2013年
記憶の放物線 / 逝きし世の面影 / 空海の風景 / 葉桜 / 愛になにを求めるか / 九マイルは遠すぎる / 百寺巡礼 / ダメなときほど運はたまる / 女の一生 / 脂肪の塊・テリエ館 / モーパッサン短編集TUV / ベラミ / エデン / 二百十日・野分 / 雑文集 / 男たちは北へ / ねじまき鳥クロニクル / 優雅なハリネズミ / 論語物語 / 未成年(3) / さよなら!僕らのソニー / 未成年(2) / 会社の老化は止められない / 未成年(1) / ヒューマン・ファクター / ぼくは猟師になった / テロリスト / 警官殺し / 密室 / 唾棄すべき男 / サボイ・ホテルの殺人 / 消えた消防車 / オクトパシー / 笑う警官 / 007カジノ・ロワイヤル / バルコニーの男 / 007号の冒険 / 天命つきるその日まで / 蒸発した男 / ロゼアンナ / 夜想曲集 / あなたに不利な証拠として


---記憶の放物線---


渡辺京二著「逝きし世の面影」

この本は書評とも読める。エッセイとも読める。自伝とも読める。

著者はミステリー小説、冒険小説の書評家である。また”本の雑誌”の編集長でもあった。 大学を出て就職したとき本が読めないからという理由で入社3日目に辞表を提出した話は有名である。

今まで著者の書評を読んで買った本は100冊を超える。書評を読んだら買わずにはいられなくなる。著者が本当に面白いと思っている気持ちが伝わってくるからだ。 読んでみるとそれほど面白くなかったということも多いのだが。

著者が本を読む。それに想起してある体験を思い出す。ある体験をする。それに想起してある本の描写を思い出す。これはそういう本だ。 ある体験とは著者の二人の息子たちが小さいころの話、そして大きくなって独り立ちするまでのさまざまな体験。 著者は息子たちが小さかったころなぜもっと深くかかわらなかったのかと毎回のように後悔する。

ここで紹介される本もそういうことに関係した話がメインになる。子供たちにもっとよくかかわりたいがそれがかなわなかった父親が出てくると著者は大いに同感する。これはそうした父親の哀しい気持ちが充満した本である。

(2013.12.21)

---()きし()面影(おもかげ)---


渡辺京二著「逝きし世の面影」

まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようである。老若男女の江戸の町人が目の前で食事をしたり風呂に入ったりタバコをすったりしているかのようだ。

著者は江戸時代に来日した外国人の著書をひたすら集める。それらの本には外国人の目から見た当時の日本人が描かれている。

ひとびとは自分たちの普段の生活は記録に残さない。その価値が無いからだ。普段の生活に無いような変わったことを記録に残そうとする。われわれが書く日記でも写真でもなるべく普段とは違ったものにするのと同じである。

ところが外国人は違う。日本人の生活のあらゆることが珍しいのだ。したがって当時の日本人の普段の生活が知りたければ外国人の書いたものを読むに限る。フランスのことはフランス人以外の、イタリアのことはイタリア人以外の人が書いたものの方がよくわかる、と著者は述べている。

ここに描かれた当時の日本人は異次元の住人だ。庶民はいつも機嫌がよくて冗談を言っては笑いあっている。働きたいときに働き、それ以外のときは何もしない。すべての子供たちは大切にされている。江戸の町は田園都市であった。等々ここに描かれた世界は日本のようだがどこか違う。

明治維新でグローバル化される以前の日本なのだ。禁断の木の実を食べる前のアダムとイブたちのようだ。

その後の日本の苦悩は夏目漱石らによって描かれている。

(2013.12.12)

---空海の風景---


司馬遼太郎著「空海の風景(下)」司馬遼太郎著「空海の風景(上)」

前回、前々回読んだときよりも格段に興味深く読めた。

なぜだろう。
昨年から今年にかけて高野山へ行ったり、奈良の薬師寺、唐招提寺へ行ったりして空海の足跡に触れる機会があったからかもしれない。

上巻では空海が遣唐使として中国へ渡り密教の師恵果(えか)に会うまでを、下巻では恵果から密教を伝授され帰国した空海とすでに帰国していた最澄との確執が描かれている。

この確執により体制内にいて力を発揮する最澄と新たな物を作り出そうとする創造者としての空海の立場が明確になってくる。

著者は空海とその周囲の人々とのやりとりを文献、特に手紙から描き出す。あえて空海の思想については触れていない。空海は数多くの書物を著わしている。空海全集全八巻が出版されているほどだ。空海の思想についてはそちらを読め、ということなんだろう。

これを読むと千年以上前の人なのに今生きている人のような感じがする。空海とその周りの人々、空海の風景を書くという著者のもくろみはみごとに成功している。

(2013.11.1)

---葉桜---


橋本 紡著「葉桜」

よくできた青春小説である。この本を読んで北村薫の”空飛ぶ馬”、漱石の”こころ”と”門”を連想した。

主人公の女子高生は”空飛ぶ馬”の女子大生、先生と奥さんは”こころ”の先生と奥さん、”門”の宗助とお米を連想させる。

この小説では登場人物たちが書道を中心にして活動する。題材が書道だから雰囲気は”空飛ぶ馬”よりは”門”に近くなる。静的である。静的な雰囲気の中で主人公と先生、主人公と妹の関係が生き生きと描かれている。

主人公が書道で先生に告白し、先生が書道でそれに答えるという場面は平安時代の貴族が和歌で恋のやり取りをしているみたいで面白かった。むしろ直接的なやり取りよりもこちらのほうが迫力があった。

先生と奥さんの関係がはっきり書かれていないのは物足りなさを感じた。漱石は”こころ”でも”門”でも引っ張りに引っ張った挙句それを書いている。

(2013.10.14)

---愛になにを求めるか---


パール・バック著「愛になにを求めるか」

昨日カナダの女性作家アリス・マンローさんがノーベル賞を受賞した。本書は女性で初めてノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家パール・バック女史の晩年の作である。

主人公は42歳の美しい未亡人、夫を亡くした後大きな屋敷に一人で住み、時には別荘にスキーに行く。海岸の近くに60エーカー(7万2千坪)の土地を買い、そこに建てる家の設計図を描いている。息子と娘は成人し、結婚している。

