太陽がいっぱい / アメリカの友人 / プロレス本 / 純愛<ウジェニー・グランデ> / 知られざる傑作 / 「絶対」の探求 / ゴリオ爺さん / 職業としての小説家 / 鳥の影 / 雨やどり / それから / 途中下車 / 脊梁山脈 / 平蔵の首 / 失われた世界 / 明日に向かって撃て! / ドイル傑作集III 恐怖編 / ドイル傑作集II 海洋奇談編 / ドイル傑作集I ミステリー編 / 堕落論 / 先生と私 / 最後の瞬間のすごく大きな変化 / 人生のちょっとした煩い / アドラー心理学入門 / 大いなる遺産 / 昭和芸人7人の最期 / 霧の橋 / 感情の法則 / 六の宮の姫君 / 作家の収支 / 夢果つる街 / シャドー81 / サヴァイヴ / エデン / サクリファイス / キアズマ / ヘンリ・ライクロフトの私記 / ギッシング短篇集 / お目出たき人 / 真理先生 / 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 / 贈る言葉 / 氷壁 / ゴメスの名はゴメス / 波 / フランク・オコナ―短篇集 |
---太陽がいっぱい---by パトリシア・ハイスミス |
原題は「The Talented Mr. Ripley」。パトリシア・ハイスミスのリプリーものの1冊目である。 この時のリプリーは25才。若い、生きていくことに不安がいっぱいである。 2冊目のリプリーものはこの時から15年後に書いている。書いた時はシリーズにするつもりはなかったのだろう。ハイスミスは最終的には5冊のリプリーものを書いている。 主人公トム・リプリーの性格は複雑である。常に揺れ動いている。 最終的には犯罪を犯すことになるが初めからそうしようとしているわけではない。行きかがり上そうなってしまう。だが後悔はしない。 ハイスミスは自分のことを書いているつもりでトム・リプリーを書いているのだろう。 (2016.12.24) |
---アメリカの友人---by パトリシア・ハイスミス |
原題は「Ripley's Game」である。この方が内容をよく表しているし味わいがある。 日本語で表すと「マッチポンプ」か。自分で火をつけて自分で消すというやつである。 パトリシア・ハイスミスはリプリーものを5冊書いている。1冊目が有名な「太陽がいっぱい」である。原題は「The Talented Mr. Ripley」。2冊目が「贋作」「Ripley Under Ground」。「Ripley' s Game」は3作目である。 奇妙な話である。ありそうな話でもある。主人公トム・リプリーの性格が複雑である。ある時は狡猾で残忍であり、ある時は情に厚く律儀である。 この小説はサスペンスフルなミステリーとしてもよくできた心理劇としても読める。一筋縄ではいかない小説である。 パトリシア・ハイスミスの本はほとんど河出文庫と扶桑社ミステリーからでている。映画化された時にいちどきに本屋にならびその後重刷されない本が多いのでなかなか手に入らない。今本屋で買えるのはリプリーもの3冊と昨年映画化された「キャロル」のみである。 (2016.12.18) |
---プロレス本---by 門馬忠雄 |
プロレス本を見ると買わずにはいられない。 昔村松友視の「私、プロレスの味方です」「当然、プロレスの味方です」を手にして以来身についた習性である。その中で村松が打ち立てた理論は完璧なものであったため未だそれ以上のものは出てきていない。一言で言うとジャンルの中では一流二流はあるがジャンルに貴賤はないというものであった。 プロレスは虚構だからアマレスより劣るとかお笑い芸人は歌舞伎役者より格下だとかいうのは迷信である、というものであった。 「全日本プロレス超人伝説」と「新日本プロレス12人の怪人」はかつて東スポの記者をしていた筆者がプロレス界の人脈を語った本である。村松のように過激にプロレス哲学を語ったものではない。馬場や猪木やブッチャーと身近に接したプロレス記者の思い出話である。 馬場と猪木は仲が良かったと語られた貴重なプロレス本である。 (2016.12.17) |
---純愛<ウジェニー・グランデ>---by バルザック |
純愛などという陳腐な題名がついているが原題は「ウジェニー・グランデ」である。「ウジェニー・グランデ」では売れないと考えた心ない編集者が無理やりつけたのだろう。 本を読めばわかるようにウジェニーの「純愛」が描かれてはいるがバルザックが描きたかったのはウジェニーの周りの人物たちであり、家の様子であり、彼らの生活そのものである。ウジェニーの「純愛」はその一部に過ぎない。 バルザックには人物名の題名が多い。「ゴリオ爺さん」「シャベール大佐」「従妹ベット」「従兄ポンス」「ルイ・ランベール」「ゴプセック」等々。「ゴリオ爺さん」においてもゴリオ爺さんそのものより下宿屋のおかみさんや下宿人ラスティニャックの方が登場回数が多い。パリの裏町の下宿屋が主人公みたいなものである。 本書でもウジェニーよりも父親や母親の方が登場回数が多い。特に父親は強烈な印象を読者に与える。ゴリオ爺さんは娘たちのために守銭奴になるがウジェニーの父親グランデ氏は生まれながらの守銭奴である。母親は死ぬまでグランデ氏の奴隷である。母親の死後ウジェニーは父親に従って生きて行く。そしてグランデ氏の死後は…。 バルザックはリアリストである。物語を作らない。あるがままに書く。 若い頃約束した恋人は金を貯めてパリに戻ってくる。パリで愛してはいないが出世の役に立つ女性と結婚し、ウジェニーの元には帰らない。ウジェニーは父親の遺産を守りながら年取って行く。 (2016.11.30) |
