「気慰めを言ってくれるのね」公爵令嬢はこうつぶやくと、顔をそむけて、つづきを読みだした。ジュリイは、しかし、親しい友だちに気慰めを言ったのではなかった。実際に、公爵令嬢の目は大きくて、深みがあって、すがすがしい光をたたえていて(ときどきあたたかい光の束が放射されるかと思われることがあった)、じつにさわやかだったので、顔全体が美しくないにもかかわらず、その目が美しさをこえる魅力をそえることがしばしばあった。だが公爵令嬢は自分の目の魅力的な表情を一度も見たことがなかった。それも道理で、その表情は、彼女が自分のことを考えていないときに、その目にあらわれるのだった。だれにしても同じことだが、彼女も鏡をのぞきこむと、とたんにその顔はかたく、不自然な、醜い表情をとった。彼女は…。

新潮文庫「戦争と平和」上巻178ページより

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自分のことというのはわからないものです。人の評価を聞いてはじめてわかることは結構あります。人の評価ばかり気にしていても自分の行動はとれないし、難しいところです。人の評価は参考程度にとどめておくという態度がいつも採れれば良いと思います。

(2012.6.2)

---みかんの恋---

みかんの恋

2011年夏、娘が初出版した本です。

(2012.5.12)

「みかんの恋」の原画が有田川町地域交流センターにて行われる「みかん絵本の原画展」に展示されることになりました。
期間は平成24年10月2日〜12月20日です。

(2012.6.5)


---冬物語---

冬物語

最近読んだ中で一番感心した本です。

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14編の短編の中で「木肌に触れて」の中の次の文章にはまったくその通りだな、と思いました。

未来なんて現在頭の中に描いているだけのものであって、決して向こうからやって来るものではない。未来は現在でしかないのだから、未来などない。明るい未来も暗い未来も、とにかく未来なんてない。

南木佳士「冬物語」190ページ

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(2012.5.15)

---アンナ・カレーニナ---

トルストイ「アンナ・カレーニナ」

トルストイ著「アンナ・カレーニナ」の中の有名な文章です。

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幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。

『アンナ・カレーニナ』 新潮文庫・上巻 P5より

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(2012.5.6)

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