彼女がスキー場で24歳のハンサムな青年と出会ったことから物語は始まる。結ばれそうで結ばれない二人、彼を慕う21歳の女性、…。話はハーレクイン・ロマンス調で進んでいく。

原題は”The Goddess abide”(女神の存在)。日本の題名のほうが内容を良くあらわしている。

パール・バックといえば世界文学全集に必ずといってもいいほど出てくる”大地”で有名であるが、こういう本も書くんだ、と思った。本書は1972年、パール・バック女史80歳のときに出版されている。

(2013.10.11)

---九マイルは遠すぎる---


ハリイ・ケメルマン著「九マイルは遠すぎる」

「私」があるレストランで「9マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という言葉を耳にしたことから話は始まる。

「私」から、この11語(原文で)の言葉から推論できることは…、という命題を与えられたニッキー・ウエルトはとんでもない答えを導き出す。 ある場所で重大な事件が起こり(たとえば殺人)、その犯人は…、ということまで推論してしまう。ちなみに原文は

”A nine-mile walk is no picnic, especially in the rain.”

となっており、”〜is no picnic”という表現から、話し手がうんざりしていることが、”especially in the rain”からは、話し手が雨が降るのを予想していなかったことが、そして、”nine-mile”という言葉からは、実際に話し手が9マイル歩いたか、あるいは、歩く予定でいることがうかがえる。10マイルという切りのいい数字ではなく、9マイルという具体的な数字だからである。 ……といった具合である。

この”九マイルは遠すぎる”というわずか16ページの短篇を書くのにケメルマンは14年かけている。
そして全8篇が収まるこの本を書くのに20年の歳月を費やしている。

薄い本だがなかなかすんなりとは読み進めないのはひとつひとつの話に著者が工夫を凝らしているからだ。

(2013.10.9)

---百寺巡礼---


百寺巡礼 第一巻

百寺巡礼 第二巻 百寺巡礼 第三巻 百寺巡礼 第四巻
百寺巡礼 第五巻 百寺巡礼 第六巻 百寺巡礼 第七巻
百寺巡礼 第八巻 百寺巡礼 第九巻 百寺巡礼 第十巻

奈良へ旅行する前に第一巻の奈良編を購入した。

それだけでよかったのだがついでに隣の京都編も購入した。京都編は第二巻と第九巻の二冊に分かれており二冊購入した。

第一巻、第二巻と第九巻を読んでしまうとなんだか虫食いのようで落ち着かない。読む本が無かったので次から次へと購入してしまい、結局全十巻すべてを買ってしまった。

五木寛之の文章は読みやすく後を引く。内容も仏教学者や僧侶が書いたものとは違い、仏教やお寺に興味がある素人という立場から逸脱することはない。むしろ宗教を信じる人々とは反対の立場に立つ人のようだ。それでいて寺や宗派の歴史や故事を興味深く解説している。

それだけではなく目的の寺に行くときに乗ったタクシーの運転手の話や昔来たときの思い出話などいろいろな話題が出る。

行ったことのある寺への興味は倍増する。山口の瑠璃光寺(るりこうじ)へはもう一度五重の塔を見に行きたくなった。
行ったことのない寺には行きたくなってしまう。鳥取の三佛寺(さんぶつじ)、宮城の山寺へはぜひ行ってみたい。

(2013.9.8〜10.5)

---ダメなときほど運はたまる---


萩本欽一著 「ダメなときほど運はたまる」

欽ちゃんが運についてこれほど真剣に考え、行動してきたというのを意外に思った。 きびしい芸能界を自分の才覚だけで切り開いてきたイメージがあったからだ。

この本に書いてあることには納得することが多かった。不平不満を言うたびに運が逃げていく、とか運がついているときほど注意して行動しないと逃げていった時のダメージが大きい、とか…。

子どもに良かれと思ってしたことが子どもの運を逃がしてしまうことになる、という意見は身にしみた。最近有名人の息子が不祥事を起こし、親が彼らをいかにあまやかして育てたかを新聞で読んだがひとごとではない。欽ちゃんは自分の息子達に対して奥さんからケチと言われるほど金をださなかった。金があるのにそれを使わないということはなかなかできることではない。特に自分の子ども達に対しては。

仕事のついでにバカンスを楽しむなどということは誰でもやっていることだと思うが、欽ちゃんはそれをしない。運が逃げていくからだ。

運を気にする人は数多くいると思うが欽ちゃんほど生活のあらゆる面にわたって気にしている人は少ないと思う。欽ちゃんのほかにはマージャン小説の開祖、阿佐田哲也しか知らない。そういえば欽ちゃんはマージャンがプロ並みに強いという話を聞いたことがある。勝負事に強い人ほど運については切実に考えるものかもしれない。

(2013.9.30)

---女の一生---


モーパッサン著 「女の一生」

今まではモーパッサンといえば"女の一生"、と思っていた。

このところ"ベラミ"から始まり"短編集TUV" "脂肪の塊・テリエ館"と読み返してきてモーパッサンの本領は"短編"なのではないかと思った。

短編の一つ一つは現実の一部を鋭く切り取り、ありのままを読者の前に提示する。

"女の一生"は物語としてはよくできている。
主人公ジャネットの生活は初期は夫によって、後期は息子によって散々な目に遭う。次はジャネットにどんな不幸が用意されているんだろう。ハラハラドキドキしながら最後まで読んでしまった。

物語としては実に面白かった。物語作家としてのモーパッサンはすばらしい。

が、やはりモーパッサンの特徴は現実を鋭く見つめる目の力である。われわれがいつも見ているが意識の上に捉えることのできない現実を見つめて表現する力をモーパッサンは持っている。

モーパッサンの短編は古典として棚上げされるべきではない。われわれの生活を見つめなおす意味を持つ現代的な小説として再評価されるべきである。

(2013.8.26)

---脂肪の塊・テリエ館---


モーパッサン著 「脂肪の塊・テリエ館」

ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演"駅馬車"の原作になった小説がモーパッサン著"脂肪の塊"である。