---知られざる傑作--by バルザック |
6編の短編が収められている。 1編1編が短いにもかかわらずバルザックは景色や家の様子を詳しく書く。バルザック独特の世界だ。この中ではタイトルになった「知られざる傑作」が強烈だ。 新進の画家のところへこれから画家になろうとしている若者が訪ねてくる。ふと見ると自分が尋ねようとしている部屋に老人が入ろうとしている。というシーンから始まる。この老人が主人公である。姿形は違うし専門分野も違うのだが老人は「絶対」の探求のバルタザールに似ている。一つのことを極めようとするとき人は似通ってくるのだろう。 「砂漠の情熱」「ことづけ」「恐怖時代の一挿話」それぞれがバルザック独特の世界で興味深かった。様々な人物を見てきたように描くばかりか動物の心理まで描写してしまうというこの作家はまさに作家になるために生まれてきたのだろう。 (2016.11.8) |
---「絶対」の探求--by バルザック |
「絶対」を探求するバルタザール、それに振り回される家族。それをバルザックは克明に描写する。遠景から徐々に近寄り屋敷の周りをぐるりと回ってベランダでくつろぐ夫人に近づく。夫人のアップを見るとくつろいでいるわけではなく憂いの表情で心ここに在らずという様子だ。映画の導入部を思わせる描写にバルザックは20ページを費やしている。20ページを過ぎてからようやく本編の主人公バルタザールが姿を表す。 このバルタザールがとんでもない人物で…、ということが延々と300ページにわたって書いてある。 バルタザールは「絶対」を発見するために自分や妻そして子供達の全財産をつぎ込んでしまう。そして「絶対」は最後まで発見されることはない。「絶対」とはなんだろう。それは「金」であり「ダイヤモンド」である。それら価値あるものを空気から作り出すのがバルタザールの計画だ。できるわけがない。だがそれをやり遂げようとする。そこに人間の偉大さを見るか愚かさを見るか…。 人類の発展の歴史は絶えまざる「絶対」の発見の歴史であった。ニュートンの「万有引力」、ガリレオの「地動説」、そしてスティーブ・ジョブズの「iPhone」。 この小説で印象的なのは二人の女性の存在である。一人はバルタザールの妻ジョゼフィーヌ、一人は娘マルグリット。妻は夫のために全てを投げ出す。自分の財産から健康まで。娘は情に流されることなく破産した財政を立て直す。読後二人の女性の気高さが浮かび上がってくる。 (2016.11.3) |
---ゴリオ爺さん--by バルザック |
1800年代のパリの下宿屋ヴォケー館に住む人々の話である。たかだか10人前後の下宿人たちの話をするだけでバルザックは普遍的な人間の姿を描いて見せた。 極端なまでの親バカ「ゴリオ」、何ものも恐れない犯罪者「ヴォートラン」、権勢欲の強い学生「ラスティニャック」、下宿屋の女主人「ヴォケー夫人」、金持ちの未亡人「クーチュール夫人」とその姪でラスティニャックに憧れる「ヴィクトリーヌ」、金のためにヴォートランを密告するオールドミス「ミショノー嬢」、等々。皆一癖も二癖もある人物だ。キャラクターが立っている。小説家に最も必要な才能だ。こういう人々を表現するだけで何をしなくても小説は進んでいく。 「ゴリオ」には娘が二人いてそれぞれが貴族に嫁いでいる。そして…、という話だがあらすじを書いても仕方がない。 読者は誰に寄り添いながら小説を読むか、にかかっている。それぞれの性別や年齢に応じて違うだろう。私にはラスティニャックとヴォートランの関係が興味深かった。ヴォートランははっきり書かれてはいないがホモらしい。若くていい男のラスティニャックを導いて大物にしてやろうとする。ラスティニャックはそれに反発する。若い時は何でも自分の力でできるものと思っている。人生経験を積んだ年配者はそれに危うさを感じる。二人の会話にそれが出ていて興味深かった。 現代の教育ママも裸足で逃げ出すほどの親バカ「ゴリオ」と娘たちの関係も興味深い。 バルザックのこの物語は様々な人がそれなりに読むことができる重層的な話である。 (2016.10.15) |
---職業としての小説家--by 村上春樹 |
表紙に驚いた。村上春樹は自分の写真をこんなに堂々と出したことはなかった。遠くからだったり暗いところだったりして顔がはっきりとした写真は見たことがなかった。 同時に小説を書く方法や自分の生活をこんなに赤裸々に書いたこともなかった。60代半ばを過ぎて色々なことにそうこだわらなくなったのかもしれない。若い頃のように批判されることも少なくなってきただろうし。 年をとるということはそういうものなのかもしれない。村上の愛読者としてはありがたい。 村上は興味深いことを二つ言っている。 小説を書くには訴えたい事や書きたいことがない方がいい。それによって書かれたものは時代遅れになったり陳腐化するのが早い。 ドストエフスキーや漱石の書いた小説には「ほんのちょっとしか顔を出さないキャラクターでも生き生きして独特の存在感がある」「文書のひとつひとつに身銭が切られている」「そういう小説は安心して読むことができる」。 その通りだな、と思った。 (2016.10.1) |
