---水車小屋攻撃・他7篇---by エミール・ゾラ |
「水車小屋攻撃」「小さな村」「シャーブル氏の貝」「周遊旅行」「ジャック・ダムール」「一夜の愛のために」「ある農夫の死」「アンジュリーヌ」の8篇が収められている。 「水車小屋攻撃」は普仏戦争の一挿話として、平和な村の水車小屋に住む父と娘が戦争に巻き込まれるという話が書かれている。娘にはベルギー人の恋人がいて、今日にも結婚式を挙げるという日にプロシャ軍が進軍してくる。戦争シーンはすごい迫力で、冒頭描かれた牧歌的な水車小屋の様子と対照的な風景である。その的確な描写力は、さすがは自然主義文学の巨匠ゾラである。 「小さな村」は普仏戦争が影を落としているフランスのある地方の村を描く、詩のような文章である。 「シャーブル氏の貝」はいわゆる艶笑喜劇。年取った金持ちの亭主と若い女房が旅の途中、若い魅力的な男と一緒になれば当然起こるであろうドラマを海岸の風景と共に描く。 「周遊旅行」。若いカップルが結婚したが、姑と同居なので楽しめない。新婚旅行に出かけることにしたが、行く先々でトラブルが発生し、思うようにならない。さて・・・。 「ジャック・ダムール」。パリ・コミューンに翻弄された一家の話。フランス革命の最中、息子は戦死し、妻と娘はそれぞれ離れ離れになる。コミューン派の夫は捉えられ、10年間の島流しとなる。平和な世の中になり、帰ってきた夫は妻と娘を探し歩く。さて・・・。展開がまるで読めない話、このような結末になろうとは・・・。 「一夜の愛のために」。純愛物語のように始まる。物語の調子が変化するのは3分の2を過ぎたあたり、そこから話は急展開する。まさかこんなことになろうとは・・・。ゾラの仕掛けは凄まじい。 「ある農夫の死」。自然の中に生まれ、生き、死んでいく農夫の人生を詩のような形式で書かれた短篇。 「アンジュリーヌ」。荒れ果てた屋敷にまつわる怪綺談。 「居酒屋」「ナナ」のようなリアルな物語を書く作家としてのゾラが、これほど多彩な話を操るストーリー・テラーだったとは。 (2021.12.31) |
---私の方丈記---by 三木 卓 |
ヘンリー・デイヴィッド・ソローはアメリカ、マサチューセッツ州にあるウォールデン池のほとりで1845年の夏から2年間に渡り自給自足の生活をした。その記録を1854年に「ウォールデン 森の生活」と題して出版した。それよりさらに630年前、鴨 長明は、京の郊外・日野山に一丈四方(方丈)の庵を建て隠棲した。一丈四方とは3メートル四方である。庵に住みながら思うことを書き記したものが本書の元になった「方丈記」である。 「方丈記」は「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という有名な文章で始まる。が、知っているのはそこまでで、中に何が書いてあるのか、知っている人は少ないのでは。 作家・三木卓は長年「方丈記」を愛読書としてきた。彼が現代語訳をしたのが本書である。 あらゆる古典の例に漏れず、本書もまた800年前に書かれたものとは思えないほど現代的であった。 川はいつも同じ姿で流れているが、流れている水は同じものではない。という冒頭から60才になった長明の諦念がうかがえる。 800年前に生きた長明は実存的な生き方をしていた。現代人よりもクールで、ハードボイルド的であった。 著者は「私の方丈記」と題して、自分が生きてきた歴史を書いた。両親と共に満州に移住し、12才の時に終戦を迎え、本土に引き上げてきたという、戦争体験者としての思い出を語る。作家として安定した生活を送る72才現在の心境は鴨長明に共感するところが多いという。 巻末に「方丈記」の原文が載っている。現代語訳を読んだのちに読むと、大体の意味はわかる。原文の文章の方が力強く、味わい深い。 (2021.12.29) |
---快楽としてのミステリー---by 丸谷才一 |
ミステリー評論家では丸谷才一と北上次郎(目黒考二)はピカイチである。 第1章はいずれも優れたミステリー評論家である [丸谷才一×向井敏×瀬戸川猛資] の三人による対談。ハヤカワ・ポケット・ミステリが戦後の日本の文化に果たした功績について述べている。 第2章では「深夜の散歩ーマイ・スィン」と題し、ミステリー作品及び作家について縦横無尽に論ずる。アガサ・クリスティに始まり、パトリシア・ハイスミス、マーガレット・ミラー、カトリーヌ・アルレーなどのジュ流作家たちから始まり、レイモンド・チャンドラー、エド・マクベイン、ディック・フランシスからデイヴィッド・ベニオフに至るまで興味深い論説を述べる。 第3章ではクレイグ・ライスとパトリシア・ハイスミスを中心に「女のミステリー」という題で論ずる。あまり知られていなかったクレイグ・ライスの素晴らしさを初めに紹介した文章ではないだろうか。さらにハイスミスのトム・リプリーものについて、リプリーとヒトラーの共通点について述べていて、実に興味深かった。 第4章はエリック・アンブラー、レイモンド・チャンドラー、イアン・フレミングに関してプロの小説家の心得のようなものを述べる。「ホームズ学の諸問題」という項では作者によるベストテンは当てにならない、と言う。 第5章は「ミステリー書評29選」という題で、29編のミステリー作品を採り上げている。まだ読んでいないもので、興味深かった作品を以下にあげておく。
「探偵小説の本筋から言へばまったくどうでもいいこんな挿話の連続が、何度も読み返したくなるくらい楽しいのは、人間の味はふ幸福感を正確にとらへてゐるからである」 筆者も丸谷氏と同じ、あらすじだの、誰が犯人だのは覚えていないが、老警視がキュラソー島でおいしい朝食を全部食べ(普段は必ず残す)、散歩しているうちに、気がついたら足のリューマチの痛みがすっかりとれているのに驚くシーンは覚えている。警視と共になんともしれない幸福感を味わった。 第6章、「文学、そしてミステリー」では、清張文学を父親と息子という鍵を使って解き明かした「父と子ー松本清張」が興味深かった。 (2021.12.28) |
---プラハの憂鬱---by 佐藤 優 |
元外務省ロシア課で現在作家として活動している佐藤優氏の青春記である。 同志社大学で神学とマルクス主義を研究していた著者は、ある時チェコの神学者フロマートカの著作に出会い、感銘を受ける。大学院でフロマートカを研究したいが、日本ではチェコの神学者の著書は容易には手に入らない。 さまざまな可能性を模索した結果、外務省のロシア課に入り、ロシアを経てチェコに留学するしか無い、という結論に達した。著者のすごいところは合格倍率40倍と言われた試験を大して問題にしない。当然のように合格して外務省に入ってしまう。 ロシア語の研修はイギリスの軍の施設に入って行う慣例になっていた。本書にはイギリス留学中の1年数ヶ月の著者の交友関係と勉強の様子が描かれている。 研修生同士の会話や古本屋の主人との会話が主体になっている。その内容が友人同士の会話にしては過剰に学問的なのは、30年経った現在の立場から当時のことを書いたためであろう。 本書は「紳士協定 私のイギリス物語」の姉妹編である。同時期のことが書いてあるのだが登場人物が違う。初めて海外留学した1年余りの生活がいかに濃いものであったかがわかる。 著者はイギリス滞在中にアイルランドに5回行っている。そのことは前作と本書では触れられていない。次作で書くつもりであることをあとがきで予告している。 (2021.12.25) |
---薄桜記---by 五味康祐 |
忠臣蔵外伝である。忠臣蔵には外伝が多い。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」はじめ、講談の「赤穂義士伝」、落語の「淀五郎」や「中村仲蔵」等々。 小説では芥川龍之介の「或日の大石内蔵助」、大佛次郎の「赤穂浪士」、池宮彰一郎の「四十七人の刺客」、藤沢周平の「用心棒日月抄シリーズ」、そして本書「薄桜記」など。 本書は堀部安兵衛を副主人公にして史実に忠実に忠臣蔵を描いている。著者は主人公に丹下典膳という架空の人物を創造した。義理の兄に左腕を切り落とされた武士という設定は、林不忘が創造した丹下左膳に似ている。左膳は右腕が無いが、典膳は左腕が無い。 ちなみに林不忘の「丹下左膳」が1927年に発表されているのに対して、本書が発表されたのは1959年である。丹下典膳の外見上のキャラクターは著者が創造したものではない。内面上のキャラクターは左膳が三枚目なのに対して、典膳は二枚目である。沈着冷静で深刻な性格はハードボイルドの主人公と言っても良い。 典膳は悲劇的な人物である。自分から悲劇を呼び込んでいる、と言っても良い。留守中に一度だげ不倫をした妻を、そのことを後悔している妻を離縁したり、妻の兄に自分から片腕を切り落とされたり、慕ってくる妻から逃げたり・・・。 対照的に堀部安兵衛は明るい。安兵衛のシーンになるとホッとする。実在の安兵衛も文武両道であったらしい。忠臣蔵の知恵と武力の中心人物である。 元禄十五年十二月十三日、討ち入りの前日、丹下典膳と堀部安兵衛は対決する。 (2021.12.23) |
---江戸前で笑いたい 志ん生からビートたけしへ---by 高田文夫 編 |
放送作家・高田文夫がこれほど深く日本のお笑いに関わってきたとは思わなかった。ニッポン放送の深夜放送「ビートたけしのオールナイトニッポン」が現在につながる日本のお笑いの元祖だったとは。日本のお笑いを切り拓いてきた黒幕・高田文夫が「笑いと二人旅」その内幕を語っている。 本書は高田文夫をはじめ、山藤章二、玉置宏、森田芳光、吉川潮といった落語好きの人たちが、それぞれ自分の思い入れのの強い芸人についての蘊蓄や思い出話を述べている。 「志ん生と江戸の笑い」における鴨下信一と高田文夫の対談、ラサール石井の「萩本欽一」論、井上まさよしの「ビートたけし」論は興味深かった。 日本のお笑いの歴史を再確認することになった。筆者も当事者としてリアルタイムで観たものもあったが、ほとんどマニアでなければ観たり聴いたりすることができないものだったので、どの話も興味深く読んだ。 たまたまお昼のテレビ番組でコント55号が登場したのをリアルタイムで観ていた。随分変わった漫才が登場したものだと思ったが、それから1年後には全国区になっていた。 イッセー尾形はマニアックすぎてかなり有名になってからでなければ、筆者のアンテナには引っかかってこなかった。本書では取り上げられていないが、腹話術の「いっこく堂」を観たのも最近である。 (2021.12.20) |
---せつない話 第2集---by 山田詠美 編 |
作家山田詠美が選んだ内外14篇の短篇小説が収められている。前回出版された「せつない話」から7年後に編纂された続編である。 有島武郎の「一房の葡萄」は中学の国語の教科書で読んだのが最初である。同級生の絵の具を盗んでしまった生徒が、それを見つけられた時のいたたまれないような気持ちが痛い。与えられた環境に順応しながら生きていかなければならない子供時代は、大人になったときと比べてなかなか大変なものである。筆者も何度か、恥ずかしくていたたまれない気持ちを味わったことがある。 宇野千代作「雪」。一幕ものの舞台劇みたいな話。時代は昭和初期、場所は北海道。金のために結婚した姉と苦学生の弟の会話で進んでいく。 水上勉の「踏切」は東男に囲われた京女の数年間の話。 田辺聖子の「雪の降るまで」。ふたりとも50才を過ぎた材木問屋の旦那と浮気相手の女性事務員が嵐山の旅館で忍び会う。二人だけで夕飯を食べ、風呂に入り、そして・・・。久しぶりに会って、一緒に夕飯を食べながら取り止めのない会話をする。それだけで既に情交をしているようなエロティックな作品。第1集と重なって出ているのは田辺聖子だけである。そういえば山田詠美と田辺聖子は作風が似ているかもしれない。 田中小実昌の「夏の日のシェード」。アメリカの西海岸あたりに住む日本人のおじさんと日本人の娘の同棲生活の一幕。どうやら娘は出て行きたがっており、おじさんはしきりに止めている。お互いの生活の成り立ちは書いていない。何が何だかわからない。編者がなぜこの作品を選んだのかわからない。 中上健次「残りの花」。盲目の美女とその日ぐらしの労務者の同棲生活。精神的なものの何も感じられない男女関係。編者はなぜこの作品を選んだのか。 宮本輝の「夜桜」。20年前に夫と離婚し、去年一人息子に死なれた女が主人公。女の住む邸宅の2階に若い男が一晩だけ泊めさせて欲しいと訪ねてきた。宮本輝らしい雰囲気のある作品。良いことがありそうな予感がする。 森瑤子「マンション・ダ・モール」。森瑤子はその雰囲気と作風が山田詠美と似ている。著者がモデルの女がフランス人の男と契約して同棲する。形は契約だが男と女が同棲する以上そこに何らかのものが発生する。「せつなさ」か。 山田詠美の「唇から蝶」(Butterfly Was Born)は唇が青虫でできている女がある男に求婚されて、というファンタジー。何を表現しようとしているのか理解できない話である。多分女性独特の感覚なんだろう。読後何となく「せつなさ」を感じた。 内田春菊の「夜の足音」は、なんなんだろうこれは。自分の足をつま先から食べる夢をたり、受胎した子供を死産する様子を描写したり・・・。アンソロジーだからこういうのが混じっていても仕方がないか。 トルーマン・カポーティ作「誕生日の子どもたち」。トルーマン・カポーティは「冷血」以外は読了まで漕ぎ着けた作品はなかった。本作も読み進めるのがきつかった。1930年代、著者の少年時代を描いたものだろう。傷つけられた子供たちが登場する。著者もそのひとりだったのだろう。 A・P・ド・マンディアルクの「ダイヤモンド」。ダイヤモンドの中に閉じ込められた乙女のファンタジー。 W・H・ケリーの「雪掻き」。黒人の少年の最後の言葉は新美南吉の絵本「手袋を買いに」の子ぎつねの最後の言葉と一緒だった。 D・レーヴィッドの「テリトリー」はゲイの話。23才のニールは男友達を連れて実家に帰る。1週間実家の母親の元で過ごした後、ニューヨークに戻る。普通に対応しようとする母親の気持ちがせつない。ただこんな話は小説にして少しも面白いとは思わない。 山田詠美はあとがき「心の鍵穴」で、自分は山口瞳のファンだった、と述べている。筆者も山口瞳のファンである。 「せつない話 第2集」は「第1集」よりもレベルが低い。一人の人間がかつて読んだ本の中から何点かの本を選ぶわけだから、良い方から選ぶに決まっている。柳の下のどじょうは何匹もいるわけではないのだ。 (2021.12.18) |
---日々の100---by 松浦弥太郎 |
著者の松浦弥太郎は1965年生まれの56才。高校中退後、単身渡米するが英語ができず、好きだった本屋に入り浸るようになる。写真集やアートブック、古本などに興味を示すようになる。1992年にオールドマガジン専門の書籍販売 m&co. booksellersを立ち上げる。2000年にはトラックによる移動書店m&co.traveling booksellersをスタート。2002年に小林節正と自由をテーマにしたブックストアCOW BOOKSを中目黒にオープン。2006年、「暮しの手帖」の編集長に就任し、10年間勤めた。 高校中退で一流雑誌の編集長にヘッドハンティングされるとは、よほど優秀な人なんだろう。 この本は著者のマイ・フェバレット・シングズを集めたものである。 身の回りのものにこだわりのある人で、バラ、風呂敷、本、サンダル、ハンドクリーム、靴などなど103のグッズを写真入りで紹介している。 この本を読む者が興味があれば、面白い本だし、そうでなければ、なんてつまんないことを書くんだ、と思うだろう。 筆者にとって半分は興味があり、半分はどうでもいい物であった。 興味があったのは本(ケルアックの「路上」とミラーの「北回帰線」)、路上に落ちていたメモを書いた紙を集めること、ハンドクリーム、ソファー。この季節になると手や足のひび割れに悩まされるので、ここで紹介された「イソップのクリーム」を手に入れてみたい。著者がくつろぐ時にすわって読書をしたり、音楽を聴いたりする「中目黒のソファー」が欲しい。だけど、高いんだろうな。 筆者にとってどうでもいい物は「アンティークの定規」「種子島の種子鋏」「山ぶどうの籠」「オリベッティ社のタイプライター」「HANROのトランクス」などであった。 (2021.12.17) |
---せつない話---by 山田詠美 編 |
作家山田詠美が選んだ内外14篇の短篇小説が収められている。 吉行淳之介の「手品師」は素人手品師が失恋して、水中脱出に挑むが、わざと失敗する話。 瀬戸内晴美の「けものの匂い」は著者がモデルと思われる奔放な女の男遍歴。自分がこうしたいと思う生き方と自分が成り立ってきた生き方の相剋。意識と無意識の戦い。誰もが経験しなければならないことを身近な出来事に託して描写し、説得力がある。 田辺聖子の「恋の棺」は30才の叔母と19才の甥の恋、というか性的な惹かれ合いの模様。 八木義徳の「一枚の繪」。この作品を読んで、日本の文学史に登場することのない作家に出会い、ファンになった。八木ゆかりの町田市で行われた回顧展にもいった。「一枚の繪」は舞台が室蘭周辺で、思春期時代の室蘭が重要な役目をすることで、著者の原点と言える作品である。 丸谷才一の「贈り物」は、兵隊もの。日本の軍隊はなんとなく地方の農家の次男三男の集団というイメージがある。そういう社会で起きた、悲喜劇。 山口瞳の小説はいずれも身辺雑記のようである。処女作で直木賞を受賞した「江分利満氏の優雅な生活」からその作風は変わらない。「庭の砂場」は自宅の庭を見ているうちに、2年前に亡くなった妹、昨年亡くなった弟のことを回想する。そのうちに弟に対する複雑な感情を次から次へと思い出し、憮然とする。あくまで私的な感情なのだが、徐々にそれが普遍的なものに感じ始める。誰でも肉親に対する感情には表と裏があるものではないだろうか。 村上龍の「ハワイアン・ラプソディ」は引退したスーパーマンの話。引退してボロボロになったスーパーマンにどういう意味があるのか。 山田詠美の「黒い絹」は黒人の男性との性的な関係。著者の得意な話。 D・H・ロレンスの「菊の香り」はイングランドの炭鉱の話。ジョン・フォード監督の映画「わが谷は緑なりき」はこの小説を下敷きにしていたのではないか。この小説で描かれた炭鉱夫の家庭を映像化したものが「わが谷は緑なりき」である。 アルベール・カミュの「不貞」は冬のアルジェリアの砂漠地帯を夫と共に行商の旅を行く妻の心象風景を描いている。心の交流のない夫婦は体の繋がりしかない。砂漠の冬は寒そうだ。 フランソワーズ・サガン作「ジゴロ」はジゴロと金持ちのマダムの話。50才を過ぎた女に気に入られた若いジゴロは完璧なテクニックで女に取り入ろうとする。ジゴロの態度が完璧であればあるほど、虚しさが増す女の心をサガンは10ページほどの短篇で見事に描き出す。 ヘンリー・ミラーの「マドモアゼル・クロード」はジゴロの反対、娼婦の話。著者自身と思われる男と娼婦の愛の物語。彼女に梅毒を移されたあたりから、主人公のモノローグが乱れ始め、徐々に言っていることが不明確になってくる。ヘンリー・ミラー独特のタッチ。 テネシー・ウィリアムズの「欲望と黒人マッサージ師」。この受難(The Passion)は何のために行われるのか。日本人には理解できないキリスト教の不気味さはこのPassionという言葉で表現される。原題は「One arm」である。「欲望と黒人マッサージ師」という日本語の題名は著者の代表作「欲望という名の電車」からこじつけたものであろう。 ジェイムズ・ボールドウィンの「サニーのブルース」はチャーリー・パーカーに憧れる黒人ジャズピアニストの話。 山田詠美は「五粒の涙」というタイトルのあとがきで、ある種の日本語は英語に翻訳するのが困難であるという。「せつない」という言葉もそのひとつである。「せつない」という感情では五粒以上の涙は出ない。五粒以上だと「悲しい」という感情になってしまう。自分が選んだ15篇の物語は読者に「せつない」という感情を呼び起こしてくれるはずである。本書は以前図書館で借りて読んだ本だが、今回読み返したくなったのは「せつない」という感情を思い出したかったからかもしれない。 ある年齢以上になると新しい友人に出合うことは難しい。同様に、自分の好み以外の作家に出会うことも難しい。筆者の通常の読書生活において、八木義徳の「一枚の繪」に出会うことはないし、テネシー・ウィリアムズやジェイムズ・ボールドウィンの著作を読むこともまずない。アンソロジーの利点は信頼できる選者の選んだ小説は試しに読んでみよう、という気になることだ。新しい世界に出会うことになるかもしれない。 (2021.12.15) |
---名作うしろ読み---by 斎藤美奈子 |
著者は対象の本を「青春の群像」「女子の選択」「男子の生き方」「不思議な物語」「子どもの時間」「風土の研究」「家族の行方」の7項目に分け、書評する。132冊の本をエンディングから眺めるという方法で書評した。 ミステリーでは許されないやり方だが、対象が文学作品である場合はその限りではない。むしろ、読んでみようかという興味が湧く。 とはいえ、全ての本を読んでみようかという気にはならない。全てを読み、適切に書評し、読者に興味を持たせる、という仕事は並の人にはできない。書評家というのは大変な職業である。 これは読んでみたい、と思った本は、尾崎翠の、ジョージ・オーウェルの「動物農場」、W・ゴールディングの「蝿の王」、林芙美子の「放浪記」、中上健次の「紀州」。 以前読んだが、再度読んでみたいと思ったのは、北杜夫の「楡家の人びと」、山本周五郎の「さぶ」。 これは読めないな、と思ったのは、パール・バックの「大地」、田山花袋の「蒲団」、幸田露伴の「五重塔」、サン=テグジュペリの「夜間飛行」、井上ひさしの「吉里吉里人」、灰谷健次郎の「兎の眼」、長塚節の「土」、島尾敏雄の「死の棘」、島崎藤村の「夜明け前」である。 これは読めないな、と思う本を本書のように2ページ程度で解説してもらうとありがたい。 それにしても書評家というのは大変な職業である。 (2021.12.12) |
---十八の夏---by 光原百合 |
「十八の夏」「ささやかな奇跡」「兄貴の純情」「イノセント・デイズ」の4篇が収められている。 「十八の夏」、冒頭のシーンは典型的な青春小説である。話が進むにつれて、隠されていたことが少しずつ明らかになり、ミステリーだったんだと思わせる。ラストで再び青春ものになる。ただし、苦味が加わる。青春には苦さがつきものである。 「ささやかな奇跡」、これは泣ける。大阪弁が生きている。やもめの父親と小さい息子の会話が良い。 「兄貴の純情」、純情な兄貴は馬鹿に見える。純情と馬鹿は紙一重である。冷静で客観的な高校生の弟が語り手。 「イノセント・デイズ」、ほのぼのした家庭の風景、日常的な街の様子から始まる。登場人物たちの深刻な関係が徐々に明らかになってくる。緊張は高まり、爆発寸前のところで最後の1行。これで救われ、ホッとする。 著者は「十八の夏」で第55回日本推理作家協会賞短編部門を受賞した。本書では2作品はミステリー、2作品は普通の小説なので、特にミステリーにはこだわらない作家なのだろう。 (2021.12.10) |
---日本語---by 金田一春彦 |
上巻では「世界のなかの日本語」「発音から見た日本語」「語彙から見た日本語」について述べ、下巻では「表記法から見た日本語」「 文法から見た日本語」「日本人の言語表現」について述べる。最後に「日本語はどうなる」という話題を述べ、金田一先生の日本語についての議論は終わる。 日本語は世界の中で孤立した言語である。日本人しか使っていない。だが話す人口は1億2000万人いて、これは世界6位である。マイナーな言語とはいえない。 英語、ドイツ語、フランス語などは強弱アクセント(stress accent)で話されるが、日本語は高低アクセント(pitch accent)で話される。 英語、ドイツ語、フランス語は5,000語覚えれば一通り話せるが、日本語は22,000語覚えないと話せない。 日本語には外国語に翻訳できない言葉がある。たとえば「懐かしい」「悔しい」「あやかりたい」「どうせ」「流石に」「せめて」「いっそ」などなど。 下巻の趣旨は「 文法から見た日本語」で、この章は全体の8割を超える。学校の文法の時間のように堅苦しい議論が続く。が、この部分が金田一先生が長年研究した成果であるので、じっくり読まなければならない。 ここで先生は世界の他の言語と日本語を比較して、その長所と短所を理論的に述べている。全体としては日本語は他の言語に比べて長所が多く、文学的にも学術的にも過不足なく使える言語のようである。文学的にはどの言語よりも微妙な心理を表現することができ、学術論文を書く場合にも痒い所に手が届く文章を作ることができる。 この2冊の新書を中学校の教科書として使えば、現在使われている変な日本語を少しは駆逐することができるだろう。 (2021.12.8) |
---酔いどれ紀行---by 山口 瞳 |
「なんじゃもんじゃ」「湖沼学入門」「迷惑旅行」に次ぐ、彫刻家ドスト氏との写生旅シリーズの第4作目である。 各作品に山口氏とドスト氏の作品が載っていて楽しい。担当記者パラオ氏とのやりとりも手慣れたものである。 浦安の巻では山本周五郎にならって地元の旅館に泊まり、小さな漁師町の景色を描く。写生をしているところへ、近寄ってきた近所の子供たちとのやりとりが面白い。そして夜は銀座に繰り出す。浦安から銀座までは電車で20分ほどしかかからない。 冬の小樽では中学の後輩である倉本聰に会う。酒田、鶴岡では日本酒を堪能する。はては南太平洋の小島タヒチへまで行く。おしまいは横浜のニューグランドホテルに泊まりながら周辺の景色を写生し、夜はいつものメンバー及び柳原良平氏と飲み明かす。まさに「酔いどれ紀行」である。 ヘミングウェイが猟と釣りと闘牛見物の合間に小説を書いたように、山口瞳は競馬と写生と酒の合間に小説を書く。 (2021.12.1) |
---草競馬流浪記---by 山口 瞳 |
著者は昭和56年(1981年)から58年(1983年)にかけて日本全国の公営競馬場へ行き、そこで全馬券を買う、という企画にのる。中央競馬も含めて28ヶ所の競馬場へ行き、合計600レースの馬券を買う。勝ったり負けたりの収支はマイナス100万円であった。単純計算でひとつの競馬場に3万6千円ずつ落としてきたことになる。 同行したのは主催する雑誌の記者と友人たち。温泉旅館に泊まったり、ビジネスホテルに泊まったりの気ままな旅である。パラオ君、スバル君、臥煙君、都鳥君といった融通無下な記者たちとの男旅は仕事とはいえさぞかし楽しかったろう。旅は旅そのものを目的とするのではなく、競馬や写生などほかに目指すものがある方が面白い。同行する者がいればさらに面白い。 本書が執筆された年(1983年)、全国に27ヶ所あった公営競馬場は、現在(2021年)15ヶ所に減っている。著者が今(1983年)行っておかなければ、と危機感を感じたのは杞憂では無かった。 廃止された競馬場は以下の通り。 紀三井寺競馬場(1988年)、中津競馬場(2001年)、三条競馬場(2001年)、益田競馬場(2002年)、上山競馬場(2003年)、足利競馬場(2003年)、高崎競馬場(2004年)、岩見沢競馬場(2006年)、宇都宮競馬場(2006年)、北見競馬場(2007年)、旭川競馬場(2008年)、荒尾競馬場(2011年)、福山競馬場(2013年)。 2000年代に入って急激に廃止圧力が高まったようである。著者のお気に入り旭川競馬場、渡良瀬川の河川敷にあった足利競馬場、日本一入場人員の少なかった益田競馬場へ行ってみたかった。 宇都宮、高崎、足利の北関三場は消えてしまったが、船橋、川崎、大井、浦和の南関四場は残っている。まだ遅くはない。 著者は日本全国の公営競馬場で馬券を買い、日本全国を巡って湖や沼の絵を描き、将棋のプロ棋士10人と戦い、そのありさまをエッセイに書いた。著者の小説はいずれも自身の体験が元になっている。ヘミングウェイのやり方である。文章作りのスタイルとクールで簡潔な文体、山口瞳は日本のヘミングウェイだと思う。 (2021.11.30) |
---家族---by 山口 瞳 |
著者は「血族」で母親の過去を、本書では父親の過去を暴いた。著者の母親と父親は亡くなるまでそのことを言わなかった。 主人公は何十年ぶりかに会った中学時代の同級生と川崎競馬場で6日間過ごすことを提案する。競馬場の近くのホテルに泊まり込んで毎日馬券を買うのである。 著者はドキュメント「草競馬流浪記」を執筆するために、日本の公営競馬27ヶ所を完全制覇している。競馬のセミプロである。 昔の友人と競馬場で勝負する章と、子供時代から亡くなるまで父親と過ごした章が交互に出てくる。同じような場面を繰り返すことで、状況は徐々に緊迫感を帯びてくる。まるでボレロのように。 「父には、どこか胡散臭いところがあった。・・・ どこかに山師の匂いがする」ーーー「スパルタ教育というのは、ケースによって差があるだろうけれど、意志鞏固な人間を造るのではなく、時には、逆に、依頼心の強い人間を造ってしまう。・・・叱られなければ何もできない人間になってしまったと言えないだろうか」ーーー「お前ねえ、商売人と札や壷をやっちゃいけないよ」 ーーー「父は、前科一犯、実刑一年の詐欺師だった」ーーー「俺のオフクロは横須賀の女郎屋にいたんだ。女郎屋の娘だ。・・・オヤジのほうには妻子がいたんだ。それで二人で駈落ちして俺が生まれたん だ。そのオヤジは詐欺師だった」 著者の独白は章を追うごとに、まるでボレロのように高まって行く。 ここには「男性自身シリーズ」の軽妙な文明評論家ではなく、「酒呑みの自己弁護」や「温泉へ行こう」の洒脱なエッセイストでもない、鉄火場に出入りする博徒の顔をした山口瞳がいる。 (2021.11.25) |
---文政十一年のスパイ合戦 ーー検証・謎のシーボルト事件---by 秦 新二 |
幕末、日本の蘭学者たちに多大な影響を与えたシーボルトを知らない人はいない。中学時代、日本史の授業をサボっていなければ。 鎖国時代、長崎の出島に滞在できたのはオランダ人のみであったが、シーボルトはドイツ人であった。彼の年齢は27才から32才までの5年間であった。意外に若かった。当時ヨーロッパから日本に来るためには、世界で一番天候が悪いとされるアフリカの希望峰を回り、灼熱のインド洋を通り、海賊が出没するマラッカ海峡を抜け、台風の巣と言われるフィリピン沖と台湾沿岸を通らなければならなかった。日本に来た宣教師や医師たちはタフで冒険心に満ちていなければならなかった。こういうことを話してもらえれば歴史の授業に興味を持てたのだが。 著者はシーボルトの実像をシーボルト自身が書いた日記や手紙、書籍などの資料から明らかにする。 シーボルトはもちろんのこと、徳川家斉や間宮林蔵などの人物の実像が関係者たちの書簡によって明らかにされていく過程は、題名が示すようにミステリーを読む思いがした。特に印象深かったのは樺太や間宮海峡の発見者として知られている間宮林蔵の正体が明かされるところだ。日本史の授業だけではそこまでは知ることはできない。知れば、日本史の授業がどんなにワクワクするものであったろう。 著者はオランダ在住のシーボルト研究家である。現在73才の著者は44才の時に本書を発行し、その後は翻訳書以外の書籍は執筆していない。シーボルトに関しては本書で全て書き切ったのだろう。 (2021.11.22) |
---自省録---by マルクス・アウレリウス |
第16代ローマ皇帝であり、ストア派の哲学者でもあったマルクス・アウレリウスの自戒のための覚書である。ここには著者の後悔と悔い改めと希望が繰り返し書かれている。著者は書斎派の哲学者を望んでいたが、実際には戦いに明け暮れながらの哲学者であった。 そのことを著者は継母と実母の例で説明する。「もし君が同時に継母と実母とを持っているとしたら、君は前者に仕えはするであろうが、 しかし君が絶えずもどって行くのは実母のもとであろう。 宮廷と哲学は君にとってちょうどこのような関係にある。後者のもとへしげしげと帰って行き、そこで憩うがよい。そうすることによって君に宮廷生活が我慢できそうになるのだし、また君自身も宮廷生活にとって我慢がなりそうな存在となるのだ」(第6章12項)と述べる。現代に生きるわれわれにしてみれば、哲学に戻る時間があるから、日々の仕事をすることができる、といったところだろう。 第5章16項の中で、「生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない。・・・ 無知と自負のほうが知恵よりも力強いとはまったく不思議なことだ」と述べている。こんな生真面目な人がローマ皇帝を務めるのは、どんなに大変だったことだろう。 公的な生活ばかりではない。解説によると「養父アントーニーヌスが逝去してからは その周囲に心を打って話し合えるような人はいなかったのではないかと思われる。 妻ファウスティーナについての忌わしい噂はともかくとして、彼女が良人の高邁な精神を理解しえなかったのは事実のようである。また義弟のルーキウス・ウェールスは凡俗な人間であったし、息子のコ ンモドゥスは肉体のみ発達して知力も道義心も伴わぬような野性の人であった」、ということは、彼は私生活でも大変だったのではないか。「無知と自負(うぬぼれ)のほうが知恵よりも力強い」ことは身の回りのさまざまなところで見聞きし、体験する。紀元2世紀の、ローマ人の、しかも皇帝であった人だが、身近に感じざるを得ない。 第2章14項、「たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。・・・人が失いうるものは現在だけなのである」という言葉は力強い真実である。 第5章3項、「すべて自然にかなう言動は君にふさわしいものと考えるべし。その結果生ずる他人の批評や言葉のために横道にそれるな」。自分を信じて他人の意見に振り回されるな、とは皇帝として常に自戒していたのではないだろうか。 第9章42項、「他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うて見よ、世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか、と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな」とは力強く、実際的な言葉である。確かにそうだ、と思わざるを得ない。 第12章8項22項25項で、「すべては主観にすぎぬ」「その主観は君の力でどうにでもなる」「主観を外へ放り出せ」、とたびたび主観の弊害について述べている。著者が人生の困難に苦しみつつも、前進することを止めなかった勇気の言葉である。 この書を翻訳した神谷美恵子氏(1914-1979)は精神科医であった。精神科医としての著書、翻訳書、エッセイは数多くあるが、哲学書の翻訳は本書のみである。本書は翻訳者にとっても生涯を通しての座右の書であった。 (2021.11.19) |
---だからどうしたというわけではないが。---by 目黒考二 |
目黒考二(本名)または北上次郎(筆名)の書評はよく読んでいる。 彼が評価する本はどれも面白そうだ。「記憶の放物線」、「感情の法則」。彼が誉めた本は読まざるを得ない気にさせられる。 実際に読んでみるとそうでもない。面白がる感性が違うのだろう。誕生日を調べてみると、1946年10月9日。年月日は9紫火星、6白金星、5黄土星となる。派手好きで、人のことは気にせず、独自の道を歩む、という生まれである。読者が彼の言うことに引きずられて、勧められた本を購入してしまうのも仕方がない。 「話は映画本から始まって」「ミステリー作家の自伝と池袋」「海を渡った日本人のこと」「放浪する人たち」「白球と中学生」「犬が好き」「図書館めぐり」「編集稼業」「実話雑誌の青春」「本に関する本」「旅暮らし」「最終回」という12の章の題名に沿って本を紹介している。 「話は映画本から始まって」では隆慶一郎の「影武者徳川家康」を、「ミステリー作家の自伝と池袋」では石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」を、「海を渡った日本人のこと」ではイザベラ・バードの「日本奥地紀行」を紹介している。 「編集稼業」と「実話雑誌の青春」では自らの20代の頃の思い出話を語りながら、小林勇の「蝸牛庵訪問記」や阿部牧郎の作品を紹介している。 どれも面白そうなので困る。読んでみなければわからないが。 (20211.11.16) |