インディアンの中を駅馬車で突っ走るのが"駅馬車"なら、プロシャ兵の中を乗合馬車で突き進むのが"脂肪の塊"である。

映画ではジョン・ウェインがインディアンを蹴散らしながら突破するが、小説ではプロシャ兵から9人の男女を守るのは"脂肪の塊(ブール・ド・スイフ)"というあだなの娼婦である。

この9人の男女とブール・ド・スイフの関係が通常時→空腹時→プロシャ兵の中→通常時に戻ったときという時間軸の中でどういう変化をするか。それがこの小説の読みどころである。

試験管の中で混ざり合った液体が化学変化を起こすように状況に応じて人間関係も変化する。通常時は「貴族」「実業家」「革命家」「尼さん」「主婦」そして「娼婦」といった人々が緊急時にどういう行動をとったか…? これは原発事故という緊急時に「総理大臣」「東電社長」「発電所所長」「政治家」といったひとたちがどういう行動をとったか、ということにもつながる現代的なテーマでもある。

モーパッサンはものすごく皮肉を効かせてひとつの回答を述べる。そして乗合馬車は進んでいくのである。

"テリエ館"も娼婦の話である。だが趣きは"脂肪の塊"とはだいぶ違う。
"脂肪の塊"がどちらかといえば深刻な話とすれば"テリエ館"はスラップスティック風な喜劇といえる。

ここでも乗合馬車が重要な舞台になるのだがその使い方が180度ちがう。かたや人間関係の実験室のような空間を作り出すのに対してこちらはドタバタ喜劇の舞台になってしまう。

30才そこそこの若者がよくこれだけの人間模様を書いたものだ。

(2013.8.23)

---モーパッサン短編集TUV---


モーパッサン著 「モーパッサン短編集TUV」

"ベラミ"が面白かったので昔買った短編集を読んでみた。

実に面白かった。モーパッサンがこんなに面白かったとは…。

以前読んだときには気がつかなかった。リアリズムの作家だったんだ。モーパッサンという人は…。

65篇中、作ったような話はひとつも無い。すべて自分の目で見た、そして聞いた話ばかりだ。ハッピーエンドはひとつも無い。人生というのはこういうものだろうなと感じさせてくれる。
[U]の"家庭"なんて、なんという"家庭"そのものなんだ!! いやになるくらい"家庭"そのものだ。

このような話を30才から40才までの10年間で360篇も書くなんて、モーパッサンという人はどのような生活をしていたんだろう。

(2013.8.20)

---ベラミ---

モーパッサン著 「ベラミ」

映画の公開にあわせて翻訳された本である。(映画の公開が2013年3月9日、本の発行が2013年2月25日。)

舞台は19世紀末のパリ、無一文の青年ジョルジュ・デュロワが美貌だけを武器に社会をのしあがって行く。"ベラミ"というのは"美しい男友達"の意味である。

デュロアが狙いを定めた女性はその美貌と歯の浮くようなセリフで100%陥落する。女性たちを足がかりに社会の底辺近くにいたデュロワは駆け上がるように昇っていく。

一度ものにした女性に対しては決してチヤホヤしない。それどころか用が無くなったら簡単に捨ててしまう。
デュロワは悪い男だが卑劣で無慈悲な行動をとるのは女性に対してだけで社会的に犯罪的な行動をするわけではない。

3人の女性たちも今そこに生きているように描かれている。彼女たちがデュロワを自分たちの欲望を満足するために利用しているという面も見える。
モーパッサンはデュロワを利用して3人の女性たちの三者三様の生き方を表現したかったのだと思う。

この小説は1880年代のごった煮のようなパリの様子をありのままに表現していて、自分がその中で生活しているように感じさせてくれる。

(2013.8.3)

---エデン---

近藤史恵著 「エデン」

"サクリファイス"に次ぐ自転車レースものである。

舞台はツール・ド・フランス。9人のチームで全長3,300kmを23日間で走る。ルールは複雑である。専門用語も多い。

一度読んだだけでは良くわからなかった。巻頭か巻末に用語の解説のページがあると良いのだが。何しろ初めから最後までほとんどレースのシーンなのだ。

登場人物のうち日本人は主人公のチカ(白石誓)のみ、後はフランス人、スペイン人、フィンランド人…。
レースでの駆け引き。敵も見方も一緒の3週間にわたるツアー生活。人間関係。それらは真に迫っており、レースのルールを知らなくても十分楽しめた。

作者は元自転車レース関係の人なのかと思ったら大阪芸術大学文芸学科を出た女性作家で、"女清掃員探偵 キリコシリーズ"や"アネモネ探偵団シリーズ"、"猿若町捕物帳シリーズ"などわりと軽めのシリーズものを書いている。"エデン"を含む自転車レースものは4冊出ている。そのうち2冊は文庫になっている。残り2冊はまだハードカバーでしか出ていない。"サヴァイヴ"と"キアズマ"は文庫になったら購入しようと思っている。

(2013.7.25)

---二百十日・野分---

夏目漱石著 「二百十日・野分」

漱石の中篇2作である。

加藤千香子のカバー絵がかっこ良い。"野分(のわき)"の白井道也(どうや)のイメージだろう。

この白井道也という元中学校の教師はかっこ良い。
各地の中学校を転々として今は零細雑誌の編集者をしている。
給料が安くて細君に文句を言われても一向に意に介さない。正しいことをしていて給料が安いのならそれを甘んじて受け入れる。意に染まぬことをしてまで金を稼ごうとは思わない。

対照的なのは大学を出たばかりの高柳君である。中学校時分嫌がらせをして白井道也先生を追い出した張本人である。大学を出たのに就職が決まらず、ウジウジと悩んでいる。当時、大学というのは東京大学のことでほかに大学はない。かなりエリートのはずなのだ。
高柳君の友人に中野君という人物が出てくる。金持ちの息子で恵まれた境遇である。高柳君はそれに比べて自分は恵まれていないと思い込んでいるのだ。

この3人の人物が入れ替わり登場してからみ合う。読後残るのは白井道也が寒風の中に毅然(きぜん)として立っている印象である。

"二百十日"は(けいさんと(ろくさんという2人の人物の会話から成り立っている。
この2人がどういう身分でどういう知り合いかは書かれていない。
1回読んだだけでは何のことやら良くわからない。2回、3回読むとだんだんわかってくる。その辺を想像しながら読むと回数が増すごとに面白くなってくる。