---鳥の影--by 柴田翔 |
60年代の若者が世に出て生活する。皆学生時代のモヤモヤを引きずっている。現在の生活になんとなく満足感がない。 そういう若者の話が4編収められている。 悩み多き若者を描いた私小説風の作品である。柴田翔が小説を盛んに書いていた時代、団塊の世代に相当する人たちは自分のことが書かれているように感じていた。 (2016.9.22) |
---雨やどり--by 半村良 |
60年代の新宿の酒場の人間模様を描いている。半村良はこの作品で直木賞を得た。 60年代後半から70年代にかけて新宿に出入りした。とはいってもこの小説の舞台になったような酒場ではない。じめじめして薄暗いガード下を通り抜けたところにある鯨カツ屋かその近くの間口1間くらいのJazz専門のレコード屋だった。酒場に出入りするには年代が若すぎた。 この小説に登場するホステスやバーテンはモデルがあるんじゃないかと思うくらい生き生きしている。半村良は一時期酒場のバーテンをしていたという。当時半村が生活していた様子が反映されているのだろう。 エンターティンメントの作家だけに話を作りすぎているところがあるように思う。そういうところをリアルに描けば小説としての面白さは減るが後世に残る作品になったのではないか。 (2016.9.16) |
---それから--by 夏目漱石 |
代助は神楽坂を上がったあたりの一軒家に下女と書生を置いて暮らしている。30才になるが仕事を持たず父親からの仕送りで生活している。体は丈夫である。3年前学生時代の友人に自分の彼女を紹介して結婚の世話をしたことがある。その友人が仕事を失って大阪から自分の近くに越してきた。 そういう設定でこの物語は始まる。優雅な独身生活を満喫していた代助は昔の彼女三千代が不幸せになっていることを知る。ゆったり流れてきた小説はこの辺から徐々に流れが速まってくる。 三千代に告白し、昔の友人である夫に宣言し、仕送りしてくれる父親に勘当された代助は仕事を求めて街をさまよう。この辺りの漱石の文章はまるで急流から滝壺に落下するかのようだ。 迫力のある文章に幻惑されてまるで自分が代助になったかのように混乱してしまうが、冷静になってみるとそうかな? と思う。 代助ってただの坊ちゃんじゃないの? 同情することなんか何もないんじゃないの? 大学を出て(当時の大学って東大のこと)30になって、しかも父親が金持ちで有力者で仕事がないなんてわがまま以外の何物でもないじゃないか。友人に譲った彼女を取り返そうなんて無い物ねだりもいいとこじゃないか。人の持っているものを欲しがる子供と少しも変わらない。 こんな勝手な男に同情して人類の苦悩を共有するだなんてありえない。 若い頃から何回も読み返してきて今まで漱石に騙されていたな、と思った。それというのも漱石の文章があまりにも迫力に満ちているからいけないのだ。 (2016.9.13) |
---途中下車--by 白石一郎・他 |
買った時は面白そうに思えたのだが読み始めたらどうにも読み進める興味が続かず途中下車となった。 「びいどろの城」は腕を見込まれた浪人が平賀源内の護衛として長崎に行く話。旅に出る前に途中下車したので道中の困難とか長崎に着いてからの話はわからない。浪人の個性がはっきり描かれていないのでまどろっこしくなった。こういう話は起こったことより登場人物に魅力があるかどうかが大切である。 「信長の血脈」は「信長の棺」の加藤廣作ということで期待したのだが中身が薄かった。長編小説を書いている時にはみ出した事柄を4編集めて1冊としたらしい。ところどころ興味深い記述があるのだがそれをつなぐ前後の話がだらだらしている。やはり捨てるべき挿話だったのだ。 「皇帝の嗅ぎ煙草入れ」はジョン・ディクスン・カーの名作である。初めて読んだがこんなにだらだらした話だったんだ。読者を引っ掛けるために無理に無理を重ねて伏線を張るのだがその伏線の部分がだらだら長くて本論まで読み進めることができなかった。名作のはずなのだが残念。 (2016.9.3) |
---脊梁山脈--by 乙川優三郎 |
「木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人」と書いてある。本書は戦地から帰国した主人公が日本に点在する木地師を調査する物語である。 なぜ調査するのか、収入は、家族は、という肝心なところは都合よく作ってある。そういう部分にのみ興味がある読者は作者の設定についていけないだろう。 日本の木地師の存在は天皇家の歴史に関係がある。聖徳太子や日本書紀、古事記が編纂された時代の天皇家の確執や争いが生々しく関係している。作者はそれを説明するために主人公を設定した。主人公と二人の女性の考え方や生活が多少不自然でも仕方がないと思わなければならない。 (2016.8.28) |
---平蔵の首--by 逢坂 剛 |
長谷川平蔵という人は実在した人らしいから別の作家が書いてもOKなのか。それにしても池波正太郎で有名になった人を他の作家が書くのはどうなんだろう。 逢坂剛もその辺が気になったと見えてこの本を読んでも平蔵の姿が浮かんでこない。二重三重に影武者を仕立てて本人はなかなか姿を現さない。現してもなるべく顔を見せないように工夫している。名前を変えて変装したりするから誰が平蔵なのかよく読まないとわからなかったりする。 池波正太郎版では着流しで江戸の街を自由に歩き回る平蔵もここでは忍者のようだ。こんなことなら主人公を別の名前で書いた方がよほど自由に書けると思うのだが…。 (2016.8.21) |