---広域指定---by 安東能明 |
シリーズ唯一の長編である。児童の誘拐殺人をめぐって被害者家族と警察の人間模様が描かれる。 被害者一家は綾瀬に住み長女は綾瀬小学校の5年生である。東綾瀬公園で見られたのを最後に行方を絶った女児が、柏市の国道6号線と16号線の交差するあたりの山林で発見される。以前柏市で発生した幼女殺人事件の容疑者だった男は今、綾瀬の弘道に住んでいる。 綾瀬署の関係者は警視庁、千葉県警と合同で広域指定事件にしたいが、お互いのセクショナリズムが影響してうまくいかない。著者は本庁と所轄署、所轄署同士の意地の張り合いを描いていく。 同じ会社でも部署が違うと張り合ったり、邪魔をしたりということがあるが、どの世界でも一緒だと思った。 単純だと思われた事件は、思わぬところからベクトルの方向がずれ始める。最後は人間関係の問題になる。 (2021.11.13) |
---総力捜査---by 安東能明 |
「罰棒」「秒差の本命」「歪みの連鎖」「独り心中」「総力捜査」の5篇が収められている。いずれも綾瀬署の柴崎課長代理が主人公である。 事件は所轄の綾瀬署管内で発生したものに限られる。 「罰棒」、本部でパワハラをした警官が綾瀬署に左遷され、柴崎の管理下に置かれる。彼がしたパワハラはいじめだったのか、それとも妥当なものだったのか。 「秒差の本命」、江北橋交差点で発生した轢き逃げ事件を追う柴崎。 「歪みの連鎖」、六木交番に勤務していた婦人警官が同僚からセクハラされる。署内の人間関係を取り扱うのが警務課の仕事である。課長代理として柴崎は真実を突き止めなければならない。 「独り心中」、五反野の廃屋で発見された心中死体。柴崎はその経緯を追ううちに、思いがけない展開になる。 「総力捜査」、青井兵和通り商店街の貸しビルにヤクザが転居してきた。町内会の役員を中心に、綾瀬、千住、西新井、竹の塚の4つの管轄署が合同で対策にあたる。バックアップをする柴崎は、同時に別の事件が起きていることに気づく。 柴崎課長代理は当分綾瀬署から抜け出せそうもない。 (2021.11.12) |
---ぼちぼち結論---by 養老孟司 |
解剖学者・養老孟司氏のエッセイである。養老氏は解剖学者としてよりもエッセイスト、コラムニスト、昆虫愛好家としての方が有名である。 解剖学者としての氏は理論や研究者ではなく、臨床の学者に徹している。自分が見たものしか信じない、という態度はエッセイやコラムを書く場合でも、昆虫を整理する場合でも同様である。 養老氏は社会で起きていることに対して他人の意見に惑わされることなく、自分が考えたことをそのまま書いている。 日本は中国や韓国から過去の戦争に関してあれこれ言われてアタフタするが、反日と言われてアタフタする必要はない。済んでしまったことに対して侵略だと言われても、もはや済んでしまっていることなので痛くも痒くもない、と述べている。「後ろめたいままで上手に行動できるのが成熟するということである。韓国や中国が反日をいうのは、国民国家として若いからである」と述べている。大人の意見だと思った。確かにヨーロッパの国々やアメリカなど大人の国々は第二次大戦に限らず、済んでしまった戦争に関していつまでもグダグダ言っていない。 「政治は他人に頼る典型的な仕事である。自分で仕事をしていれば、自分が怠けたら、仕事が進まない。うまくいっても、まずくいっても、自分のせい。それが一番安心できる」というのが著者の基本的な姿勢である。全面的に賛成である。政治家なんかとてもする気にならない。 「信念とは、強い感情的経験に基づくために、おかげで変えようがなくなった考え方をいう。私はそう定義している。子どものときの体験が重要なのは、それがあるからであろう。 子どもの感受性は強く、大人になってから同質の体験をすることは不可能に近いのである」というのも興味深い。良い子供時代を送らなければ誤った信念が身についてしまう。親の責任重大である。そう考える親が多ければ良いのだが。 養老先生、ぼちぼち結論などと言わず、どんどん意見を発表してほしい。 (2021.11.11) |
---消えた警官---by 安東能明 |
「護符の年輪」「火刑」「目撃者」「紐の誘惑」「消えた警官」の5篇が収められている。 「護符の年輪」で噂に出てきた警官が、最後の「消えた警官」で登場する。 いずれの事件も綾瀬署管内の狭い範囲で発生する。失踪、DV、窃盗、強盗等、狭い広いに関わらず、人間が生活しているところには必ず発生するドラマである。 警務課の柴崎は事件を担当する刑事課や交通課の警官と共に事件にあたる。大掛かりなトリックや謎はない。柴崎や同僚がちょっとした不自然さ、つい見過ごしてしまうある事に気づくことから、もつれた事件の糸はほぐれ始める。 われわれが探し物をする時、盲点となっている場所にはなかなか行き着かないが、見つかってみると、なんだこんなとこにあったのか、と愕然とする。そういうちょっとした驚きを味わうことができる。 筆者の住まいから綾瀬警察署まで歩いて45分、車なら10分程度である。綾瀬署は綾瀬地区のほぼ真ん中に位置しているので、地域内のどこからでもその程度の距離にある。小説中で起こる事件の場所は筆者の散歩コースの途中であったり、買い物へ行く途中であったりする。 綾瀬署シリーズは今の所、2020年発行の本書が最後である。続きを執筆されるのかどうかわからないが、綾瀬署管内に住む読者としては期待して待っている。 (2021.11.6) |
---伴連れ---by 安東能明 |
「掏られた刑事」「墜ちた者」「Mの行方」「脈の制動」「 独立した短篇であるが、すべて読み終えてみると、「掏られた刑事」で警察手帳を掏り盗られた新人刑事・高野朋美の警察官としての成長の記録とも読める。 初めは一人前の警察官として認められていなかった彼女は「脈の制動」のラストで先輩の警察官たちから、「やったな」とか「「今度一杯、つき合え」とか「頼むぞ」とか言葉をかけられる。 「伴連れ」では柴崎らが気づかなかったある人物の挙動から真実を探り当てる。 それぞれの作品に散りばめられた綾瀬の街の点景が生きている。 自分を左遷した上司に復讐し、警視庁に戻ろうとしていた柴崎は、本庁の先輩から戻るつもりならなんとかしてやる、と誘われた時に口を濁して良い返事をしなかった。綾瀬署の勤務が気に入り始めたようだ。 (2021.11.5) |
---撃てない警官---by 安東能明 |
「撃てない警官」「孤独の帯」「第3室12号の囁き」「片識」「内通者」「随監」「抱かれぬ子」の7篇が収められている。著者の綾瀬署シリーズの第1作目である。 「撃てない警官」では警視庁総務部企画課にいた柴崎がある事件の失敗の責任を取らされ、所轄署の綾瀬署に左遷させられる。係長から課長代理になるので栄転かとも思われるが、本庁の係長の方が所轄署の課長代理より格上らしい。柴崎はがっかりしてうまく逃げ切った上司の中田課長に復讐を誓う。 「孤独の帯」、綾瀬署にアパートで老女が「ジコウシ」している、と連絡が入る。柴崎は「事故死」の間違いではないかと思う。「ジコウシ」は「自絞死」、自殺のことだった。総務部から警務部に移った柴崎は刑事事件を扱ったことがなかった。果たして自殺だったのか、それとも他殺だったのか。ラストの上司の言葉「現行犯でなくて悪いがな」が光る。 「随監」。交番の警官がなぜか出された被害届を署に上げない。出さなかった警官は地域の住民に信頼されていた。副署長の助川は警務課の柴崎に調査を命令する。 会社の総務部に相当する部所に所属する警官が、「なぜこんなことを俺が・・」と思いながらも鋭い観察で事件を解決する。舞台は足立区の外に出ることはなく、地域限定型の警察小説である。 (2021.11.4) |
---わが人生の時の会話---by 石原慎太郎 |
「わが人生の時の時」の続編である。本作では63才の著者が過去を回想する。58才だった前作より、年を重ねた分落ち着いた内容になっている。次作の「わが人生の時の人々」では著者は70才になっている。それぞれ興味深く読める。 東京都知事だった頃の著者は傍若無人、傲慢 、横柄、高飛車という印象であった。新人の頃から文壇の権威・小林秀雄に意見をするなど傍若無人であったようだ。 「わが人生」三部作を読むと、緻密な文体、的確な論理、適切な語彙を駆使し、軽いエッセイというよりも文学作品を読んだ気分になる。作家としての力量の確かさを感じる。 テーマは多岐にわたっているが、大きく分類すると「海」と「人間」に分けられる。 「海」ではヨットレースやスキューバダイビングで遭遇した様々なこと、「人間」では著者が出会った様々な人々の話が語られる。ニクソンや源田実などの政治家、金田正一などのスポーツマン、ボクサーなど有名な人々。映画の照明の人、バーテンダー、ヨットのクルーなど無名な人々。それぞれ著者でなければ聞き出せないことをうまく引き出している。 20代の著者に意見された小林秀雄が怒っていないことが示すように、傍若無人ではあるが、相手に対して繊細な心遣いを持てる人なんだろう。 前作では病床の弟を看取る話「虹」という章で終わっていた。本作は病床の弟を訪ねてよもやま話をする「最後の会話」という章で終わっている。まるで映画の1シーンのような感動的な章である。 (2021.11.3) |
---ラッセル結婚論---by バートランド・ラッセル |
本書はバートランド・ラッセルの人間論の中の一冊である。人間論には他に「ラッセル教育論」と「ラッセル幸福論」がある。 本書は1929年、ラッセル57才の時に書かれた。第二次対戦前に書かれた本であるため、現在考えられている倫理とは少し違う。この時代、性に関して現在よりタブーが多かった。そのことを考慮に入れて読むと、本書には納得できる点、教えられる点が多かった。 著者は、「夫婦関係を考察するときに持ちあがってくる、ある性的な関係は、 ほかの関係よりも価値があることは明らかである」と述べる。「性関係は、もっぱら肉体的な場合よりも、精神的な要素をたっぷり含んでいる場合のほうがすぐれている」、さらに「性関係の中に当事者の人格がより多く投影されれ ばされるほど、愛の価値も増してくる」と述べる。これはまさにその通りである。筆者も夫婦間の重要なコミュニケーションの手段である、と考えている。 キリスト教の創始者、聖パウロによって「コリント書」の中で書かれたことが、キリスト教の清教徒的な性格を決定した。この中で夫婦間の生殖はやむを得ずすることで、楽しみのためにしてはならない。できるならぱ人々は未婚のままで過ごすのが良い。と書かれている。性におおらかな他の宗教に比べて、キリスト教は非常に厳しい。イスラム教が性に対してさらに厳しいのはその出発点がキリスト教であったためだろう。 「愛と子供と、仕事は、個人と世界のほかの人びととの実り豊かな接触の大きな源である」と主張する。特に「子供のない結婚は、結婚の名に値しないだろう」とたびたび述べている。現在からすると、いかにも戦前の考え方だ、と思う人が多いのではないだろうか。筆者はラッセルの考え方に賛成する。自分の人生の中で一番充実していた時期は、子供と共に過ごした期間であったことを実感している。 著者は本書で「恋愛」「結婚」「家族」「女性の解放」「離婚」「人間の価値の中の性の位置」について、誠実に考察する。時には「えー、こんなこと言うの??」ということまで述べている。 バートランド・ラッセルは1950年、78才の時にノーベル文学賞を授与し、1952年、80才の時に4度目の結婚をした。イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家である。 (2021.11.1) |
---出署せず---by 安東能明 |
警視庁本部から所轄の綾瀬署に左遷された警務部課長代理の柴崎が主人公。警務部とは犯罪捜査に関わる部門ではなく、人事・会計などを担う管理部門である。 横山秀夫が登場するまでの警察小説は「87分署シリーズ」や「マルティン・ベック・シリーズ」のように現職の刑事が活躍する物語であった。横山秀夫は「陰の季節」「動機」で裏方の警察官を登場させ、警察内部の人間関係をエンターティンメントに仕立てた。 本書では警務部という裏方に左遷された課長代理を主人公にすることによって、事件を追う刑事たちを裏側から描いてみせた。 本書には「折れた刃」「逃亡者」「息子殺し」「夜の王」の短篇と「出署せず」の中篇が収められている。 いずれも警察内部の機構と人間関係が描かれ、興味深い。全体のタイトルになっている「出署せず」は真相が二転三転する内容も含めて力の入った作品である。 (2021.10.28) |
---草原の記---by 司馬遼太郎 |
チンギス・ハーン(成吉思汗)は今のロシア、中国、トルコを含む地球の半分を制覇した。ローマ帝国より広大なモンゴル帝国は、ローマ帝国のように何世紀にも渡って存続することはなかった。息子のオゴタイ・ハーンを含めてわずか二代で地球上から消滅した。なぜだろう、と著者は考察する。 そこには草原の民=遊牧民のライフスタイルが関係していた、と論ずる。 著者がモンゴルを訪問した時の案内人・ツェべクマさんを通して、モンゴルという国を考察する。 ツェべクマさんはシベリアで生まれ、満州で育ち、モンゴルに亡命した。現在国営のウランバートル・ホテルに務める女性である。 モンゴルの歴史と現在モンゴルで生活する人々の生活を、旅人としての著者は考察する。 (2021.10.27) |
---わが人生の時の人々---by 石原慎太郎 |
「青春の中の青春」「講演旅行 文士たちの生態」「水上勉を泣かした小林秀雄」「三島由紀夫という存在」「文壇のゴルファーたち」「文士劇の迷優たち」「ナイトライフで会ったキャラクターたち」「血なまぐさい世界の男たち」「芸能界の変わった人たち」「素晴らしいアスリートたち」「政財界のビッグショットたち」「日生劇場の夢」「かつて同世代の仲間たち」の13篇のエッセイが収められている。 著者は24才の時に「太陽の季節」で芥川賞をとった。その後立て続けに「狂った果実」「日蝕の夏」「完全な遊戯」等の話題作を発表し、時代の寵児になった。 本作は2002年、著者70才の時に出版された。「わが人生の時の時」では人生で遭遇した興味深い出来事を書いた。本作では人生で遭遇した興味深い人々を書いている。 「講演旅行 文士たちの生態」「水上勉を泣かした小林秀雄」「三島由紀夫という存在」「文壇のゴルファーたち」「文士劇の迷優たち」では作家たちのゴシップ話を、「ナイトライフで会ったキャラクターたち」では弟裕次郎に案内されて、夜の交際関係を、「血なまぐさい世界の男たち」では関係のあったヤクザとその世界を描いている。その他、スポーツ選手、政治家、日比谷に理想の劇場を作る過程等、興味深い話に満ちている。 映画界の天皇といわれた黒澤明監督について。当時の東宝の専務が「あの男の資質はごく下司なもんですぜ」と言ったり、「実はどこかひ弱なもろいものを持っていたに違いない」と想像したり、後期の作品はどれも観念的、説明的で鑑賞するに値しないと断定したりする。 またジョン・F・ケネディ対リチャード・ニクソンの大統領選挙ではケネディが票を誤魔化していた。本当はニクソンが勝ったいたのだがアメリカの名誉を守るためにケネディに譲った。その後大統領になったニクソンの方が圧倒的に実績を上げている。と述べている。 戸塚ヨットスクールの話題で、ローレンツの「子供の時代になんらかの肉体的な苦痛を味わうことのなかった子供は成長して必ず不幸な人間となる」という説を紹介し、脳幹を鍛えることの重要性を述べている。 若くして世に出ただけに著者の交友関係は広く、深い。 (2021.10.22) |
---焼跡のイエス・処女懐胎---by 石川 淳 |
「 「葦手」、語り手である作家の黒木喬、清元卯太夫を名乗る遊び人仙吉、質屋の若旦那・薩摩屋銀二郎は中学校以来の友人である。この三人のグダグダした交友を著者独特の文章で描く。 「山桜」、語り手が親戚に金を借りにいく。金は借りたが剣もほろろの扱いを受ける。なぜだろう。その説明はない。 「マルスの歌」、冬子と帯子の姉妹。冬子は自殺し、お通夜が明けた朝、残された夫と帯子は熱海の海へ遊びにいく。自殺の理由と妻の妹との旅行の説明はない。まるでカフカの作品のようだ。 「張柏端」、張柏端という超能力者の 「焼跡のイエス」、昭和21年の上野の焼け跡でうろつく浮浪者の少年をイエス・キリストに見立てる。すばしこくて抜け目のないキリストである。 「かよい小町」、もうひとつの「墨東綺譚」というような作品。著者と思われる作家がふと入り込んだ色街、両国の東南40分だからまさに玉ノ井か鳩の街あたりか。戦前の昭和の風景である。 「処女懐胎」」、上流階級の人々の物語。著者が語ると、別の世界の出来事のように思える。 「変化雑載」」、寺が境内で経営する居酒屋。その女将の話。非現実的な世界を土俗的に語る、著者独特の技が冴える。 「喜寿童女」、77才の老女が10才の童女に変化して性の世界に飛び込んでいく。 石川淳は身の廻りのあらゆる物事を土俗的な民話のように語る。その方法を継いだのが「赤目四十八瀧心中未遂」の作者・車谷 (2021.10.20) |
---至福千年---by 石川 淳 |
時は江戸時代末期、隠れキリシタンの頭目・加茂内記は乞食、下人、非人を集めて、革命を起こし、幕府転覆を画策している。それを防ごうとする別の派閥の隠れキリシタンを率いる本所竪川の松師・松大夫。両者の戦いは江戸の闇の中で密かに続いている。 加茂内記は俳諧師の幻術使いのじゃがたら一角、更紗職人の東井源左こと 「そのもの教団を率いて立つときは、下知にしたがって、江戸府内はもとより関東の乞食一統、それにつれて非人ども、つねづね人外と見捨てられたものども、みな一度にふるいおこっ て、陰に陽に、ずいぶんはたらいてくれるであろうな。ぬすびともまたこれに加われば、いきおい原を焼く火となろう。 地上楽園は、なかんずく、かれらのためにあるものを」、という小気味の良いセリフとともに。 狂言回しとして元旗本で俳諧師の一字庵 一字庵 (2021.10.17) |
---無名---by 沢木耕太郎 |
エッセイ風の私小説である。89才で逝った著者の父親の最後を描いている。 実業家の跡取りとして生まれた著者の父親は戦後の混乱期に財産を全て失う。その後は中年に至るまで定職を持たず、家計は妻の働きに頼る。アルバイトのように勤めていた溶接工場で技術を磨き、独立する。その後はガス溶接の経営者兼職人として働く。趣味は酒と読書。58才になってから始めた俳句。背が高く、彫りの深い顔立ち、いつも穏やかな紳士。著者は父親から声を荒げて怒られた経験がない。 著者は父親を、「生活全般に対して不満のないひとだった」。家の金を競馬に注ぎ込んで失ったのを妻に注意されて、「ギャンブルは生涯することがなかった」、とそのいさぎよさを感じている。 著者沢木氏は23才の時に「防人のブルース」でデビューし、32才の時に「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞を、35才の時に「一瞬の夏」で新田次郎文学賞を受賞し、若くして華々しく活動している。反面、74才の今日まで実名を明かさず、家族のことも伏せている。生涯無名の人であった父親に共鳴するものを心の奥に持っているのだろう。 著者は父親が遺した350句の俳句の中から280句を選び、句集を作る。題名は「その肩の」。著者の好きな句、「その肩の無頼のかげや 筆者は「菜の花の宙に浮かびて蝶となる」の幻想的でふわふわした感じが良いと思った。 (2021.10.12) |
---酒とタバコ---by 沢木耕太郎 | ||||||||
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(2021.10.11) |
---書き換えられた聖書---by バート・D・アーマン |
新約聖書は紀元100年〜200年ころ、パウロまたは彼の弟子たちによって書かれた。パウロはユダヤ教を進化させたキリスト教の創始者であった。当時、ほとんどの宗教は多神教であった。パウロは一神教であるキリスト教をとなえ、明文化することによって自分がとなえた宗教を普遍的なものにすることをもくろんだ。 初めの新約聖書はパピルスに書かれた。それは写本によって後代に残された。パピルスは羊皮紙に代わった。1445年頃にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明するまで写本は続いた。 プラトンもアリストテレスも紫式部もその著作はひとが手で書き写す写本によって生きながらえてきた。プラトンの対話篇より500年以上あとに書かれた新約聖書も例外ではない。ひとによって何度も何度も書き換えられることによって生き延びてきたのである。 写本はひとの手によって写されるわけだから一字一句正確というわけにはいかない。聖書の場合、哲学や文学と違うところはそれが信仰の対象だからだ。聖書の文章には1センテンスごとに番号がふってある。照合するときに第何章の何行目ということが問われるからだ。教会では神父や牧師が一字一句を解説する。 新約聖書は写本をした書記の思惑によって少しずつ書き換えられた。発見された場所や年代によってシナイ写本とかアレキサンドリア写本とかいわれている。現在、何万冊という写本があり、数万ヵ所の異文が存在する。どれがオリジナルに近いのかはわからない。古いから正しいというものでもないらしい。 改竄の例としてあげると、姦通した女を責める群衆に対して「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、 まず、この女に石を投げなさい」という有名な箇所が実はオリジナルには無かった。イエスが盲人の目を治すシーンで、「憐んで治した」と「怒って治した」の2通りのバージョンが残されている。著者は「怒って治した」の方がオリジナルであろうと述べている。古代の書記はそれでは不自然だろうと気を利かせて「憐んで治した」と書き換えたのだろう、と推測している。 著者はアメリカの新約聖書学者で、歴史的なイエス、初期キリスト教の起源と発展を研究している。古い写本の異文の中からわずかな手がかりをもとに、オリジナルに近い新約聖書を追求している。壁に付着したわずかな血痕をもとに犯人を探し出そうとするシャーロック・ホームズのように。 (2021.10.10) |
---狭小邸宅---by 新庄 耕 |
主人公は大学を出てから不動産屋に就職する。大学の同級生は商社だったり、ゼネコンだったり、それなりの大企業に就職している。 上司は怒鳴りまくり、時には暴力をふるう。毎朝7時半出社、帰宅は夜11時過ぎ、土日は出勤、水曜日が休日だが、同僚は出社している。帰る時間がいつもより少し早いくらいだ。典型的なブラックな会社だ。 筆者なら2、3日で辞表を提出するところだが、主人公はここで頑張ろうと思う。 そういう自分を理解してくれる恋人もできる。どんなにら遅くなっても夕飯を作って待っていてくれる。 そのうちに家が売れ始める。さらに仕事にのめり込んでいく。彼女にも辛く当たるようになる。 著者は日本のサラリーマンのひとつの雛形として、この主人公を創造した。主人公が今後どうなっていくのか明らかにしないまま、物語を終えている。 仕事を選ぶのか、家庭や家族との人間関係を選ぶのか。あなたならどうしますか。という命題を読者に投げかけて物語はフェイドアウトする。 (2021.10.7) |
---246---by 沢木耕太郎 |
沢木耕太郎の1986年1月10日から9月10日までの日記である。1年間の日記ではなく、9月までで区切ったのは自分に割り当てられた雑誌連載の期限が来たからというだけのようだ。 沢木氏は日記をつける人ではない。これは初めから雑誌に連載するために書かれた日記なのだ。永井荷風の「断腸亭日乗」を少しは意識しているかもしれない。 「246」という題名は沢木氏の自宅と仕事場を結ぶ国道の名称から採られた。内容とはあまり関係ない。 日記の形式をとっているが、内容はエッセイに近い。河野洋平氏との酒場での会話、2才半になる娘との会話が延々と書かれていたり、映画評が書かれていたりする。また、養蜂家の一家と共に、軽トラックに蜂箱を積んで、鹿児島から帯広までの旅をしている。 映画では「アグネス」「再会の時」「ローカル・ヒーロー」が面白かったと述べ、なかでも金子正次の「竜二」に感動して、金子のシナリオ集を購入して読んでいる。 「野球ではほとんど誰も大リーグには通用しまい」と述べているが、その後のイチローや大谷の活躍をどう思っているだろう。 この日記を書いた38才の時点で、河野洋平や吉行淳之介ら有名人と酒場で飲む機会が多いのに驚いたが、「夜、ひとりで、呑む。新宿で呑み、渋谷で呑んだ」というような記述が何ヵ所かあり、外交的で陽気な外見とは別の面も持っている人だと思った。 (2021.10.6) |
---スクールガール殺人事件---by コリン・ウィルソン |
「アウトサイダー」の著者による警察小説である。著者の初めての警察小説であり、最後の警察小説である。 基本的に評論家である著者はSF小説、オカルト小説も書いている。 本作では殺人事件を担当した刑事の地道な捜査を丹念に追いかけている。丹念な捜査の結果、真相が徐々にわかってくるが、そこに飛躍はなく、驚きもない。 実際の警察の捜査を調べ、嘘のないように注意深く書いたに違いない。嘘がないだけにアガサ・クリスティの作品のようなサプライズがない。謎が多いうちは興味深く読み進めるが、刑事の地道な捜査によって真実があきらかになっていくうちに、徐々に読み進めるためのモチベーションがなくなってくる。 エンターティンメント系の作家たちはその辺がうまくて、真相はページの終わり近くまであきらかにしない。 (2021.10.4) |
---彼女が演じた役 原節子の戦後主演作を見て考える---by 片岡義男 | |
第一部、第二部、第三部に分けて、原節子の演技が語られる。メインは第二部であり、第一部と第三部はそれの全編と後編という役割を持たされている。 著者は第一部で取り上げた6本の作品を原節子は不満足に感じていただろうと推測する。6本の作品は以下である。
いずれも名監督である。著者はどの監督も原節子のクリエイティヴな能力を活かしきれていない、と述べる。 原節子のクリエイティヴな能力とは「もっとも大事なのは、目と唇だ。目とは、まつげや目の動きなども含めた、特に目を伏せるときに表現される内面の深さ、そしてその深さを可能にしている意志の強靱さのことだ。目もと、という言葉があるが、原節子の目もとには不思議な随意筋が密やかに、しかし確実に存在し、目を伏せるとこの随意筋が常に活動する」と著者は述べる。 そして第二部でメインの作品を紹介する。以下の3作である。
主人公の名前が全て紀子であることから「紀子3部作」といわれている。著者は男性の主人公の名前が全て周吉であることから「周吉3部作」ではないかと問いかける。考えてみるといずれの作品も老年期に達した男性の孤独をとりあげている。「晩春」で娘の結婚式から帰宅し、ひとりでりんごを剥く笠智衆の姿、「東京物語」のラストで、妻の葬式を終えた笠智衆が近所のおばさんのあいさつに「うーん」という姿に自分の行く末を思わない男性はいないのではないか。 女優原節子の演技に関して著者は、「原節子の顔立ちが映画的に最高度にその機能を発揮するのは、謎と言っていいほどに深い内面での、強靭な意志の渦巻きを表現するときだ」と述べる。さらに「他愛ないストーリーに美人を出演させ、演出どおりの演技を引き出せばそれでいいというような映画に、原節子はむいていない」という。上記の三部作に出演できたことで彼女は演技者として満足したのではないか。 第三部での原節子は脇にまわっている。「東京暮色」では有馬稲子と山田五十鈴が圧倒的だし、「秋日和」では佐分利信、中村伸郎、北竜二の三悪オヤジの存在感が強烈であった。
1963年12月12日、小津監督が亡くなり、その通夜に出席したのを最後に原節子は43才で女優業を引退した。2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で95才の生涯を閉じるまで人前に姿を見せることはなかった。 (2021.10.2) |
---本をどう読むか 幸せになる読書術---by 岸見一郎 |
哲学者岸見一郎氏による読書に関するエッセイである。 アルフレッド・アドラーは「ライフスタイル」は4〜5才で決定される、と述べている。アドラーのいう「ライフスタイル」とは、「自分や他者をどう見るか、また、何か問題を前にした時にそれをどう解決していくかを決める」ことである。その後はライフスタイルを大きく変えることはない、という。 「寝食を忘れて本を貪り読むいうのは生きる喜びだ」と著者は述べる。 「読み始めて面白くなければ本を閉じる勇気を持たなければならない。 面白くないというのはその本がよくない本だからというわけではなく、多くの場合、今の自分には必要でないから」である、と述べる。 このことは経験上間違いないと思う。筆者も何年も何十年も読みかけては中断していた本が、ある時急に興味深く読めるようになったり、今までとは別の解釈で読んでいたりしたことがある。前者は「戦争と平和」であり、後者は「現代の英雄」である。 「読書は生きることと同じであって、目的地に着くことが目的ではありません」、「過程を楽しまなければ読書は意味がありません」、「翻訳をするように読む。翻訳は時間をかけての遅読、熟読です」、と著者は繰り返し遅読を勧める。 「原書を読むのはフルカラーの世界を垣間見るようです。それに対して、翻訳はモノ クロ写真のようです」、と述べ、なるべくなら原書で読みなさい、と勧める。俳優の児玉清さんはテレビ番組の中で、好きな作家の本をなるべく早く読みたいので原書で読んでいる、と言っていた。 著者は余談で原稿を書くときはパソコンのアウトラインプロセッサを使っている、と述べる。文章の組み替えが自由にできて、頭の中を整理しやすいのだそうだ。 本にまつわる話はキリがない。そして、誰かに話したいものである。 (2021.10.1) |
---by 沢木耕太郎 |
31才の沢木耕太郎が28才の藤圭子にインタビューした記録である。著者の沢木はこの作品を封印していたが、2013年8月22日、62才で自死した藤圭子のポトレートを遺す意味で、同年10月に出版した。 著者が後書きで書いているように、このインタビューには28才の彼女の印象が鮮明に描かれている。著者は最初この本に「インタビュー」という題名をつける予定だった。それは本書には地の文が無く、会話の文章だけで作られているからである。インタビューが行われた1979年当時、それは画期的な試みであった。今でも画期的かもしれない。 藤圭子は1969年にデビューし、1979年に引退した。活動期間はちょうど10年であった。そのうち彼女が自分の歌唱に満足できたのは、1974年、喉のポリープの手術を受けるまでの5年間であった。五木寛之は彼女のデビューアルバムを聴いて、「これは「演歌」でも、「艶歌」でもなく、まちがいなく「怨歌」だと感じた」と評した。 インタビューはホテルニューオータニ40階のバーで行われた。その後何回か行われたインタビューは初めぎこちなかったが、沢木氏が4年前、「深夜特急」の旅が終わる直前、パリのオルリ空港で彼女に会ったことがあると告げたあたりからかみあい始めた。後半あたりでは「馬鹿ですね」「馬鹿だよね。あたしって、いつでもこうなんだ・・・」、と親しげなものに変化している。 テレビで見る彼女は無口な印象だったが、このインタビューでは積極的にいろいろなことを話している。どうやら無口に見えたのは人見知りということもあるが、弱い声帯を守るためだったらしい。 インタビューは引退する直前までの藤圭子の生の声を伝えている。彼女は28才の女性として、今までの自分の人生や考え方を素直に語っている。 その後彼女はハワイの語学学校で英語を勉強し、結婚し、子供を産む。子供には光と名付ける。女の子だった。女の子が5才になった頃から精神が不安定になる。夫とは7回の結婚と7回の離婚を繰り返す。15才になった女の子を歌手としてデビューさせる。芸名は本名をそのまま使い、宇多田ヒカルとした。ヒカルが脚光を浴びるにつれ、彼女の精神状態はますます悪くなった。大金をギャンブルに費やし、大酒を飲んだ。2013年8月22日、新宿のタワーマンションの13階から飛び降りた。 沢木氏は本書の原稿を製本して藤圭子に贈った。藤圭子から許可をもらっていたにもかかわらず、出版しなかった。1979年から2013年まで34年間封印したコピーを、彼女へのたむけとして出版した。宇宙の彼方から飛来した星のかけらが、地球の周りをとり囲む酸素と反応して燃え尽きる。その瞬間の (2021.9.30) |
---哲学散歩---by 木田 元 |
木田元先生の遺作である。病床で雑誌に書き始めた哲学エッセイが途中で書けなくなり、先生は亡くなった。 病床で書いたとはいえ、いずれの章も木田先生らしくユーモアのある文章で綴られている。 「書物の運命 これもまた?」、ではアリストテレスが書いたと言われる143の本が現在では1冊も残っていない。今我々が読むことができるアリストテレスの本はすべて彼の「講義録」であり、彼が意図して残そうとしたものではない。2,500年という歴史のふるいにかけられ、残っているということは奇跡的なことである。皮肉なことに残されたものは本人が大切であると考えたものではなく、読者が残したいと思ったものであることだ。 「ある交友 ハイデガーとヤスパース」、では次々に論文を発表して脚光を浴びるヤスパースに対して、講義は刺激的だが論文のないハイデガー。貴族的でスマートなヤスパースに対して農夫のようで野暮ったいずんぐりむっくりのハイデガー。ところが、1927年2月に、ハイデガーが「存在と時間」を発表すると「まるで稲妻のように閃いて、見る間にドイツ思想界の形勢を変えた」。この一冊で、ハイデガーは一挙に二十世紀を代表する思想家と見られるようになる。著者の木田先生もハイデガーの「存在と時間」を読みたいばかりに東北大学の哲学科を受験する。 その他、「忘恩の徒? アリストテレス」、「アウグスティヌスをめぐる謎」、「『薔薇の名前』遺聞」、「哲学者と女性」などなど、数多くの興味深い記事が収められている。 (2021.9.25) |
---片隅の人生---by サマセット・モーム | |||||||||||