"坑夫"が読み方によっては冒険小説に読めるのと同様に"二百十日"は啓蒙小説ともロードノベルとも読める。

(2013.7.21)

---雑文集---

村上春樹著 「雑文集」

村上春樹のエッセイ集である。

2冊の本は厚みも値段も違うがいずれも村上春樹がそのときに何を考えたかということが書いてあり、興味深かった。

"雑文集"のほうはテーマごとに分けられており、同じテーマのものが次々に読めるという利点があった。
この中では"音楽について"の章が面白かった。村上春樹の音楽とはほぼジャズのことである。ジャズクラブのオーナー兼マスターを7年間やっていただけに選曲の幅は広く解釈は深い。

"村上朝日堂"のほうは週刊朝日に連載していたものを一冊の本にしたものだそうだ。このような興味深い話をよく毎週一話ずつ書けたものだ。

(2013.7.6)
村上春樹著 「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」

---男たちは北へ---

風間一輝著 「たちは北へ」

隠喩メタファーが嫌いな人へこの本をお勧めする。
寡黙に行動する男たちの物語である。

ここには2つの話が入っている。

都内から7日間かけて自転車で青森まで行く男の話。
自衛隊によるクーデター計画を阻止する話。

著者は実際に小説と同じ行程で自転車で青森まで行ったようだから、はじめの話だけなら紀行文のようになっただろう。
だがそれだけでは面白くないと考えて2番目の話を1番目の話に挿入したのだろう。

おかげで手に汗握るロードノベルになっている。
これを適正な監督、適正な役者で映画にしたらさぞ面白いものができるだろう。

1995年発売で2011年で4刷というのは少なすぎる。もっと売れてもいい本だと思う。私はハードカバーを図書館で借りて読んで感動し、その後文庫本が増刷されるたびに買っている位この本が好きである。

(2013.6.25)

---ねじまき鳥クロニクル---

村上春樹著 「ねじまき鳥クロニクル」

不気味な声でギイイイイッと鳴くねじまき鳥は不吉な"時"の象徴である。
小説全体に通奏低音のようにギイイイイッという鳥の声が聞こえている。

主人公"僕"こと岡田亨(オカダ・トオル)の平穏な生活を覆う二つの影、妻クミコの失踪と妻の兄綿谷昇(ワタヤ・ノボル)の存在。

第1部と第2部では"僕"はさまざまな登場人物の間で右往左往する。
問題は何一つ解決されないまま放っておかれる。失業中の"僕"はただでさえ不安定な立場なのに登場人物たちによってさらに不安定な状況に陥る。

間宮中尉によって語られる戦争中のノモンハンでの体験は特に強い混乱をもたらす。 第1部、第2部、第3部を通して事あるごとに"僕"が井戸に入るきっかけになる重要な出来事だ。

第1部、第2部では右往左往するばかりだった僕は第3部では行動に出る。行動することによってしか物事は解決しないというように。 だが話はさらに複雑になっていく。
その中でクミコの失踪の原因がなんとなくわかってくる。また義兄綿谷昇の複雑な行動の意図がなんとなくわかってくる。が完全に明らかにされることはない。

作者はそれが人生だよ、と言っているようだ。
"カラマーゾフの兄弟"だって何事も解決されることなく終わっているだろう、と。

村上春樹の隠喩メタファーは冴えわたっており、たとえば"僕"が義兄と会話した後、
"死の床にあるダライ・ラマに向かって、エリック・ドルフィーがバス・クラリネットの音色の変化によって、自動車のエンジンオイルの選択の重要性を説いている方が、あるいは我々の会話よりはいくぶん有益で効果的だったかもしれない。"
と思ったり、
駅前のクリーニング屋に妻のブラウスとスカートを預けた後、
"アルバート・アイラーやドン・チェリーやセシル・テイラーの熱烈な信奉者が駅前の商店街のクリーニング屋の主人になるというようなことは果たしてあるのだろうか、と僕はふと思った。あるかもしれない。しかし彼らはあまり幸せなクリーニング屋にはなれないだろう。"
と思ったりしている。

このような表現が嫌いな人は村上春樹の本を選択すべきではない。

(2013.6.22)

---優雅なハリネズミ---

ミュリエル・バルベリ著 「優雅なハリネズミ」

これはアパートの管理人をしている中年女性ルネとそこに住む12才の少女パロマの"再生(Regeneration)"の話である。

彼女たちが"再生"するきっかけになるのはアパートの新しい住人オヅ(小津)さんである。

なぜフランスの小説に重要な役で日本人が登場するかというと、作者は後に京都に移住してしまうほどの大の日本びいきで、しかも小津安二郎の映画の大ファンであるからである。作者が好きなものは小津のほかにトルストイの"アンナ・カレーニナ"があり、作中でも重要なキー・ポイントになっている。

(2013.6.5)

---論語物語---

論語物語

孔子の"論語"の翻訳というよりも下村湖人の人生観をまとめたものという本だ。

永杉喜輔が解説で書いているが、湖人は自分の主催する青年塾"浴恩館"で毎朝"論語"を基にした話を講義していた。それを後にまとめたものがこの本である。

確かに孔子と弟子たちの会話は"次郎物語 第五部"の朝倉先生と次郎たちの会話に似ている。

この本の中では孔子=下村湖人=朝倉先生という関係が成り立っている。次郎物語で朝倉先生に親しみ、共感した覚えのある方はこの本を読むと懐かしいような感情を覚えるはずである。

(2013.5.28)

---未成年(3)---

未成年

わかりづらい小説である。

作者が神の目から見た世界を表現してくれればわかりやすいものになるのだろう。 あえて20才の男性の目から見た世界なので実にわかりづらい。ある人物に対する評価も右へ行ったり左へ行ったりして定まらない。 読者としてもこの人物は良い人なのか、悪い人なのか決めることができない。不安定な立場におかれる。
作者の狙いは読者に(私生児という微妙な立場におかれている)20才の男性から見た不安定な世の中を味あわせたい、というものなんだろう。

だが不安定で不確定要素ばかりでは小説を読み進めることはできない。 主人公の体験のところどころにダイヤの原石のように光るものが混じっている。
それらの挿話はドストエフスキーにしか書けない独特のものである。