---失われた世界--by コナン・ドイル |
マイケル・クライトンが書いてスティーブン・スピルバーグが監督した「ジュラシック・パーク」はドイルのこの小説が種本になっている。南米マナウスの奥地に恐竜の住む大地が残されていたとは…。サッカーの日本代表がナイジェリアに惜敗した地がマナウスという現代では通用しない話である。本書が書かれたのは1912年、世界に未開の地はたくさん残されていた。そういう前提で読まなければならない。 改めて読んでみると恐竜は書き割り程度にしか書かれておらず、メインの話はこの失われた大地を探すまで、そして大地における猿人との戦いである。冷静に読むと単なる冒険ものでそれほどめあたらしい話ではない。 だが何事も先駆者がいないと次が出ない。「ジュラシック・パーク」も「猿の惑星」もこの小説が出なければ存在しなかったのだ。 (2016.8.18) |
---明日に向かって撃て!--by 古澤利夫 |
内幕ものは面白い。本書はハリウッドの映画界の内幕ものである。著者は20世紀フォックス日本支社の宣伝、配給を46年間にわたってやってきた人。ハリウッドのことは知り尽くしている。宣伝文句で「G・ルーカスもJ・キャメロンもサシで話せるのは彼一人!」とうたっている。 本書では「スター・ウォーズ」「タイタニック」「エイリアン」から「評決」「ダイ・ハード」「スピード」「インデペンデンス・デイ」に至るまでその内幕についてかいてある。ヒットした映画がはじめから期待を持って生み出されたわけではなく、半信半疑で公開したら爆発的にウケた、とか各映画会社をたらい回しにされた挙句企画されてから数年後に初めて日の目を見た映画とか、興味深い話満載である。 ジェームズ・キャメロンが一目見てディカプリオに惚れ込んだり、ケイト・ウィンスレットが「私に役をくれなくてもいいから、彼には絶対やらせなくちゃダメよ」と言ったり、誰が見ても輝いている人はいるんだなー、と納得したり…。 映画関係の噂話は種が尽きることがない。 (2016.8.16) |
---ドイル傑作集III 恐怖編--by コナン・ドイル |
コナン・ドイルのホームズ物以外の短編を集めた本である。本編は「恐怖編」ということで恐怖に関する不思議な話を集めてある。 ドイルは見えないところを想像するのが好きだった人だ。「大空の恐怖」ではプロペラ機で大空の上空に何があるのかを探る話、「革の漏斗」では古代から伝わる革の漏斗にまつわる逸話を夢の中で想像する話、「青の洞窟の怪」では洞窟の中に住む見たこともないような怪物の話、いずれも当時としては誰も見たことがないものを想像する。 「サノクス令夫人」では怪談めいた怖さを、「ブラジル猫」では凶暴な動物と対決する怖さをとりあつかっている。 ドイルの想像力は際限がない。 (2016.8.9) |
---ドイル傑作集II 海洋奇談編--by コナン・ドイル |
コナン・ドイルのホームズ物以外の短編を集めた本である。本編は「海洋奇談編」ということで海洋に関する不思議な話を集めてある。 ドイルは不思議な話の好きだった人だ。彼は若い頃船医として1年あまり海の上で生活していたらしい。その頃の思い出をもとに想像力を働かせて作った話だろう。 「縞のある衣類箱」や「たる工場の怪」は特に海上である必要はなくホームズを登場させればホームズ物と言っても通用する。 「ポールスター号船長」はアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を連想する話だ。ドイルの方が先に考えたことは言うまでもない。 (2016.8.7) |
---ドイル傑作集I ミステリー編--by コナン・ドイル |
コナン・ドイルのホームズ物以外の短編を集めた本である。本編は「ミステリー編」ということで不思議な話を集めてある。 全8編のうち6編がホームズが登場すればそのままでホームズ物の短編になってしまう。ドイルは死ぬまで自分はホームズ物が本流ではないのだ、と思っていたので不自然なくらいホームズを登場させずに解決している。ホームズを登場させたらごく自然に落ちがつけられるのに…。 なぜホームズ物が日本で、いや世界中で人気なのか。それは謎解きに微妙に人情話を絡めているからだ。ホームズ以降亜流が数多く排出されてきたがいずれもホームズみたいに普遍的な存在になれない。それはドイル独特の人の心の琴線に触れる挿話が欠けているせいだ。 最後に収録された「五十年後」はミステリーの部分より人情話の部分がクローズアップされた話である。何度読んでも泣いてしまう。うまい落語家で聴きたいような話である。 (2016.8.6) |
---堕落論--by 坂口安吾 |