サマセット・モーム得意の南海ものである。舞台はセレベス海に点在する孤島。主要な登場人物は3人のイギリス人である。 サンダース医師は中国福建省の福州に住み、ニコルズ船長はセレベス海付近を本拠地にしている。金持ちの若者フレッド・ブレイクはオーストラリアのシドニーに住んでいたが、ある事件が原因で逃亡の生活をしている。いずれも一癖も二癖もある流れ者のイギリス人たちである。 オーストラリア北部にある孤島に住む金持ちの中国人に呼ばれ、目の治療をしたサンダース医師が帰りの船を待っている。定期船が来るのは3週間後である。 そこに現れたのが怪しげな商売で生活する船長。今は事件を起こした若者を船で安全な地域に運んでいる。サンダース医師は定期船の来る港までその船に同乗させてもらう。物語はサンダース医師の内面の描写で進んでいく。 著者の分身であるこの老医師は何事が起きても驚いたり慌てたりすることがない。 「サンダース医師は人間という同胞にあまり科学的でも人間的でもない興味・関心を抱いている。おれは彼らに楽しませてもらいたいと思っている。怒りや同情で心を動かされることもなく、冷静に人間を見つめている。数学者が問題の解決を発見したときに味わう喜びと楽しみ、医師はそれと同じ愉快な経験を人間の複雑な個性を見いだしたときに味わっている」 「奇妙なことですが、どんなに不幸であっても、たいてい終わりには良いことがあって、埋め合わせをつけてくれます。多少のユーモアがあって、たっぷり常識をそなえていれば、 たとえ不運に見舞われても、なんとかやりすごしていけるものです」 「わたしはね、わたし自身とわたしの経験以外のものは何も信じておりません。 この世界はわたしとわたしの思考とわたしの感情とから成り立っているのです。それ以外のものはすべて幻です」、と言う意見を持っている。 ニコルズ船長については、「でも、あんな生まれついての悪党に、あんな勇気があるなんて、考えられないことではありませんか。 ・・・ぼくはあいつが大嫌いです。 それでいながら、昨日の晩は、やつを称賛せずにはいられなかった」 「船長、あんたは下劣な人ですね。あんたみたいな男は見たことがない」 医師がいつも の冷ややかな口調で言った。「それはお世辞ですか? 先生。おかしいことに、あたしが世界一下劣な男だからと言って、あたしがきらいになるわけじゃないでしょう」、と言う複雑で魅力的な性格をしている。 島々の描写については、 「陽光はやわらかく弱まりつつあった。 海は赤黒い色に染まっていた。大昔オデュッセ ウスが航海した海も同じ色をしていたにちがいない。 波ひとつないなめらかな海面にうかんでいる島々は豊かな緑に覆われている。 それはスペインの僧院の宝庫に秘められている法衣とおなじ豪華な緑色だ。 まるで自然の手ではなく、人間の手が描き上げたかのようで、神秘的で妖しく、洗練された色合いだった」となかなか魅力的である。 フレッド・ブレイクは、「ああいう島は遠くから眺めるだけなら結構だよ。・・・ ところが、ニコルズ爺さんの言うとおりさ。上陸したとたん、とんでもない土地だと思い知った。どこも同じ、たちまち退散、あっさり孤島の生活なんて諦めたよ。つまり、そこにあるのは密林ばかり、蟹やら蚊やらわんさといる」と言う。 航海の途中大嵐に遭い、ようやくたどり着いた島はジャワ島の近くだった。ここには頻繁に定期船が来る。 翌日にもニコルズ船長とフレッド・ブレイクは出航し、サンダース医師は2、3日待ってから別の船でシンガポールへでも行くつもりだった。現地の商社に勤めるエリック・クリステッセンという感じの良いオランダ人に会うまでは・・・。ここから話はよじれ始め、予想外の展開になる。
サマセット・モームは同性愛者であった。サンダース医師と19才の従者アー・ケイの関係、サンダース医師がフレッド・ブレイクを見る眼、フレッド・ブレイクとエリック・クリステッセンの関係、フレッド・ブレイクが一度男女の関係を持ったフローリー・ハドソンやルイーズ・フリスをのちに嫌悪すること等、小説をよく読むと、あからさまではないがゲイの要素に満ちている。 筆者のイメージで3人の登場人物たちを俳優に当てはめてみた。
(2021.9.24) |
---彼女の哲学---by 海老沢泰久 |
「一度の機会」「十年」「彼女の哲学」「小型ボート」「ショーケースのケーキ」「ウエイター」「小田原まで」「夜の色」「すみれ荘」「将来」の10篇が収められている。 いずれも男女の気持ちのすれ違いが描かれている。昔馴染みだったホステスと久しぶりに出会い、関係が復活するかと思われたが、なんとなくうまくいかなくなる。彼女と泊まりがけでサイクリングに出かけたが、途中自転車が故障し、帰らざるを得なくなる。等々。 同性同士だとうまくいくにしてもいかないにしても、相手の気持ちを推しはかることができる。異性との関係では、あっという間に気が合うことがあり、なんとなく気持ちが合わなくなることがある。その辺の微妙な感覚を本書の10篇は鮮やかに描写する。 何とももどかしい思いの作品が続き、一気に全部読み切ることは難しかったが、最後の「将来」は未来に希望を持たせて終わり安心した。 (2021.9.21) |
---永遠の夏 戦争小説集---by 末國善己 編 | |
の14篇の短編が収められている。 いずれも名作である。極限の環境にいる時、良くも悪くも個々の人間性がはっきり現れるものである。戦争という状況はその最たるものであろう。こうしたアンソロジーが成功するかどうかは選者のセンスが重要な要素になる。末國善己氏の選定は題材や著者の年齢が広範囲にわたっており、全て的を得ている。 「草原に咲く一輪の花 異聞 ーノモンハン事件ー」 : 第二次大戦の発端になったと言われるノモンハン事件はどのようにして起こったのか。未だ明確になっていないこの事件に著者は独自の解釈を与える。なるほど。そうして起こったのか。 「蝗」 : 中国奥地の戦地。ほとんどの日本兵は中国各地にばら撒かれ、死と向き合いながら奴隷のような生活を送った。精神的な救いは粗末な食べ物と慰安婦。慰安婦は日本人や朝鮮人、中国人が調達された。現在人権問題として考える慰安婦と、当時の環境での慰安婦ではまるで状況が違う、ということがわかる。 「糊塗」 : 戦場ミステリー。敵の機銃掃射で撃ち殺された兵士は本当は味方に殺されたのか? 「抗命」 : 実話を元にして著者が構成した。戦地で撤退を指揮した中将は上司の命令に違反した。その理由は? 著者は現代の社会人にも当てはまる問題として提示する。 「硫黄島に死す」 : 1932年ロサンゼルス・オリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト、西竹一中佐は戦車隊隊長として硫黄島に配属された。バロン西としての華やかな生活と全員玉砕という悲惨な最後を描く。硫黄島の総司令官栗林忠道中将を描いた梯久美子著の「散るぞ悲しき」やクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」にも登場するが、本書の西竹一が一番生き生きと描かれている。 「連鎖反応 ーヒロシマ・ユモレスクー」を読んで、井伏鱒二の「黒い雨」を思い出した。中年の駅員が原子爆弾に遭遇し、廃墟となった広島の街を彷徨うシーンは「黒い雨」とそっくりだ。飄々とした駅員の語り口も「黒い雨」のおじさんの語り口に似ている。本編が出版されたのは1952年。「黒い雨」が書かれたのは1965年。「黒い雨」が被災者の日記をそのまま盗用したという疑いは以前からあるが、徳川夢声の作品の語り口もまた盗用されたのかもしれない。 「伝令兵」 : 現代の沖縄に戦争中の伝令兵の亡霊が現れるという話。今でも道路を掘り返すと、戦争で亡くなった人の骨が出てくる沖縄では、亡霊が出てきても不思議ではない。 「戦争はなかった」 : あの戦争は実はなかったという話。筆者が子供の頃、テレビの歌番組で「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に碇・・・」とか、「ああ、あの顔で、あの声で…」とかいう歌は普通に歌われていた。そんな歌知るか、とか言われたら主人公のような気持ちになるのも仕方がないかな。 (2021.9.19) |
---蒸発した男---by マイ・シューヴァル & ペール・ヴァールー |
一作目で運河で出会った男女の運命的な悲劇を描いた。読者にとってスウェーデンの運河は迷路のように感じた。本作では東欧ハンガリーの古都ブダペストが舞台になる。 ストックホルムの週刊誌の遊軍記者が行方不明になった。彼は東欧諸国の記事を書いている。出国記録から、ハンガリーへ行ったきり戻ってこないことがわかった。 緊張状態にある社会主義国との関係を重んじた外務省は特別な調査をスウェーデン警察に依頼し、マルティン・ベックが派遣されることになる。言葉が通じないハンガリーでの5日間のベックはどのように過ごしたかを著者たちは描写する。 我々が他国に仕事で出張するのと同じである。外国でのホテル生活。慣れないレストランでの食事。外国人たちとの交流。戸惑いの中に新鮮さも感じる異空間での生活。 ドナウ川に面したホテルから外を眺めるベックの気持ちは、外国旅行でワクワクする旅行者と変わらない。 本国と連絡を取り合いながらも、なかなかうまくいかない異国での調査活動を終えて、帰国したベックは何かしっくりしないものを感じる。 真実が判明したのち、ベックはなんとなく割り切れないものを抱きながら家族が待つリゾート地に向かう。 (2021.9.17) |
---アウトサイダー---by コリン・ウィルソン |
1931年生まれのコリン・ウィルソンは24才の時本書を発表した。経済的事情から16才で学校を去り、さまざまな仕事に就きながら空いた時間に大英博物館で執筆を続け、一気に書き上げた。夜は野宿していた。これは古今の文学作品を読み漁った著者が、その中にいるアウトサイダーたちとその成り立ちを記述した評論である。 著者がなぜ「OUTSIDER」(異端者、部外者、はみ出し者)を追求したかというと、イングランドの労働者階級に生まれ、16才で学業を放棄せざるを得なかった自身の境遇を正当化したい欲求が強く働いたものと推察される。 「第一章 盲人の国」ではアンリ・バルビュスの「地獄」の主人公をアウトサイダーとみなす。「盲人の国では片目の者は王者である」というキーワードを使って、局外者を論じている。 「第二章 無価値の世界」ではアルベール・カミュの「異邦人」の主人公ムルソーを論ずる。殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と述べ、死刑を宣告されたムルソーにアウトサイダーの素質を発見している。 「第三章 ロマン主義的アウトサイダー」ではヘルマン・ヘッセを採りあげる。ヘッセでは前期の抒情的な作品は棄て、「デミアン」以降の5作品、「シッダールタ」「荒野の狼」「ナルチスとゴルトムント(知と愛)」「ガラス玉演戯」を重要な作品とみなしている。なかでも「荒野の狼」の主人公をアウトサイダーの体現者としている。 「第四章 コントロールをめざして」。この章ではヴァン・ゴッホ、T.E.ロレンス、ニジンスキーという実在の人物におけるアウトサイダーの研究を述べている。特にロレンスは大学時代の実際的な考古学の研究、陸軍省に入ってからアラビア半島における英雄的な活躍と第一次大戦後、34才から46才までの12年間のイギリス空軍における一兵卒としての地味な勤務の落差が気になった。ヴァン・ゴッホとニジンスキーはいずれも天才的な芸術科であったが、いずれも発狂して人生を終えている。アウトサイダーは辛い人生を送る運命にある。 「第五章 苦痛の閾」で採りあげられるのはウィリアム・ジェイムズとフリードリヒ・ニーチェである。ニーチェの著作の中からツァラトゥストラが選ばれるが、著者はニーチェ本人がアウトサイダーの典型である、と述べている。 「第六章 アイデンティティーの問題」ではトルストイとドストエフスキーが選ばれる。トルストイの「懺悔」と「ある狂人の手記」に登場する人物をアウトサイダーと指摘する。議論がドストエフスキーに入ると著者の筆は一気に熱を帯びる。「地下生活者の手記」と「罪と罰」、「悪霊」を重要な作品である、と指摘する。「悪霊」で、副主人公として登場するや、最後には全てをさらって主人公の位置を占めるスタヴローギンをアウトサイダーの中心人物として指名する。 「第七章 大いなる綜合」は、一章丸ごと「カラマーゾフの兄弟」論になっている。著者は三人の兄弟それぞれからアウトサイダーに至る道筋を見いだす。著者は、「退屈な、ありふれた人生を低調に生きている人ならば、アウトサイダーを見て、あれは真剣に考慮するには及ばない奇人だと考えてもいい」と述べる。
「第八章 幻視者としてのアウトサイダー」では17世紀のイングランドの宗教家、ジョージ・フォックスの布教活動とアウトサイダーとの関係について述べる。 「第九章 回路からの脱出」はインドのヒンドゥー教の出家者、宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖となったラーマクリシュナの文献から彼に関するアウトサイダーとしての生き方を探る。 巻末に本書に関する主要文献が載っている。著者は少なくともこの10倍以上の文献を読みこなした上で本書を書いている。
若干24才の青年が200冊以上の文献を読みこなし、出版後、ある方面においてバイブルとなった本を書いたことには驚きしかない。 (2021.9.14) |
---名人---by 川端康成 |
第21世本因坊秀哉は最後の名人と言われた。その後は新聞掲載の囲碁が主流になり、従来の家元制度的な称号は廃止されたからである。 昭和13年、本因坊秀哉の引退碁が新聞社主催により催された。39才の川端康成は観戦記者として66日間すべての対局に立ち会った。 本因坊秀哉65才、対戦相手の木谷実7段は30才であった。小説では木谷7段は大竹7段としてある。その他の登場人物は呉清源6段や前田陳爾6段、岩本薫6段、瀬越憲作6段等すべて実名である。 1局の対局に66日というのは異常な長さであるが、秀哉の入院期間を含めると、1局の対戦に7ヶ月かけている。現在では持ち時間は最長で8時間であるが、特別な企画として40時間の持ち時間で行われたせいである。秀哉の体調も考慮して一日に2手しか打たない日もあった。 観戦記者としての川端の筆は冴え渡る。たとえば、 敗着となった白「ろ130」の説明は微に入り細に入り、数ページにもわたっており、この部分は実際に石を碁盤に置いて味わいたいほどである。 小説とルポルタージュの間に位置するような作品である。 (2021.9.9) |
---A型の女---by マイクル・Z・リューイン |
アルバート・サムスンという私立探偵が主人公のハードボイルドである。マイクル・Z・リューインの処女作で1971年発行である。 一人称形式の探偵ものの常道で、暇を持て余している探偵の事務所に依頼人が来る。依頼人は大抵の場合、女である。依頼内容は失踪人の調査が多い。 本書でも7日間仕事がなく、読書にいそしんでいるサムスンのもとに女が現れる。依頼内容は自分の本当の父親を探してほしいというもの。新手の失踪人調査である。 妙齢と思われたの女が実は15才とわかったときに一瞬どうしようか迷うが、お金には代えられないと判断して仕事を受けることにする。 地道に調査するうちに徐々に彼女の家庭の内容がわかってくる。この辺は迷路に迷い込んだようである。 なかなか解けない糸を丹念にときほぐして行き、最後にたどり着いた真実は・・・。 あとがきで池上冬樹さんは三回読んで、三回泣いたと書いているが、どこで泣けるんだろう。その辺はわからなかった。チャンドラーの系譜のハードボイルドとしては可もなし不可もなしというところである。 (2021.9.7) |
---竹沢先生という人---by 長与善郎 |
全編哲学的な議論に終始する。議論好きな者にはこたえられない小説である。 主人公は40才の竹沢先生、作家兼評論家である。作家志望の22才の大学生、塚元が友人の愛知に紹介されて知り合った先生宅を訪れ、哲学的な会話をする。それを塚元が語り手となって読者に紹介する、という構成になっている。 先生の周りには29才の奥さんと小さい娘たち、先生の妹、塚元同様先生を慕って訪ねてくる若者たちがいる。先生に比べて奥さんが若いのは、先生が再婚だからである。 同様の構成を持つ小説に夏目漱石の「吾輩は猫である」や「こころ」、武者小路実篤の「真理先生」や「馬鹿一」などがある。「吾輩は猫である」は珍野苦沙弥や迷亭や水島寒月という登場人物たちが競うようにバカ話をする。「こころ」の先生は哲学的な話はいっさいしない。「真理先生」は哲学的というより世俗的な話に近い。本書の竹沢先生は各章にわたり、若者たちと哲学的な話を繰り広げる。 本書は「竹沢先生の顔」「竹沢先生富士を見る」「竹沢先生とその兄弟」「 竹沢先生の花見」「竹沢先生と赤い月」「竹沢先生東京を去る」「竹沢先生の家」「竹沢先生の散歩」「竹沢先生の人生観」「竹沢先生と虚空」の10章から成り立っている。第1章の「竹沢先生の顔」は竹沢先生の告別式の場面から始まる。50才の竹沢先生は奥さんと幼い娘たちを残して亡くなり、塚元は10年間にわたって様々な場所でした先生や仲間たちとの議論を回想する。 「男と女との根本的に心持ちが違うところは」と先生は言う。「男はなんでも自分の学問にして、どんな経験をでも自分が進んでゆく材料にしようとする。・・・一つの幸福を失ってもまだ他の幸福を獲得できると希望をどこかに持っていられる。・・・ところが女は本性上そう行きにくいというのは・・・自分自身の生活のためにも、子供の保育という事のためにも、その子の父の愛と、 働きにまつ必要があるから、自然与えられた幸福を失うまい、奪われまいとする・・・」。大正14年の作品であるから考え方が少し古いが、本質的にはそうであろうと思われる。 塚元は先生から借り出した沢庵禅師の「東海夜話」をひろい読みして、「いっさいの事を指すに当位即妙なり。 あらかじめ設けてする事あるべからず」、という文句に出会い、気が楽になる。 「普通の人間がおとなになって世間に出りゃ、どうせ平凡なリアリストになり終わる」ことを先生は嘆く。「 青年というものの美は大部分そのロマンチックなところにあるのにな。 ・・・人間が何かの意味でロマンチックという天性をなくしたら生きてる事はノンセンスになっちまうんだから」。 「ずいぶん淡白なかまわない男でも妻子と一家を持つと、ちょっと人ちがいするほど身の回りの事をとやかく言うようになるからおかしい」というのは時代を問わず当てはまる男性がいる。 「いい人間はどうしてもいいデーモンによくささやかれるし、 下等な人間はとかく下等なデーモンに多くささやかれる。・・・シェークスピアが詩のデーモンにささやかれ、ソクラテスやルーテルが正義のデーモンにささやかれる」 「観照主義の傾向を取る者は自然、仏教で言う小乗主義のほうに傾き、小乗主義に傾く結果生活が静的になります。反対に大乗的な傾向を多く持つ者はどうしても観照よりは動的な実行のほうに先に促されやすくなります」 「竹沢先生の人生観」の章では藤村操の厳頭の感について、「竹沢先生と虚空」の章では日本人における神的なものについて述べる。「神は他人を持っていまい。だからして実は自己という意識をも持っていないに違いない。・・・だからして神はエゴイストであって、同時に愛である事ができるんだ。・・・意志であって同時に法則である事ができるんだ」という考え方は新鮮である。 (2021.9.5) |
---九十三年---by ヴィクトル・ユゴー |
93年とは1793年のことである。フランス革命でルイ16世が処刑された年である。 ユゴーは王党派のラントナック侯爵、共和派の公安委員長シムールダン、ゴーヴァン子爵の3人の人物の周りに個性的な脇役たちを配してフランス革命の一断面を描いていく。 物語は第一部「海の上」、第二部「パリ」、第三部「ヴァンデ」という構成になっている。第一部「海の上」では地中海を航海するフリゲート艦に80才のラントナック侯爵が颯爽と登場して全てをさらってしまう。 第二部「パリ」ではダントン、ロベスピエール、マラーというフランス革命の三人の立役者が登場し、個性的な議論を展開する。僧侶シムールダンが反革命の貴族たちを排除するための公安委員長に任命される。 第三部「ヴァンデ」ではヴァンデ地方における革命派シムールダン、ゴーヴァン子爵対反革命派ラントナック侯爵の戦いが描かれる。 騎士道精神にあふれた結末となる。フランス革命は1789年に始まり、1799年ナポレオン・ボナパルトのクーデターで終わる。自己矛盾のため10年間しか続かなかったが、その後の世界に大きな影響を与えた。 (2021.8.30) |
---なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか---by 工藤美代子 |
「工藤写真館の昭和」で講談社ノンフィクション賞を受賞した作家工藤美代子さんの本である。 著者の父親はベースボール・マガジン社および恒文社の創設者である。また母親は両国の工藤写真館に生まれ育った。夫は元恒文社の取締役である。なるべくして作家になったと言えるだろう。 「中国娘の掛け軸」「カーキ色の涙」「『ママ』と呼ぶ声が」「夫婦の秘めごと」「誰かの手が」「チャイムが鳴った」「あなたを信じるわ」「私に似た人」「里帰り」「じゃあ、死んだら」「アソール公爵の館で」「淋しい人たち」「行ってはいけない土地」「人肌が恋しくて」「聞き取れなかった言葉」「夢の出口」「三島の首」「魔性の人形」「虫の知らせ」「肉親の愛情」「ある日突然」「酒場の約束」「背中が語る」「そっくりな顔」の24篇プラス「あとがき」プラス「巻末語り下ろし霊感対談 『死霊』より『生霊』が、本当に恐ろしい【岩井志麻子×工藤美代子】の2篇が収められている。 それぞれの章が恐ろしい体験である。例えば「中国娘の掛け軸」では、中国で購入した掛け軸を床の間に掛けると前の畳が水浸しになる。「カーキ色の涙」では旅行先のホテルで就寝中、ふと目覚めると裾の方に老婆が座っている。etc. stc. ひとつでも体験したら怖いのに46才までに著者は24回も不思議な体験をしている。「あとがき」でも不思議な体験を書いてあるので25回も・ ・ ・。現在71才の著者はその後どのような体験をしているのか、興味深い。さぞや恐ろしい体験をしていることだろう。 (2021.8.26) |
---チボー家の人々---by ロジェ・マルタン・デュ・ガール | |||
<第1部 灰色のノート> フランスの作家、ロジェ・マルタン・デュ・ガールが19年間の月日を費やした作品である。41才の時に書き始め、60才で完成した。作家として一番充実していた時期に描いた作品が本書である。著者は本書の「第7部 1914年 夏」でノーベル文学賞を受賞している。 大河小説とは1920年代、フランスの作家ロマン=ロランが自作「ジャン=クリストフ」を大河にたとえたことに由来する。マルタン・デュ・ガールが1922年から1940年にかけて創作した本書は代表的な大河小説である。 本書の題名「Les THIBAULT」は「チボー家」くらいの意味で、人々という意味はない。チボー家には父親(オスカール)、長男(アントワーヌ)、そして次男(ジャック)の3人がいる。物ジャックは14才の中学生で寮に入っている。9才年上のアントワーヌはすでに医者の卵である。専制君主の父親はアントワーヌには一目置いている。ジャックに対しては厳しい。 そういう状況の中で事件は起こる。ジャックと同級生ダニエルの交換日記が盗まれる。それは校長の手に渡り、ジャックとダニエルの同性愛が疑われる。ジャックの父親、ダニエルの母親に伝えられた時には、ふたりはすでに家出していた。 著者は家出という行動を通して、少年たちの思春期の不安定なこころの状態を描いていく。 | |||
<第2部 少年園> 少年園とは少年院のことである。ジャックの父オスカールが作った少年たちの矯正施設。そこにジャックは9ヶ月間隔離される。 思うようにならない子供を持つ父親の態度はどうなるのか。ジャックの父親は子供を無理矢理従わせようとする。自由奔放だったジャックはすっかりその芽を摘まれてしまう。 面会に訪れた兄アントワーヌはジャックの危機を感じ取り、父親に抗議する。父親はヴェカール神父に相談する。 他方、夫の不貞に悩むフォンタナン夫人は何かとグレゴリー牧師に相談する。神父はカトリックの神職で、牧師はプロテスタントの神職である。同じキリスト教徒でも、派閥によって相談する相手が違うのが日本人には不思議に感じる。 | |||
<第3部 美しい季節> 5年後のアントワーヌ、ジャック、ダニエルの生活が語られる。ジャックとダニエルは20才、アントワーヌは29才。20才代の独身男性の生活では、当然のように女性が重要な要素を占める。 男女が互いに惹きつけられ、恋愛に発展するが、大変なのはそれからである。男女にはそれぞれの背景があり、その背景を通して互いに惹きつけられたのである。それぞれの背景は、その後の彼らの生活を順調に進ませてはくれない。 アントワーヌとラシェルの場合がそうである。26才のラシェルの凄まじい過去。それが現在にまでつながっているのを、アントワーヌはただ見ているしかない。 ダニエルとリネットの関係は、ダニエルの父ジェロームの帰還で狂い始める。 ジェンニーはジャックを愛しているのか、憎んでいるのか。 第3部は若者たちの疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)時代を息苦しいまでに描写している。 | |||
<第4部 診察> アントワーヌの半日を描く。昼食の時間から始まって、深夜自宅に帰ってシャワーを浴びるまでの医者としてのアントワーヌの半日である。 前作「美しい季節」から3年後のある日である。前作では私生活を描き、本作では医師として働くアントワーヌの姿を描く。ジャックは登場しない。父オスカールは病気に伏している。 前作まで目立たなかった混血児のジゼールがアントワーヌとジャックに大きな影響を与えている。三角関係になりそうな予感。 一日の診察に疲れ切ったアントワーヌは今はひたすら眠りたいと思っている。 | |||
<第5部 ラ・ソレリーナ> 「ラ・ソレリーナ」とはイタリア語で「妹」という意味である。行方不明になっていたジャックが書いた小説の題名である。 小説を読んだアントワーヌは危篤の父に会わせるため、ジャックを探す。スイスのレマン湖のほとりの都市ローザンヌに滞在中であることがわかり、会いにいく。 アントワーヌとジャックの噛み合わない会話から、読者にもその後のジャックの生活が分かり始める。 医師として順調に暮らしているアントワーヌに対して、ジャックの生活は安定しない。彼は常に周りの人や環境に不満を抱いている。もともと持っている性分もあるだろうが、幼少時に母親が亡くなり、厳格な父親に育てられたことが彼の人格形成に重要な影響を与えているに違いない。晩年の父は常にそのことが頭から離れないでいる。 | |||
<第6部 父の死> 父親オスカールの死に際のありさまと死、そして葬儀の模様が延々と語られる。 ここで語られるのはアントワーヌをはじめとする医師団の団結と努力。それらを退ける自然の力=死の存在である。 葬儀の後、たまたま神父と一緒の列車に乗ったアントワーヌは、神父に自分の無神論について語る。当然司神父は神の実在性について語り、議論は平行線をたどる。 ジャックは自分を慕うジゼールを疎ましく思う。 | |||
そして、「おまえ、おれがひとつ率直に言ってみようか? それはただの《ゆめ》なのさ!」、と言う。 革命理論に終始するジャックに対して、兄アントワーヌは医師という職業を全うしていれば社会に貢献する、という信念を持っている。彼は「あらゆる行為はあとを引く。親切な行為の場合、とりわけそうだ・ ・ ・」と思いながらも知人の妻との情事を続ける。   *  *  *  ジャックは父親から相続した財産をすべて革命組織に寄付し、革命家としての道を突き進む。オーストリアとセルビアの戦争が始まろうとしている。オーストリアと同盟を結んでいるドイツとセルビアの同盟国ロシアも参戦し、ロシアの同盟国フランスも巻き込まれようとしている。第一次世界大戦の勃発である。 物語はジャックの活動を通して各国の思惑や政治活動の隠れた部分を語っていく。   *  *  *  ヨーロッパの不安要因は高まり、オーストリア、ドイツ連合対セルビア、ロシア連合の戦端は開かれようとしている。ロシアと同盟を結んているフランスとイギリスも巻き込まれざるを得ない。ジャックとジェンニーの関係は深まりつつある。アントワーヌとアンヌの不倫関係は逆に解消されつつある。戦争という国家間の紛争と個人的な人間関係、特にもっとも個人的な関係である男女間の交渉を描写していく。   *  *  *  各国戦争状態に突入し、社会主義革命運動は下火になる。熱心な活動家ジャックは歯痒くて仕方がない。恋人を失ったスイスの活動家と共に戦場に空からビラを撒く計画を立てる。計画自体無理があったためか、スイスの活動家の自殺願望のためか、飛行機は墜落し、瀕死のジャックは囚われの身になったあげく、同国人であるフランス兵に殺される。 大怪我をして口が利けなくなったジャックは担架に乗せられたまま、戦場をさまよう。数十ページにわたってジャックが見聞きする戦場の様子が描写される。迫力に満ちたシーンである。ジャックは殺されるが、チボー家にはまだアントワーヌがいる。 | |||
<第8部 エピローグ> エピローグは4年後の5月から始まる。戦争はまだ続いている。 チボー家にはアントワーヌしか残されていない。そのアントワーヌも戦地で毒ガスにやられ病院暮らしだ。一時帰国したメーゾン・ラフィットではフォンタナン夫人が負傷者のための病院を開いている。そこではジェンニー、ジゼール、ニコルが手伝っていた。 ジャックとジェンニーの息子ジャン・ポールもいた。ということはチボー家はアントワーヌで最後というわけではなかったのだ。   *  *  *  エピローグはアントワーヌの日記で締めとなる。最後の5ヶ月間をアントワーヌは戦況と毒ガスで壊された肺が壊死するさまを見つめながら過ごす。日記の中でたびたびジャン・ポールに語りかける。自分がどのように生きたか、お前はどのように生きるべきかを。 苦痛とモルヒネによる意識混濁のはざまで、「三十七歳、4ヶ月と九日。思ったよりもわけなくやれる」と書いて、自ら毒薬を注射する。チボー家には3才のジャン・ポールがいる。   *  *  *  <第1部 灰色のノート>と<第2部 少年園>は1922年、<第3部 美しい季節>は1923年、<第4部 診察>と<第5部 ラ・ソレリーナ>は1928年、<第6部 父の死>は1929年、<第7部 1914年 夏>は1936年、<第8部 エピローグ>は1940年に書かれた。それぞれに工夫を凝らした構成になっている。 年譜を見るとマルタン・デュ・ガールの生涯の仕事は「チボー家の人々」を書くことだった、とわかる。本書の他には数篇の戯曲と数篇のエッセイが残されただけだった。第1部から第8部まで小説として「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」のように統一が取れているとは言えない。第4部はアントワーヌの医師としての一日を書いたものだし、第7部は社会主義者たちの議論に終始している。第8部の半分くらいはアントワーヌの日記で締められている。著者は自分の全人生を封じ込めるつもりで、型式とか統一性とかにこだわらずに本書を書き進めたのであろう。 本書はフランス文学者山内義雄氏によって1922年から1952年にかけて翻訳された。日本で翻訳されたものはこれだけらしい。この翻訳書は安易に直訳された文章がしばしばあり、全体の調子を乱している。また、「和協的」とか「いかものの天分」という、辞書で引けば出ているが日常使わない言葉が使われている。1952年の米川正夫訳の「罪と罰」を読んだときには特に違和感はなかったので、時代によるものではなく、翻訳者の文学的なセンスによるものだろう。原作の意味を理解することはできても、それを正しい日本語の文章に置き換えることができなければ翻訳としては半分の仕事しかしていないのではなかろうか。 ノーベル賞を受賞したフランス文学であり、感動的な大河小説であるにもかかわらず、70年前に翻訳されたものしか出ていないのは惜しい。ぜひ新訳で岩波文庫か新潮文庫から出してほしい。 (2021.8.25) |
---白い巨塔---by 山崎豊子 |
全5巻、2,144ページの大作である。これは「戦争と平和」の2,774ページには及ばないが、「カラマーゾフの兄弟」の1,940ページを凌駕する。(いずれも新潮文庫のページ数) 毎日新聞社に入社した著者が1958年、吉本興業を創業した吉本せいをモデルにした小説「花のれん」によって第39回直木賞受賞した。新聞社を辞めた著者が本格的に小説を書き始めてから7年後、41才の時に本書を書き始め、4年後の45才の時に完結した。油が乗り切った時の著者の代表作である。 財前五郎は浪速大学医学部の教授が定年退職した後、その後任に選ばれるのは自分であろうと思っている。今まで教授を支えてきたのは自分であり、外科手術の技術では誰にも負けないと自負している。 ところが教授の東は高慢な財前を教授にすると自分の影響力が無くなる恐れがあるので、阻止したいと思っている。 大学内の人事をめぐって財前五郎の周囲の人々が権謀術数をつくしながら自分の立場を良くしようとする。患者の病気を治すことよりそっちの方が重要と考えているかのようだ。 ここで行われている陰謀や足の引っ張り合いは大学だけの話ではない。どの会社でも日常茶飯事に行われている。財前五郎は我々自身のことなのである。 |
財前は大学の教授選挙を勝ち抜き、権力をつかみとる。自分に敵対した者はしりぞけ、味方は優遇する。元上司の教授は完全に無視する。財前五郎は第一外科の天皇になる。 山崎豊子が本作を上梓したのは1965年。翌年の1966年に映画化されている。ドラマチックに内容が映画向きだと判断されたのだろう。主人公の財前を演じたのは当時無名の田宮二郎であった。その後1978年に再び田宮二郎主演でテレビドラマ化されている。財前五郎といえば田宮二郎の顔が浮かんでくるのは、テレビドラマの時の印象が強烈だったからである。 |
権力と栄誉を勝ち取った財前に敵はいない。慢心によるミス以外は。国立大学医学部教授という頂点に立った財前は思わぬミスから誤診の疑いで訴えられる。 この巻のメインは財前が訴えられた後の裁判の場面である。財前の不注意が医師として罪に値するのかどうか、さまざまな証人の証言によって浮き彫りにされる。 全てが終わった後の里見の妻の言葉、「あなたはなぜ学問以外のことで |
裁判で勝訴した財前は一安心する。納得できない原告側は控訴する。 ここから再び誤審をめぐる裁判論争になる。 著者は誤審をした財前よりも、医療に正義を求める里見に近い立場をとっているように思える。 筆者は医者といえど人間であるから、多忙に紛れた財前の不注意を誤信として断罪する気にはなれない。自分が財前のように多忙で疲れている時だったら、同じような判断を下したかもしれない。腹腔にガーゼや鋏を置き忘れて縫合してしまうようなミスと違い、このような微妙な判断ミスは仕方がないのではないだろうか。 控訴審は佳境に入る。 |
財前は控訴審の準備をしながら、学術会議会員に立候補する。 裁判は佳境に入り、診療と倫理の問題を深めていく。学術会議会員の選挙は教授選同様、権力欲と金の渦巻いている中で行われる。 著者は財前と里見というふたりの医師の生き方を描き、読者に投げかけている。財前の生きる目的は権力欲を満たすことであり、どこまで行っても満たされることはない。里見は内科医としてがんの制圧を目指しており、やはり達成することは難しい。それぞれが見果てぬ夢を追って生きている。 財前ががんで倒れたとき、検査を敵対する里美に頼み、手術を部下の医師ではなく、かつて自分が裏切った恩師を指名する。読者はこの場面で権力争いの虚しさを感じる。 胃がんの手術の場面で、財前は患者には胃潰瘍の手術ですといい、家族には胃がんの手術ですという。後に自分が胃がんの手術を受けるときも、担当医師は財前に胃潰瘍の手術です、という。この小説が発表された1977年頃はそれが普通だったのだろう。 今では悪性腫瘍です、この部分を手術でとります、とはっきりいう。患者の意識と手術の進歩によるものだろう。 (2021.8.4) |
---ハックスレー短編集---by オールダス・ハックスレー |