(2013.5.24)

---さよなら!僕らのソニー---

立石泰則著 「さよなら!僕らのソニー」

著者は少年時代にソニーのトランジスタラジオに出会い、青年時代にウォークマン、CDプレイヤーと団塊の世代共通のソニー体験をしている。

戦後、品川の町工場から始まったソニーの輝かしい歴史は誰でも知っている。だが現在のソニーとなるとあいまいな知識しかないのではなかろうか。筆者は雑誌編集者として創業者の井深大、盛田昭夫から始まり現在に至るすべての社長およびその周辺の人々にインタビューし、現在に至るソニーの歴史を考察している。

創業者の井深、盛田はいずれ世界企業になるという夢を持ちながら従業員20名あまりの町工場から出発した。そして15年後ニューヨークにショールームを出し、30年後本当に世界企業になってしまう。目的を達成したソニーは映画会社を買ったり、音楽業界に進出したり、生命保険や銀行をやり始めたりする。

そして60年後の今、迷走状態におちいっていると筆者は述べている。 目的を見失いなったソニーはこの先立ち直ることは困難なのではないかと予想している。
本の最後の言葉を「さよなら!僕らのソニー」と締めくくっている。
やっぱり会社の寿命って50年程度なのかな、と思った。

(2013.5.4)

---未成年(2)---

ドストエフスキー

この混沌とした、だがエピソードの宝庫のような小説の中で、特に印象的なエピソードがある。

それは「笑顔」に関する意見である。小説の中で特に必要とも思われないところで出てくるのをみると普段からドストエフスキーが考えていて何かの機会に述べてみたいと思っていたのではないかと推測している。

かいつまんでいうと人の笑顔というものは本心を隠せない。
"その性格がどうしてもつかめなかったのが、なにかのはずみで腹の底から笑ったら、その全性格がいっぺんにわかってしまったことがある。"とか
"笑いの中にほんのわずかでも愚かしいところが見えたら、たといいつもりっぱな思想ばかりをまきちらしていても、その頭脳がたいしたものではないと見てまずまちがいはない。"とか、馬鹿に念入りに「笑顔」について考察している。

"わたしはこれをわたしの人生体験からわりだしたもっとも重要な結論の一つと認めているのである。"と言うのは主人公アルカージイであるが、実はドストエフスキー本人の言葉と見て間違いはない。20才前後の若者の言う言葉ではないからである。

興味がある方は新潮文庫「未成年 下巻」139ページから142ページまでを本屋で立ち読みしてみて下さい。

"もう結婚の相手を選んで心の準備はしているが、それでもなおためらいと不信の目で相手を観察しながら、最終的に決めかねているお嬢さん方に知っておいてもらいたいのである。"というのがドストエフスキー本人(たぶん)のお勧めの言葉である。

(2013.5.1)

---会社の老化は止められない---

会社の老化は止められない

なんとなく会社の寿命は50年くらいかな、と考えていた。

一世代を30年とすると二世代分程度。 三世代目になると一世代目の経験が伝わらなくなってくる。規則やしきたりは残っているのにその意味がわからなくなってくる。規則だから、昔からやっていることだから従っているだけで真の意味がわからずにやることが多くなってくる。
意味がわからずにやっているのではモチベーションが上がるわけがない。

この本の著者は会社が老化し、衰退することを当然のこととして理論的に述べている。言われてみればすべてわかっていたことばかりなのでうなづくしかなかった。

・ルールや規則の増加
・部門と階層の増殖
・外注化による空洞化
・過剰品質化
・手段の目的化
・顧客意識の希薄化と社内志向化
・社内政治家の増殖
・人材の均質化、凡庸化

どれも思い当たることばかりなのに驚いた。著者はこれらのことは不可逆プロセスで逆戻りすることはできない、と述べている。 会社が老化するのは人間が老化するのと同じで、そうなる運命であり、「心がけ」や「工夫」によってどうなるというものではない、と断言している。
これでは本として出版するには収まりがつかない、と考えてかイノベーターvsアンチイノベーター、子会社からの脱皮、等それなりの落としどころはつけてある。

本当のところは著者も述べているように「無駄な抵抗はやめて運命を受け入れるしかない」のであろう。

最近なんとなく考えていたことをあまりにも明確に表現した本に出合ったので驚いている。

興味のある人はぜひ読んでほしい。

細谷功著「会社の老化は止められない---未来を開くための組織不可逆論」 亜紀書房 1,575円

(2013.4.29)

---未成年(1)---

ドストエフスキー「未成年」

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー (Фёдор Михайлович Достоевский) [Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky] の長編小説は5作ある。

『未成年』はその4作目に書かれた。

ちなみに5つの作品は、

  • 1866年『罪と罰』(Преступление и наказание) [Crime and Punishment]
  • 1868年『白痴』(Идиот) [The Idiot]
  • 1871年『悪霊』(Бесы) [Demons]
  • 1875年『未成年』(Подросток) [The Adolescent]
  • 1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы) [The Brothers Karamazov]

  • となっている。(ロシア語)[英語]

    小説の題名をロシア語と英語で載せておいたが、"未成年"というより"青年"と題したほうが合っているのではないか。主人公は現在21歳であるが回想の中では19歳の自分も登場する。"青年"又は"若者"のほうが意味的には合っているような気がする。翻訳者は鴎外の"青年"もあるし、何となく"未成年"のほうが重厚さがあるのでそうしたのではないかと推測する。

    この中で"未成年"だけが異常に翻訳数、発行部数が少ない。
    何故ならば読みにくいからである。

    他の4作はいわゆる神の視点から書かれている。 神の視点だから見通せないものはない。誰がどこでどういう行動をしたか、どういう話をしたかがすべて書かれている。 いわゆる古典的な長編小説(ノベル)の手法である。トルストイの"戦争と平和"が代表的な例である。

    『未成年』は20歳の男性の視点から書かれている。彼はすべての場所にいることはできない。他の人の行動や言動は自分が見たり聞いたりしたもの以外は噂だったり伝聞だったりする。

    自分の判断が間違っていたことなどざらである。特に女性に関することは…。考え方が未熟である。20歳の男性相応なのである。 従って作品の内容は混乱したり支離滅裂になったり独りよがりになったりする。 読みにくい、と言わざるを得ない。