この本は長い間読めないでいた。テレビの「100分て名著」という番組で紹介され、内容が興味深かったので読み始めた。読み始めたらあっという間に読み終えてしまった。どうして今まで読みかけては挫折していたのかわからない。 この本には13の評論が収められている。「堕落論」もその一つだ。「堕落論」を始め「続堕落論」「青春論」「日本文化私観」等々で安吾がいっていることはただ一つ、「自分の価値基準で生きなさい」という一言である。 なぜ自分の価値基準で生きることが堕落なのか。国家や社会の価値基準と自分の価値基準は往々にして違う。自分の考えを発表すると国家や社会から迫害を受ける場合がある。戦争の最中に与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」といった。(君とは弟のことだ) 天皇のために死ぬことが正しいといわれていた時代にだ。社会からはあの堕落した女、といわれただろう。 今の世の中でいえばこういうことかな。今日は早く帰りたい、だが上司に残業しろと言われた。親がなるべくいい大学へ行けという。自分は落語家になりたい。いい会社に入って地位も上がった。この辺で会社を辞めて植木屋の修行をしたい。…堕落だな。 安吾は言う。生まれてから死ぬまでが人生だ。これは意外に短い。自分なりの人生を生きなければ何をしに生まれてきたのか。 (2016.8.2) |
---先生と私--by 佐藤 優 |
「先生と私」というのは夏目漱石の「こころ」の第1章の題名と同じだ。 これは著者の中学生時代の高校受験にまつわる話だ。「先生」というのは学校の先生または塾の先生のことだ。 佐藤優は中学生にもかかわらず先生たちと対等に話をしている。自分の中学時代は著者に比べて子供だったなーと思う。とてもこんな風にいろいろなことについて先生と対等には話せなかった。考えることはしていたがもっと幼稚だった。著者の中学生時代は自分の17、8歳くらいの感じだ。 著者独特の論理的で断定的な記述は心地よい。次から次へと読み進めてしまう。後から考えて変な記述があったとしても。 これは佐藤優の青春記である。大人になってから書かれた青春記はノスタルジーに包まれることによってすべて美しい。 (2016.7.21) |
---最後の瞬間のすごく大きな変化--by グレイス・ペイリー |
村上春樹が翻訳してるのでなければ最後まで読みきれなかったろう。 グレイス・ペイリーの最初の本は1959年に発売された「人生のちょっとした煩い」、次に発売されたのは1974年の本書「最後の瞬間のすごく大きな変化」、そして最後に発売されたのは1985年の「Later the Same Day」である。生涯に3冊しか本を出していない作家だ。しかも村上春樹が惚れ込んで3冊目も翻訳する予定だという。 グレイス・ペイリーの作品はどれも状況をつかむのが難しい。2度、3度と読み返さないとどういう状況で誰がそのセリフを言ったのかよく分からない。本書は短い作品ばかりなのでわからないまま終わってしまうことが多い。ストレスのかかる読書だ。 アメリカでかなり尊敬されている作家だし、村上春樹も惚れ込んでいる。何年か後に再読してみたい。 (2016.7.15) |
---人生のちょっとした煩い--by グレイス・ペイリー |
村上春樹が翻訳してるのでなければ最後まで読みきれなかったろう。 ごく普通のアメリカ人の生活を切り取る、という面ではレイモンド・カーヴァーに似ているかもしれない。ただカーヴァーよりも人間関係が込み入っていて説明的な文章がまるでないので一度読んだくらいではシチゥエーションが飲み込めない。 グレイス・ペイリーは本書ともう2 冊書いたのみであの世へ逝ってしまった。寡作な作家である。いくらアメリカでも3冊の本を出しただけでは生活することはできないだろう。ペイリー女史は主婦として4人の子供達を育て上げ、その後は大学で文学を教えていたらしい。 本書には12編の小説が入っている。一番読みやすく興味深かったのは「変更することのできない直径」という変わった題名の短編である。「私」という配管工がある家にクーラーを取り付けに行き、そこで出会った16歳くらいの娘と結婚させられることになってしまう。小説は「私」のモノローグからなりなっている。この「私」がなんとも軽やかに生きていて、時にはフィリップ・マーローのように思えた。 (2016.7.10) |
---アドラー心理学入門--by 岸見一郎 |
アドラーの心理学はわかりやすい。心理学というより人生の処世訓みたいに思える。 一番印象的なのは「課題の分離」という考え方。自分が負わなければならない責任を自分が負う、という当たり前のことを言っているのだが世の中を見回してみるとなかなかできていない。例えば走っている子供に対して走ると転ぶよ、気をつけて。と呼びかける母親がいる。子供が転ぶとだから言ったでしょ、と怒る。子供にしてみれば転んで痛いわ、その上怒られるわで二重に痛い目にあう。走って転んだのは自分の責任だから仕方がないにしてもそのことで怒られるいわれはない。このことをアドラーは「課題の分離」ができていない、という。「課題の分離」という言葉を知ると今まで変だな、と考えてきたことが理解しやすくなった。 子供を無理やりいい学校へ入れたがる親などは課題の分離など考えたこともないだろう。 それと過去のトラウマなどはない、というのも印象的な考えだ。過去のトラウマによって何々ができない、というのは嘘で、それをやりたくないから過去のトラウマに頼っているのだ。やらないための都合のいい言い訳を過去の経験から拾い集めてくる。これなどは思い当たる人も多いだろう。 「人生の意味はない。それはあなたが自分自身に与えるものだ」アドラーは能動的な考え方をする人なのだ。自分が動かないと何も始まらない。だが動くためにはエネルギーがいる。生きる勇気を持たないものは人生から何も得ることはできない。 アドラーはフロイトと同世代の人だ。日本ではフロイトは有名だがアドラーはそれほど知られていない。自分の成り立ちを過去に求めるフロイトに対して未来に求めるアドラーの考え方が今までの日本人には受け入れられなかったのだろう。 (2016.6.28) |