「ジョコンダの微笑 (The Gioconda Smile)」「ティロトソン氏の祝賀パーティ (The Tillotson Banquet)」「肖像画 (The Portrait)」「モノクル (The Monocle)」「小さなメキシコ帽 (Little Mexican)」の5編が収められている。 「ジョコンダの微笑」、夫人、上流階級の恋人、下層階級の恋人の3人の女の間でウロウロする主人公。夫人が謎の死を遂げ、下層階級の女と再婚するが。 「ティロトソン氏の祝賀パーティ」、とっくに亡くなったと思われた画家が生きていた。歴史上の人物になっていた画家を探し出すのに成功したが。 「肖像画」、ベネツィア時代の肖像画にまつわる話。 「モノクル」、モノクルをかけて気取ったふりをした男のパーティの一夜。 「小さなメキシコ帽」、主人公がイタリア旅行中にある貴族に出会う。家屋敷は立派だがお金がないので不自由な暮らしをしている。その後10年間にわたって断続的に会うことになる、貴族の父と子の伯爵の変遷を描く。 オールダス・ハックスレーはアンチ・ユートピア小説「すばらしい新世界」を書いた英国の作家である。短編は人生のある一部分を切り取って読者に提示する。そこには批評もオチもついていない。著者はただそれを提示するだけである。 (2021.7.28) |
---開高健短篇選---by 大岡 玲編 |
「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」「なまけもの」「森と骨と人達」「兵士の報酬」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「玉、砕ける」「一日」「掌のなかの海」の11篇が収められている。 「パニック」、著者27才、最も初期の作品。120年に一度花を咲かせて実を成らせるという笹の生態をもとにして、大発生するネズミの害を描く。主人公は県庁の山林を担当する職員。対策として山焼きを提案するが凡庸な上司は許可しない。一年後、予想通りネズミは大発生する。次善の策として毒薬を撒いたり、天敵を放したりするがあまり効果はない。災害に対する人間の無力さ、凡庸で事なかれ主義の者が権力を握ると被害はさらに大きくなる、という現象を冷静に描写する。 「巨人と玩具」、商品を売るには商品そのものの価値よりも広告の方が効果があることがある。サントリーの前身である壽屋の宣伝部にいたことのある著者だけに、戦場のような広告業界の内側をみごとに表現している。 「裸の王様」、著者は27才の時にたて続けに3作の小説を発表した。3作目の本作品で芥川賞を受賞した。これ以上ない門出である。本作は引きこもりに近い子供の教育について、絵画教室の講師が絵を描くことを通じて改善しようとする物語である。子供に両親がいて、絵画教室は週に1回、とても太刀打ちできるものではない。最後の主人公の笑いは無力感を象徴するものなのか。 「なまけもの」、著者の学生時代を舞台にした私小説風の作品。登場人物のひとり沢田は生きるためには手段を選ばない人物であり、著者自身をモデルにした堀内は沢田の生き方に憧れを持ちながらも、そこまで天衣無縫に行動しきれない。著者がしがらみから解き放たれて生きるにことは日本では不可能であった。開高健は13才の時に父親を亡くした。大学時代、同人誌に関わり、後の夫人牧羊子に出会った。21才の時、牧羊子が妊娠し、結婚を迫られた。22才で妻と娘を同時に得たことから、開高健の囚われの人生が始まった。 「森と骨と人達」、ポーランドに招待された作家が、アウシュビッツに行き、ナチスの所業について考察する。 「兵士の報酬」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「一日」はベトナムもの。時代は少しズレるが、筆者が出張で何度も出かけたホーチミンの街の様子がそのまま表現されていて懐かしい。著者は無政府状態のサイゴンに住むことに郷愁を覚えていたのではないだろうか。 「玉、砕ける」はベトナムものに準ずる香港ものである。開高健のアンソロジーには必ず収められている名作である。 「掌のなかの海」は新橋の酒場であった老船医の話。息子を失った医師の晩年は哀れであるが、その自由な生き方には羨ましさを覚えた。 (2021.7.27) |
---戦場の博物誌---by 開高 健 |
「兵士の報酬」「岸辺の祭り」「洗面器の唄」「戦場の博物誌」「玉、砕ける」の5篇が収められている。 「兵士の報酬」、著者が一足先に戻ったサイゴンに、遅れて着いたウェスト曹長との交流を描いた作品である。サイゴンの街の様子がリアルである。 「岸辺の祭り」、休戦中の戦場に楽隊を組んでのりこむ米軍の大尉、同行する日本人記者。実話かどうかわからないが、ベトナム戦争の実際の雰囲気がリアルに描かれている。ベトナム戦争を描く開高健は生き生きしている。 「洗面器の唄」、著者のサイゴンにおける生活の挿話。 「戦場の博物誌」、語り手はハゲワシ、カモシカ、ヤモリ、ライギョ等に関する思い出を語る。舞台はベトナムの戦場であり、語り手の故郷であり、第二次大戦中の日本である。 「玉、砕ける」、旅の帰り、香港の友人を訪ね、彼に難題を提出する。友人は答える代わりに中国の作家老舎の故事を話す。 (2021.7.25) |
---医師たちの独白---by 渡辺淳一 |
「四月の風見鶏」「聴診器」「球菌を追え」「葡萄」「小脳性失調歩行」「医師求む」「書かれざる脳」「祭りの日」の8篇が収められている。 「四月の風見鶏」、1968年(昭和43年)8月8日に札幌医科大学の和田寿郎教授によって日本初の心臓移植手術が行われた。著者はその時、同じ大学で医局の講師をしていた。和田教授とも面識があった。 「聴診器」、生意気な態度をとった新米の医師が老練な看護婦に仕返しされる話。聴診器で聞く正常な心臓の音が「ドスン、ドスン」と聞こえたり、僧帽弁不全症の患者では「トン・ツ・ザー、トン・ツ・ザー」と聞こえるという描写は医師出身の著者にしか書けない。 「球菌を追え」、淋病の疑いのある友人が主人公を訪ねてくる。自分は身に覚えがないと言う。 「葡萄」、医学生が解剖の実習中、胃の中から葡萄の種を発見する。興味を持った彼は死体の生前の様子を調査する。 「小脳性失調歩行」、整形外科医のところに刑務所から電話がかかってくる。以前診察した患者が死にかけている。死ぬ前に彼に話があると言う。 「医師求む」、「書かれざる脳」、元医師でなければ書けない話。前者はニセ医師の話、後者は脳の重さにまつわる話である。 「祭りの日」、著者と思われる医師の休日のひとコマを私小説風に描いた作品。ある休日、主人公は幼い娘を連れて祭り見物に行く。見世物小屋で見た蛇女、オートバイ乗りの若者、雑踏で出会った昔の患者の女。主人公は男の性としての弱さ、脆さと女の強さ、しぶとさを思う。 1971年から1975年までの著者の初期の作品集である。 (2021.7.24) |
---住み方の記---by 西山夘三 |
1911年(明治44年)生まれの建築家西山夘三氏の「家」を主体にした自伝である。 著者が生まれ育った家、第三高等学校の学生寮、京大時代に下宿した家、軍隊に招集された時の兵舎、就職した時に借りて住んだ家、結婚して住んだ家々。間取り、俯瞰図、イラスト等さまざまな絵を駆使してその時の様子を表現する。年少時漫画家を目指した程絵が上手い。 読者は絵を見ながら戦前戦後の中流の日本人の生活を体験する。 明治44年生まれの著者は筆者の父親とほぼ同年配である。関西と関東、中流の上の階級と下の階級と立場は違うが、自分の父親が経験した時代を目の前に繰り広げられたように思った。特に兵舎の描写や兵隊の余暇の過ごし方などは聞いたことがなかったし、聞いても答えてくれたかどうかわからなかったろう。 子供が小さいときは転々と借家住まいをする。大きい家もあれば小さい家もあり、便利な家もあれば不便な家もある。住まいの研究家でもある著者はそれらの家を冷静な目で分析し、評価する。 最終的に5人の子供を持った著者が初めて購入した家は古いが大きい。家族構成に合わせて改造していく。子供を持つ親の誰もが経験するように、子供が小さいときは広いスペースはいらない。大きくなるに従ってそれぞれの机が必要になり、それぞれの部屋が必要になってくる。 子供たちが学校を卒業し、職業をもつようになると、家を出て独立していく。7人で住んでいた家に、夫婦ふたり取り残される。著者が退官するのとほぼ同時に奥さんが亡くなってしまう。間取りや使い勝手はその都度変化する。 家を語ることによって、自分の人生を語る。その方法を使えば誰でもたやすく自分の人生を語ることができるだろう。 (2021.7.21) |
---みずうみ・他四篇---by シュトルム |
「みずうみ」「マルテと彼女の時計」「広間にて」「林檎の熟するとき」「遅咲きの薔薇」の5篇が収められている。 「みずうみ」、シュトルムの代表作である。老人が初恋の相手との思い出を回想する。筆者が10代の頃読んで感銘を受けた。主人公と同じくらい老人になった今、読了後不思議なほど感動を覚えない。逆に若い頃読んで全然感銘を受けなかったのに、最近読んで感動した本もある。本には読む時期があるものだ。 「マルテと彼女の時計」、老嬢マルテと彼女の古い柱時計の思い出。 「広間にて」、老婆の思い出話を聞くうちに家族の心が一つになって・・・。 「林檎の熟するとき」、若い男女が夕方、リンゴの木の下で逢引きしている。木の上では男の子がリンゴの実を食べている。 「遅咲きの薔薇」、トリスタンとイゾルデにちなんだ詩のような話。 弁護士、裁判官、知事と普通の職業をまっとうしたシュトルムは詩人、作家でもあった。作風は詩に近く、テーマは若き日の思い出であった。 (2021.7.18) |
---砂糖とダイヤモンド---by コーネル・ウールリッチ |
「診察室の罠」「死体をはこぶ若者」「踊りつづける死」「モントリオールの一夜」「七人目のアリバイ」「夜はあばく」「高架鉄道の殺人」「砂糖とダイヤモンド」「深夜の約束」「特別寄稿/ウールリッチと私(原 寮)」の9篇と原寮のエッセイが収められている。 「診察室の罠」、新しい殺人方法。新しいアリバイ。 「死体をはこぶ若者」、一種の倒叙もの。途中でバレないかどうか、ドキドキする。オチはみごと。 「踊りつづける死」、エンドレスのダンス大会。狂気の一夜。 「モントリオールの一夜」、75セントしか持たずにまるで知らない土地で1週間過ごせるか、という賭けに挑戦した男。 「七人目のアリバイ」、アリバイ作りを頼んだ男がはまり込んだ皮肉な結末。O.ヘンリーが犯罪小説を書いたら、と思わせる1篇。 「夜はあばく」、自分の妻が放火犯だと知った保険会社の調査員。どうしようもない運命の罠にはまり込んでいく男の行く末は・・・。ウールリッチらしい作品である。 「高架鉄道の殺人」、動作はノロマだが頭の回転はすこぶる速いという刑事が登場する。ニューヨークの高架鉄道を舞台にした物語はジーン・ハックマン主演の映画「フレンチ・コネクション」を思わせる。 「砂糖とダイヤモンド」、ホームレスのキーオは偶然手に入れた宝石のためにとんでもない目に遭う。 「深夜の約束」、ロマンチック・コメディ風の作品。ウールリッチ初期の作品である。 「ウールリッチと私」、日本のハードボイルド作家原寮によるエッセイ。 コーネル・ウールリッチは別名をウィリアム・アイリッシュといい、両方の名前で犯罪小説またはサスペンス小説を書いた。独特の語り口で書かれた作品は短篇長編に関わらず、1ページ目を読み始めたら最後まで読まずにはいられなくなる。 (2021.7.17) |
---スペードの女王・ベールキン物語---by プーシキン |
「スペードの女王」、貧しい青年が金持ちの老婆を殺して金を奪うという設定はこの作品から始まった、と解説に書いてあった。主人公のゲルマンは「罪と罰」のラスコーリニコフの原型であると。 現代では金持ちの老人を騙して金を奪うという、特殊詐欺が横行している。いつの時代でも人間のやることは変わらないということなのだろう。 「ベールキン物語」は「その一発」「吹雪」「葬儀屋」「駅長」「百姓令嬢」の5篇の短編から成り立っている。 「その一発」、何もない駐屯地、若い軍人たちが暇を持て余して、酒を飲んだり、カードをしたり、話をしたりしている。一人だけ年長のシルヴィオという男が決闘の話を始める。著者のプーシキンは36才の時に決闘で命を亡くしている。19世紀のロシアの貴族や軍人の間では決闘の習慣が生きていた。本篇は決闘にまつわる話のひとつである。 「吹雪」、吹雪の朝、ある教会で起こった運命のいたずら。三遊亭圓朝の落語ネタにありそうな因縁話である。 「葬儀屋」、ある晩酔っ払った葬儀屋の元に現れた客たちは・・・。プーシキン版「クリスマス・キャロル」。 「駅長」、老駅長の悲哀の物語。古典落語の人情ものにこういう噺があったかもしれない。 「百姓令嬢」、見事な恋愛喜劇である。オチが切れ味よく決まっている。 ロシアの国民詩人にしてロシア文学の祖と言われるプーシキン。レールモントフ同様決闘によって若死にした。残された作品は少ないがいずれも心に残る名作である。 (2021.7.15) |
---大尉の娘---by プーシキン |
1770年代にロシアで起きたプガチョフの乱を題材にして、ある少尉の手記という形で1836年に発表された。プガチョフの反乱に巻き込まれた「少尉」と「大尉の娘」の波瀾万丈の物語である。 同時に冷酷な男プガチョフと少尉との風変わりな友情の物語でもある。 プーシキンは冷酷でありながら、どこか憎めない人物としてプガチョフを描く。スティーブンソンが描いたジョン・シルバーのように。 この物語が単純な勧善懲悪ものではなく、深みがあるのは作者の描いたプガチョフ像に血が通っているためである。 常に権力者の腰巾着になろうとする風見鶏のようなシワーブリン少尉とか、根っからの軍人ズーリン大尉のような、実在感のある脇役の存在も物語に深みを与えている。 (2021.7.14) |
---カプグラの悪夢---by 逢坂 剛 |
「カプグラの悪夢」「暗い森の死」「転落のロンド」「宝を探す女」「過ぎし日の恋」の5篇が収められている。 「カプグラの悪夢」とは夢遊病のこと。失踪した娘婿を探すのを請け負う。娘婿は探し出したが、娘が夢遊病を患っていることから話がこんがらがってくる。 「暗い森の死」、歴史もの。暗い森とは「カティンの森」のこと。第二次対戦中ロシアのカティンの森で大量のポーランド兵の死体が発見された。犯人は誰だったのか。日本に滞在するドイツ人とロシア人の二人の老人がお互いの説を言い合い、譲らない。仲裁役を引き受けた岡坂は・・・。 「転落のロンド」、中学生の美少女が殺された。同級生の父親が自首して出た。彼が殺したのか、それとも・・・。調査を頼まれた岡坂は・・・。 「宝を探す女」、深夜の神保町、強盗に襲われた老女を助けた岡坂は、彼女から意外な申し出を受ける。御茶の水界隈に隠された江戸幕府の埋蔵金を一緒に探してくれという。 「過ぎし日の恋」、弁護士桂本のところに有名な女優が訪れ、ある依頼をする。桂本はその依頼を岡坂に丸投げする。 本篇での岡坂はスペイン現代史の研究者というよりもハードボイルド系の探偵である。スペイン現代史やギターの研究家としての岡坂も良いが、若く活動的で体力勝負の岡坂も良い。 (2021.7.12) |
---ヘミングウェイの流儀---by 今村楯夫・山口 淳 |
膨大な量のヘミングウェイの遺品がキューバのヘミングウエイ博物館とボストンのJFKライブラリーに収められている。 本書は著者たちが服装と愛用品に分けて整理して、コメントを添えた労作である。 ヘミングウェイは居場所をパリからキューバに変えた20代後半以降、徐々にヘミングウェイ・スタイルと言われる独特のファッションに変化した。各年代の写真を見比べると若い頃はトラディショナルなスタイルだったものが、中年以降洗いざらしのコットンに代表されるようなざっくりしたものに切り替わる変遷がよくわかる。 筆記用具や身近なグッズも上品なものから、使い勝手がよく丈夫なものに移行している。 ヘミングウェイを通して、生まれたばかりはまっさらであった人間が、歳をとるに従って、自分自身になってゆくさまを見るようである。 (2021.7.11) |
---若き日の変転---by ハンス・カロッサ |
ドイツの医師、小説家、詩人、ハンス・カロッサの自伝シリーズ第二弾。トルストイの自伝的な小説に「幼年時代」「少年時代」「青年時代」がある。本作はカロッサの少年時代-青年時代である。ちなみにカロッサの自伝的な作品は「幼年時代」、本書、「美しき惑いの年」「若き医師の日」と続いていく。今新刊で読めるのは本書と「幼年時代」だけなのは残念なことだが、古書であればだいたい全ての作品を読むことができる。 本書で綴られたのは著者のギムナジウム時代、11才から19才までの9年間である。ドイツではこの9年間の後、大学へ進む。日本で言えば中学と高校時代である。いわば自己形成の一番重要な時期をドイツでは一貫教育する。入学した時は子供同然で、上級生は異次元の大人に見える。毎年下級生が入ってくるうちに、いつの間にか自分が上級生になっているのに気づく。 著者は詩人の目でその微妙な時期を描写している。自然あふれる土地の農家で過ごした時、初めて女の子の友達ができた時、詩人として目覚めた時、恩師の死、その時々の感情を現在進行形のように描写する。 国や時代は違うが、誰もが同じような経験をするあの疾風怒濤 (Sturm und Drang) の時代。医師として、詩人として生きたカロッサの若い日々の反抗的な、そして自分に誠実な生きかたを記録した名作である。 (2021.7.12) |
---哲学の誕生 : ソクラテスとは何者か---by 納富信留 |
本書は「第一章 ソクラテスの死プラトン 「パイドン」の語り」「第二章 ソクラテスと哲学の始まり」「第三章 ソクラテスの記憶」「第四章 ソクラテス裁判をめぐる攻防」「第五章 アルキビアデスの誘惑」「第六章 「無知の知」を退けて 日本に渡ったソクラテス」「補論「ソクラテス対ソフィスト」はプラトンの創作か」の7章で著者独自のソクラテス論を述べている。 紀元前5世紀に生きたソクラテスは1冊の著書も書いていない。代わりに弟子のプラトンが書いた。ソクラテスと弟子たちとの会話という形式で書いた。いわゆるプラトンの対話篇は真偽合わせて現在まで30数篇残されている。キリスト生誕より400年も前に書かれた本がよくも今まで残されていたものだ。ある年代までは写本に次ぐ写本によってつながったのであろう。 源氏物語や枕草子が現在まで伝わっているように、本当に大事なものと判断された著作は歴史を乗り超えて伝わる力を持っている。逆に必要ないと判断されたものはどんどん消滅してしまう。アリストテレスの講義録が残り、彼が書いた著作の大部分は消滅してしまったのは冷徹な歴史のふるいによるものであろう。 現代でも数年前のベストセラーのほとんどは残っていない。どの書店に行っても見かけた著者の作品が30年経つとあとかたもなく消えている。 西洋哲学はソクラテス、プラトン、アリストテレスによって始まったとされている。プラトンとアリストテレスには膨大な著作が残されているが、ソクラテスは著作を残していない。我々はプラトンの対話篇を通したソクラテス像からソクラテスの哲学を知るしか手立てはない。 それでは対話篇は100パーセントソクラテスの思想かというとそうではないらしい。かなりの部分でプラトンの思想が入っているらしい。同時代にプラトン以外の人が書いたソクラテス像がそれぞれ微妙に違っているらしい。 我々は対話篇の全てを読むことができる。それはプラトン-ソクラテスの思想として読んでいることになる。紀元前5世紀に現在のギリシャ-イタリア-トルコ地域で生み出された哲学という概念は、2,400年以上経った現在でも我々が生きるための指針となっている。 (2021.7.8) |
---君たちはどう生きるか---by 吉野源三郎 |
本書は1937年に書かれた。第二次大戦が始まる直前の中学1年生コペル君の生活と意見が書かれている。 時代は80年前だが、中学生の家庭での生活や友人関係は今日とそう変わらない。いじめたりいじめられたり、友達の家へ遊びに行ったり、招いたりする。13、14才の思春期に差し掛かったばかりの男の子たちの生活と意見である。 著者は東京大学哲学科を卒業後、山本有三氏が編集発刊した日本少国民文庫の刊行にたずさわった。全16巻の中の1巻として本書を書いた。その後、38才の時に岩波書店に入社し、岩波新書を創刊している。生涯の大部分を岩波書店の編集者、取締役として過ごした。 本書はコペル君の生活の中から10篇を切り取り、紹介するとともに、彼の叔父さんの意見を付け加えている。コペル君の母親の弟という設定の叔父さんはおそらく著者の分身であろう。 第5章「ナポレオンと四人の少年」で叔父さんはこう述べる。 「よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。 世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。 人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ」といい、「彼の奮闘的な生涯、彼の勇気、彼の決断力、それから、あの鋼鉄のような意志の強さ! こういうものがなければ、たとえ人類の進歩につくしたいと考えたって、ろくなことは出来ないでしまうのだから」と述べる。なぜナポレオンが「英雄」と呼ばれたかがよく分かった。 ナポレオンはロシア遠征で敗北し、評価を落としたが、フランス革命後の混乱した国内を統一し、ナポレオン法典を作り、フランス国内を法律で治めた。この法典は日本の憲法にも影響を与えている。 第6章「雪の日の出来事」でコペル君は苦い体験をする。友達が上級生のパワハラを受けた時、見て見ぬふりをしてしまったのだ。 コペル君はこう思う。 「いざとなると、自分があんなに臆病な、あんなに卑屈な人間になろうとは、今度のことがあるまで、夢にも思わなかったことでした。同時にコペル君は、人間の行いというものが、一度してしまったら二度と取り消せないものだということを、つくづくと知って、ほんとうに恐ろしいことだと思いました」 「人間の行いというものが、一度してしまったら二度と取り消せない」と思ったことは筆者にも覚えがある。子供時代ばかりでなく、60才を過ぎてからも。コペル君の辛い気持ちが実によく分かった。 本書はイタリアの作家デ・アミーチスの小説「クオレ」と似ている。国や時代はちがっても、少年の心は同じである。 (2021.7.5) |
---あでやかな落日---by 逢坂 剛 |
本書では著者逢坂の得意分野であるスペイン現代史や映画の話は影を潜め、広告業界がメインの舞台になる。著者の分身である岡坂はあるオーディオメーカーの大型コンポーネントの販売キャンペーンを手伝う。 イメージガールとして新進のギタリストを持ってきたところはギター奏者としても素人離れした腕前を持つ著者ならではのことだ。本書を読んだ読者は著名なギター製作者やギターの構造、クラシック・ギターの名曲についての知識を得ることができる。 また、メーカーが新製品を発売するにあたってどういうことをするのか、どういうことに神経を使うのかが切実に伝わってくる。著者自身が博報堂に31年間勤務した経験が生きている。 ひとつ気になった文章がある。「まして、彼女のギターはパコ・デ・ルシア、チック・コリアも真っ青の、恐るべき腕前。 違いなく、今年後半の注目株の一人だ」、というのだが。 (2021.7.3) |
---クリヴィツキー症候群---by 逢坂 剛 |
「謀略のマジック」「遠い国から来た男」「オルロフの遺産」「幻影ブルネーテに消ゆ」「クリヴィツキー症候群」の5篇が収められている。 本書は岡坂神策シリーズの第1作目になる。後に著者の分身のようになる岡坂神策はこの第1作目ではスペイン現代史に詳しい探偵のようである。 「謀略のマジック」の岡坂は37才、まだ若い。事務所に現れた謎の美女からあることを依頼される。チャンドラーのフィリップ・マウロー・シリーズのような出だしである。あることとは戦時中日本とスペインのために働いたスパイのことを調べてほしい、というものだった。調べていくうちに殺人事件が発生し、話はこんがらがってくる。 「遠い国から来た男」、イギリスの二重スパイ、キム・フィルビーを題材にしてシャレた話に仕立て上げた小品。岡坂は聞き手に徹している。 「オルロフの遺産」、岡坂がスペイン内戦にまつわる史実を調査するうちに、事件に巻き込まれる。神保町および神保町の古書店が舞台。 「幻影ブルネーテに消ゆ」、スペイン内戦後日談。岡坂と思われる日本人がマドリードでライアンと称する老人に出会う。ライアンはスペイン内戦時共和国側の戦士だった。ライアンは戦場で義勇軍のアメリカ人サムという男に命を助けられた。ライアンを助けたあとサムは姿を消してしまう。ふとしたことで知り合いになったリリーという名の女はサムの写真を持っていた。サムの正体は・・・。無駄のない文章、後味の良いラスト、ヘミングウェイの短篇のひとつ、と言われても疑問に思わないだろう。 「クリヴィツキー症候群」、スペイン内戦時、実在したソ連の軍事顧問クリヴィツキーはアメリカに亡命した後、ホテルで自殺した。スペイン現代史に詳しい岡坂は、そのクリヴィツキーが乗り移ったという大学教授の精神鑑定を手伝うことになる。先の読めない展開、意外なラスト、この頃の著者は岡坂に探偵としての活動をさせている。 ここに収められた短篇はいずれも興味深い作品である。ジャンルは様々であるが、どの作品にも著者の分身岡坂が登場して重要な役割をしている。 (2021.7.2) |
---牙をむく都会---by 逢坂 剛 |
著者の分身、岡坂神策シリーズ。テーマは映画、特に西部劇、スペイン現代史、特にスペイン内戦、それに戦後、ソ連軍による日本軍および民間人のシベリア抑留の問題。軽いテーマから重いテーマまで現代調査研究所の岡坂を中心にまとめている。本書を読めば上記のテーマについて基本的なことは理解できる。 岡坂が担当する映画祭のテーマが面白い。ビデオやDVDになって手に入りやすいものを除いた映画祭ということで、岡坂が担当するのは西部劇とミステリー。特に登場人物たちが繰り広げる西部劇に関する話は著者の独壇場である。表のベストスリーを「荒野の決闘」「真昼の決闘」「シェーン」とし、裏のベストスリーを「無頼の群」「決断の3時10分」「必殺の一弾」とし、映画祭で上映するのは裏の作品にする。筆者も表の作品は何回か観たことはあるが、裏の作品については題名を見るのも初めてである。こういう映画祭があったらぜひ行ってみたい。 ミステリ部門で映画「殺人者はバッヂをつけていた」の原作がW.P.マギヴァーンの「殺人のためのバッジ」とは違う、と指摘したり、アラン・ラッド主演の「拳銃貸します」の原作がグレアム・グリーンであることに言及したりと、登場人物同士によるマニアックな議論が延々と続く。映画好きな読者はこうした議論をいつまでも続けてほしいと願うだろう。 主人公の好みの女優がエヴァ・バルトークだったり、心を寄せる女性がジョーン・フォンテインに似ていたり、重要な登場人物のひとりがロッサナ・パディスタに似ていたりと、話題になる女優もマニアックであり、40才以下の読者は置いてきぼりにされるだろう。 上巻はマニアックな議論が続くが、下巻になるとさまざまな陰謀が渦巻く現代の話になる。別々に進行していた映画祭とスペイン現代史とシベリア抑留の話が微妙に絡み合い、先の読めないな展開になってくる。前半で散りばめられた伏線が動き出し始める。 読者を選ぶところはあるが、著者逢坂剛が楽しみながら書いた本である。 (2021.7.1) |
---バックストリート---by 逢坂 剛 |
著者は最新刊の「鏡影劇場」(2020年)で19世紀ドイツ浪漫派の作家E.T.A.ホフマンに関する知識を盛り込んだ。 本書ではホフマンと同時期に劇作家として生きたハインリヒ・フォン・クライストについて書いている。 著者の分身岡坂神策はフラメンコギター、西部劇、スペイン現代史を研究し、本書では19世紀ドイツ浪漫主義文学にまで手を伸ばしている。 さらに話は卵子の体外受精による不妊治療からネオ・ナチス、新右翼によるテロ活動にまで及ぶ。 主要な登場人物洞院ちづると神成真里亜はバイラオーラである。バイラオーラという職業は初めて聞いたが、フラメンコの踊り子のことをいうらしい。脇役として警視庁公安課の知恩炎華という刑事がからむ。いずれも30代の魅力的な女性である。本書の岡坂は50代前半くらいの設定であろう。落ち着いた中年になっている。上記のような知的な話題に通じ、洒落た会話ができる中年男性が女性にモテるのは当然である。著者が自己を投影し、理想とする人物として作り上げたのが本書の主人公岡坂神策であろう。 主人公岡坂神策の現代調査研究所は御茶ノ水の山の上ホテルの脇の錦華坂を少し上ったところにある。著者の仕事場もその近くにあるらしい。岡坂は昼食を食べるために錦華坂を下り、錦華公園の脇を通って神保町まで出る。入る店は中華料理の新世界菜館、メンチカツのキッチンジロー、カレーのボンディその他実際にある店である。おやつには亀澤堂のどら焼きを食べる。この店も現在営業している。そのほか喫茶店はさぼうるや穂高、新刊書を見るときは東京堂や三省堂を利用する。筆者も実際に入った店もあるし、看板だけ知っている店もある。コロナ騒動の前はらくごカフェや神保町シアターの常連であった。 岡坂神策シリーズの楽しいところは話の筋よりも著者の興味や趣味が前面に出てくるところだ。さらに著者が普段食べたり飲んだりしている店が実名でどんどん出てくる。ざっとメモしただけでも25店舗になった。看板だけは何度も見たことがある穂高や古瀬戸にはそのうちぜひ入ってみたい。 (2021.6.29) |
---墓石の伝説---by 逢坂 剛 |
著者逢坂剛氏は大の西部劇ファンである。「アリゾナ無宿」「逆襲の地平線」「果てしなき追跡」などの西部劇シリーズも書いている。 岡坂神策は各シリーズの中で最も著者に近い人物である。彼は調査研究所の所長であり、スペイン近代史の研究家であり、フラメンコギターの弾き手でもある。本書では西部劇の大ファンという立場で登場する。 本書の大きな流れは老映画監督が西部劇を作るために岡坂らが手助けする。が、話は映画を作る前に終わってしまう。登場人物たちは映画を作る前の段階で、西部劇論やワイアット・アープ論を戦わせる。主人公岡坂神策もあまり出番はなく、老映画監督と西部開拓史研究家との間で繰り返される議論の聞き役でしかない。これは著者が自身の西部劇論やワイアット・アープ論を繰り広げるために書いた本なのである。 本書を読めば西部劇の歴史とワイアット・アープと彼の兄弟たちが起こしたOK牧場の決闘の真実がわかる。1957年にジョン・スタージェス監督が制作した「OK牧場の決斗」の原題は「Gunfight at the O.K. Corral」であり、「Corral」とは牧場ではなく、「一時的な牛や馬の囲い場」であるという知識も小説中で教えてくれる。 本書を読むと、ジョン・スタージェス監督の「OK牧場の決斗」とジョン・フォード監督の「荒野の決闘」、最近ではローレンス・カスダン監督の「ワイアット・アープ」やジョージ・P・コスマトス監督の「トゥームストーン」を観ないではいられなくなる。 (2021.6.27) |
---ソクラテス以前以後---by F.M.コーンフォード |
著者F.M.コーンフォードはケンブリッジの公開夏季講座のギリシャ哲学コースで4回にわたって講義をした。本書はそれをまとめたものである。 第1回は「ソクラテス以前のイオニア自然学」である。著者はあらゆるギリシャ哲学史は紀元前580年ころ、ミレトスのタレスから始まった、と述べている。今日哲学と言われているものは西洋哲学のことで、西洋哲学とはソクラテス、プラトン、アリストテレスが創造したものである。現代の代表的な哲学者ハイデガーでさえ、アリストテレスの研究者なのである。哲学という学問は紀元前580年から紀元前350年くらいのところで完成してしまい、その後はそれについての研究に終始しているといっても良い。モダンジャズが1950年代にチャーリー・パーカーによって完成し、その後はその亜流による演奏に終始しているのと同じようなものである。 ちなみにミレトスという所は、ギリシアの対岸、現在のトルコのアイドゥン県バラト近郊であり、当時はギリシャの植民市であった。辺境で生まれた学問である。その600年後、キリスト教が死海沿岸の辺境で生まれている。 第2回は「ソクラテス」。著者はソクラテスの思想をプラトンの著書「ソクラテスの弁明」から解く。「弁明」の中でソクラテスは青年たちに「わたしに息のあるかぎり、力の続くかぎり、知恵を求めることを止めないでしょう」「たとえ千度死ぬことになるとしても、自分のやりかたを変えたりはしない」と言う。 そして幼年期を人生の最も革命的な転機、と言い、青年期をギリシア哲学の第二段階、ソフィストの時代だと言う。「青年期のあいだ、そう、十四歳から二十歳としておこうか、若者たちは二度めの切り離し作業に従事する。 それは幼児が外的世界から自己を切り離したのよりはもっと自覚的でもっと苦痛を伴うものだ。かれはまた新しいかたちで自己を意識するようになる。 両親や家族やその他かれの意志を支配し、かれの個性をねじまげる権利を主張するあらゆる社会集団から個人格としての自己を切り離すこと、これがいまやかれの主要な関心事である」と述べる。 ソクラテスが毒杯を仰ぐことになった原因は、青年たちが「あらゆる社会集団から個人格としての自己を切り離すこと」をそそのかした罪による。ソクラテスにとっては「千度死ぬことになるとしても」それを止めることはできないことなのである。 1970年代の学生運動の盛り上がりは青年たちが自分の足で立つための通過儀礼だったのかもしれない。ソクラテスのことは知らなくても、その思想は現代の青年たちの足元に地下水のように流れている。 第3回は「プラトン」である。プラトンは著書「国家」で理想の国家は哲学者によって統治されるべきである、と述べた。プラトンはキリスト教思想の構造の中に分かち難く溶け込んでいることで知られている。プラトンの初期の対話編はソクラテスの思想をそのまま書き記しているが、中期から後期にかけてはその中で自分の思想を語っている。プラトンはソクラテスとピュタゴラスの影響を受けている。ピュタゴラスは紀元前6世紀ころ、古代ギリシャ文化圏の東辺に位置する、現在のトルコ沿岸にあるイオニア地方のサモス島で、宝石細工師の息子として生まれた。近くの町には、やはり著名な数学者のタレスが住んでいた。ピュタゴラスは音楽理論、数学、哲学を極め、さらに教団を率いていた。どうやら現在のトルコに位置する古代ギリシャ文化圏の東辺あたりが現在まで続く西洋文化の発祥地であるらしい。 第4回は「アリストテレス」である。あらゆる学問の祖、アリストテレスは若年の頃から20年間プラトンの教えを受けた。その後プラトンから脱皮して独自の哲学を打ち建てた。この師匠と弟子は根本に神の概念を持ち、それを振り捨てることはできなかった。筆者のような無神論者には理解できないことだが、哲学と神は離れがたいもので、ハイデガーでさえ神の概念を持っていた。近代哲学者で神を捨て去ったのはニーチェのみである。 (2021.6.25) |
---しのびよる月---by 逢坂 剛 |