    語り手が成熟した男性又は女性の場合は視点に揺れがないので安心感を持って読み進むことができる。 ドストエフスキーは何故、未熟な人間に複雑な人間関係の中を浮遊させたのだろう。 野心的な作家の実験的な作品ならともかく、『罪と罰』『白痴』『悪霊』という堂々たる大作を書き、『未成年』の後は『カラマーゾフの兄弟』を書くという黄金時代のドストエフスキーがである。

    主人公の心は状況に応じて嵐の中の難破船のように揺れ動く。そのなかで首尾一貫して見つめているのは自分の父親ヴェルシーロフのことである。主人公はヴェルシーロフの私生児で幼いころから親戚や他人に預けられていた。まともに話し合ったのは青年期に達してからで、それまでは父親がどういう人間か想像するしかなかった。主人公は出会ういろいろな人物からヴェルシーロフの人となりや考え方を知ろうとする。

    ドストエフスキーはその過程を通して、世の中に出たばかりの青年が自分探しの"心の旅"をする有様を描こうとしたのではないだろうか。 それは次作『カラマーゾフの兄弟』における青年アリョーシャの"心の遍歴"につながって行くのではないだろうか。

    (2013.4.13)

    ---ヒューマン・ファクター---

    ヒューマン・ファクター

    ドストエフスキーの"罪と罰"の中に印象的な人物が出てくる。居酒屋でラスコーリニコフにからむマルメラードフという元官吏だ。彼は「人間誰しも行き場がなければやっていけるものではありませんよ」という言葉を繰り返しつぶやく。

    二重スパイ、カースルはなぜ最後に身の破滅につながる通報をしてしまったのか。

    自分の身代わりに死んでいった同僚への罪の意識からか。思いがけず有力な情報を手に入れてしまったからか。自分が有能であることを誇示したいからか。

    人はどういう理由から二重スパイになるのか。信条、イデオロギー、金、…。英国のMI6に所属するカースルは現在は妻子になっている母子を助けてくれた見返りにソ連に情報を流している。巧妙なやり方によってカースルに疑いはかからず、疑われた同僚が組織に殺されてしまう。これ以上情報を流すと間違いなくカースルが疑われる。そういう状況の中でカースルはやってしまうのだ。自分から破滅に飛び込んで行くかのように。

    著者グレアム・グリーンがつけた題名「ヒューマン・ファクター」とは行き場を求めて右往左往する人間たちのどうしようもない(さが)を表現した言葉である。

    (2013.3.27)

    ---ぼくは猟師になった---

    ぼくは猟師になった

    著者は京大文学部在学中に狩猟免許を取り、運送会社で働きながらワナ猟をやっている。現在39才。妻と子供二人。

    獲物は鹿とイノシシ。解体から料理まで本人がやる。

    ワナ猟だから獲物は生きている。どうやって殺すか、どうやって皮をはいだり精肉をするか。

    写真入りで詳しく書いてある。これは体力勝負だな、と思った。



    そういえば以前読んだ本に"ぼくは炭焼き職人になった"というのがあった。

    ぼくは炭焼き職人になった

    著者は信州大学を卒業して炭焼き職人になり家庭を持ち、炭焼きだけで生活している。

    炭を焼くためにはまず木を切らねばならない。切った木を窯のあるところまで運ばなければならない。これも体力勝負だな、と思った。

    興味深いのは二人とも国立大学を卒業していきなり職人の道を選んだことだ。

    (2013.3.16)

    ---テロリスト---

    テロリスト

    マルティン・ベック・シリーズ第十巻、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーによるスウェーデン10年史の最終巻。

    少し話が散漫だったかな、という印象をもった。ペール・ヴァールーが亡くなり、途中からマイ・シューヴァルが一人で完成させたという作品である。テロ集団による要人暗殺という劇的な内容の割には印象が薄い。それはベックや刑事達の個人生活があまり描かれていないからではないかと思う。

    ベックはレア・ニールセンという伴侶を得て幸せになり、人間的な深みが薄れた感じがする。

    何はともあれ、全十巻、合計300章という長い物語を読み終えた。印象に残ったのは"ロゼアンナ"のストックホルム近郊の湖沼地帯ののどかさと"笑う警官"や"バルコニーの男"の都会の冷たさの対比。

    ベックに代表される都会人の田舎に対する憧れはわれわれにも十分共感できる。そして田舎にあこがれながらも都会から離れられないという面でも…。

    (2013.2.22)

    ---警官殺し---

    警官殺し

    一年後、ベックは レア・ニールセンと同棲している。

    第一巻でロゼアンナを殺した犯人が刑期を終えて住んでいる港町で、"ロゼアンナ"と同様の殺人事件が起こった。ベックはストックホルムから小さな港町トレレボリへ出張する。そしてかつて自分が逮捕した男を尋問する。

    この巻では地元の刑事でヘルゴット・オーライという印象的な人物が登場する。

    ベックの同僚コルべりは警察組織の急速な近代化への反発から辞表を提出する。

    (2013.2.13)

    ---密室---

    密室

    前作で撃たれたベックは1年半の療養の後復帰する。上司の思いやりで迷宮入りしそうな事件をあてがわれる。他のメンバーは派手な銀行強盗事件にかかわっている。

    別々に捜査していたベックと他のメンバーの事件が途中から微妙に絡んでくる。そして最後に皮肉な結末が待っている。

    この巻でベックはレア・ニールセンという女性と知り合う。聞き込みでレア・ニールセンの部屋に入ったベックは初めから親しみのようなものを感じ、話を聞き終えてもなんとなく立ち去りがたいものを感じる。

    (2013.2.10)

    ---唾棄すべき男---

    唾棄すべき男

    被害者は警官という立場を利用して自分のサディズムを満足する男。

    サディズムを満足するのに都合のよい職業、警官、相撲の親方、高校の運動部の監督、柔道の監督、コーチ、等々。これ最近の日本じゃないか。

    事件が発生してから30数時間、ベックとルンは一睡もしていない。速い展開で犯人はわかる。そして銃撃戦。今までになく派手な展開だ。

    ベックは撃たれ、犯人は捕まる。だが、捕まえる警官よりも犯人に同情したい気分になるのは何故だ。

    この巻ではベックは何げなく離婚している。

    (2013.2.2)