---大いなる遺産--by チャールズ・ディケンズ |
ディケンズの名作ということで期待して読み始めた。古典は初めは面白くないがそのうちに面白くなってくる。そういう期待から多少退屈でも投げずに読み進めた。 困ったことにいくら進んでも面白くならない。上巻を読了し、中巻を読み進め、下巻まで来てもどうにも退屈だ。おかしい、天下のディケンズだ、しかも名作中の名作のはずだ。 何かの間違いかも、と思ったのは下巻読了後だ。どう考えてもこんなはずはない。 セコい話だ。脱獄囚に脅されて食事を与えたばかりに運命を狂わされる主人公。誰からかわからないが突然莫大な遺産を与えられる。自由に使える金ができると仕事を辞め、都会に出て好きなことをやり始める。そして与えられた時と同様、不意に遺産は取り上げられる。主人公は運命に翻弄されるがままだ。 読了まで1か月半かかった。読み始めると眠くなってしまい長いこと読んでいられないのだ。1、2ページ読むと文字が踊り出し意味がつかめなくなる。困ったものだ。 訳が悪いせいだろう。「私が以前に認めたことのなかったものは、かつては傲慢だった眼の哀愁を帯びたやさしい光だった」なんて文章が延々と並んでいては頭がぼーっとなるのも当然だろう。そして読了までこぎつけることができたのは原作者がディケンズだったからだろう。 (2016.6.27) |
---昭和芸人7人の最期--by 笹山敬輔 |
芸人ものを見ると買わずにはいられなくなる。芸人ものというと小林信彦や色川武大のようにリアルタイムで彼らの芸を見てきた人が書くものと決まっていた。本書の著者は37才、この本に登場する芸人の芸を生で見ていない。というかどの芸人も著者が生まれる前に亡くなっている。 自分の目で見ていなくとも参考文献だけでこれだけ真に迫った評伝が書けるのだ。才能と言ってもいい。ちなみに私がテレビで見たことのある芸人はエノケン、エンタツ、金語楼、トニー谷の4人である。ロッパ、石田一松、シミキンは見ていない。 見た中で一番印象が強いのがトニー谷である。「あなたのお名前なんてーの」のアベック歌合戦はリアルタイムで観ていた。本書によるとこの時のトニー谷は復帰後の姿で、全盛期は昭和25.6年のアーニー・パイル劇場でのスタンドアップ芸であったらしい。とにかくアクの強い芸であったらしい。 エンタツ、アチャコのコンビでは才能があったのはエンタツで台本と演出は彼がやっていたらしい。テレビで見た限りでは派手なアチャコに比べて地味でモサモサしているエンタツという印象しか残っていない。本書には軽くて若々しいエンタツの写真が出ている。 芸人の裏話は興味が尽きない。 著者は37才、新進気鋭の人文社会科学系の文学博士である。またケロリンで有名な内外薬品の代表取締役社長でもある。 (2016.6.20) |
---霧の橋--by 乙川優三郎 |
時代小説にはハズレは少ない。この本も面白かった。 元武士の主人公が妻を得て小さな店の主人になる。取り扱う紅をめぐって大店に吸収されそうになる。店を守るために奮闘する主人公。 この主人公が元武士で父の仇を討ったために郷里に戻れなくなり江戸で第二の人生を歩んでいる、という状況がこの小説に異常な緊迫感を与えている。 (2016.5.17) |
---感情の法則--by 北上次郎 |
こういう書評を書かせたら北上次郎はうまい。 何気ない日常の生活から始める。そういえばあの本にこんなことが出てきたよな。と書評に入っていく。 今回のテーマはそろそろ老境に入り始めた自分と家族、そして友人たちとの関係を回想する。現在ではなく、回想する、というところがミソである。昔を思い出して後悔する。後悔するがでもしょうがないんだよな、と肯定する。 ところであの小説では、と自分がたどってきた様々な後悔の種をおさらいするような、そして慰めてくれるような「本」を思い出す。その辺の思い出し方が絶妙でもはや芸の域に入っている。 全40編のエッセイは40冊の本の紹介であるとともに著者がたどってきた人生の様々なことの後悔の種でもある。 あの時にああしておけば、こうしておけばと思うのだが実際にはこうなるしかなかったんだよな、という著者のつぶやきが聞こえてくる。老境に入りかけた男のグチとともに必ずしもメジャーではない翻訳小説が紹介される。 (2016.5.10) |
---六の宮の姫君--by 北村薫 |
「円紫師匠と私」シリーズの最後の巻である。本作中で女子大生の「私」は出版社に就職が決まる。 毎回様々なテーマで日常生活の謎を解決してきた「円紫師匠と私」の今回のテーマは芥川龍之介の「六の宮の姫君」である。 この作品を書いた時の芥川の心境を「私」が円紫師匠の力を借りて解き明かす。昭和初期に亡くなった芥川の心境を解くのだから材料は書物の中にしかない。全集の中の小説や手紙が唯一の材料となる。 「私」は同時代人の全集の中から丹念に関連する出来事や項目を探し出していく。 これは著者の大学時代の卒論のテーマであったらしい。 「私」と円紫師匠が活動する現代と芥川龍之介や菊池寛が交流する過去が図書館の書物の中で交錯する。そして「六の宮の姫君」が誕生したきっかけとは…。 過去の名作から作家同士の交流や嫉妬を推理するなんて実に優雅で楽しい本である。 (2016.5.3) |