「裂けた罠」「黒い矢」「公衆電話の女」「危ない消火器」「しのびよる月」「黄色い拳銃」の6篇が収められている。 小学校時代同級生だったふたりが御茶ノ水署の上司と部下になる。部下の梢田が猪突猛進型で上司の斉木が深謀遠慮型という設定で、弥次喜多道中、ボケとツッコミというコンビで事件を解決する。ふたりの所属は生活安全課だからハードな事件は起こらない。が、時には思いがけない展開になったりもする。 「裂けた罠」、交番の前でくだを巻く酔っ払い。警察署で一晩留置するはずだったが、意外な展開に・・・。 「黒い矢」、女性が暴走族に追いかけられ、ボウガンで撃たれる。担当した生活安全課のふたりは事件を追いかけるうちに単純なものではないことに気づいていく。思いもよらぬラストに呆然。 「公衆電話の女」、隣の公衆電話で変な手招きをする女。斉木は梢田に囮捜査を命令する。不承不承囮になった梢田の前に女が現れた。 「しのびよる月」という題名は「THE STALKING MOON」の和訳である。「THE STALKING MOON」は1968年、「レッド・ムーン」という題名で公開された西部劇。監督:ロバート・マリガン、主演:グレゴリー・ペックの異色西部劇であった。公開された当時はストーカーという言葉が一般的ではなかったので「レッド・ムーン」という中途半端な題名にせざるを得なかったんだろう 。 「危ない消火器」、日常の謎が事件に。 「黄色い拳銃」、意外な犯人。ボケとツッコミのコンビが口喧嘩をしながら鮮やかに解決する。 (2021.6.24) |
---弁論術---by アリストテレス | |||
紀元前350年頃活動したアリストテレスは膨大な著作を発表したがそのほとんどは残されていない。現在残されている著書は彼の講義録である。その内容は弁論術、文学、科学、医学、哲学と広い分野にわたっている。自身で書いたものより大勢の学生たちに講義したものの方がわかりやすくおもしろかったのであろう。文章が下手だったのかもしれない。 ハイデガーの「存在と時間」も彼が大学で講議した講義録をまとめたものである。木田元氏によると、ハイデガーも著作より講義の方がわかりやすかったということである。 本書では第1巻15章、第2巻26章、第3巻19章にわたって様々なことが述べられている。必ずしも弁論術について述べられているわけでもない。たとえば、幸福、快楽、正不正、怒り、友愛と憎しみ、妬み、憐れみ等々。元々の講義録には題名も章もついていたわけではない。のちの編集者が内容に合わせて分類したに過ぎない。弁論術に興味はなくても本書にはアリストテレスの知恵が詰まっている。
著者は第1巻で議会で審議すべきものは以下の5項目であると述べる。財源に関するもの、戦争と平和に関するもの、それから国土の防衛に関するもの、輸入品に関するもの、そして立法に関するものである。何故か日本では「戦争と平和に関するもの」が抜けてしまっている。一つの戦争に負けたからといって、国としてしなければならないことは変わらないと思われるが、どうしてだろう。 個人的に見ても社会的に見ても人の生きる目的は幸福である。戦争と平和に関するもの戦争と平和に関するものである。その定義は、「徳を伴ったよき生」「 生活が自足的である こと」「安定性のある最も快適な生」「 財産が豊かで身体も恵まれた状態にあり、それらを維持し、働かせる能力があること」のうち一つ、あるいは一つ以上のことをいう。いわれてみると単純である。単純なことをわざと複雑にしないでそのまま受け取ることが大切であろう。自分としては「 生活が自足的」であり、「身体を維持し、働かせる能力」があれば幸福なのではないかと思う。 著者は美しい(立派な)ものについて述べている。「勇気」や「善」「正しい行動」という普通に美しいものの中に、「敵に対して報復を加え、和解で済ませたりしないことは、美しい」と述べている。「なぜなら、借りは返すのが正しいのであるが、正しいことは美しいことであるから」というのが理由である。これは日本人が古来から持っている「和をもって尊い」とする思想と相容れない考え方である。ただ日本人が単独で暮らしていた古代なら良いが、グローバル社会の現代では「和解」だけでは通用しない。西洋社会の基盤になっているアリストテレスの考え方を採り入れなければならない。 人が子供たちを愛することは、「子供は自分自身の作品であるから。また、不完全なものを完全に仕上げることは快い。なぜなら、その時に初めて自分の作品となるから」と述べている。確かに人は身近にいない子供を愛することは難しい。 著者は第2巻冒頭の「聴き手の心への働きかけ」という章で、弁論は正しいことを主張するばかりではいけない、「聴き手自身も或る種の感情を抱く」ということを考慮に入れなければならない、と述べる。「聴き手が或る感情を抱くようになることは法廷弁論において大いに役立つ」というのは、「愛している時と憎んでいる時とでは、また、腹を立てている時と穏やかな時とでは、同じ一つのものが同じには見えず、全く別物に見える」、「自分が判決を下そうとしている相手を愛している人の目には、彼は不正など全く働いていないか、働いてもごく軽いものであるように思われ、他方憎んでいる人の目には、それと正反対に映るものである」と述べている。討論番組や国会討論などで自分の主張ばかりを重んじて、相手の感情を無視する場面をよく目にする。議論はどこまでも平行線をたどり、前に進まない。アリストテレスの弁論術を勉強する必要があるだろう。 第2巻で著者は「怒り」「友愛と憎しみ」「恐れと大胆さ」「恥と無恥」「親切と不親切」「憐れみ」「義憤と妬み」「競争心」などの感情がどこからどういう人のもとへ来るか、を述べる。それらの原因を考察することによって法廷における弁論を有利に進めるためである。本章の議論は弁論術のためというより、心理学の教科省のようである。アリストテレスの生きた時代では弁論術、文学、科学、医学、哲学の間に境界はなかった。 さらに著者は三通りの年齢による性格を考察する。 (1)青年、(2)壮年、(3)老年のそれぞれの性格の成り立ちと特徴を挙げる。その中で著者は「好運に恵まれた人々は、その好運が原因で人一倍不遜であり、分別を欠いているのであるが、しかし一つだけ非常によい性格が、好運にはついて廻っている」と述べ、考えたこともなかったが言われてみれば確かにそうだな、と思わせる。 第2巻の終盤で著者は「例証」「格言」「説得推論」について述べる。特に説得推論に関しては弁論術のひとつの具体的な方法であるので詳しく述べている。 第3巻では弁論の技術的な面を述べる。著者は大切なものとして「声」と「演技的な要素」を挙げる。より大事な部分は大きい声でゆっくり喋る。大袈裟な身振りをする。外国語のような聞き慣れない表現を使うことも大事だと述べる。日本の政治家や評論家が「根拠」とか「証拠」と言えばいいところをエビデンスという言葉を使ったり、「意見の一致」とか「合意」と言えばいいところをコンセンサスという言葉を使ったりするのも、わざと聞き慣れない言葉を使って強調する意味なのだろう。 さらに著者は適切な言葉やその使い方、リズム、生き生きした表現の方法などについ細かく述べる。 2,300年前に書かれた本だが、古臭いところはなく、現代でも十分通用する。人文科学の分野では人間は進歩していないのかもしれない。 (2021.6.23) |
---櫛の文字【銭形平次ミステリ傑作選】---by 野村胡堂 |
2019年発行の創元推理文庫版の銭形平次捕物帳。平次ものは各社から出ているが、発行年度では本書が一番新しい。平次ものはどの話も全然古臭くなっておらず、今でも楽しく読める。できれば全383篇すべて文庫版で発行してもらいたい。 「振袖源太」はシリーズ2作目、八五郎は登場しない。がらっ八の八五郎が登場するのは第3話からとなる。大店の跡取り息子が次々に誘拐されるが同様な手口か皆目わからない。平次の推理は・・・。著者がホームズものを意識して創作しただけに、19世紀のロンドンで探偵業を営むシャーロック・ホームズと江戸時代に神田明神下で岡っ引きを仕事にする銭形平次には共通点が多い。一番の共通点は罪を犯した者に対する同情と優しさではないだろうか。 「人肌地蔵」、石の地蔵が夜になると温かくなるという不思議を平次が解き明かす。 「花見の仇討」、古典落語の「花見の仇討ち」と同じ展開で進む。実際に真剣で殺されるところが古典落語と違う。 「がらッ八手柄話」、平次が八五郎に手柄を立ててやらせたい、と苦心するが・・・。 「女の足跡」、「捕物なんかない方がいいよ。 近ごろ俺は十手捕縄を返上して、手内職でも始めようかと思っているんだ。・・・俺は御用聞という稼業が、時々いやでいやでたまらなくなるんだ」という平次の弱気なことばで始まる。今回は殺された女に、下手人が4人出てくる。周りの誰もが殺したくなる女は「 精神異常者が、どうかすると犬や猫を無闇に虐待するように、お皆の裡に潜む恐しい残酷性 が、お玉という手頃の対象を見付けて、遠慮もなく発散したのでしょう」という、サイコパス。被害者、犯人、探偵、いずれも現代的である。 「雪の夜」の殺人のトリック。平次は手柄も褒美もフイにするが、がらっ八とともに平和な正月を過ごす。 「櫛の文字」「罠に落ちた女」のトリックはホームズもびっくり。ホームズものは長編、短篇合わせて60篇であったが、平次ものは383篇の物語それぞれが独特で、同様のものがひとつもない。 「小便組貞女」、支度金をせしめるだけの妾稼業をめぐってかわされる平次と八五郎の会話がまるで落語のまくらのようにポンポンとはずむ。ラストは人情噺のサゲのようにほのぼのとした雰囲気に包まれる。 「猫の首環」、殺された大店の主人の側から逃げ出した猫。平次は何故か猫の首輪を探せ、と八五郎に命じる。 全383篇の銭形平次物語より、 「振袖源太」「人肌地蔵」「人魚の死」「平次女難」「花見の仇討」「がらッ八手柄話」「女の足跡」「雪の夜」「槍の折れ」「生き葬い」「櫛の文字」「小便組貞女」「罠に落ちた女」「風呂場の秘密」「鼬(いたち)小僧の正体」「三つの菓子」「猫の首環」の17篇を収録。 (2021.6.15) |
---相棒に手を出すな---by 逢坂 剛 |
「心変わり」「昔なじみ」「ツルの一声」「老舗のねうち」「ツルの恩返し」「別れ話」の6篇が収められている。 世間師シリーズは本書ともう一冊しか出ていない。さまざまな名前を使い分ける「何でも屋」が主人公である。やはり何でも屋の岡坂神策に似ているが、彼はもう少し詐欺師に近い。〈マイクロハード〉というエロビデオ屋では青柳周六と名乗り、 〈ポスティングZ〉では赤塚徹と、〈九段オフィスサプライ〉では白井十一郎、〈和洋フードサービス〉では紺野仁、〈エディットU〉では茶野木喬という名前の名刺を持っている。どれが本名かはわからない。 「心変わり」は不動産屋に頼まれて、愛人の心変わりを元に戻そうとする話。あっと驚くどんでん返しがある。 「昔なじみ」、久しぶりに会った高校時代の同級生が刑事になっていた。昔、茶野木はその同級生に金をせびられていた。今度は逆に引っ掛けてやろうと、もう一人の同級生とあることを企んだが・・・。 「ツルの一声」、二本柳ツルという名前の72才の骨董店店主が主人公。「おれ」は青柳周六という名前で店に出入りしている。骨董に興味があるわけではなく、なんとなくツルさんに惹かれているのだ。ある時、ツルさんの店に詐欺師が現れる・・・。 「老舗のねうち」、「スティング」もびっくりのコン・ゲーム小説。舞台劇にしたら面白いかも。 「ツルの恩返し」、二本柳ツルさんが登場すると、その場のすべてをさらってしまう。名脇役である。彼女を見ると、人生で起こるさまざまなことを人任せにせず、普通に歳をとっていけば、人間界の大抵のことはうまく対処できるようになるものだ、と思う。 「別れ話」、別れ話をネタに儲けようとする主人公。その主人公を引っ掛けようとする女。話は二転三転し・・・。脇役のツルさんが活躍する。 本シリーズの儲け役は二本柳ツルという72才の女性である。彼女のキャラは際立っている。女優でいうと奈良岡朋子か。 (2021.6.10) |
---十字路に立つ女---by 逢坂 剛 |
本書は「岡坂神策もの」の2作目である。岡坂神策はJRお茶ノ水駅の近くに調査事務所を構える探偵である。探偵とはいってもなんでも調査するという便利屋である。本書でも大学のスペイン語の教授からスペイン現代史に関する論文を依頼される。また近くのギター教室でクラシックギターの練習もしている。岡坂という名前からしても、彼は著者逢坂に一番近い人物として書かれている。 主人公の事務所は山の上ホテルの近くのマンションにある。神保町の古書街にいく時は山の上ホテルの裏の錦華公園の脇道を抜けていく。古書センターの2階のボンディへカレーを食べに行く。普段は古書専門だが、ときには三省堂や書泉グランデや東京堂へ新刊を買いに行く。実在の地名や店名を使っているのでイメージが掴みやすい。著者はスペイン現代史に関しては専門家なみの知識を持っているが、落語に関してはあまり興味を持っていないようだ。古書センターの2階のカレー屋は出てくるが、同ビル5階のらくごカフェについては触れていない。主人公は靖国通りを行ったり来たりするが、白山通りの奥野かるた店で定期的に開催している寄席かるた亭についても触れていない。 主人公は馴染みの古書店主から店のある土地を地上げされそうだ、という悩みを相談される。知り合いの弁護士からある調査を依頼される。また、知り合いの刑事から個人的な調査を依頼される。まるで無関係と思われたことが、調査が進むにつれてつながりが出てくる。 地味な調査の果てに待っていたものは・・・。 後半のアクションシーンもいいが、ギターの練習風景、古書店主や弁護士の美人秘書との軽い会話、大学の女性教授とのスペイン現代史に関する会話等々、主人公の日常的な描写が、著者自身の普段の生活を描いているようで興味深い。 (2021.6.9) |
---羊をめぐる冒険---by 村上春樹 |
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」、それと本書の「鼠」三部作は村上春樹の初期の代表作である。本書は三島由紀夫の「夏子の冒険」のパロディあるいは、書き換えであるらしい。夏子が北海道へ行って熊を探すように、本書の主人公は北海道へ羊を探しにいく。本書の20ページに「午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。 ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、 どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった」という記述がある。三島由紀夫を使っていますよ、という著者のメッセージだろう。 著者が「一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている」と書いた日のことを、筆者もよく覚えている。小説の中の「僕」は22才になったばかりだが、筆者はあと少しで19才になろうとしていた。学生寮でFMラジオを聴いていた筆者を、同級生が文化祭の準備を手伝って欲しいと誘いにきた。その時ラジオは音楽番組を中止して臨時ニュースを流していた。三島由紀夫の著書を読んだことはなかったが、名前はよく知っていた。作家というより当時の文化の先端に位置する者として。当時三島はボディ・ビルをやったり、俳優をやったりしていた。作中の「僕」は「それは我々にとってはどうでもいいことだった」と言う。三島の自殺はその時の筆者にとってもどうでもいいことになってしまった。文化祭で占い師をやることになってしまったから。 著者は本書の進行役として「僕」と「彼女」を設定し、彼らの軽くてセンスのある会話の合間に重い話題を二つ採りあげる。ひとつは戦前戦後の日本の政治の世界で黒幕として暗躍した右翼の大物児玉誉士夫の歴史、もうひとつは戦後食いつめて北海道に渡り、開拓民となった農民の話である。 「僕」と「彼女」がたどり着いた羊牧場の中の一軒家はスティーヴン・キングの「シャイニング」の舞台になった山奥のホテルのようだ。いつの間にかいなくなる「彼女」、一人きりになった僕の前に羊の皮を着た男が現れる。雪に封じ込められた別荘の居間で、「僕」と羊男は会話をする。ふと見ると鏡の中の羊男は映っていない。 いつの間にか一人きりになる主人公、そこに異形の人物が現れる。本書では羊男であり、他の作品ではジョーカーだったり騎士団長だったりする。 著者の長編はいずれも同様の構成で書かれている。「ねじまき鳥クロニクル」ではノモンハン事件、「海辺のカフカ」では旧日本軍による悪事、「1Q84」ではオウム真理教と麻原彰晃によるテロ、「騎士団長殺し」では古代の権力争いが取り扱われている。その後の長編で繰り返される特徴的なパターンが第1作目の長編で既に確立されていたことになる。 著者は作中しばしば音楽や小説を取り上げる。「1Q84」で紹介されたヤナーチェクの「シンフォニエッタ」がベストセラーになったり、チェーホフの小説が増刷されたりした。 本書ではパーシー・フェイス・オーケストラの「パーフィディア」、そしてベニー・グッドマン・オーケストラの「エアメイル・スペシャル」が紹介されている。 「僕」は初め持参した「シャーロック・ホームズの事件簿」を読み、次に「シャーロック・ホームズの冒険」を読んでいる。持参の本が無くなると、別荘に置いてあったコンラッドの小説を読む。題名はあげていないが、たぶん「闇の奥」だろう。この小説の謎めいた雰囲気に似ているから。 クライマックスで「鼠」は、「カラマーゾフの兄弟」の「イワンの悪魔」のように登場する。そして「僕」を相手にいろいろなことを喋る。 作家は処女作で全てを表現する、という説がある。その後の著者の長編はすべて「羊をめぐる冒険」を土台にして作られている、と言うことができる。さらにその土台が三島の「夏子」にあったとは・・・。 (2021.6.8) |
---幻のマドリード通信---by 逢坂 剛 |
「幻のマドリード通信」「カディスからの脱出」「カディスへの密使」「ジブラルタルの罠」「ドゥルティを殺した男」の5篇が収められている。いずれも著者得意のスペインものである。 「幻のマドリード通信」はスペイン戦争終結直後、マドリードの日本大使館に戻ってきた書記官が、荒らされた大使館の金庫から自分宛の書簡を発見する。そこにはスペイン史の裏面で暗躍したスパイたちの活動が記されていた。 「カディスからの脱出」。カディスという街は著者の「カディスの赤い星」でお馴染みになっていた。本書の舞台になったカディス駅や大聖堂や中央市場もグーグル・マップで確認済みだ。 「カディスへの密使」。上記の作品と似たような題名だが、本書は政治謀略ものというより、スパイものに近い。「カディスからの脱出」の続編というよりも「カディスの赤い星」の登場人物が重要な役で再登場する。日常的な幕開け、急展開する状況、サスペンスフルなクライマックス、そして意外な結末。カディスに向かう急行列車の中での出来事はスリルに満ちたハードボイルド・サスペンスである。ラストのセリフが洒落ている。 「ジブラルタルの罠」。罠また罠。どんでん返しの妙。 「ドゥルティを殺した男」。ドゥルティは実在の人物でスペイン内乱の最中暗殺された。死因を巡って虚実入り混じった解釈によるミステリー。著者のスペインに対する知識の深さに感心した。 (2021.6.5) |
---ハポン追跡---by 逢坂 剛 |
「緑の家の女」「消えた頭文字」「首」「ハポン追跡」「血の報酬」の5篇が収められている。 本シリーズ「岡坂神策もの」はJRお茶ノ水駅に近くに調査事務所を構える主人公の物語である。調査事務所はなんでも調査する会社ということになっている。本当は私立探偵にしたかったんだろうが、日本では私立探偵は成り立たない職業である。所長兼調査員の岡坂はどうやら逢坂剛がモデルのようだ。 「ハポン追跡」ではスペイン人のハポンという姓の起源について調べる。岡坂は神保町の古書店でスペインものの資料を買い漁って「ハポン」という姓について調べる。ジョセフィン・ティの「時の娘」を彷彿させるようなアームチェア・ディティクティブになっている。これはスペイン好きの逢坂が実際に調べたものが元になっている。 「緑の家の女」はスペイン戦争とハリウッド俳優のエロール・フリンの関係が元になっている。これも著者逢坂が調べた話が土台になっている。 「消えた頭文字」は失踪した娘を探していくうちに事件に巻き込まれるという、典型的な探偵ものである。 「首」は岡坂の得意先の会社の担当者がある時から精神的に不安定になり、その原因を調査するうちに事件に巻き込まれる。著者の得意なジャンルのひとつ、精神分析ものの一篇である。 「血の報酬」は日本を舞台にした国際陰謀ものである。雨の夜、酔っ払った依頼主を自宅へ送る途中、某国の大統領を暗殺した者を車に同乗させることになる。ある一夜の冒険。荒唐無稽な話が馬鹿馬鹿しくならないのは著者の腕であろう。 (2021.6.4) |
---赤い花・信号---by ガルシン |
「赤い花」「四日間」「アッタレーア・プリンケプス」「めぐりあい」「信号」「ナジェジュダ・ニコラーエヴナ」の6篇が収められている。 ガルシンは1855年生まれ、トルストイの次の世代の文学者だが経歴が変わっている。裕福な家に生まれたが、17才で精神病が発症し、精神病院に入退院の生活を繰り返す。1988年、自殺に近い形で33才の命を閉じる。作品の数もそう多くはない。日本で発行されているガルシンの作品はほぼ本書に収められた6篇に限られている。 「赤い花」は著者の作品の中では一番知られている。読んでみてこれは切実な作品だと思った。精神病院に入院し、自分が患者であった著者にしか書けない話である。 「四日間」は戦場で負傷し、動けなくなった兵士の話である。動けないまま4日間を横たわったまま過ごす。体は衰弱し、死に近づいていく。頭は無事で、死に近づく自分を冷静に観察する。精神を侵された自分を冷静に観察した「赤い花」と同様、体験したものでなければ書けない話である。 「アッタレーア・プリンケプス」は 「めぐりあい」、旧友同士がある町でめぐり合い、旧交を懐かしむ。話していくうちに、以前貧しかった友人が豊かになっていることに気づく。訳を聞くと、言葉を濁しているがどうやら不正をしているらしい。友人が大金を費やして作り上げた水槽に案内してくれる。水槽には海水がはってあり、海の生物が泳いでいるのだが、ガルシンの描写が不気味。まるで不正をした友人の心の中を描いているように感じる。 「信号」は中学か高校の国語の教科書に載っていた。最後のセリフ「あっしを縛ってください」「あっしがレールを外したんです」は50年以上前に読んだにも関わらず、はっきり覚えている。 「ナジェジュダ・ニコラーエヴナ」はドストエフスキーの「白痴」のような人間関係、女ひとりと男二人の話である。結末も似ている。両方とも狂気の話である。漱石が人間も狂わせてみないと本当のところはわからない、と主人公に言わせているが、極端な心の状態が狂気とすれば、これが恋愛の行き着くところかもしれない。 狂気の作家ガルシンの作品はいずれも傷つきやすい心が無防備の状態で投げ出されているように感じる。ロシアよりもむしろ日本の方が受け入れやすい作家だろうと思う。 (2021.6.2) |
---父と子---by イワン・ツルゲーネフ |
原題は「父親たちと息子たち」である。2組の境遇の違う父親と息子が登場する。 地主の父親を持つ青年の家にその友人が滞在する。二人は大学の同級生である。滞在期間は1泊や2泊ではなく、数週間にも及ぶところがロシア的である。 2週間後二人は近くに住む女性の屋敷を訪れ、そこでも数週間過ごす。その後二人は元医者を父親に持つ青年の屋敷に行く。老夫婦は久しぶりに帰省した息子とその友人を歓迎する。 青年たちと父親たちとの会話。青年たちと若くして未亡人になった婦人とその妹との交流。一人の青年と年配の貴族との決闘。物語は流れるように進み、一人の青年の死によって終わる。 19世紀のロシアの中流階級の家族の風景がていねいな描写で描かれている。発表当時は一人の青年(バザーロフ)のニヒリズムが新鮮だったようだが、今では普通の青年の考え方である。むしろもう一人の青年(アルカージィ)の方が世の中の仕組みに従順すぎるように思える。 現代の我々にとっては、年上の女性に恋し、柔らかく拒絶されて自己嫌悪におちいるバザーロフは当たり前すぎる青年に見える。 ドストエフスキーのような高邁な思想やエキセントリックな登場人物たちが登場することもなく、トルストイのような広い世界観をもつ小説ではない。 ツルゲーネフは我々と等身大の人物たちが、世代間の価値観の違いや異性との交流における食い違いに悩みながら、真面目に生きようとする様子を切り取り、提示する。 若い二人が美しい未亡人の屋敷で過ごした2週間を著者はこのように表現する。その適切な表現力によって著者は読者を一気に19世紀のロシアの一地方に引きずり込む。 「時というものは、よく知られているとおり、とぶ島のように、はやくすぎさることもあるし、虫のはうように、のろいこともある。 しかし、時すぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけて幸福なのである。 アルカージイとバザーロフはまさしくそのようにして15日ほどをオジンツォーヴァのもとですごした」 1860年に書かれた19世紀の小説であるが、21世紀の今読んでも古臭い感じを受けない。人間の生活は何百年経っても質的に変化するものではない、と考えさせられる。 (2021.5.31) |
---現代の英雄---by レールモントフ |
本書の原題は「Geroy Nashego Vremeni」、英語に直すと「A Hero of Our Time」、日本語では「我々の時代のヒーロー」となる。 ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフは1814年10月15日に生まれ、1841年7月27日に決闘で亡くなった。26年と数ヶ月の生涯であった。ちなみにドストエフスキーは1821年、トルストイは1828年に生まれている。 本書は5章からなっており、初めの2章はマクシム・マクシームイチがペチョーリンという名の同僚のことを、旅先で出会った私に語る。次の3章はマクシム・マクシームイチから譲り受けたペチョーリンの日誌を私が読む、という形式になっている。レールモントフはこういう形でペチョーリンという若者の外面と内面を語り、彼が「我々の時代のヒーロー」である、と述べている。 本書が書かれたのは今から約180年以前の1840年である。レールモントフによる180年前のヒーロー像は、2021年の現代においてもヒーローなのに驚く。 そこに描かれたペチョーリンは単純なヒーローではなく、ドストエフスキーの「悪霊」に描かれたスタヴローギンであり、スタンダールの「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルである。その人物像を一言で表現することはむずかしい。 以下はまるでスタヴローギンの告白のようである。 「われわれはお互いにやがて理解しあい、ふつうの友だちになった、というのも、親友づきあいというやつはおれには不得手だからだ。親友ともなれば、一方は、たとえ双方のいずれもしばしば自覚はしていないにせよ、つねに他の奴隷である。ところがおれは奴隷にはなれない、といって、こんな場合に命令をくだす役にまわるのもめんどうくさい、というのは、それは同時に相手をごまかさなければならないからである」
以下はまるでジュリアン・ソレルの告白のようである。 「ぼくはまだ彼女を愛していると言ってもいいです、しばしの間でもかなり甘いときを過ごさせてもらったことには感謝もしています、彼女のためなら命もささげましょう、ただ、いっしょにいるとたいくつなのです・・・ぼくが阿呆なのか、悪党なのか・・・」
ペチョーリンはかつての親友と決闘して、何の感情も交えず相手を撃ち殺す。26才のレールモントフはかつての学友と決闘して、自分は空に向かって銃を撃つが、相手はレールモントフの心臓を狙って撃った。 (2021.5.27) |
---カディスの赤い星---by 逢坂 剛 |
逢坂剛は1986年、本書にて直木賞・日本推理作家協会賞・日本冒険小説協会大賞を受賞した。 本書は著者の実質上の処女作である。著者は大学卒業後、広告代理店の博報堂に勤務する傍ら、あてもなく本書を執筆した。31年勤めた同社を早期退職して専業作家になったが、それまでの17年は兼業作家として作家活動をした。 本書には著者の愛するスペインとフラメンコギターに関する知識が盛り込まれている。主人公は独立して広告代理店を経営する青年実業家である。 あるフラメンコギターを巡って陰謀に巻き込まれる。物語の半ばから舞台は日本を離れて、スペインに移動する。首都のマドリードから、南の端の港町カディスに行くことになる。在社中何度もスペインを訪れた経験を持つ著者だけにマドリードやカディスの街の描写は的確である。 Googleマップのストリートビューで現地の写真を眺めながら本書を読むと書いてある描写がそのまま眼前に現れる。 フランコ総統の死を巡って、虚実入り混じった物語はクライマックスまで息もつけないほどの迫力で進む。ドゴール大統領の暗殺をめぐる虚々実々の戦いを描いたフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」を思い出す。 (2021.5.24) |
---男の作法---by 池波正太郎 |
鬼平犯科帳の著者が知り合いの編集者に日頃考えていることをあれやこれやと述べる。気軽な座談であるから、話題はあっちへ飛んだりこっちへ飛んだりする。 寿司屋でアガリとかシャリとかおアイソとか言わずに、お茶とかごはんとかお勘定にしてください、とか言う方が好感が持てる。 旅行に行った時お土産はどうするか。蕎麦を食べる時はまずどこから取るか。旅館でチップはどのようにするか。・・・。 著者の体験から出た実際的な知識が盛り込まれている。ふとした時に役に立つだろう。 ただし、1923年(大正12年)生まれの著者が自分の生活の中から生み出した作法なので、年代によってはかえって変になることもある。何事も鵜呑みにしないことが大切である。 (2021.5.21) |
---怪奇探偵小説傑作選1 岡本綺堂集 青蛙堂鬼談---by 野村胡堂 |
半七捕物帳の著者の別の作品である。語り口は半七同様淡々としている。物静かな老人の語り口である。 怪奇物とは言ってもほとんどの話は隠された 中には「西瓜」や「白髪鬼」のようにまるでわけのわからない話もある。なぜ西瓜や白髪の女が 著者は昔はわけのわからない話があった、とだけ述べる。わけのわからない話があった昔は今より情緒の豊かな時代であったに違いない。 「青蛙神」「利根の渡」「兄妹の魂」「猿の眼」「蛇精」「清水の井」「窯変」「蟹」「一本足の女」「黄いろい紙」「笛塚」「竜馬の池」「木曾の旅人」「水鬼」「鰻に呪われた男」「蛔虫」「河鹿」「麻畑の一夜」「経帷子の秘密」「慈悲心鳥」「鴛鴦鏡」「月の夜がたり」「西瓜」「影を踏まれた女」「白髪鬼」の25篇が収録されている。 (2021.5.20) |
---まりえの客---by 逢坂 剛 |
「まりえの客」「盗まれた風景」「三十六号車の男」「アテネ断章」「死せるソレア」「最後のマドゥカーダ」の6篇が収められている。 「まりえの客」。まりえは池袋あたりの路地裏のバーにいそうな、ざっくばらんな姉御肌のキャラクターである。女は男とは別の生き物という説がある。読後ゾクゾクっとするほど怖ろしい話である。哲学者の木田元氏はこの本を読んで、池袋で「まりえ」という名前のバーを探し回ったという。 「盗まれた風景」。精神分析ものである。最後はどんでん返しが決まる。 「三十六号車の男」。ハードボイルド者のパロディ。 「アテネ断章」。著者の得意なスペインものである。皮肉なオチが効いている。 「死せるソレア」。スペインもの。日本人のギタリストとスペイン人の歌姫のたどり着いた場所は・・・。 「最後のマドゥカーダ」。スペインもの。フラメンコギターのプレイヤーでなければ書けない知識が盛り込まれている。ひとりの女を愛した日本人とスペイン人の人生の行く末は・・・。 (2021.5.19) |
---裏切りの日日---by 逢坂 剛 |
著者初期の長編小説である。警察小説であり、ハードボイルドである。 印象的な刑事が2名登場するが。そのうちの一人、 物語はどんでん返しの連続、話がどう決着するのか最後になるまでわからない。 もうひとりの印象に残る刑事桂田の造形が際立っている。悪だか善だかわからないが彼の行動は個性的である。ドストエフスキーの登場人物を見る思いがする。複雑な彼の存在によって、読者は次から次へとページをめくることになる。 逢坂剛は優れたページターナーである。 (2021.5.18) |
---幻の翼---by 逢坂 剛 |
「百舌の叫ぶ夜」の続編である。 前作に負けず劣らず激しい作品であり、物語がどう展開するか読めない作品である。陰謀に次ぐ陰謀、騙し合いに次ぐ騙し合い。読み進むにつれて物語は複雑に絡み合い、読者は著者の思うように操られるしかない。 救いは物語が前作のように過去と現在が入り乱れて進むようなことはなく、時制通りに進んで行く。 (2021.5.16) |
---百舌の叫ぶ夜---by 逢坂 剛 |
目まぐるしいほど展開が入れ替わる。章ごとに過去と現在と場所が入れ替わり、死んだはずの人間が生きていたり、逆の状況になったりする。 それらがクライマックスのシーンで凝縮し、驚愕の真実が明らかになる。 著者は本書の完成に3年半の時間をかけた。著者はあとがきで、3年半の間に同じような状況設定の海外ミステリーが翻訳されたので一瞬動揺したが、微妙なところが違うので安心したと書いている。ケン・フォレットの「針の眼」のことを指しているのであろうか。 さらに著者は小説の時制の違いを各章の数字の位置で表現したと書いている。そのへんを意識しながら読めばよかったが、夢中で読んだために数字の位置が変だなとは思ったが、特別に意識することなく読み終えてしまった。 二度目はもう少しじっくりと読もう。 (2021.5.14) |
---神様のボート---by 江國香織 | |
狂気を書いた作品である。 物語は もうひとつの物語は葉子が35才のときに始まる。葉子は26才のときに離婚し、娘を連れて関東地方の各地を転々とする。物語は高萩在住から始まるが、それまでに前橋、天津小湊、高崎、今市に住んでいる。生活費はピアノ教師と夜の酒場のアルバイトで稼ぐ。音楽大学を卒業と同時に結婚した桃井先生と離婚し、当時1才の娘を連れて各地を転々とする事になった葉子の物語が少女と葉子によって語られる。 女同士の会話はあっちへ飛びこっちへ飛びするから、その断片をつなぎ合わせると彼女たちの過去と現在の様子が徐々に知れてくる。草子は桃井先生の子供ではない。妻子のある男性との激しい恋愛によってできた子供である。桃井先生は自分たちの子供としてかわいがっている。 彼女たちは高萩から佐倉へ、佐倉から逗子へ移住する。そしてそこで別かれる。読者は彼女たちの7年間をともに生きて、結婚とは、家族とは、男女とはという要素をつなぎ合わせて、人生とは? という問いに向かい合うことになる。 彼女たちが住んだ佐倉で、小学生の草子は毎日のように城址公園や姥ケ池を散歩し、市立美術館のロビーで宿題をする。公園内にある国立歴史民俗博物館には入らない。市立美術館は入場無料だが、国立歴史民俗博物館に入るにはお金がかかるからだろう。 (2021.5.12) |
---情状鑑定人---by 逢坂 剛 |
「情状鑑定人」「非常線」「不安なナンバー」「都会の野獣」「死の証人」「逃げる男」「暗い川」の7篇が収められている。 本書のタイトルになっている「情状鑑定人」とは家庭裁判所の調査官が大学の精神医学の教授の協力を得て犯罪者の罪の重さを鑑定するという話である。犯罪者にもそれぞれの事情があり、かんたんに刑の重さを決めるわけにはいかない。 「非常線」は逃走する銀行強盗と追いかける警官の駆け引き。話は二転三転する。 「不安なナンバー」はひき逃げされた被害者のダイイングメッセージが意外な展開を導き、話は二転三転して意外な結末となる。 「都会の野獣」、逃げる女、追いかける男、女を守る男、三者三様の事情が絡み合い、思ってもみなかった結末が待っている。 「死の証人」、悪徳刑事とヤクザの騙し合い。 「逃げる男」、国会議員の汚職をめぐる刑事とスナイパーの騙し合い。 「暗い川」、ヤクザと刑事のつば迫り合いが意外な方向に。 いずれも犯罪を犯す者とそれを取り締まる刑事の話だが、話は二転三転し、どちらが犯罪者でどちらが取り締まる方なのかわからなくなってくる。ときには両方とも犯罪者のことも。夜、寝床の中で読み、朝起きたときに結末がわからなくなっていたことも。 (2021.5.10) |