    ---サボイ・ホテルの殺人---

    サボイ・ホテルの殺人

    "マルティン・ベック主任警視は、はなはだおもしろくなかった。" という文章で終わるこの長編は社会性という意味では一番訴えるものをもっている。

    いくつもの会社を所有し、儲けるだけ儲けて儲からなくなったらすぐ売ってしまう。というやり方は最近の日本でも珍しくなくなってきた。その会社で働く労働者は使い捨て同然に首を切られてしまう。金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏になる。

    マルティン・ベックシリーズ第六作目。

    70年代初期のスウェーデン。殺人事件の捜査でベックは北の都市ストックホルムから南の港町マルメへ出張する。乏しい手がかりをもとに時にはストックホルムの同僚と連携しながら捜査に当たる。ちょっとした偶然から事件を解決したベックは「はなはだおもしろくない」気分を味わっている。

    Sweden

    ところでこの巻でベックは別居して2DKのアパートに一人で暮らすようになる。胃の痛みはだいぶ改善し、食欲も少しずつ出はじめている。

    (2013.2.1)

    ---消えた消防車---

    消えた消防車

    マルティン・ベックシリーズ第五作目。

    ベックは仕事が終わってもなかなか家に帰ろうとしない。家に帰る目的は長女との朝食のテーブルでの語らいだけになっている。

    今回活躍するのは前半、ラーソン刑事、後半、モーンソン刑事である。マルメ署のモーンソン刑事の変則的な別居方式が紹介され、いずれベックもこうならざるを得ない、ということを暗示させている。

    殺人事件の犯人は唐突に現れ、唐突に撃たれて死んでしまう。作者は犯人探しよりも犯人を追う過程での刑事たちの活動を描くことに重点をおいている。

    登場する刑事たちの個性が生き生きしてきてまるで彼らがその辺にいるような臨場感が出てきた。今回二回目の登場で存在感が出てきたマルメ署のモーンソン刑事が良い。

    (2013.1.30)

    ---オクトパシー---

    オクトパシー

    ジェイムズ・ボンドものの短編三編が載っている短編集。

    "オクトパシー"はスキンダイビング、"所有者はある女性"はサザビーズの競売、"ベルリン脱出"は狙撃、と3つのテーマでボンドが活躍する。

    緊張感があるのは"ベルリン脱出"、原題は"The Living Daylights"でティモシー・ダルトンのボンドで映画化されている。
    ロシア側の狙撃者とイギリス側の狙撃者の対決で、イギリス側の狙撃者はボンドだが、ロシア側の狙撃者が意外な人物でそこが見せ場になっている。



    ホーギー・カーマイケル カジノ・ロワイヤルでボンドの容姿を描いたページがあるが、それによるとホーギー・カーマイケルに似ていることになっている。私の年代の人は"ララミー牧場"のピアノを弾いていた爺さんで有名だが、ほとんどの人は知らないと思うので写真を載せておく。あの"スターダスト"を作曲した人である。"ジョージア・オン・マイ・マインド"も彼の作曲だ。
    歴代のボンド役でホーギー・カーマイケルに一番似ているのはティモシー・ダルトンではないかと思うのだがどうだろう。

    ちなみに"オクトパシー"はロジャー・ムーアのボンドで映画化されている。

    (2013.1.29)

    ---笑う警官---

    笑う警官

    マルティン・ベックシリーズ第四作目。

    "バルコニーの男"から5ヶ月目のベック。
    奥さんとの仲はますます悪い。ほとんど修復不可能な状態になっている。

    今回活躍するのは同僚のラーソンであり、コルべりであり、ルンであり…そしてステンストルムである。

    ベックはあまり活躍しないが最後に少し笑う。この笑いが深い余韻となって私たちの胸に響く。"笑う警官"の意味がじわじわとわかってくる。

    シリーズの中でも一番人生の皮肉を考えさせてくれる本である。

    (2013.1.26)

    ---007カジノ・ロワイヤル---

    007カジノ・ロワイヤル

    賭け事は単純なほど熱中するという。

    日本でいえば2つのサイコロの目を足した数が偶数か奇数かを当てる"丁半"。
    西洋なら配られた2枚又は3枚のトランプの数字の合計が9に近いほうが勝ちという"バカラ"。 いずれも短時間で勝負がつく。

    ボンドはカジノ・ロワイヤルに乗り込み、悪党とバカラの勝負をする。一瞬にして数億の単位の金が移動する賭博の世界。高級ホテル、酒、料理、美女。作者はその世界を事細かに描写する。

    ボンド・シリーズの第一作目、ボンドは情報活動に従事する一公務員だが、遊びごと、特に賭博に関してはプロ並みの腕を持っている。酒、料理、賭博、女に関して独特の意見を持っている。それはたぶん作者の意見の反映でもある。10代のころこの小説を読んで少しも面白いと思わなかったのはそういうことに無縁だったせいだろう。

    活劇シーンは少なく、地味である。拷問シーンは読んだだけで痛い。
    良くも悪くも書いた当時ロイター通信の支局長としてモスクワに赴任中であった著者の興味を反映した作品だと思う。

    (2013.1.25)

    ---バルコニーの男---

    バルコニーの男

    マルティン・ベックシリーズ第三作目。

    ロゼアンナの事件から三年が経過している。ベックは相変わらず疲れている。奥さんとの仲も相変わらず芳しくない。

    この巻ではシリーズのほとんどすべての刑事が登場する。ベック以外は個性的なメンバーだ。
    今回の事件は連続幼女殺人事件だ。いつもはそれぞれの事件にたずさわっている刑事たちも今回は勢ぞろいで捜査に当たる。はじめに少しだけ登場した犯人はその後はいっこうに姿を出さず、不気味な雰囲気が最後まで漂う。

    凶悪な犯行なのに犯人像はなぜか悲しい。"バルコニーの男"という題名はそうした犯人像を暗示しているのかもしれない。

    (2013.1.22)

    ---007号の冒険---

    007号の冒険

    イアン・フレミングが書いたジェームス・ボンドの話は長編が12作、短編が8作の計20作である。作られた映画は第1作目の英国のテレビドラマを除くと昨年の"スカイフォール"まで23作になっている。