---作家の収支--by 森博嗣 |
作家って本を書いていくらくらい稼ぐんだろう。印税が10%ということは知っていたがその他のことはあまり知らなかった。 興味本位で購入したこの本で作家の収支について大体のことがわかった。森博嗣さんは20年間で278冊の本を書き、1,400万部売れ、総額およそ15億円稼いだという。平均すると1冊あたり5万部売れ、540万円稼いだことになる。 作家って随分儲かるんだなー、と思いがちだが278冊の本なんて書けるものだろうか。毎年14冊の本を20年間書きなさいと言われたら「無理です」と答えざるを得ない。生涯1冊か2冊の本を書くのが精一杯だろう。しかも誰も買ってくれないだろうな。 15億円稼ぐには特殊な才能が必要だ。森博嗣さんは簡単にやったように書いているが彼以外にはそう誰もができることではない。 (2016.4.5) |
---夢果つる街--by トレヴェニアン |
「夢果つる街」よりも原題の「ザ・メイン」の方がしっくりくる。この物語の舞台はカナダの首都モントリオールの「ザ・メイン」という貧しい地区。その街を担当する老刑事ラポワントが主人公である。 主人公が触れ合う種々雑多な人々が副主人公と言ってもいい。殺人事件が起こりそれを担当するがあまり熱心に犯人を探し出そうとはしない。作者は事件よりも事件を通して主人公と触れ合う人々をより深く表現しようとしている。以前読んだ時はその辺がかったるく感じたが、今読むと事件などどうでも良い。ラポワントと周りの人々との関わり合いが面白い。 最後には犯人が判明するのだがその頃にはそんなことなどどうでもよくなってしまう。 映画化すれば面白い作品になるだろうと思うのだがまだ実現していない。53才にしては疲れた刑事役はリーアム・ニーソンにやってほしい。 (2016.3.30) |
---シャドー81---by ルシアン・ネイハム |
新潮文庫から発売されたのは1977年で、1年後に買っている。読んだ時かなり感心したことを覚えている。 こんな大掛かりな犯罪をやって最後はハッピーエンドで終わるとは…。ルシアン・ネイハムというのはすごい作家だ。次回作はぜひ買おうと思っていた、ところが本書を書いた後間もなくこの作家は亡くなっていた。すごく残念な思いだった。 数十年後再再読して改めてよくできた小説だと思った。特に前半の準備のところが丹念に書き込まれているところに感心した。ここが納得のいくように書かれているかどうかで後半の荒唐無稽なところが生きてくる。フォーサイスにしてもル・カレにしても前半にかなりの精力を使っている。 最後のところになって話がバタバタと進むがこの辺で作者の体力が落ちてしまったのかもしれない。 発売されてから40年間もベストセラーを続けるなんて大したことだと思う。 (2016.3.24) |
---サヴァイヴ---by 近藤史恵 |
4部作を続けて読むと人間関係が良く分かり1編1編の話がつながって来る。 本書は始めと終わりが白石誓の視点から描かれている。中間の4編が赤城直樹の視点から描かれている。 白石の視点から見た自転車競技はヨーロッパの事情を、赤城の視点から見た自転車競技は国内の事情を描いている。選手の視点から見た競技生活をこんなにリアルに描いた小説は今までなかったらしい。 国内編の主人公は赤城が語るところの石尾豪である。石尾は第1作目の「サクリファイス」で死んでいる。白石誓が入団する前の石尾の話である。石尾がなぜああいう死に方をしたのか? それを知るには本書を読まなければならない。 このシリーズはまだまだ完結しない。作者にはじっくりと今後の彼らについて書いて欲しい。 (2016.3.17) |
---エデン---by 近藤史恵 |
白石誓ものの2作目「エデン」。チカウは自転車競技の本場ヨーロッパへ渡る。 そこで繰り広げられる「ツアー」の厳しさは日本の比ではない。本書のメインの舞台になるツール・ド・フランスは3週間に及ぶ。その中にはピレネーやアルプスなどの山岳コースもある。 自転車競技のルールはまだよく分からないところがある。トップを走っているのにエースのアクシデントに対処するために戻ってしまったり、必ずしも1位にならなくても優勝できたり、…。 チカウがヨーロッパのチームにスカウトされたのも彼がトップになれるからではなくアシスト能力が優れているからだ。「叩きのめされたとしても楽園は楽園で、そこにいられること、そのことが至福なのだ」 スポーツは物としては何も生み出さない。だが人の心に何かを生みつけることがある。時には国全体を動かすこともある。 近藤史恵のこのシリーズは自転車競技を通じて我々の中に何かを生み付けていった。 (2016.3.13) |
---サクリファイス---by 近藤史恵 |
「キアズマ」を読んだら1作目の「サクリファイス」が読みたくなった。 さっそく読んだ。初めに読んだ時分からなかったことが理解でき、「サクリファイス」という小説を初めて読んだという気になった。 読書の初回は全貌を知らずに読むからドキドキしながら読めるが完全に理解しているとは言い難い。 何回も読むと初回の感動は薄れるが理解度は増す。飽きずに何回も読める本が古典になるのだろう。 この小説で自転車競技という複雑なスポーツに初めて触れた多くの読者と同様知れば知るほど興味がわいてくる。 その案内役として近藤史恵の4部作は最適といえる。(5部作になる日も近いようであるが。) (2016.3.12) |