---坊っちゃん---by 夏目漱石 |
漱石が大学に在職中、「吾輩は猫である」の次に「ホトトギス」に発表した小説である。 「草枕」以後の作品に比べて自由奔放に書いた小説である。「吾輩は猫である」の独白体に対して、本作は全編落語の口調で書いてある。「マドンナだろうが、 名前のない「坊っちゃん」は相続で得た600円で物理学校を卒業して、松山の中学校に赴任した。24才の青年は大人の世界に馴染めず、1ヶ月で辞職届を提出して東京に戻る。 坊っちゃんの威勢のよい 気持ちは良いが、坊っちゃんの人生は始まったばかりである。最後のページにその後の彼の様子が書いてある。「その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ」。40円の月給を投げ捨てて、25円の月給に甘んじている。正義の味方も楽ではない。 冷静に読むと、坊っちゃんが成敗したはずの「赤シャツ」や「野だいこ」はごく普通の社会人である。自分の金で芸者を上げるくらい、それほど悪いことではない。「うらなり」くんの 世間知らずの坊っちゃんが正義感を振り回し、空回りしたあげく、ドン・キホーテのように社会から弾き飛ばされたように見える。三代目小さんが好きだった漱石の新作落語のような噺である。 (2021.5.8) |
---歴史の世界から---by 司馬遼太郎 |
数々の歴史小説を書いた著者が心に残った人物についての逸話を短くまとめて、新聞や週刊誌、月刊誌などに折に触れて掲載してきた。それらを集めて一冊の本にしたものが本書である。 題材も織田信長、豊臣秀吉、徳川家康というメジャーな人物から、河村瑞賢、土居通夫、筒井順慶というあまり知られていない人物に至るまでバラエティに富んでいる。 著者は朝日新聞出身というだけに、日本の国家史観については厳しく、中国のそれについてはえっと思うほど寛容である。ところどころこれが朝日の文化圏か、と思った。 大阪のなんばに生まれ、亡くなるまで大阪に住んだ著者は、大阪商人のようにたくましく貪欲に日本の文化を掘り起こしていった。 (2021.5.6) |
---こころ---by 夏目漱石 |
「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3篇からなる本書の主人公は先生である。名前のない先生と名前のない私は夏の鎌倉の海岸で出会う。 第一章は先生と私の出会いと交流を描く。第二章は田舎に住む両親と私の交流を描く。父親は病気で寝たり起きたりしている。父親の病気が悪化し、危篤状態になったときに先生から長い手紙が届く。 第三章は先生からの手紙である。この手紙に先生の生い立ちと学生生活、下宿生活が描かれる。下宿先の奥さんやお嬢さんとの交流、親友Kとの同居生活、Kの死が描かれる。 私は先生に恋とはなんですか、と聞く。先生は恋は罪悪ですよ、と答える。先生は君の家に財産があるなら、今のうちに相続しておきなさい、と言う。人は平生は善人でもいざという間際に急に悪人に変わるから、と言う。この物語はこの2つのモチーフからできている。 先生とお嬢さんの出会いと交流は、自然なタッチで描かれている。この部分だけを読むと男女の淡い恋愛を的確な描写で書いている。Kが現れ、先生はお嬢さんの心がKに傾いたように感じる。先生の 先生がKに対してとった行為は、「平生は善人でもいざという間際に急に悪人に変わる」ひとつの表れでもある。先生の過去の相続の問題と私の財産分与の問題と先生の嫉妬心が微妙にシンクロする。 鎌倉の海岸での海水浴のシーンからゆったりと始まった物語は、先生の手紙の切羽詰まった描写で終わる。「彼岸過迄」「行人」と続いた嫉妬の追求は本書で完了する。 漱石が生前に残した作品としては、自分自身の過去を追求する「道草」と、それぞれの人物が自分勝手な言葉を (2021.5.4) |
---あるスパイへの墓碑銘---by エリック・アンブラー |
フランスのツーロンにあるリゾートホテルが舞台。ハンガリー人の語学教師が休暇で宿泊している。現像に出したフィルムのネガからスパイの疑いをかけられる。 リゾートホテルに宿泊中の本物のスパイを見つけなければ、逮捕され、フランスの市民権を取り消される。期限は60時間。月曜日の10時に語学学校へ出勤しなければ首になってしまう。 主人公はホテルの管理人夫妻を含めて12人の宿泊者たちを、彼らに悟られないように調査しなければならない。 グランドホテル・タイプのミステリーである。アガサ・クリスティの得意分野だ。クリスティがスパイ物を書くと芝居の書割のような絵空事になってしまうが、アンブラーが書くと緊迫感のあるスパイ物になる。 ジェイムズ・ボンドのような本職のスパイではなく、サマセット・モームの「アシェンデン」のような素人を、第二次大戦前夜の不穏な空気の漂うヨーロッパのスパイ合戦に巻き込ませたところに本書の面白さがある。 (2021.4.30) |
---裸の町---by 五木寛之 |
【裸の町】 著者が「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞をもらった1967年に発表された作品。スペイン戦争のとき、大量の金塊がスペインからロシアに運ばれた。これは歴史的事実である。 その後、金塊はナチスに奪われ、ベルリンに運ばれ、ナチスの崩壊とともに日本に運ばれた。これは著者の想像である。金塊を巡ってスペイン、ドイツ、中国の秘密機関が日本で暗躍する。 主人公はフリーの記者。舞台は彼が出入りする四谷のカフェ。物語は仕事にあぶれたフリーの記者が二日酔いの頭を抱えながら行きつけのカフェに現れる、という現実的な設定から始まる。 日常のありふれた風景から始まり、主人公が徐々に陰謀に巻き込まれていく、というのはハードボイルド小説の常道である。著者は定石に従い、スペイン戦争の裏側に入り込んでいく。話は途中から荒唐無稽になっていく。終盤になると主人公はジェイムズ・ボンド張りの活躍をする。 集めた情報をもとに、主人公が最後まで地味に真実を追い求める、という展開にするほうが筆者としては好みである。 【夜のシンバル】 1972年の作品。吉田喜重を思わせる映画監督が主人公。5年ぶりにもらった仕事がある会社のCF撮影。 主人公はCF撮影のためにスタッフとともに香港へ行く。香港で出会った中国人は25年前、朝鮮半島で主人公が助けられたある人であった。 終戦間近に朝鮮半島から引き上げてきた著者自身の体験をもとにした短篇である。朝鮮半島の描写はリアルである。読後漂う虚しさはある時期の著者の作品に独特のものである。 (2021.4.27) |
---燃える地の果てに---by 逢坂 剛 |
1966年1月、アメリカ軍の飛行訓練中、空油機と爆撃機が空中衝突し、爆撃機に搭載していた核爆弾4発がスペインの地中海沿岸に落下するという事故が起きた。その事実に日本人のギタリストとスペイン人のギター製作者をからめた国際謀略・メロドラマ・サスペンスが本書である。 1966年の事故に巻き込まれた日本人とスペイン人の青年たちの行動を本線にして、間奏曲として30年後の1996年の新宿ゴールデン街の酒場の主とイギリス人ギタリストの行動が描かれる。 30年を隔てた2つの物語がスペインの寒村パロマレスで出会うとき、驚きと感動の大団円が待っている。 著者の逢坂剛は多くの著書を持っている。その中でどれを選んだら良いのかわからず、解説を頼りに物色していたら、本書の解説は哲学者の木田元氏であった。木田氏の著書は何冊か読んでいて、彼が熱心なミステリー愛好家であり、特に逢坂剛の作品は全て読んでいることを知っていた。その木田氏がすすめるのだから間違いはなかろうと、本書を購入した。間違いはなかった。 空中給油の様子、核爆弾の捜索活動、その後始末、ギターの構造や制作過程、フランコ政権化のスペインの民衆の暮らし等々、本書を読んで初めて知ったことがらは多かった。そしてミステリーとしての本書は・・・。かなり期待しても裏切られることはない。 (2021.4.25) |
---きまぐれな読書 現代イギリス文学の魅力---by 富士川義之 |
著者はイギリス文学専攻の大学教授で翻訳家である。 翻訳家としては、G・S・フレイザー、ウラジーミル・ナボコフ、ロレンス・ダレル、エドガー・アラン・ポー、オスカー・ワイルド、イアン・マッキューアン、ウォルター・ペイター等を訳している。 文芸批評家としては、「風景の詩学」「幻想の風景庭園 ポーから澁澤龍彦へ」「記憶のランプ」「英国の世紀末」「ナボコフ万華鏡」「本書」「新=東西文学論 批評と研究の狭間で」等がある。 本書は1980年から2000年にかけて発表したイギリス文学に関するエッセイを集めたものである。話題も野口米次郎、夏目漱石からグレアム・グリーン、ピーター・アクロイドに至るまで多岐に渡っている。 ジュリアン・バーンズの「フロベールの鸚鵡」やカズオ・イシグロの「日の名残り」、ピーター・アクロイドの「ホークスムア」や「チャタトン」などのちに話題になった本も初期のうちに注目し、紹介している。 イギリス文学に関する少し高級な話題を提供するエッセイ集である。 (2021.4.22) |
---文士の魂---by 車谷長吉 |
本書は著者の書評集である。人柄同様、書評も独特で興味深かった。 第1章の「三つの小説」では、著者と編集者が近代日本の小説のベスト3を選ぶ。著者は夏目漱石の「明暗」、 幸田文の「流れる」、深澤七郎の 「楢山節考」を挙げた。甲氏は漱石の「門」、志賀直哉の「暗夜行路」、三島由紀夫の「金閣寺」を、乙さんは漱石の「三四郎」、谷崎潤一郎の「細雪」、幸田文の「おとうと」を挙げた。なにごとによらず、ベスト3を選ぶというのは興味深い。選者の個性が出るからだ。 第2章の「青春小説」では漱石の「三四郎」と鴎外の「青年」を比較し、第5章の「二つの金閣寺」では三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「金閣炎上」を比較し、評論する。 その他、「恐怖小説」「伝奇小説」「文学における悪」「夢の小説」等、著者独特の興味深い本の紹介が続く。 面白いのは著者の友人の名前は甲氏とか乙さんとか書くが、敵対したり裏切ったりした者の名前はフルネームで実名を書く。時には住所や店の名前まで書く。ルビまで振ってある。生前、名誉毀損で訴えられたり、論争になったりと毀誉褒貶の多かった著者にしては当たり前のことだろうが。 (2021.4.18) |
---100分de名著「夏目漱石スペシャル」---by 阿部公彦 |
本書で著者が取り上げた漱石の本は「三四郎」「夢十夜」「道草」「明暗」である。 英文学者であり、作家でもある著者独特の評論は興味深かった。まず漱石の作品を「B級の匂いがする」と位置づけたところに新鮮味があった。確かに漱石の作品はどれも純文学というには面白すぎる。漱石自身もほとんどの作品を新聞小説として書いていたわけで、毎回なんらかの山場を設け、読者を次回に引っ張るためのサスペンスを考えていたに違いない。 著者は「三四郎」を応援小説、「夢十夜」を不安小説、「道草」を胃弱小説、「明暗」を対決小説または私小説ならぬ痔小説と名付けた。 「明暗」を対決小説と呼んだのはもっともで、津田と小林、お延と吉川夫人、お秀と津田等々、さまざまな組み合わせの言い合いは血湧き肉躍るほど迫力がある。津田とお秀兄妹の会話が険悪になり、頂点に達したとき、突然ふすまがスーッと開き、お延が入ってくるシーンなどは小説を読みながら思わずドキッとして周りを見回したくなるほどショッキングである。その後のお延とお秀の会話は女同士の嫌味の応酬になり、徐々に険悪になってくる。最後にお延が出した切り札に胸がスーッとするか、ゾッとするかはそれぞれの読者にゆだねたい。筆者は胸がスーッとして、その後ゾッとした。 「明暗」は主人公津田の痔の手術の場面から始まり、小説の大半で津田は入院しているか、温泉で療養している。活動するのは津田の妻、妹、会社の上司夫妻、友人たちである。著者が本書を痔小説と名付けたのはそのためである。 「道草」では主人公健三(漱石がモデル)の幼年時代の記述が精神分析用語でいう「ダブル・バインド」であることを知った。漱石の作品を鑑賞する上で興味深い。 「彼岸過迄」は探偵小説のスタイルで描かれており、「坑夫」は一人称のハードボイルド小説である。「野分」は三人称のハードボイルド小説である。「こころ」は先生とK、私と先生のダブル男色小説である。先生が(たぶん)美青年の私を引っ掛けるシーンはフレディ・マーキュリーもびっくりのあざやかな手口である。 著者は漱石の作品を「B級の匂いがする」といった。B級という言葉によって小宮豊隆や内田百間、森田草平などの忠実な弟子たちに祭り上げられていた漱石の立ち位置が自由になり、エンターティンメント系に近付いたのではないか。 (2021.4.17) |
---天に送る手紙---by 森 敦 |
森敦は旧制第一高等学校に入学するも翌年退学し、放浪生活に入る。1934年(昭和9年)、菊池寛や横光利一に認められ、22才で東京日日新聞・大阪毎日新聞に「酩酊舟〔よいどれぶね〕」を連載する。同年、太宰治、檀一雄、中原中也、中村地平らと文芸同人誌『青い花』の創刊に参加したが、作品の発表には至らず、奈良・東大寺の瑜伽山(ゆかやま)に住む。その後結婚し、妻と共に各地を転々とする。1974年に「月山」で第70回芥川賞受賞。62才での受賞は当時最高齢受賞記録であった。 本書は1983年から亡くなった年の1989年まで雑誌に連載されたものを、著者の死後出版されたものである。 著者は妻を亡くした時のことをこう記している。「その女房も天に去って、この世のひとではなくなった。わたしは急に、書くべきなにものもなくなった。わたしはただ信じられることによって、わたしであり得たことを知らなかったのである。 とすれば、わたしはどうしてわたしであり得るのか」。「信じられることによって、わたしであり得る」とは妻を亡くした者の切実な言葉であろう。 著者の中学時代の恩師である森本先生のことを書いた「台風と番傘」の章に、新任の森本先生に鉄拳制裁を加えた柔道部の猛者が、先生が転任する時に泣きながら見送った話が出ている。どのような状況でも毅然として生きることの偉大さを、著者は淡々と記す。 「この美しい地球」の章に、内村鑑三の軽井沢での講演録「後世への最大遺物」のことが出ている。岩波文庫でわずか数十ページのこの講演録は、時代を問わず様々なひとびとに影響を与えている。 「真実を恐れざる目」の章では、カフカの「ドストエフスキーは童話です」という言葉を紹介し、続けて「童話は残酷なものです」という。はっとするような意見である。 晩年の著者が自分の経験をもとに、簡単には読み飛ばせないような意見を54章残して (2021.4.16) |
---真相---by 横山秀夫 | |
「真相」「18番ホール」「不眠」「花輪の海」「他人の家」の5篇が収められている。 「真相」は15才で不慮の死をとげた息子をもつ父親が主人公である。息子の死から10年後、死の原因が明らかになる。同時に息子の真の生活も・・・。 「18番ホール」。県庁を辞めて村長選挙に出ることになった36才の男が主人公である。選挙戦が進むうちに自分の陣営のメンバーに対する疑心暗鬼が増していく。開票の日、とんでもないことが・・・。 「不眠」。リストラされた50才の男が主人公である。失業手当をもらいながら、大学の不眠治療の被験者のアルバイトをする。ある夜、眠れないまま自宅近くを歩いていると・・・。 「花輪の海」。リストラされた男が再就職の会社で面接試験を受けている。ある質問をきっかけに大学時代の部活動を思い出す。空手部の合宿で理不尽なシゴキを受けた6人の新入生は・・・。 「他人の家」。前科のある男が、過去を知られた大家からアパートを追い出される。毎朝散歩の途中で会う老人から、自分の家に同居しないかと持ちかけられる。好都合だが何か裏のありそうな話でもある・・・。 いずれの話も警察は脇役である。主人公はリストラされた中年男や、前科を抱えて生きなければならない男、いずれも社会の中で不遇な人たちである。真の悪人ではなく、ふとした拍子に悪に手を染めてしまったり、その場の状況に流されてやむを得ずしてしまう人たちである。ここでああすれば、とかあの時こうしておけば、とか思いながら読まされる。いずれの話も人ごとではない。 (2021.4.15) |
---カーテン---by アガサ・クリスティ |
本書はアガサ・クリスティ死の前年、1975年に発行された。執筆されたのは第二次大戦中の1943年である。 1943年は「五匹の子豚」と「動く指」が発行された年で、クリスティの絶頂期である。 カーテンはカーテン・コールの意味で、ポアロがカーテン・コールとともに退場する、最後の作品である。この巻でポアロは死ぬわけであるから、ポアロものをもう書かないという時まで発行を延期していたのだろう。 この犯人像は新しい。新しすぎて1943年では読者に理解されなかったのではないか。こういう犯罪者は1975年どころか、2000年台に登場しても良いくらいである。 本書は処女作「スタイルズ荘の怪事件」の舞台、スタイルズ荘が再び舞台になる。持ち主は変わり、部屋も改装してある。 初期にコンビを組んでいたヘイスティングスが語り手として登場する。ヘイスティングスが登場する巻は意外に少なく、長編では10冊に満たない。今回は21才になったヘイスティングスの娘が重要な役で登場する。 (2021.4.14) |
---武器よさらば---by アーネスト・ヘミングウェイ |
1929年、ヘミングウェイ29才の時に出版された。 第一次大戦時のイタリア戦線。アメリカ人の中尉フレデリック・ヘンリーが主人公である。小説は彼の一人称で書かれている。自分のことを「ぼく」と表記している。英語だと「I」に決まっているのだが、日本語だといろいろな言い方があるので、翻訳者が迷うところだ。「ぼく」と訳すか、「わたし」と訳すか、「俺」と訳すかで主人公のイメージがまるで違ってくるからだ。村上春樹はヘミングウェイと同時代の作家、スコット・フィッツジェラルドの作品はたくさん翻訳しているが、ヘミングウェイの作品は翻訳していない。彼ならなんと訳すのか興味がある。 これはヘミングウェイ版「戦争と平和」である。 イタリア軍のアメリカ人中尉フレデリック・ヘンリーはオーストリアとの国境近くの戦場で兵站関係の仕事をしている。何ヶ月か戦場で働き、何ヶ月か休暇を取る。休暇中に戦友の軍医から看護婦のキャサリン・バークリーという女性を紹介される。フレッドは遊びのつもりで付き合うが、キャサリンは本気になる。 戦場で重傷を負ったフレッドは病院送りになる。その病院に転属してきたキャサリンと再会する。フレッドはキャサリンに看護されているうちに愛を感じ始める。 ケガが癒えたフレッドは何度目かの戦地へ行く。イタリア軍はドイツ軍におされてバラバラになる。フレッドは戦場から逃走し、キャサリンに会いに行く。・・・。 リアルな戦場での描写と愛人との甘い生活の描写は、ヘミングウェイ自身が赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に行った経験と、その戦線で瀕死の重傷を負い、この時に病院で出会った看護婦に恋した時の経験をもとにしている。 フレッドは戦場での戦いと、キャサリンとの逢瀬を繰り返す。男の生活は外での戦いと、内での平和な暮らしの繰り返しである。戦場では生きるか死ぬかの極端なことになるが、現代人の生活も似たようなものである。時には敗れて死ぬ者もいる。古典になるような作品は古びることなく、今を生きる者の行動の指針となってくれる。 (2021.4.10) |
---おとな二人の午後---by 五木寛之・塩野七生 |
本書は2000年に出版された。当時五木寛之は68才、塩野 五木寛之がイタリア在住の塩野七生を訪ね、対談する。話題はおしゃれ、映画、ワイン、政治、文化等々多岐にわたる。 対談した場所はローマ時代の遺跡が見えるホテルのテラス、街のカフェ、博物館等々いずれも魅力的な場所である。 様々な場所で様々な話題を話しながらも、なにげなく自分たちの人生観を語っている。楽しみながらも作家としての眼を見失うことがない。 (2021.4.6) |
---わが心のスペイン---by 五木寛之 |
五木寛之はいつも時代の半歩先を歩いてきた。 デビュー作の「さらばモスクワ愚連隊」は1967年に出版された。海外旅行が自由化された1964年から3年経ったが、若者が自由に海外に出るにはまだ抵抗があった時代に、ナホトカ経由でモスクワに行き、ジャズを演奏するという物語は夢があった。 本書は1972年に出版された。1972年はヴェトナム戦争の時代で、第二次大戦より前の戦争など誰も興味をもたなかった。 今から考えると、スペイン戦争はその後の戦争の様相を全て含んでいた。資本主義国と共産主義国の代理戦争、ゲリラ戦、軍武によるクーデター、内戦、等々。第二次大戦はもとより、ヴェトナム戦争、中東戦争、テロ、軍部による国民の弾圧は今日でも毎日のように報道されている。 五木寛之が1972年に久野収や斉藤孝とスペイン戦争について討論したことを、当時実感を持って受け取った読者がどのくらいいただろう。常に読者の半歩先を進む著者のジャーナリスティックな感覚が本書にはフルに発揮されている。 (2021.4.5) |
---by アーネスト・ヘミングウェイ |
原題は「For Whom The Bell Tolls」、「誰のために鐘は鳴るのか」「それはあなたのために」というジョン・ダンの詩から採った。 ヘミングウェイの中で一番ロマンティックな小説である。映画化された彼の作品の中でも一番当たったのではないか。主人公のロバート・ジョーダン役にゲーリー・クーパー、マリア役にイングリッド・バーグマンを配したのも映画会社の意気込みの強さがうかがえる。この頃のバーグマンはカサブランカ(27才)、誰がために鐘は鳴る(28才)、ガス燈(29才)、白い恐怖(30才)、汚名(31才)とたて続けに名画に出演している。特に本作と「カサブランカ」における彼女の美しさは輝くばかりであり、筆者をはじめ多くのファンを獲得している。 有名なセリフがある。「あたしは、いつも不思議に思っていたのよ。接吻するとき鼻がどういうぐあいに向きあうのかしらって」。バーグマンが言うこのセリフは映画で最も印象的なシーンだった。 スペイン戦争の話である。スペインの内乱にはなぜか各国が参加している。マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国派にはソ連、メキシコが、フランコ率いるナショナリスト派にはイタリア、ドイツ、ポルトガル、アイルランドが参加した。その他国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、アンドレ・マルローなどが参加した。 バスク地方のゲルニカが、ドイツ軍による空襲を受け、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た。この事件はパブロ・ピカソの絵画「ゲルニカ」の題材になった。ロバート・キャパは「崩れ落ちる兵士」など前線でのショットを世界に報道、従軍写真家としての地歩を築いた。そして、ヘミングウェイは本書を書いた。 第13章で主人公ロバート・ジョーダンは、自分の70年の人生を売って70時間のそれを買っても少しも惜しくない、と述懐している。当時38才のヘミングウェイもそのように考えて従軍したのだろう。 大学のスペイン語講師の仕事を1年間休んでスペイン内乱に参加したアメリカ人ロバート・ジョーダンが、共和国派のゲリラの頭目パブロとその妻ピラールの協力を得て戦略上重要な橋を爆破する、というのがあらすじである。そのあらすじに絡んで、内乱の犠牲者マリアとロバートの短い恋愛、ロバートの過去、マリアの過去、パブロとピラールの過去がそれぞれの独白で語られる。ロバートは南北戦争の軍人であった祖父のこと、自殺した父のことを語り、マリアはスペイン内乱で犠牲者になった父と母のことを、そして自らの辛い体験を語る。ピラールが語る共和国派によるナショナリスト派の虐殺、彼女の前の夫である闘牛士フィニートの話は哀しい。 これはヘミングウェイがロバート・ジョーダンとマリアの悲恋を芯にして、自らが従軍したスペイン戦争や闘牛に関する想いを記した本である。スペインの闘牛については処女長編「日はまた昇る」の重要なシーンに使っている。また、「午後の死」や「危険な夏」で闘牛についてのルポルタージュも書いている。ヘミングウェイとスペインは切っても切れない関係にあり、彼はその想いの全てをこの長編小説に盛り込んだ。 ヘミングウェイの文体は特徴がある。独特の文体は同時代の作家、特にダシェル・ハメットやレイモンド・チャンドラーなどのハードボイルド系の作家たちに影響を与えた。 たとえば、「ロバート・ジョーダンは、それを受けとって膝の上におき、手榴弾を入れた上着のポケットから玉ねぎをとりだして、それを輪切りにするためにナイフを開いた。ポケットのなかでよごれた上皮の薄い銀色のところを切りとってから厚く輪切りにした。外側のひとかけらが落ちたのをつまみあげ、輪にくっつけて、それをサンドウィッチのなかにはさんだ」 のような。 目的の橋を爆破し、足を負傷して林の片隅に横たわりながら、マリアのことや祖父のこと、とりとめのないことを思い浮かべる。下方からは敵のタンクが横手からは敵の騎兵が近づいてくる。ジョーダンははっきりした意識を保ったまま、それらを迎え撃つことを誇りに思いながら横たわっている。わずか3日間の出来事であるが、長い物語はこのシーンで終わる。 ヘミングウェイは若い頃のアメリカ時代、青年から中年にかけてのパリ時代、中年以降のキューバ時代とライフスタイルを変えてきた。それぞれの時代の体験を文学作品に昇華してきた。晩年、体力の衰え、モチベーションの低下により作品が書けなくなった。多くの作家たちは自己模倣の作品を書き続けることによって名声と収入を持続しようとする。ダシェル・ハメットやJ.D.サリンジャーのように書かないまま沈黙する作家もいる。ヘミングウェイは自殺という道を選んだ。本書は彼が一番活動的だったパリ時代の集大成の意味を持つ作品である。 (2021.4.4) |
---日本短篇文学全集・7---by 幸田 文 |
幸田文の作品「黒い裾」「笛」「雛」「雨」の4篇の小説が収められている。その他の作家では樋口一葉、田村俊子、宇野千代の作品が収められている。 「黒い裾」は喪服にまつわる話。16才の時に初めて葬儀に出席した千代はその後中年すぎるまで何度か親戚の葬儀に出席する。普段は会うこともないが、葬儀になると会うという遠い縁者もいる。そのなかに恋愛感情はないが気楽に話せる男性がいて、誰かの葬儀のたびにその間にあったことなどを話していた。ある時から彼の行方がしれなくなった。・・・。 「笛」、七重は夫とともに夫の友人の家に招待された。友人の妻の名前が五重と知り、急速に親しくなる。自分の不倫と五重の不倫の時期が重なり・・・。 「雛」は娘のために買った雛人形にまつわるエッセイである。 「雨」は著者が療養のために熱海に向かう途中、車窓から見た景色から様々なことを連想する。 (2021.3.29) |
---流れる---by 幸田 文 |
著者は本書の題名について橋の下を水が流れるように、と記している。 著者は柳橋の芸者置屋に住み込み女中として働いた経験をもとにして本書を書いた。柳橋の芸者の置き屋に女中として入り込んだ梨花という中年の女が筆者の分身である。 舞台は華やかな芸者の楽屋裏である。玄関に病気の犬を飼っていてその糞尿が散らばり、下駄や草履が脱ぎ散らかしてある。座敷では芸者連中がだらしなく座り、嫌味や悪口を言い合っている。 しろうとだが経歴不明の梨花という中年女が初めは驚くが、次第に興味が湧いてここに居付くことになる。女たちの関係が徐々にわかってくる。 花柳界という特殊な世界にまぎれ込んだ女が、試行錯誤をしながら、したたかに自分の居場所を確保していく。彼女の意識の流れを独特の文章で表現していく。表題は与えられた環境に順応していく女の意識の流れを表したものとも言える。 (2021.3.28) |
---台所のおと---by 幸田 文 |
表題作「台所のおと」は「台所の音」である。なぜひらがなにしたのかわからないが、ひらがなの方がやわらかくて内容に合っているような気がする。 幸田文は一行一行、一文字一文字に神経を行き届かせる作家である。料理人の夫が不治の病で寝床に横たわったまま台所の音を聞きとるように。彼は妻の包丁の音からきょうの料理の具合、材料の良し悪しから、彼女の精神状態にいたるまで聴きとる。いつのまにか昔の記憶に入っていく。初めの妻、二番目の妻。「ひとりでいる淋しさのほうが、二人でくらす哀しさより 呼吸がらくのように考えられ、しきりに生活がかえたかった」彼は二番目の妻とも別れる。 著者は洒落た文章ではなく、あくまで的確な文章で言いたいことを表現していく。表現力の見事さに、快感を覚える。 「濃紺」は文庫本で8ページほどの掌編だが独特の味わいがある。下駄の履き心地をこれほど細やかに表現できる人は現代にはいない。下駄を子供の頃から履いて、生活の一部にしている人にして初めてこの小説が書ける。下駄を履かない筆者でもその感覚を味わうことができた。 「草履」「雪もち」、純日本的な題材にもかかわらず、よくできた海外の短篇小説のように感じる。情に流されることなく、客観的に表現されているせいか。 「食欲」、病人の意地汚さのにじみ出たような作品。バルザックの人間喜劇のなかの一幕を見るようである。 「祝辞」、結婚式でゲストから思いがけない祝辞を言われた夫婦が、7年後知り合いの結婚式に招かれる。あの時のことを思い出した夫は飛び入りで祝辞を述べる。そのことばに感動。 「呼ばれる」、日常の些細なことの大切さに敏感な著者の独特の感覚。ひとから呼ばれるということがこんなにも感動的なことだったとは。 「おきみやげ」、病気見舞いのなんでもない話なんだけど、人生全てに通じるような話。幸田文はこのような軽やかな話も書くんだ。 「ひとり暮し」、自分が一人暮らしをすることになり、一人暮らしの先輩たちの暮らしぶりを見ると、さまざまである。見事な生き方をしているもの、そうでないもの、著者の観察眼はするどい。 「あとでの話」、人が死んだ時には誰でも感ずることである。後になって考えてみると・・・。 幸田文の活動期間(1947-1973)と向田邦子の活動期間(1964-1981)は微妙にシンクロしている。幸田の著書を読むと、向田のエッセイや小説がイメージされてくる。今になって考えてみると向田邦子という作家は幸田文という作家の跡継ぎであったのだ。 (2021.3.26) |
---おとうと---by 幸田 文 |
中学一年に上がったばかりの弟が20才で亡くなるまでの生涯を姉の目から見つめる。弟を中心に小説家の父、後添えの母を含めた4人家族の様子を描いていく。 著者自身の家族構成と同じで、弟が亡くなった年齢も同じである。ある程度の脚色はあるかもしれないが、ほぼ実際にあったことだろう。 向島寺島町から隅田川を越えて、浅草方面の学校へ通う姉弟の通学風景から物語は始まる。向島寺島町といえば玉ノ井の私娼街のあたりだから永井荷風の「墨東綺譚」の風景とかぶる。迷路のような路地、貧しい長屋が立ち並ぶような。 いわゆる「てにをは」がきっちりしているという意味での名文ではない。言いたいことを100%言い尽くしているという意味で名文である。著者の言いたいことがはっきり伝わってくる。無駄な文章がない。そういう意味で漱石の文章を継いでいるとも言える。 「父母の不和な家は、父母は夫婦という一体ではなく、二人の男女という姿に見える時間が多い。そういう家は・・・」とか「不良が仲間を増やすのは、目的は一ツである。仲間が多くなくては周囲から圧しつぶされてしまうからである。手も足も出ないように圧しつぶされ・・・」というような、洞察力に満ちた印象的な文章が各所にある。 思春期から20才までの短い生涯を駆け抜けた弟の生活を姉の立場から描き切り、同時に3才年上の自分の生活と考えを描き切っている。 新潮文庫の表紙の柄は幸田格子で統一されている。幸田格子とは幸田文が好んで着た織物の柄である。 (2021.3.25) |
---銭形平次捕物控【猿回し】---by 野村胡堂 |
5篇の短篇は昭和25年「サンデー毎日」に掲載されたものである。銭形平次シリーズはほとんどの話が文藝春秋の「オール読物」に掲載されたものであるが、昭和25年のシリーズは毎日新聞発行の週刊誌「サンデー毎日」に掲載されている。 「人違い殺人」は読後サイコパスものを読んだような怪しい印象を残す作品である。 「腰抜け彌八」は犯人の動機がなんとも哀しい。 「猿回し」、まるで手品のようなからくりで千両箱を盗む泥棒に平次が挑む。く・・・。 「春宵」、「何だってあの女を挙げなかったんです、親分」「俺は嫌だよ。手柄にしたきゃ、ここから戻ってお前が縛れ、・・・」。相変わらず平次は犯人を逃してしまう。 「万両分限」、過去からの狙撃者もの。古典落語の因縁噺。三遊亭圓朝が作りそうな噺である。のんびりしているようで鋭い平次の活躍はまだまだ続く、383篇もあるのだ。 全383篇の銭形平次物語より、 「人違い殺人」「腰抜け彌八」「猿回し」「春宵」「万両分限」の5篇を収録。 (2021.3.22) |
---銭形平次捕物控【鬼の面】---by 野村胡堂 |
5篇の短篇は昭和25年「サンデー毎日」に掲載されたものである。昭和6年から始まった銭形平次シリーズである。この頃になると平次と八五郎のコンビも油が乗って、二人の掛け合いは落語の八っつぁんくまさんのやりとりのようである。 「毒酒薬酒」の平次と八五郎の花魁談義には思わず吹き出してしまった。「この薄墨華魁に入れあげて、身上を潰したのが十六人、死んだのが三人」、「矢張り化物じゃないか」。「仲町をクッッと明るくしたほどの女だ、上品で愛嬌があって、茶の湯生花歌へえけえ諸芸に達して親孝行で」、「大変なことだね 」。名調子である。 「鬼の面」は鬼のような顔をした無愛想な男が実はいいやつで、役者にしたいようなやさ男が実は・・・。という意外な結末が見事に決まる。 「恋患い」、町内一の美女「 「群盗」の最後のセリフ、「お島はどうしました」「何処かへ逃げたよ、それでいいじゃないか」は罪人を作らない平次の面目躍如である。 それぞれ本家コナン・ドイルが驚くほど多彩なトリックが仕掛けてあり、これを383通りも考え出した野村胡堂はすごい。 全383篇の銭形平次物語より、 「鬼の面」「夕立の女」「毒酒薬酒」「恋患い」「群盗」の5篇を収録。 (2021.3.21) |
---女ごころ---by サマセット・モーム |
新潮文庫の龍口直太郎訳は昭和35年(1960年)であった。本書尾崎寔訳は2014年、50年ぶりの新訳である。海外作品は翻訳が優れているかそうでないかによって読後感がまるで違う。翻訳がひどいと内容が理解できなかったりする。龍口訳では登場人物のセリフが堅苦しいところがあったのに比べて、本書は現代風にくだけている。 ちなみにラストのセリフは龍口訳では「ねえ、メアリーさん、それでこそ人生ですよ、乗るかそるかやってみるのが」、尾崎訳では「それなしで、何が人生、ということさ、メアリー」となっている。 原題は「Up At The Villa」(丘の上の別荘)、本作の舞台はフィレンツェの高級別荘地の邸宅である。夫を亡くして1年経つ。メアリーは30才の美貌の未亡人。彼女に惹かれた3人の男。24才年上の政府の高官、同年配のプレイボーイ、7才年下の貧しい芸術家。彼女は誰を選ぶか、というのが大まかな筋であるが、話は直線的には進まない。 彼女の気まぐれから事件が起こり、男たちは何らかの意思を示さねばならなくなる。本性を現した男たちの中から彼女が選んだ相手は・・・。 ハリウッド映画のロマンティック・ミステリーにぴったりだな、と思ったら2000年にシドニー・ポラック監督が「真夜中の銃声」という題名で映画化していた。メアリーにクリスティン・スコット・トーマス、伯爵夫人にアン・バンクロフト、その他ジェームズ・フォックス、ショーン・ペンという魅力的な配役である。ぜひ観てみたい。 (2021.3.20) |