    この短編集にはその中の5編が載っている。映画になったものが2編あり、"読後焼却すべし"は"ユア・アイズ・オンリー"(12作目)となり、"ナッソーの夜"は"慰めの報酬"(22作目)になっている。

    "ナッソーの夜"では領事が主催するパーティでボンドはあくびをかみ殺している。カナダ人夫妻が引き上げた後、領事の話をあと一時間は聞かなければ礼儀を失するだろうな、と考えている。

    ボンドがふと漏らした、結婚するならキャビン・アテンダントが良い、という言葉を聞いた領事があなたは本当にそう思うのですか、と問いかける。それについてはちょっとした話があるのですが、と話し始める。ボンドは変なこと言っちゃったなと思いながらも礼儀上興味深く聴くふりをする。領事の話は意外に長く、延々と続く。その中に「慰藉(いしゃ)の量の法則」とか「労力の報酬」とかいう言葉が出てくる。いずれも領事が考えた言葉である。はじめは義務感から聴いていたボンドもだんだん話に引き込まれてくる。門を閉める時刻になっても話は終わらない。庭を歩きながらやっと領事の話は終わり、ボンドは話の主人公がさっきまで会話していた退屈なカナダ人富豪夫人であったことを知る。そして自分が刺激のある冒険だと考えていた仕事が一人の人生に比べていかにも薄っぺらなものだったと知り愕然とする。

    というのが"ナッソーの夜"という短編で原題は"Quantum of Solace"。直訳すると"慰藉(いしゃ)の量"。"Quantum"には"報酬"という意味はなく、"報酬"とすると領事の言った意味は通じなくなる。

    (2013.1.21)

    ---天命つきるその日まで---

    天命つきるその日まで

    昨年暮れ出版のやなせたかしの最新エッセイ。

    "人生90歳からがおもしろい"を読んでやなせたかしのとりこになったのが昨年のことでした。

    この本は93歳の著者による実感を伴った超後期高齢時の生き方の解説本です。

    69歳のときアンパンマンがテレビアニメ化され、有名になったのが70歳を過ぎてからという超遅咲きのやなせたかしは手塚治虫より7歳年上です。私は1965年教育テレビの"まんが学校"ではじめてやなせたかしという漫画家を知りましたが、その時すでに46歳だから同年代の漫画家に比べてかなり遅咲きなのは間違いありません。

    このなかでやなせは90歳を過ぎてから急速に体力は衰えたが考えることは思春期のころとそう違いはないと述べています。自分のことを考えても子供のときと大人になってからとで考え方に差があるかというと大して変わっていないのを感じます。もちろん経験によって知ったことは大人になってからのほうが多いのですが。

    やなせは巻頭の詩で"それでも生きることにまだ飽きない"と書いています。

    (2013.1.19)

    ---蒸発した男---

    蒸発した男

    第二巻目は2年後のベック。

    共産主義政権下のハンガリーで消息を絶ったジャーナリストを探しに外務省からの依頼で出張する。

    手がかりがまるでない、しかも言葉が通じない外国で途方にくれるベックだが、部屋から見下したドナウ川に安らぎを感じ、教えてもらったレストランの魚のスープに舌鼓を打つ。

    外国へ出張して現地の警察官と協力して仕事を進めるベックに何か共感するものを感じた。

    "主のいない部屋の前に立って、あの女はいつまでもベルを鳴らし続けていただろうか。"という言葉で終わる本巻は、最後になって加害者の(被害者ではない。)気持ちがジーンと伝わってきます。

    (2013.1.18)

    ---ロゼアンナ---

    ロゼアンナ

    三十数年前に購入し、いまだに古本屋行きを免れている本です。スウェーデンの作家、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー共著、マルティン・ベックシリーズ全十巻の第一巻目です。

    読む本が無くなるとなんとなく手にしてしまう一冊です。

    警察小説だからミステリーになるんだろうけどこの作家たちは(ちなみにマイ・シューヴァルはペール・ヴァールーの奥さん)エラリー・クイーンのような謎解きを目指していません。全十巻の小説を通して1960年代から1970年代のスウェーデンの社会の移り変わりを描こうとしています。

    全編を通しての主人公は中年の中肉中背の刑事です。普通の人より少し直観力が優れている程度の平凡な人です。

    捜査方法もまどろっこしくて殺人の起きたところへ出張に行っても朝は9時過ぎに起きて、事件現場へは遠まわりして行きます。事件に取り掛かった後でも夏休みの休暇を一週間とって家族とリゾート地へ出かけてしまいます。

    日本の刑事たちのように家族をそっちのけで朝から晩まで事件にかかりきりということはありません。
    私たち読者はスウェーデンの港町マルメやイヨッテボリ、モータラといった土地やストックホルムのウプランズガータンやクングスホルムスガータン、エクスベリガータンといった通りをベック刑事と一緒に歩いているように感じます。

    ロゼアンナという人物は始まってすぐ死体となって登場します。手がかりのまるで無いこの人物をベックたちは追求します。だんだんとロゼアンナの人柄が浮かび上がってきます。まるでベックは犯人ではなく、ロゼアンナを追いかけているように感じます。それが作者たちの目指したところなんだと思います。

    (2013.1.17)

    ---夜想曲集---

    カズオ・イシグロ「夜想曲集」

    カズオ・イシグロの短篇集です。

    すべて音楽に関係のある短篇5篇です。
    5篇ともなかなかうまくいかない人生の断片を捕らえており結末もほろ苦いものです。

    最後の"チェリスト"は才能と機会ということを取り上げていて興味深く、才能だけではのし上がっていくことはできない現実の人生をさらっと描いています。

    (2013.1.13)

    ---あなたに不利な証拠として---

    ローリー・リン・ドラモンド「あなたに不利な証拠として」

    元婦人警官であった著者の初めての作品集です。

    全十篇の短編のうち半分はエッセイに近いもの、半分は小説に近いものという構成です。久しぶりの再読ですが、臨場感あふれる作り物ではない警察小説です。

    特に"傷痕"は緊迫感があり、二回目ですが、どうなるんだろうという興味が最後まで持続する短編でした。

    (2013.1.12)

    Copyright(C) 2012 Umayakaji.com ALL rights reserved.