---看守眼---by 横山秀夫 |
6篇の短編が収められている。 「看守眼」、刑事になりたかったが成れないまま定年を迎えることになった男が未解決の事件を追う。勾留された被疑者の、ちょっとした仕草を見逃さなかった看守としての眼はプロのものだった。 「自伝」、財界有力者の自伝を請け負うことになったゴーストライターの過去とは。 「口癖」、裁判所の調停員を勤める女性が知ることになる、離婚調停の裏にある過去。 「午前五時の侵入者」、早朝県警のホームページがハッカーに荒らされた。犯人の動機は。 「静かな家」、地方新聞の文化欄の記者が展覧会の日付を間違えたことから、ある事件に巻き込まれる。 「秘書課の男」、県知事の秘書室長が主人公。ある日を境に知事の自分に対する態度が急変する。思い当たることはない。さて・・・。 警察小説が得意な著者であるが、本書の主人公の職業はさまざまである。いずれのケースもその職業に関係する事件に巻き込まれる。そして6篇の小説は、いずれも感動的な終局を迎える。 (2021.3.18) |
---基礎講座 哲学---by 木田 元・須田 朗 |
看護学生の一般教養の授業のために木田元氏と須田朗氏他5名の先生方が作った教科書である。ソクラテス以前から現代に至るまでの哲学の流れをわかりやすく説明してある。 哲学というのは物理学とか数学とか文学と違い、学問の分野ではない。哲学=フィロソフィアという言葉はソクラテスが作った造語で、ギリシャにしか無い言葉である。だから世界中でフィロソフィアという言葉を用いている。その内容もソクラテスが規定した「物事の本質を見極める」ということに尽きる。現代最高の哲学者と言われるハイデガーの研究対象もプラトン、アリストテレスであった。枝葉はたくさんあるが根本はこの三人が作り出した思考を研究することが、現代に至るまで哲学者たちの仕事なのである。 キリスト教を世界宗教として成立させるために、ローマ・カトリック教会はプラトンやアリストテレスの教義を応用した。ニーチェはキリスト教を通俗化したプラトニズムと言っている。西洋の文化の基本的なところはプラトン、アリストテレスの哲学から発生しているのである。 2,400年前に発生したプラトン、アリストテレスの哲学が現代に近づくにつれて、現象学、実存主義、マルクス主義、プラグマティズム、構造主義、分析哲学に細分化していく。穴を深く掘るほど底面の面積が広くなるのと同様である。 著者はそれぞれの哲学体系を短い章で説明してあるが、簡略に説明されたものほどわかりにくいのが哲学書の運命である。「ニーチェ入門」よりも「悲劇の誕生」を読む方がニーチェの思想がよくわかる。「プラトン入門」よりも「ソクラテスの弁明」を読む方がプラトンの思想がよくわかる。 後半の5章は5人の先生方がそれぞれ、現代の生活における「自然と文化」「心と体」「死」「社会性」「存在と認識」についての考えを述べている。 この本をもとに何代かの看護学生たちが1年間学んだことだろう。彼らにとって非常に有意義な1年間だったに違いない。 (2021.3.17) |
---世界推理短編傑作集5---by 江戸川乱歩編 |
「十五人の殺人者たち」には感心した。文庫本35ページほどの短篇でこれほどの感動を与えるとは・・・。著者のベン・ヘクトは、小説家というより脚本家、映画プロデューサーとして有名である。脚本家としてアカデミー賞で6回ノミネートされ、2回の受賞を果たしている。筆者が観た作品では「嵐が丘」と「汚名」がある。 レスリー・チャーテリスの「いかさま賭博」はキレの良くない「スティング」みたいな作品である。 ウィリアム・アイリッシュの「爪」は読んだ後しばらくしてから「ウッ」となる作品である。 「危険な連中」、世の中には気の狂った殺人鬼より危険な連中がいるとは・・・。 「妖魔の森の家」、カーター・ディクスン得意の密室脱出不可能もの。 「悪夢」、まさに悪夢。 エラリー・クイーンは「黄金の二十」で、もっとも重要な推理小説として短篇10作品、長編10作品あげている。短篇では「シャーロック・ホームズの冒険」とか「ブラウン神父の童心」のような誰でも納得する作品から、アーネスト・ブラマとかアーサー・モリスンといった初めて知る作家の作品まで紹介している。長編ではアガサ・クリスティでは「アクロイド殺害事件」、S.S.ヴァン・ダインでは「ベンスン殺人事件」を選んでいる。ミステリー10選とか名作10選というのは各所で企画されているが、選者によってさまざまであるのが面白い。 【世界推理短編傑作集5 もくじ】
(2021.3.14) |
---和辻哲郎座談---by 和辻哲郎 | |
本書は哲学者・和辻哲郎が1935年から1955年の間に各界の知識人たちと対談した記録を収録したものである。 対談の相手は多岐にわたり、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎といった文学者から、安倍能成、高坂正顕といった哲学者、物理学者の寺田寅彦、民俗学者の柳田國男などなど、現在からすると歴史上の人物たちが数多く登場している。 本書はいかにも岩波文庫から出そうな本であるが、2020年12月に中公文庫から文庫オリジナルとして発行された。紙の本が衰退する時代、中央公論新社、攻めの出版をしている。 高坂正顕と対談した「世界史における日本の運命」は、和辻の著書「鎖国」について二人が意見を述べ合うという興味深い章になっている。ここで和辻は日本ではいい政治家が出てくると暗殺されてしまう。これは残念なことだと織田信長と原敬の例を挙げている。また、徳川時代に高坂弾正という人が書いた本「甲陽軍鑑」を挙げ、日本人の90%は便乗派、5%が悪人、5%がしっかりした人である。5%の悪人が天下を取ると90%の人がそれに従い、5%のしっかりした人が天下を取ると90%の人がそれに従うと述べている。これらの意見は戦後5年経った1950年に言われたものだが、現代の世の中にも十分当てはまると思った。 「幸田露伴先生を囲んで」という章は、徳田秋声、谷崎潤一郎、末弘嚴太郎、辰野隆、和辻哲郎という偉い先生たちが延々とウナギはどこが美味いとか、フグの料理の仕方とか、芸者遊びの仕方とかいう話をしている。当時85才の幸田露伴先生がどんな話題でも一番多く発言しているのは大したものだ。 「日本文学に於ける和歌俳句の不滅性」という章は、阿部能成、斎藤茂吉、寺田寅彦、幸田露伴、和辻哲郎という豪華メンバーによる和歌、俳句論議である。斎藤茂吉という天才歌人をものともせず、幸田露伴先生が絶好調で、自論を繰り広げる。議論が白熱してくるとそれぞれの性格が現れて面白い。斎藤茂吉はどこまでも真面目、寺田寅彦は広範な知識から機知に富んだ意見を出す。露伴先生は世の中に知らないことはない。という調子である。 「漱石をめぐって」、この章が本書のハイライトである。阿部能成、内田百間、小宮豊隆、和辻哲郎という漱石の弟子たちが漱石を懐古する。いずれも60才を過ぎているが、漱石の思い出を語るときは20才代の若者になっている。あのふてぶてしそうに見える内田百間が漱石の前だと何も言えなかったというのが可笑しい。 (2021.3.12) |
---行人---by 夏目漱石 |
「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4章からなっている。 「友達」の主人公は物語の語り手=二郎の友人、三沢という男である。三沢は本章にしか登場しないが、三沢の話は後に物語の重要な要素になってくる。 二郎と三沢は大阪で待ち合わせて、一緒に高野山へ行こうとしている。ところが三沢は約束の日になっても待ち合わせの場所に現れない。大阪に三日前に着いたのだが、ある病院に入院してしまったという。 「兄」の章で、二郎は母親、兄夫婦と一緒に和歌山を旅行する。旅行中、読者に兄夫婦の微妙な関係が明らかになってくる。そして兄嫁と二郎の関係も。 一郎に 「自分は 「帰ってから」では家庭における一郎と二郎の様子が語られる。直と一緒に過ごした様子を話そうとしない二郎に対して、一郎の疑心暗鬼が高まる。一郎の精神が徐々に狂い始める。 「塵労」、家庭内で、うつ病または統合失調症(以前は精神分裂病と言った)のような症状を現すようになった一郎に困った家族が、一郎の同僚のHさんに旅行に連れ出してもらう。Hさんから二郎に宛てた、哲学的な内容を含んだ手紙で本章は終わる。 「行人」はHさんからの手紙で尻切れトンボのように終わっている。その後、一郎と二郎と直がどうなったのかはわからない。 二郎に勇気があれば「それから」の代助のように兄嫁の直を奪って逃げただろう。その後は「門」の宗助と御米のように、過去からの闇に怯えながらも平和に暮らしたかもしれない。または、「こころ」の先生のように罪の呵責に耐えかねて自死したかもしれない。 二郎に勇気がなければ友人三沢が紹介してくれた女と結婚しただろう。一郎と直は心が離れたまま、夫婦として暮らしただろう。 明治から大正にかけて活動した作家、夏目漱石の人気が現在に至るまで衰えることがないのは、彼が倫理的な作家ではなく、偉大なメロドラマの作者だからである。「源氏物語」が書かれた時代から現代に至るまで、人類永遠のテーマである男女間の (2021.3.11) |
---道草---by 夏目漱石 |
完成されたものとしては漱石の最後の著作である。 他の作品は創作だが、本作品は漱石の自伝的要素が強い。ロンドン留学から帰国後、「吾輩は猫である」を書き始めるまでの等身大の自分の生活を描いている。 その頃の漱石は大学の講義の準備を苦心する一方、親族とのトラブル、妻との心のすれ違い、生活費の算段等さまざまな困難を抱えていた。健三という主人公はその頃の漱石の姿である。 金の算段のために寝る時間を削って、ある雑誌のために原稿を書く。それが「吾輩は猫である」の第1章である。 「吾輩は猫である」では中学校の英語教師、珍野苦沙弥が彼の友人や門下の書生たちとの滑稽な会話や人間模様が風刺的に描かれていた。 本書ではその様子を「すると其所には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍らした」と書いている。処女作と最後の作品で同時期の生活を描きながらも雰囲気がまるで違うところが面白い。 実の父母がありながら、幼児から少年時代にかけて養父母に預けられた、健三(漱石)の体験は辛い。このような体験をした人間は「ダブル・バインド」という特殊な状態になり、精神に異常をきたすことが多い、と解説の柄谷行人は述べている。漱石の異常な 漱石というペンネームも養父母に預けられた時に行われた送籍(戸籍を移動すること)を皮肉ったものである。 「それから」や「行人」、「こころ」のクライマックスで読者は異様な迫力を感じる。これらは漱石の幼児期の体験と無関係とは言えない。漱石の研究者たちは本書を漱石文学を解き明かす鍵と見ている。 (2021.3.7) |
---太陽の祭り---by 胡桃沢耕史 |
胡桃沢耕史は42才の時、本名の清水正二郎で書いた500編のエロ小説の権利を1冊5万円で出版社に売り、東南アジアや中南米などの世界放浪へ旅立った。旅行で交通手段として用いたバイクはホンダの50ccのスーパーカブであった。9年間の沈黙の後、52才でエンタティンメント系の作家として復帰した。58才の時「黒パン俘虜記」で第89回直木賞を受賞した。本書は57才の時に書いた小説である。舞台はかつて旅をした南米、ペルーである。 観光小説にならずに日本人が自然にペルーに住んでいる状況を設定するのは難しいと思った。著者は40才を過ぎた主人公が首都リマで生活しなければならない状況をうまく作った。 彼が同棲している女性の故郷(山奥)へ祭りを見にいくことになった。この辺でやはり観光小説かな、と思った。日系2世の探偵アンドレ・吉田が出てきた頃から雲行きが怪しくなってきた。この広島弁を使うアンドレがやたら不気味なのだ。 この探偵というのが政府の手先でペルーでは強い権力を持っていることがわかってくる。観光小説どころか、冒険小説の雰囲気になり、最後はとんでもない展開になってくる。 ラストは成り行きまかせみたいな展開になってしまったが、皮肉の効いたオチをつけたら冒険小説の名作といわれただろう。 著者は若い頃は谷崎潤一郎や川端康成を目指していた。その後の彼の足跡を辿ると、どこかの時点で歴史に名を残すよりも現世で好きなことをやろう、と思ったに違いない。世界を放浪したあげく、その経験をエンターティンメント作品に生かして、高齢で直木賞を受賞するなど、面白い人生だったろう。後世に名を残すなど無駄なことだと思っていたに違いない。 (2021.3.6) |
---本よみの虫干し---by 関川夏央 |
書評本である。 川端康成の「伊豆の踊子」、松本清張の「点と線」、吉川英治の「宮本武蔵」のようなポピュラーな文学作品から、徳冨蘆花の「不如帰」、川崎長太郎の「抹香町」、ガルシンの「四日間」のようなあまり一般には知られていない作品に至るまで、著者独特の視点から評論する。 書評の専門家だけあって手垢のついたようなポピュラーな作品についても、予想を裏切る展開になり、読者を驚かせてくれる。たとえば火野葦平の「麦と兵隊」の英訳本が世界で最も読まれた日本文学である、とか、夏目漱石の「三四郎」が経済小説の側面を持っている、とか、ルナールの「にんじん」のにんじんと母親との関係、にんじんと父親との関係の新たな解釈とか。 ただの書評本のつもりで読むと、足元をすくわれるので油断はできない。 (2021.3.5) |
---ノートル=ダム・ド・パリ---by ヴィクトル・ユゴー |
「レ・ミゼラブル」の著者ヴィクトル・ユゴーの29才の時の作品である。 時代は15世紀、エスメラルダという美しいジプシー娘を中心に司教補佐のクロード・フロロ、鐘撞き男のカジモド、軍人フェビュス、哲学者・詩人のグランゴワールらが織りなす波瀾万丈の物語である。 上下巻合計1,000ページを通して物語を支配するのは司教補佐クロード・フロロのエスメラルダへの報われぬ情欲である。いくらはねつけられても彼の情欲は衰えない。騒乱状態の夜のパリの街を、ストーカーのように娘を追い詰めていくフロロの姿はもはやこの世のものとは思えない。まるで亡霊のようである。 エスメラルダのフェビュスに対する盲目的な愛、カジモドのエスメラルダに対する献身的な愛、グランゴワールのヤギに対する(?)な愛、さまざまな愛が交差する中で、全編を支配するのは司教補佐フロロのエスメラルダに対する悪魔的な情欲である。 「ノートル=ダム・ド・パリ」は「ノートル=ダムの鐘」、「ノートル=ダムのせむし男」、「ラ・エスメラルダ」という題名で映画化されたり、舞台化されたりしている。題名はユゴーが書いた物語のど部分を採り上げるかによる。
意外なことに主人公たちの年齢は映画や舞台よりもかなり若い。カジモド、20才。エスメラルダ、16才。フロロ、36才。1956年の映画「ノートル=ダムのせむし男」では29才のグラマー女優ジーナ・ロロブリジーダが小枝のような16才のジプシー娘を、41才のアンソニー・クインが原作では20才のカジモドを演じた。
幕末から明治に活躍した落語家三遊亭圓朝は、中国の怪奇小説集「剪灯新話」から「牡丹灯籠」を創作したが、その中に「ノートル=ダム・ド・パリ」の男女を逆にした要素を加えた。圓朝はグリム童話から「死神」を、モーパッサンの「親殺し」から「名人長二」を、サルドゥの「トスカ」から「錦の舞衣」を創作している。 「牡丹灯籠」のラストシーンは「ノートル=ダム・ド・パリ」のラストシーンと全く同じである。(男女を逆にして) (2021.3.4) |
---女優 岡田茉莉子---by 岡田茉莉子 | |
岡田茉莉子は過去筆者がスクリーンで見たなかで、一番綺麗な女優である。全盛期のイングリッド・バーグマンやヴィヴィアン・リーを凌駕していると思っている。 岡田茉莉子は二枚目俳優・岡田時彦と宝塚歌劇団に所属する母・田鶴園子との間に生まれるが、父・岡田時彦は茉莉子が1才の時に結核で亡くなる。31才の時に結婚した夫は映画監督の吉田喜重。叔父は映画プロデューサーの山本紫朗。芸名の名付け親は谷崎潤一郎であった。 映画スターにはなるべくしてなったような境遇だが、映画界に入ってからは自分の演技を確立するために苦労した。 1955年の作品「芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏」の時、岡田は22才、演技は素人より少しマシなくらいであった。1958年の作品「モダン道中 その恋待ったなし」では演技はだいぶ上手くなっていたが、映画はプログラム・ピクチャーと言われる軽いものであった。しかし、この2作での岡田の美貌は際立っていた。 苦労時代の話、31才までの話が面白かった。31才で結婚してからはそれまで所属していた松竹から独立してフリーになった。 フリーになってからは夫・吉田喜重監督の仕事やテレビ、舞台へ進出して大活躍、現在に至っている。 ハードカバー600ページという分厚い本書で、感情を交えることなく、簡潔で的確な文体で自らの足跡を淡々と記述している。岡田茉莉子は現在88才、現役である。 *     筆者が観た岡田茉莉子の映画索引     *
(2021.2.25) |
---葉隠入門---by 三島由紀夫 |
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で有名な「葉隠」である。著者の三島由紀夫は本書を書いて3年後に自刃した。 聞書第一の最初に、生か死か、二者択一となったら死を選びなさい、という文言が出てくる。第二次対戦中、軍部に利用され特攻隊の隊員にこれを一冊ずつ持たされた。様々なことから、本書はアナクロニズムに満ちたファナティック書物と誤解されていた。というか、誤解していた。 通読して思ったことは、それは聞書第一の最初の文言だけ読めばそうかもしれないが、他の文言は違う、ということだ。 試しにもくじだけ拾ってみると、「着想と判断力を生みだす法」「自分の能力の限界を知ること」「批判の仕方」「あくびをとめる法」「翌日のことは前の晩から考えておくこと」「水清ければ魚棲まず」「岡目八目の効用」「大事な思案は軽くすべし」「あやまちのひとつもない人間は、信用できない」「自分の定見をもたないこと」「酒の座の心得」「相手を乗り越えた気持ちでいること」「子供の育て方」「芸は身を滅ぼす」「利口さを顔に出す者は成功しない」「困難にぶつかったら、おおいによろこぶこと」「若いうちに出世しすぎてはいけない」「人の心を見定めようと思えば、病気をしろ」「名誉と富に執着すること」「恋の極限は『忍ぶ恋』である」「上役にけむたがれるようであれ」「つまらない仕事のときこそ、はげむこと」「あがらない法」等々。 「子供の育て方」の項で、「 佐賀鍋島藩の藩士、山本常朝が書いたとされる本書は、ファナティックなキワモノではなく、菜根譚、ラ・ロシュフコー箴言集、アランやラッセルの幸福論に通ずる、人生の先達からの貴重な忠告を集めたものである。 三島の解説と原典の原文及び現代語訳が収録されている。解説と現代語訳を読んで気に入った項目があったら、その原文を読むとさらに味わいがある。時に応じて必要な箇所を熟読するのが良い読み方と思われる。 (2021.2.23) |
---人生の結論---by 小池一夫 |
劇画「子連れ狼」「御用牙」「高校生無頼控」の原作者である。「子連れ狼」は映画化され、一世を風靡した。 本書は著者が亡くなる1年前の著作である。 82才の小池一夫氏は人生とはこういうものだ、と語る。実行できることとできないことはあるが、ここに書かれていることは間違いのないことだと思う。 間違いのないことなのだが、実際に行うとなるとなかなか難しいこともある。筆者は昔から、「失礼な人は無視してもよい」(報復したくなる)、「自分の感情の都合で人を傷つけない」(傷つけたくなる)、「相手の怒り方を見極める」(怒りを制御するのが難しい) 等々の項目に難があり、本書を読むことで年長者の小池氏から日々諭されているようなものである。 ひとそれぞれの状況や気分に応じて、必要な項目を読み返すのが良いだろう。 *             もくじ             * 第1章 人間関係について 第2章 働くことについて 第3章 自分との付き合い方について 第4章 粋について 第5章 人を愛することについて 第6章 年を重ねることについて 第7章 自己実現について (2021.2.22) |
---そして夜は甦る---by 原 寮 |
1988年作、原寮の処女作。「りょう」はうかんむりの無い「寮」が正しいのだが、その字はパソコンでは表示されない。 本の扉に「清水俊二氏、双葉十三郎氏、稲葉明雄氏、田中小実昌氏の訳業に感謝す」、としてある。もちろん、レイモンド・チャンドラーの「フィリップ・マーロウもの」の翻訳者たちである。今ならこのリストに村上春樹氏も加わるのだろう。 チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を下敷きにしている。フィリップ・マーロウは失踪した主人公を探すためにロス・アンジェルスの街を地獄巡りする。本書では私立探偵の沢崎が失踪したルポ・ライターを探して都内を地獄巡りする。もちろん沢崎もフィリップ・マーロウばりの凝りに凝った捨てゼリフを言う。 著者がジャズ・ピアニストを辞め、出版するあてもなく、推敲に推敲を重ねて書いた小説である。 にもかかわらず女性のセリフが紋切り型なのには参った。副主人公の名緒子はミステリアスで個性的な女性になるはずだったのに、これがために通俗的な女になってしまった。村上春樹の翻訳小説に出てくる女性は「知っていますわ」「よく分かりませんわ」「もちろんですわ」とは絶対に言わない。筆者は今まで接尾語に「わ」をつける女性に会ったことがない。こういうセリフに遭うと一気に読む気が失せる。 主人公が犯人グループに捕まり、上映中の映画館の中で長々と尋問を受けるシーンで読み続ける気力が失せた。どんなに空いた映画館でもこれはないだろ。 と言いつつも、最後まで読んだ。複雑すぎるストーリーの展開に悩まされながらも読了できたのは、フィリップ・マーロウのような洒落た軽口を飛ばす主人公の存在による。 (2021.2.21) |
---銭形平次捕物控傑作集4 八五郎大変篇---by 野村胡堂 |
「人魚の死」と「お長屋碁会」はホームズものにでも出てきそうなトリックを使っている。 「ガラッ八祝言」と「女護の島異変」は横溝正史の金田一シリーズのようなおどろおどろしい伝奇もの。 「八五郎の恋人」は八五郎にとってはほろ苦いラスト。平次は例によって犯人を見逃してやる。 この巻を読むと、平次シリーズの魅力の半分は八五郎の存在にあると納得させられる。冒頭の二人の会話はほのぼのとしていて、江戸時代の縁側の陽だまりで日向ぼっこをしている気分になる。 全383篇の銭形平次物語より、 「人魚の死」「八五郎の恋」「ガラッ八祝言」「お長屋碁会」「女護の島異変」「八五郎の恋人」の6篇を収録。 (2021.2.19) |
---銭形平次捕物控傑作集5 江戸風俗篇---by 野村胡堂 |
「富 江戸時代には金貨の鋳造、鑑定、検印を行った金座、銀貨の鋳造、鑑定、検印を行った銀座と並んで、秤の検定を行った「秤座」というのがあった。現在の計量検定所である。「秤座政談」では、平次がその元締めのお屋敷で起こった事件を捜査する。 「美男番付」は江戸時代は美女の番付ばかりでなく、美男の番付も行われていたという興味深い話である。平次の推理もいつもながら見事。 この巻では胡堂が調べた興味深い江戸の風俗が語られる。最も銭形平次らしい話を集めた巻である。 全383篇の銭形平次物語より、 「富籤政談」「酒屋火事」「秤座政談」「生き葬い」「遠眼鏡の殿様」「美男番付」の6篇を収録。 (2021.2.18) |
---銭形平次捕物控傑作集6 決死冒険篇---by 野村胡堂 |
この巻での平次は活動的である。 「お局お六」「不死の霊薬」「からくり屋敷」では盗賊団と立ち回りを演じる。テレビドラマで大川橋蔵が演じた平次のようである。 「赤い痣」「巨盗還る」「辻斬」では本来の引っ込み思案で内省的な平次の姿に戻る。肉体的な活動は八五郎に任せ、頭脳の活動に専念する平次が良い。 「辻斬」で、八五郎の「何が面白くてあんなに人を斬ったんでしょう」という問いかけに、平次は 「腕が出来て、心が練れないからだよ」と答える。現代にも通じる言葉である。 全383篇の銭形平次物語より、 「赤い痣」「お局お六」「不死の霊薬」「巨盗還る」「辻斬」「からくり屋敷」の6篇を収録。 (2021.2.17) |
---門---by 夏目漱石 |
漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「門」の最後の作品である。 「三四郎」が発端となって関係性が生じた男女が、「それから」で激しい展開の中心人物となる。本書ではその後日談が語られる。 後悔と共に落ち着いた男女が「自分達の坐っている所だけが明るく思われる」ように、世の中の片隅に静かに暮らしている。宗助と御米の夫婦は二人だけの存在を意識しながら、日の当たらない崖下の借家で慎ましく暮らしている。 事が起こるのを恐れる二人に、過去から継続する様々なことが降りかかってくる。ひとつひとつを二人で協力しながら対処していく。 宗助はある事件がきっかけで大家の坂井家に出入りするようになる。そこで最も遭遇したくない、恐ろしい過去と出合うことになる。・・・。 サスペンスの作家、漱石は慎ましい夫婦の淡々とした日常を追いながら、避けて通れない世間との交渉をひとつひとつ描いていく。そして、夫婦にとって触れることを避けてきた過去の魔物が近づいてくる様を描く。この辺りの呼吸はどんなミステリー作家よりも的確で上手い。まるで自分が追い詰められているように感じる。 「門」という題名は主人公が過去の魔物から逃げるために鎌倉の寺で参禅することを指す。だがそれは来るべき困難に対して物理的に身を隠すだけのことで、根本的な解決にはならない。そのことを暗示して物語は終わる。 物語は何事もなく終わるが、作者は人生は困難と予期不安の繰り返しだと言っている。漱石は後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」で、自身の胃の健康と引き換えに、そのことをさらに深く追求することになる。 (2021.2.16) |
---明暗---by 夏目漱石 |
登場人物たちの会話がうねるように進んでいく。結婚して半年経った津田夫妻を中心にして、津田の叔父夫妻(藤井)、仲人夫妻(吉川)、妹(お秀)、友人(小林)、妻お ある日、早起きしたお延は津田を見舞いに行くために支度をしている。津田の外套をもらうために訪ねてきた小林は居座ったままなかなか帰ろうとしない。初めは穏やかに対応していたお延は次第に苛立ってきて喧嘩腰の受け答えになる。 一連の描写はまるで交響曲を聴いているようだ。静かな導入部から、テーマに入り、それが発展して活発な展開部に入る。やがてテーマに戻り、静かな終焉を迎える。この一日の津田とお秀とお延の描写はベートーヴェンの田園交響曲を聴くようである。 漱石の描写力には感心する。水村美苗が 1990年に漱石の文体を真似て明暗の完結編として「續明暗」を書いた。文体だけは漱石をよく真似てあったが、中身は似て非なるものであった。文章が平板でサスペンスがない。普通の会話であっても、漱石の書いたものは次に何が起こるんだろう、というサスペンスがある。そして、時々ドキッとする描写が入る。兄妹の会話が興奮の頂点に達したとき、突然ふすまがスーッと開き、というところでドキッとする。 他の作品でも印象的なショッカーの描写はあり、読者を飽きさせない。 この漱石独特の呼吸は、若い頃から親しんできた落語や講談からきたものに違いない。 津田と小林の三度目の会話は繁華街のレストランでなされる。この二人の会話はいつも険悪な調子になるが、このレストランでの会話は最も険悪な状態になる。津田は露悪を押し付ける小林をなんとかいなそうとするがうまくいかず、空回りさせられる。さらにあげた金を本人の見ている前で人にくれてやられたのではだれでも怒る。このシーンはドストエフスキーをよく読んでいた漱石が、「罪と罰」の中で安酒場でマルメラードフがラスコーリニコフに絡むシーンを なんとなく暗示されてはいるが、姿を表さない「清子」の存在が、全650ページの4分の3まで進んだところでやっと名前だけ出てくる。漱石には肝心なものを引っ張るだけ引っ張って最後に出すという癖がある。冒頭から入院することになる津田は515ページ目でようやく退院するのも、そのひとつである。 退院した津田が吉川夫人の勧めで伊豆の温泉宿に行き、清子と対面するのが633ページ目である。残り十数ページしかない。漱石があと数ヶ月生きていてくれたら、その後の津田と清子の成り行き、津田とお延の関係性の変化、津田と小林の4回目の会話等々、興味深いドラマの結末を知ることができたのに・・・。最後の(未完)の文字がなんとも残念である。 漱石はこの小説を1916年(大正5年)5月から12月まで、朝日新聞に連載し、完結することなく、その年の12月9日に胃潰瘍による出血のために亡くなった。49才であった。 (2021.2.14) |
---三四郎---by 夏目漱石 |
過去何度も読んだことのある本書「三四郎」。今回読んでみてこんなに印象が変わるとは思わなかった。 夏目漱石の「三四郎」といえば、軽めの青春小説ということになっている。読書週間の課題図書の定番である。 熊本の旧制高校を卒業して東京帝国大学に入るために上京した小川三四郎が大学の内外でさまざまな経験をしながら成長してゆく。読者は自分の青春時代を思い出しながら、あるいは未来の学生生活に期待を抱きながら読む。 なぜか今回はそういう読み方ができなかった。軽やかで明るい青春時代、あれっ、そうだったっけ。むしろ陰鬱で暗い青春時代の中にハイライトのように軽やかで明るい部分が点滅する。そういう方が事実に近かったのではないだろうか。 ・・・ 小説の中で三四郎は常に陰鬱で考え深い表情をしている。重い口調でぼつぼつと喋る。当意即妙の会話ができない。この時三四郎は23才であったが、20才前後の男性ってごく親しい友人以外の者にはこのような態度ではないだろうか。特に女性に対しては。 同年代の美禰子に告白したときのことば、「あなたに会いに行ったんです」・・・「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」は重い。簡単なセリフだが、そこに想いのすべてが込められているから重い。 ・・・ 女性が本命の男を射落とそうとするとき、当て馬を作る。筆者は過去何回かそういうことを目の当たりにした。最後は本命の男と結婚するのが、側の者にはわかるのだが、当て馬にされた男にはわからない。ゴールインした女性は得意げだが、当て馬にされた男はその後何年も落ち込む。どの女性もそのことに気が付かない。女性の本能だろう。 ・・・ 野々宮の高校時代の教師で広田という人物がいる。 広田は三四郎が上京したときにたまたま同じ列車に乗っていた。三四郎がこれから日本は発展するでしょうか、と問いかけると、ひとこと「亡びるね」と答える。三四郎の同級生、与次郎が広田のもとに下宿していた関係から、知り合いになる。 ある日、三四郎が広田を訪ね、なぜ先生は結婚しないのか、と問う。すると、広田は自分の複雑な家庭の事情を話してくれた。最後にひとこと「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」という。三四郎はものにとらわれない ・・・ 三四郎が上京したとき、名古屋で一泊した。同じ列車に乗っていた女が一人では心細いから同宿させてくれ、といった。旅館で誤解され、一組の布団で女と寝ることになる。翌朝、駅で女から「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言われ、愕然とする。冒頭の印象的なシーンである。 三四郎は東京でさまざまな経験をして、そのたびに愕然とする。三四郎が愕然とするたびに、読者も自分の青春時代を思い出して愕然とする。本書をじっくりと読んだ読者は、青春時代は軽やかで明るくはなく、実は陰鬱で暗いものだったと気付かされる。 (2021.2.10) |
---彼女の知らない空---by 早瀬 耕 |
1992年「グリフォンズ・ガーデン」、2014年「未必のマクベス」、2018年「プラネタリウムの外側」、そして2020年本書の出版となった。その間隔は22年、4年、2年と徐々に短くなっている。超寡作な著者の創作意欲が高まってきたようだ。 「思い過ごしの空」は日常生活に戦争が入り込むと、という話。憲法第9条が改正されて日本に交戦権のある軍隊ができたらこうなるのでは。普通に会社勤めをしていても、こういうふうに戦争にかかわりあっていくんだな、という実例を示される話である。 「彼女の知らない空」は、もしそうなったら自衛隊員の生活はこうなるのでは、という話。いずれもかなり実現性のある話で、日本以外の国の人々は日常的に戦争と関わり合っている。日本人だけが見て見ぬふりをしてのほほんと暮らしていけるわけがない。 「七時のニュース」、52才同士の夫婦。同じ会社の課長と部長、部長が妻だ。課長の自分は得意先の中国企業に挨拶しに大連へ行く。大連には気に入ったホテルがあり、そこに泊まると落ち着く。 「閑話 |北上する戦争は勝てない」。ここでいう戦争は企業戦士の戦争、つまり出世競争ということである。敗退した戦士は心療内科行きとなる。 「東京駅丸の内口、塹壕の中」。彼が毎朝立ち寄って喫煙する場所、東京駅丸の内口の地下喫煙所を戦場の塹壕に見立てて語る、企業戦士の話。どこからともなく現れて、戦争用語で話しかけてくるホームレスの老人イワミネは彼の分裂した自我か。 「オフィーリアの隠蔽」。基本企業小説なのだが、それをハムレットと結びつけて語るところに著者の独自性がある。「未必のマクベス」がそうだったように。 「彼女の時間」。やはり、企業小説である。JAXA(宇宙航空研究開発機構)という特殊な企業なのだが。 (2021.2.6) |
---複数の時計---by アガサ・クリスティ |
原題は「The Clocks」、殺人現場に残された、そこにあるはずのない4個の時計。殺されたのは誰なのか。1963年、クリスティ73才の時の作品である。 謎解きものと、スパイスリラーものと、ロマンスものがミックスされている。心理サスペンス的な風味が薄いので筆者としては期待外れであった。 ロンドン郊外のウイルブラーム・クレスントという住宅街が舞台になっている。クレスント(Crescent)というのは本作では新月通りと訳されている。なぜか半月型をした街区である。 右の図はロンドンのモーニントン・クレセントという場所である。確かに半月型をしている。モーニントン・クレセントという通りがあり、近くにモーニントン・クレセントという駅がある。 ちなみに港区東麻布にイギリス人が経営するMornington Crescent Tokyoというベーカリーがある。イギリス人女性が定期的に英国の伝統的な焼き菓子を作る教室もやっている。クレセントとは三日月という意味なのでクロワッサンでも作るのかな、と思ったら、まるで違っていて英国の伝統的なパンに限られているようである。クロワッサンはフランスのパンだった。失礼。 (2021.2.5) |
---銭形平次捕物控傑作集3 暗号・謎解き篇---by 野村胡堂 |
「北冥の魚」、「家賃の苦労をするのも、世渡りの張合になって悪くないよ、 平次はそんな事を言いながら夕闇の町を神田の家へ急ぐのでした。そこに女房が、一合工面して、首を長くして待っているのです」、三万両もらい損ねた平次が最後に言うセリフである。身の丈に合わぬ大金よりも、女房が待つ家に急ぐ平次の気持ちが手にとるようだ。 「影法師」は大店の若旦那が影法師に怯える、という発端から始まる。不可思議なものではあるが、種明かしをすると、ああっそうか、と納得する。舞台を19世紀のロンドンに置き換えれば、そのままホームズものとしても通用しそうな話である。 収められた作品は昭和15年から28年までに書かれている。胡堂、油の乗り切った頃の作品といえよう。平次はすっかり引っ込み思案で内省的になっている。動的な活動は八五郎に任せている。 平次の外見は色浅黒く、痩せ型で歳は31才。八五郎は面長でがっしりしたタイプ、歳は30才前後。二人はほぼ同年配だが、会話からすると平次が結構年上のように感じる。最後は平次の「馬鹿だなあ」という言葉で終わる。のんびりしている時の二人は、仲の良い兄弟のようだ。 全383篇の銭形平次物語より、 「碁敵」「北冥の魚」「矢取娘」「歎きの幽沢」「影法師」「美しき獲物」の6篇を収録。 (2021.2.4) |
---銭形平次捕物控傑作集2 人情感涙篇---by 野村胡堂 |
「仏師の娘」で平次はまたもや犯人を捕り逃す。「よし分った。幸いの闇、俺は何にも見なかった。・・・お前もどこかへ消えてなくなるが宜い」と。 「父の遺書」でも犯人を捕り逃す。「それで、此先どうするんです、親分」「どうもしないよ」といった具合に。 「母娘巡礼」では「御用聞は人を縛れば宜いてものじゃない。・・・そんなに縛りたきゃ、米屋に奉公して、俵でも縛るが宜い」と逃がしてやる。 平次の捕り逃しはこの巻では特に多い。 全383篇の銭形平次物語より、 「巾着切の娘」「金の茶釜」「刑場の花嫁」「仏師の娘」「父の遺書」「母娘巡礼」の6篇を収録。 (2021.2.3) |
---銭形平次捕物控傑作集1 陰謀・仇討篇---by 野村胡堂 |
銭形平次捕物控は現在双葉文庫と文春文庫から出ている。双葉文庫は傑作集、文春文庫は傑作選としてである。中身は一部ダブっているものもあるが、ほとんど別の話が収録されている。現在、手軽に文庫本で読めるのは、全383篇の物語のうち6×6=36+8×3=24の60篇ということになる。それにしても同一主人公のシリーズで383篇というのは驚異的な数である。シャーロック・ホームズもの60篇、半七捕物帳もの67篇というのが一人の作家が考えられる話としては限界ではないか。 「金色の処女」は唯一傑作選とダブって収録されている。銭形平次ものの記念すべき第1作目の作品とあって載せないわけにはいかなかったのであろう。 本書は「陰謀・仇討篇」ということで武家が絡む話が多い。当時の岡っ引は武家には入り込むことはできず、武士が犯した罪は取り締まることができなかった。 この巻での平次はそこをなんとか工夫しながら、任務を遂行する。 「敵討果てて」は昭和14年の作品である。日中戦争の最中であったが、胡堂の筆は快調である。平次は2重、3重に隠された複雑な敵討ちの真実の姿を暴き出す。 全383篇の銭形平次物語より、 「金色の処女」「傀儡名臣」「敵討果てて」「十手の道」「二人浜路」「火の呪い」の6篇を収録。 (2021.2.2) |
---銭形平次捕物控傑作選1---by 野村胡堂 |
「 本作は江戸のホームズというより、活劇主体の伝奇時代小説の趣をしている。平次が天井裏へ忍び込んだり、投げ銭を投げまくったりする。「傑作選1」から読んだらこの一冊だけでお終いにしたかもしれない。 昭和8年の「 昭和11年の「お藤は解く」あたりから様子は変わってくる。むやみに投げ銭を投げなくなり、動的な活動は八五郎に任せて、自分は推理主体の静的な立場を取るようになる。 本作では主役のお藤のキャラクターが際立っている。本家のホームズものに負けないくらい、変化に富んだ話になっている。 「それから、誰にも言うな、この平次は御用聞だが、親の敵を討った孝行者を縛る縄は持っていない。宜いか、・・・」というように、捕まえた犯人をわざと捕り逃がしたりもしている。 全383篇の銭形平次物語より、 「金色の処女」「お珊文身調べ」「南蛮秘法箋」「名馬罪あり」「平次女難」「兵粮丸秘聞」「お藤は解く」「迷子札」の8篇を収録。 (2021.2.1) |
---ミステリオーソ---by 原 寮 |
「私が殺した少女」で直木賞を受賞したにもかかわらず、長編短篇を合わせて6冊しか本を書いていない作家、原寮氏のエッセイ集の前編である。後編は「ハードボイルド」という題名で別冊となっている。 ちなみに原寮氏の全著作とは、「そして夜は甦る」(1988年)、「 私が殺した少女」(1989年)、「 さらば長き眠り」(1995年)、「 愚か者死すべし」(2004年)、「 それまでの明日」(2018年)、短篇集「 天使たちの探偵」(1990年)である。 「 私が殺した少女」以後執筆間隔が広がり、「 愚か者死すべし」と「 それまでの明日」の間は14年もある。 本書はエッセイ集なので著者あるいはテーマに関心のある人は面白いだろうし、そうでない人にはまるでつまらない書物であろう。 主なテーマは、マイルズ・デ イヴィス「 ラウンド・アバウト・ミッドナイト」、ルネ・クレマン監督「 太陽がいっぱい」、 黒澤明監督「 用心棒」「 椿三十郎」、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズのコンサート、ルイ・マル監督/マイルズ・デイヴィス音楽「 死刑台のエレベーター」、デ ューク・エリントン・オーケストラのコンサート、仏教美術の「 阿修羅像」、ジョン・コ ルトレーン・クィンテットのコンサート、ジャン=ビエール。メルヴィル監督/アラン・ ドロン主演「サムライ」、ドストエフスキイ「悪霊」、セロニアス・モンク「ブリリアント ・コーナーズ」「モンクス・ミュージック」、小林秀雄「モオツァルト」、黒澤明監督「生きる」「 七人の侍」、バド・パウエル 「 アメイジング・バド・パウエル」、 大竹英雄/趙治勲「 第五期囲碁名人戦七番勝負」、デューク・エリントン 「 ポピュラー・デューク・ エリントン」、バルザック「 人間喜劇」、ハンフリー・ボガート主演「 カサブランカ」、バ ド・パウエル「 シーン・チェンジズ』、山本周五郎「 短篇」、ショルジュ・シムノン「 メグ レ警視シリーズ」、ルネ・クレマン監督/ロバート・ライアン主演「 狼は天使の匂い」、「モーツァルト/セル指揮/クリーヴランド管弦楽団」「 アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 ベーム指揮/ウィーン・フィル「 レクイエム」、レイモンド・チャンドラー「 長いお別れ」である。テーマを書いているだけで楽しくなる。 筆者にとっては見逃せないテーマばかりなので、残りのページが少なくなるのが寂しかった。なかでも大竹英雄/趙治勲「 第五期囲碁名人戦七番勝負」は観戦記をリアルタイムで読むために新聞を朝日に変えた記憶がある。 著者の作品については2019年に「愚か者死すべし」を途中下車した記録が残っている。 (2021.1.31) |
---銭形平次捕物控傑作選2---by 野村胡堂 |
この本で銭形平次の物語も2冊目、16話読んだ。昔見たテレビの銭形平次は、大川橋蔵が平次、香川美子がお静を演じていた。テレビの平次と違い、原作の平次はずっと地味で内省的、投げ銭なども滅多に投げないし、そのような展開にもならない。犯人が判っても捕まえないことがよくある。 「身投げする女」では、三枚目の八五郎が二枚目を演じる。これが意外とサマになっている。 「花見の仇討」は古典落語の題名と同じで途中までは同じような話だが、結末が違う。ラストはこうなっている。「平次はこうして、また一つの手柄をフイにしてしまったのです」。銭形平次捕物控383篇のうち、平次が犯人を捕り逃してしまう話が5〜6割あるという。 「刑場の花嫁」は平次の推理が外れたことから、無実の男が刑場に引き立てられ、死刑にされそうになる。真犯人に気がついた平次だが、死刑の時刻が迫っている。ハラハラドキドキの展開。感動のラストが待っている。 「五つの命」で、平次は四文銭を投げる。小説では悪人に対して4枚の四文銭を次々に投げた。16話の平次物語を読んできて、じっくり推理して犯人を捕まえる、静的な探偵としての平次の姿をイメージしていた。この話で初めて動的な平次に出会った。 全383篇の銭形平次物語より、 「身投げする女」「花見の仇討」「九百九十両」「刑場の花嫁」「火遁の術」「遺書の罪」「第廿七吉」「五つの命」の8篇を収録。 (2021.1.30) |
---銭形平次捕物控傑作選3---by 野村胡堂 |
開高健は「書斎のポ・ト・フ」のなかで「銭形平次は俳句の文体で書いた警察小説ではないか」といい、さらに「捕物帳の最大の魅力は歳時記を取り入れたことである」といった。 銭形平次を読むと季節感が漂ってくる。物語は6畳の居間にいる平次のところに岡っ引きの八五郎が「親分おはよう」とやってくるところから始まる。ここでちょっとしたやりとりがあるのだが、会話でだいたいいつ頃の季節なのかわかる仕掛けになっている。 全8話に共通して、冒頭の平次と八五郎の会話は、なんとなくユーモアがあって、江戸の町人ののんびりした雰囲気をよく伝えている。 ゆったりした雰囲気は途中陰惨な事件があっても、物語の最後まで持続する。その点においてコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものに似ている。ホームズものが19世紀のロンドンの雰囲気を伝えるように、平次ものは19世紀の江戸の雰囲気をよく伝えている。 洒落たルビが振ってあるのも野村胡堂の工夫である。たとえば、「 「小便組貞女」は詐欺師グループの女が潜り込んだ大店の旦那の真心にほだされ、改心する話。旦那の壮絶な決心と平次の温情が交差して感動を呼ぶ。 「八五郎子守唄」は万事チャランポランな八五郎が、ことの成り行きから幼児をあずかることになり、情が移ってしまう。事件が解決した後、うなだれる八五郎の姿に涙。 全383篇の銭形平次物語より、 「権八の罪」「縞の財布」「荒神箒」「三つの刺青」「小便組貞女」「花見の留守」「死の秘薬」「八五郎子守唄」の8篇を収録。 (2021.1.29) |
---仕事で必要なことは全て映画で学べる---by 押井 守 |
「会社で使い倒されないための9の心得」という副題がついている。 どのような映画を観ると仕事で役に立つのか。次の9つの映画である。「飛べ!フェニックス」(1965)、「マネーボール」(2011)、「頭上の敵機」(1949)、「機動警察パトレイバー2 the Movie」(1993)、「裏切りのサーカス」(2011)、「プライベート・ライアン」(1998)、「田園に死す」(1974)、「007/スカイフォール」(2012)、「ロンゲスト・ヤード」(1974)。 半分くらいは筆者も観ている。現役映画監督の著者と暇つぶしに観るだけの筆者とでは、その映画から汲み取る量がまるで違う。 プロローグで「友達がいないジョージ・ルーカス」という章がある。著者がロサンゼルスのジョージ・ルーカスのスタジオを訪れ、インタビューした時の印象である。著者はルーカス本人と会って、人は金がたくさんあるだけでは幸せになれないと感じた。 「飛べ!フェニックス」の章で「聞かれていないことには答えるな!」と述べているが、これは仕事をする上で大事なことだが、教えてくれる先輩はあまりいない。 「マネーボール」の章で「自分の実人生の引き出しなんて全然足りない。」と述べている。著者は「フィクションで自分の引き出しを増やす以外にないではないか」と力説する。確かにそうだと思う。 また、「ロンゲスト・ヤード」を観て「人生のここぞという時」には損得勘定抜きで自分の思うがままに行動することが大切であることを学ぶ。 観客の心に残る作品を数多く作っている監督だからこそ、ただの娯楽作品と思っていた映画からこれだけのことを読み取れるのだろう。 (2021.1.28) |
---ラヴクラフト全集4---by H.P.ラヴクラフト |
著者独特の世界である。そこは幻想と狂気に満ちあふれている。 ラヴクラフトは生涯、ロードアイランド州プロビデンスに住んだ。小説の主な舞台はニューイングランド地方である。具体的な地名はプロビデンス、ボストン、ニューベッドフォードである。奇しくもハーマン・メルヴィルの「白鯨」の舞台と重なっている。また、スティーヴン・キングの出身地であり、そこで執筆活動を続けているメイン州ポートランドはボストンの北に位置している。この地方の雰囲気が奇怪な小説を生み出す土壌になっているのだろう。 「宇宙からの色」は宇宙から落ちてきた隕石の影響で奇怪な現象が起こる。「眠りの壁の彼方」は眠りの中でしか現れない特殊な人格について語る。「冷気」は人がゾンビ(Living Dead)になって生き延びる話。「ピックマンのモデル」は奇な怪絵を描く画家の秘密について。他から借りたものではなく、自ら生み出したイメージのみで勝負しようという気迫に満ちた短篇である。 「狂気の山脈にて」はこの中で唯一の長編小説である。 南極探検隊が怪物を発見するというシチュエーションはジョン・カーペンター監督が1982年の映画「遊星からの物体X」で利用したのではないか。怪物の形も本書の怪物に似ているような気がする。 ラヴクラフトのイメージは映画よりもだいぶ大きい。人類誕生以前、宇宙から来た生命体が、南極を基地にして住み着き、他の宇宙から来た生命体と戦いを繰り広げたあげく生き残るが、・・・、という壮大なテーマである。南極に残された古代建造物の具体的な描写が延々と続いて、何もないところから全てを創造しようとするラヴクラフトの意欲を感じる。 科学的な知識は現代から考えれば幼稚な部分もあるが、ラヴクラフトの世界は、何もないとこるから彼が独自に考え出したものである。既成概念を排除し、自由な空想の世界の中に構築された物語は、スリルと期待に満ちている。 固定化された既成概念に満ちた世の中に一石を投じる意味でも、現代の必読書である。 (2021.1.27) |
---書斎のポ・ト・フ---by 開高 健・谷沢永一・向井 敏 |
開高健とその友人たちの様々な本に関する鼎談である。友人たちとは谷沢永一、向井敏である。彼ら三人は20才前後からの同人誌の仲間で、その自分から互いの小説や評論を議論しあってきた。 本書の企画でほぼ30年ぶりの鼎談となった。三人の議論が和気 いずれも日本有数の読書家、書評家である。取り上げられた本はどれも興味深く、読んでみたくなる。とりあえずは野村胡堂の「銭形平次捕物控」に挑戦してみようか。「ファーブル昆虫記」の再読もいいかもしれない。知られざる傑作の中で紹介された殿山泰司の「日本女地図」などはどうだろう。 (2021.1.26) |
---回想 開高 健---by 谷沢永一 |
この本の締めくくりの言葉、「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」は心にしみる。死後、友人にこのように書かれた者は本望であろう。 著者谷沢永一と開高健の出会いは、著者21才、開高19才の時であった。その後開高が59才で亡くなるまで二人の付き合いは続く。 開高健はサントリーの宣伝部で日本で最初のコピーライターとして活躍したのち、28才で芥川賞を受賞し、ベトナム戦争に従軍、南米やアラスカでの釣り、などなど様々な方面で活躍した作家として知られている。 本書における開高は活動する作家というより、気難しく内省的、活劇より悲劇の似合う人間としての開高が語られている。 死の直後、ある女性が自殺、5年後娘の道子が鉄道自殺、11年後妻の牧羊子が孤独死。開高は家庭的に幸せではなかった。家では常に鬱だった。ベトナム従軍、南米やアラスカへの釣り旅へ出るとたちまち元気になったという。その辺のところは菊谷匡祐氏の「開高健のいる風景」にも書いてある。 開高健が幸せだったことは、本書の著者谷沢永一氏、「開高健のいる風景」の菊谷匡祐氏、評論家、エッセイストの向井敏氏、サントリーの二代目の社長佐治敬三氏等々多くの友人たちに愛されていたことである。 (2021.1.25) |
---老いてこそ人生---by 石原慎太郎 |
1932年生まれの著者が2002年に彼の友人見城徹が社長を務める幻冬舎で出版するために書き下ろした本である。執筆時の著者の年齢は68、9才であったろう。筆者とほぼ同年配である。 この年齢になるとだれでも老いとか寿命とか死の問題と向き合わねばならない。著者がこの本を書いた年齢がまさしくタイムリーで、それ以前では他人事、それ以降では馴れ合いのようになってしまう。 全21章のうち半分以上が病気の話か回顧録、それ以外は友人や家族の話についやしている。老いと真剣に向き合い、考察している章は2、3章であった。自分の老いについて真剣に向き合うことは難しい。 著者は「肉体への郷愁」という章で老いと人生について以下のように考察している。肉体は衰えても気力は衰えさせてはいけない。だが、肉体の衰えとともに気力も衰える。だからいつまでも動ける肉体を維持するために、ある程度のトレーニングを欠かさない。 経験は脳に蓄積される。歳を取れば取るほど経験が知識となって蓄積される。せっかく蓄積された経験を手放してしまわないためには肉体の健康を維持することが大切である。 出版社の友人の求めに応じて、思い出話を書き流したような本だが、時折鋭い考察が顔を出す。 (2021.1.24) |
---ベツレヘムの星---by アガサ・クリスティ |
この本はミステリーではない。クリスティの書いた聖書物語である。 物語はオリジナルだが新約聖書のいくつかの挿話を組み合わせてイエス・キリストの物語にしてある。もちろんクリスティだからよくできた話ばかりである。 「水上バスの話」はあれほど極端ではないが、ディケンズの「クリスマス・キャロル」に似たところがある。クリスマス・ストーリーを作ると自然にこうなってしまうのだろう。 10章の話は短いものばかりだから、あっという間に読み終えてしまう。むしろ毎夜1章ずつ楽しみに読む方がこの本にふさわしいかもしれない。 (2021.1.23) |
---花終る闇---by 開高 健 |
「輝ける闇」、「夏の闇」と続き、開高健の闇三部作の最終作と称されている。残念なことに本作は途中で途切れている。最後まで書ききれなかったようだ。 女性三人との情事の描写、挿話として語られるヴェトナム戦争の体験は前作、前々作の焼き直しとも取れる。新たな視点、新たな展開がないのでは書き続けるのは苦痛だっただろう。無理して三部作に拘らなくてもよかった。 開高健はこの時点で、さらに前進するだけの創作力、イマジネーションが枯渇してしまったのではないだろうか。 短篇「一日」はヴェトナムに滞在していた頃のある日の出来事を描写したもの。 (2021.1.22) |
---鳩のなかの猫---by アガサ・クリスティ |
舞台は私立の名門女子高校。その中で起こる殺人事件。 ポアロが登場するのは3分の2を過ぎたあたりからで、付け足しのような感じもする。クリスティが描きたかったのは、この高校の成り立ちと高校内の生徒間、教師間、教師対生徒間の人間関係であったろう。高校の創設者であり、校長でもある女性、その協力者として尽くす副校長、および教師たち。それぞれが個性的で魅力がある。 順調に行っていたはずの小宇宙に、まるで鳩のなかに入った一匹の猫のように暗い影がさす。サスペンスフルな展開。 殺人事件を起こさず、ポアロを登場させなくても面白い作品になっていたのではないかと思った。 (2021.1.21) |
---ハロウィーン・パーティ---by アガサ・クリスティ |
1969年発行の本書はクリスティの晩年の作品であり、ポアロものとしては最後から2番目の作品である。ちなみに最後に書かれたポアロものは「象は忘れない」である。 ハロウィン・パーティのさなか、女の子が殺される。女の子は以前殺人の現場を見たことがある、と言いふらしていた。出席していたオリヴァ夫人はポアロの元に駆け込む。あなたにしか犯人を見つけることはできない、と。 ポアロは彼の方法、関係者と対話する。その中から隠された真実を探し求める。 本書はポアロの「対話篇」である。登場人物たちと事件と関係がなさそうなことまで話し合う。ある人物との会話に「過剰な慈悲」という言葉が出てくる。「過剰な慈悲」とは例えば、罪は人にあらず、というのがある。その人が犯した罪はその人の責任ではなく、その人の環境とか生育条件が劣悪であったためである、という考えである。なんとなく罪に対して異常に寛大な日本の少年法を思わせる。ポアロは正義の裁きを第一に考える立場である。 さらに「悪のDNA」というで議論する。ポアロは「24歳の殺人者は潜在的には2歳、3歳、4歳でも殺人者だったのです」と言う。 「ハロウィーン・パーティ」におけるポアロは初期のポアロに比べて現代的な殺人、異常者による殺人を考慮に入れて事件を考察する。初期の牧歌的な殺人からだいぶ変化している。1969年という時代背景から生まれたクリスティ作品である。 (2021.1.20) |
---文士の時代---by 林 忠彦 |
本を読んだことがあるが著者の顔は見たことがない。そういう作家がいる。たとえば、里見とん、佐藤春夫、久米正雄、椎名麟三、火野葦平、永井龍男、藤原審爾、滝井孝作、岸田國士、海音寺潮五郎。 顔をよく知っている作家もいる。たとえば、太宰治、川端康成、武者小路実篤、松本清張、石原慎太郎、三島由紀夫、開高健、遠藤周作。 著者は写真家である。全盛期の作家のスナップにコメントをつけて出版した。それぞれが気難しい作家の普通の表情を撮ることはかなり難しい作業だと思う。 カメラマンという仕事は写真を撮る技術と同程度に、相手の懐に飛び込めるキャラクターを持っていないとできない仕事なのではないか。いつも気難しい顔をしている谷崎潤一郎の笑顔の写真が載っている。よく撮れたものだと思う。 太宰治が銀座のバー「ルパン」のカウンターでくつろいでいる有名な写真は、実は織田作之助を撮りに行ったついでに撮ったものだと知り驚いた。その時著者は太宰をただの酔っ払いだと思ったらしい。あんまりうるさいので仕方なく一枚だけ撮った、と書いてある。今では「 「鞍馬天狗」の作者 (2021.1.17) |
---わが人生の時の時---by 石原慎太郎 |
石原慎太郎というと国会議員時代、東京都知事時代を通じて傲岸不遜、高飛車というイメージがあった。だが、人と文学は違う。ドストエフスキー、川端康成、太宰治の例を挙げるまでもなく、文学者に人格を求めてはならない。 本書は冷厳で理性的な文体がすばらしい。日本の文学者には珍しく感情に流されない。的確な文章は読んでいて気持ちが良い。 エッセイのような小説のような40章はいずれも著者の体験をもとにしている。 特に船から落ちて流されてしまう友人のことを書いた「漂流」と弟裕次郎の死を看取った体験を書いた「虹」は身を乗り出してしまうほど迫力があった。 スキューバダイビングをしていて巨大なモロコを追いかけて海中の洞窟に入ったら、中に化け物のように大きいモロコがこちらを向いていた「南島のモロコ」はまるでスピルバーグの映画を観るような映像的な文章であった。 全40章の物語はひとの人生の「その時」を垣間見る楽しみを与えてくれる。 (2021.1.16) |
---ケンブリッジ・サーカス---by 柴田元幸 |
著者は東京大学名誉教授、翻訳家の柴田元幸氏である。彼は村上春樹の翻訳の校正者、助言者としても知られている。ポール・オースターの作品を数多く翻訳している。 著者の子供時代の思い出、イギリス放浪中のエピソード、ポール・オースター、スチュアート・ダイベックとの対談が収められている。 表紙の写真はリバプールでカモメが飛び立った瞬間を写したもの。その爽やかな印象は本書の中身を暗示している。 (2021.1.14) |
---新東京百景---by 山口 瞳 |
1976年に「湖沼学入門」から始まった山口瞳のスケッチ紀行は、1978年の「迷惑旅行」、1981年の「酔いどれ紀行」、1985年の「温泉へ行こう」と続き、1988年の本書「新東京百景」で終了となる。 作家山口瞳が編集者とともに旅をしながら、水彩またはパステルで気に入った景色をスケッチする。そこで出会った人々や建物や店や宿を作家の目で観察する。楽しいシリーズである。 最終回は本書である。日本のいろいろなところを旅した著者は今回は東京の景色をスケッチする。同時に図らずも1988年、バブルの真っ最中の激しく変化する東京を観察することになる。地上げとか土地転がしという言葉が流行った時期である。 著者は練馬の光が丘団地の高層ビル群やアーク・ヒルズという新しい建物を見て憤慨し、浅草ビューホテルに泊り、浅草の街を歩いて安心する。 19章、第19景のそれぞれのスケッチ画が楽しい。新潮社の編集者、 (2021.1.13) |
---作家の値打ち、作家の値打ちの使い方---by 福田和也 |
*作家の値うち* 現役のエンターテインメント作家50人、純文学作家50人の書店に出まわっている(絶版になっていない)作品について点数をつけてある。通常の書評で作品の点数をつけることはまずないと思われるので、これは画期的な書評本である。 評価は0点から100点まで。60点以上が読んで損はない、評者のおすすめの本である。39点以下は人に読ませる水準に達していない作品、29点以下は人前で読むと恥ずかしい作品ということになっている。これから本を読んでみようかなという人には親切な書評であるが、作家にとっては厳しい書評になっている。 著者である福田和也氏の評価であって、他の人は違う結果になるだろう。船戸与一の作品が全て20点以下というのは北上次郎氏は納得できないだろう。世界文学の水準で読み得る作品として「グイン・サーガ」「火山島」「生ける屍の死」「わが人生の時の時」とか何冊かの小島信夫の作品が挙げられているのは、筆者もどうかと思う。 あまり知られていない作家に高得点が与えられていたり、大江健三郎とか乃南アサのように作品が書店にたくさん並んでいるような作家が低得点だったり、著者の好みが色濃く反映されている。 有栖川有栖の「46番目の密室」、北方謙三の「武王の門」、桐野夏生の「ファイアボール・ブルース」、江國香織の「神様のボート」に80点以上の高得点が与えられていた。これらは機会があったら読んでみよう。 *作家の値うちの使い方* 「作家の値うち」出版後の後日談である。 「作家の値うち」を読んだ評論家との対談がメインになっている。対談の相手は鹿島茂、中野翠、西部邁の各氏である。西部邁氏の意見は少しピントが合っていなかった。本書をちゃんと読んでいなかったか、著者の意図を読みきれなかったのではないか。 (2021.1.12) |
---スタイルズ荘の怪事件---by アガサ・クリスティ |
クリスティの記念碑的な第1作目の作品である。その時30才。最後の作品が1973年の「運命の裏木戸」で、その時83才であった。初めから最後まで作風とクオリティがまるで変化していないのに驚く。 本書も完璧にクリスティの作品で質が高い。物語の中で2組のカップルの愛が成立するのもその後の作風と変わらない。 クリスティは「アクロイド殺し」と「そして誰もいなくなった」でアッと驚くトリックを使ったが、本書でもその傾向はみられる。 普通は最もそれらしくない人物が犯人で、結末を読んであっと驚く。本書ではそれを逆手に取って・・・。驚ろかされた。 (2021.1.8) |
---アクロイド殺し---by アガサ・クリスティ |
ミステリー史上最も有名なトリックを初めて使った作品である。この作品だけは犯人を知っている。 クリスティがどこでどのように伏線を張っているかを注意深く確かめながら読んだ。ドキドキしながら読んだが、やはり面白かった。 伏線はかなりハッキリと犯人を指していた。初読の時はどうしてわからなかったろう。 そこにクリスティの独自性がある。意識的か無意識かはわからないが、巧みに心理学を応用している。人間の心理の盲点をついている。そこにあるのだが、そこにあるのだが、それを認めようとしないように読者を誘導する。読者はその呪縛から抜け出ることはできない。 こういう作家はクリスティ以前も以後もいなかったのではないだろうか。クリスティは他の多くの作家同様、シャーロック・ホームズから出発した。初期の作品はホームズとワトソンの関係をまねて、ポアロとヘイスティングズの関係を作った。だが、その後あっという間にヘイスティングズは消え、独自の路線を進み始めた。シャーロック・ホームズものは歴史の中に埋ずもれても、クリスティの作品はいつまでも生き残るのではないだろうか。 有名なトリックの陰で目立たないが、19章でポアロは恋のキューピッド役をつとめる。騎士道精神を発揮する少佐にポアロはこういう。「あなたの目は節穴ですよ、ムッシュー。節穴です! 」 クリスティは他の作品でもしばしば、陰惨な殺人事件の合間に何気なくこういうシーンを挟み込む。一筋縄ではいかない作家である。 (2021.1.7) |
---夏の闇---by 開高 健 |
開高健は「輝ける闇」、本書、「花終る闇」の闇三部作をライフワークにするつもりだったが、最後の「花終る闇」が未完に終わってしまった。 「花終る闇」は本書の主人公「女」が日本に帰ってきた後、事故死するまでを書くつもりだったようだ。「女」は実在の人物で1970年に交通事故で亡くなっている。37才だった。 「輝ける闇」を読んで感心し、近代日本にも世界に通用する文学があったのか、と驚いた。本書を読んで闇三部作とはなんなの、という疑問が生じた。「女」をめぐる話なら本書と「花終る闇」だろう。「輝ける闇」は日本人が書いた「戦争と平和」ではないのか。同じ闇でも意味が違うのではないか。 本書をこの著者の最高傑作に挙げる作家が多いが、筆者は最高傑作は「輝ける闇」であり、本書はよくできた私小説に過ぎないと思う。 (2021.1.6) |
---珠玉---by 開高 健 |
開高健の最後の作品である。 三つの短篇で構成されているが、一つの長編としても読める。 開高氏は晩年、宝石の原石を手に入れて、それを研磨に出して宝石としての価値を高めるということを趣味にしていた。(「開高健のいる風景」より) 三つの短篇はそれぞれアクアマリン、ガーネット、ムーン・ストーンを主題にしている。最後の短篇「一滴の光」の最後の行は (女だった・・・) という言葉で終わっている。この世で開高健が最後に書いた文章ということになる。 この世の宝物を探し求めて最後に行き着いたものは (女だった・・・) ということなのか。開高健は59才で永遠の眠りにつく。食道癌だった。 (2021.1.5) |
---開高健のいる風景---by 菊谷匡祐 |
公私ともに開高健と最も親しい友人、菊谷匡祐氏による交遊録である。 菊谷氏が24才の時に「裸の王様」で芥川賞をとったばかりの開高健と知り合っている。そのとき開高は29才であった。以来、開高が59才で亡くなるまで頻繁に行き来している。ベストセラーになった「オーパ!」の南米アマゾンのピラルク釣りの旅にも同行している。 「酒」「食」「妻」「多才」「死生」・・・といった目次にも見られるように、開高健に関する他人の知らない興味深いことが書いてある。 絶筆となった「珠玉」三部作の執筆の動機に関することや、中編「流亡記」は菊谷氏が提供した資料「カフカの断片集中の一片」が元になったこと、謎となっていた「夏の闇」の主人公の女性と開高との関係についても明らかにしている。 開高健のファンにとって興味深い本である。 (2021.1.4) |
---輝ける闇---by 開高 健 |
この小説は日本人が書いた「戦争と平和」である。 ロシアの作家トルストイは「戦争と平和」でナポレオンのワーテルローの戦いとロシアの貴族の家族の生活史を描いた。開高健はベトナム戦争に従軍した特派員のビエン・ホアにおける戦場のありさまとサイゴン市内での生活を描いた。 著者は従軍中、解放戦線に襲撃され、兵士200人中生き残ったのは17人という激しい戦いを経験した。生存者の中に著者がいたおかげでこの小説が生まれた。 戦場における中心人物はウェイン大尉である。彼はジョン・ウェインのように大柄で豪放な性格である。サイゴンにおける主要な人物は記者仲間とその助手のベトナム人青年チャン(Tran)、そして青年の妹(素蛾)との交流が描かれる。 著者はウェイン大尉をこう表現する。「大尉はたたかうために一万マイルをこえてきた。老人は謝罪するために一万マイルをこえてきた。ことごとく船長エイハブの末裔ではないか」「義務に勤勉なアメリカ兵たちを体のまわりに感じつつ・・・」。主人公は休暇中の大尉とサイゴンで会い、食事を共にしたときに、戦場とは違う翳りと哀しみの表情を発見する。 ベトナム人に多い名前チャンはTRANと書く。トランではなくチャンと発音するのだと、以前ベトナム人通訳のカー氏から言われたことがある。素蛾はトーガと発音する。ベトナムでは漢字は使われていないので中国系ベトナム人ということなのか。このふたりの兄妹がサイゴンの生活の主役となる。 戦場の舞台になったビエン・ホアは現在工業団地になっており、筆者は1998年から2000年にかけて出張で何回も訪れていた。初めは工業団地の近くのドン・ナイという場所のホテルに宿泊していた。慣れてきたところでホー・チ・ミン市内(旧サイゴン市内)のホテルに移った。常宿していたホテルから、開高健が宿泊していたマジェスティック・ホテルまで歩いて15分くらいであり、時々ホテルのカフェを利用していた。 主人公が訪れるサイゴン市内のカフェや市場、安食堂の様子は手にとるようにわかり、興味深かった。サイゴンはフランス統治時代に作られた街である。主人公が歩く街並みや記者仲間がたむろするカフェはアジアよりもパリの風景に近いところがある。 開高健の文体は乾いていて、対象を正確に客観的に捉えようとする。日本人の作家の文章とは思えない。ヘミングウェイやヘンリー・ミラーがパリの街を描いた文章に近いものを感じる。 小説は主人公がビエン・ホアのジャングルで解放戦線に襲撃され、銃弾の中を逃げまどうシーンで終わっている。 (2021.1.3) |
---眠られぬ夜のために 第二部---by カール・ヒルティ |
スイスの国際法学者であり、哲学者であるカール・ヒルティが眠れない夜は一日1章、神について書かれた言葉を読みなさい、という想定で書いた本である。 第1章が1月1日、第2章が1月2日という順で12月31日まで合計365章で構成されている。ヒルティは毎日少しずつ読むのが良いという考えからこのようにした、らしい。 今回は第二部である。本来第一部で終わりの予定であったが、ヒルティが残した原稿を娘が編集して第二部を作成した。内容は第一部と大同小異である。 寝る前に1章ずつ読むとちょうど大晦日に読了するようになっている。習慣になってしまって、これがないと布団に入ってから物足らない。 哲学者は考え得る限りのことを考え抜くことが使命のはずであるが、ヒルティはそうしない。あるところで突然思考を停止し神またはキリストに任せてしまう。それが人間の幸せにつながると心の底から信じている。 だからヒルティは第一部、第二部のところどころで哲学者を非難する。特にニーチェを名指しで否定する。ニーチェの著作を読むとどれを読んでも神を否定している。不倶戴天、倶に天を戴かず(ともにてんをいだかず)という言葉がぴったりする二人である。 カール・ヒルティは哲学者というより、キリスト教の伝道者という名称がぴったりするひとで、本人もそう言われることを望んだに違いない。 (2021.1.1) |