---キアズマ---by 近藤史恵 |
昨年2月3日近藤史恵の「サヴァイヴ」を読了したときに本書はハードカバーで出ており、文庫になったら読もうと思っていた。 さっそく読んだ。今回の舞台はプロのレーシングチームではなく大学の自転車部だ。 新入生が変なきっかけで自転車部に入部し自転車競技について学びながら成長するという話だ。 前回までの3冊はいきなりプロのレーシングチームの話になり何の前触れもなく専門用語が出てきてそれがまた心地よいリズムになっていたが、今回は主人公とともに一からレースについて勉強することができる。 青年の成長ものというのは我々すべてが通り過ぎてきただけに共感を持って読むことができる。 これは主人公が入学してから1年間の話だがまだまだ話は続きそうだ。そのうちに続編が出るのではないか。 (2016.3.6) |
---ヘンリ・ライクロフトの私記---by ジョージ・ギッシング |
不幸な人だったらしい。 46才で亡くなるまで経済的に苦労しなかった日はなかったらしい。3度目の結婚で安心した精神生活を送るまでは精神的にも追い詰められていたらしい。 この私記はほぼギッシングの日記といってもいい。彼と思われる主人公がそれまでは苦労続きだったのが、遺産をもらって働かなくてもいい身分になり、田舎の屋敷で1年間を過ごす。これはその記録の形をとっている。 時の政治に関する意見、読んだ本の感想、散歩のときの気候や風景の描写、イギリスの料理に関する意見。ヘンリ・ライクロフトという架空の人物になって自分の意見を述べている。 当時の政治や本のことについてはわからないが、散歩のときの風景の描写が日本と共通するところがあり興味深かった。国木田独歩の「武蔵野」と似通ったところがあった。 ヘンリ・ライクロフトは最後の数年間は裕福になるのだが作者のギッシングは最後までそのようにはならなかったらしい。 (2016.3.3) |
---ギッシング短篇集---by ジョージ・ギッシング |
コナン・ドイルと同年代にイギリスで活躍した作家である。 1800年代のイギリスの生活が描写されている。「境遇の犠牲者」「ルーとリズ」「詩人の旅行かばん」等当時のイギリスの一般の人々の様子を皮肉なタッチで描いていて興味深い。 「詩人の旅行かばん」はドイルが書けばホームズものの一編になってしまうだろう。 8篇の物語のすべてがこれから先どうなってしまうんだろう、という興味でつい最後まで読まされてしまう。 作家として一番必要な素質を持った人だと思う。 (2016.2.11) |
---お目出たき人---by 武者小路実篤 |
これだけ? という内容の本である。 著者と思われる26才の青年が近所の鶴という女性に恋をして、あいだに人を入れて結婚を申し込む。娘には早すぎるという理由で断られ、鶴のことをああでもないこうでもない、いろいろと考える。3年も4年も鶴のことを考えているが一言も言葉を交わさない。終わり近くになって駅で鶴と出会い、家の近くまで一緒に歩いて帰る。それでも言葉を交わさない。いくら昔とは言ってもそれはないだろう。漱石の「三四郎」でも同年代の女性といろいろと話をしているではないか。 とにかくもんもんと鶴のことを考えるだけで鶴に近づこうとは思わない。まるで10代のおくての青年の日記のようである。この青年が現代に生きていたらストーカーになるのではないか。 昭和30年、山本健吉はこの稚拙な日記のような文章を文学に見せようとしてかなり不自然な解説を書いている。平成11年、阿川佐和子は正直に「グダグダたるひと」という題で解説を書いている。武者小路実篤に対して「グダグダ精神」とか「ウジウジ描写」とかかなり本当のことを書いている。 武者小路実篤という作家は40〜50年前までは立派な文学者と思われていたが、今では阿川佐和子の解説がぴったりするような人ではないか。 この本を読んで立派な文学作品を読んだ、とは思えなかった。 (2016.2.6) |
---真理先生---by 武者小路実篤 |
武者小路実篤の本は40〜50年前はかなりたくさん出ていた。今書店で買えるのはこの本を含めて数冊のみである。 村上春樹がベストセラーになる社会で武者小路実篤が読まれることは少ないのではないか。 隠喩の全くないストレートな文章は10代の文学青年が書いたようである。これだけストレートに著者の考えを書いた本は珍しい。普通はもっとひねりや諧謔を加えたりするものではないだろうか。 昔の作家だからこのような文章を書くというものでもない。漱石はもっと複雑で含みのある文章を書いている。 この10代の文学青年のような文章は著者独自のものであろう。 他にいないだけ貴重ではないかと思う。唯一無二の作家、武者小路実篤。 (2016.2.4) |
---色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年---by 村上春樹 |
ハードカバーが出たのは2013年4月、文庫本が出たのは2015年12月。近所のブックオフで発行されたばかりの文庫本が出ていたので購入した。ベストセラーは古本屋に出るのも早い。 シャーロック・ホームズものが世の中に出て以来、ミステリーの常道は探偵を訪れた依頼人が失踪者の捜査を依頼する。探偵は失踪者を追及する過程で人生のいろいろな面を知る。 著者は影響を受けた作家としてレイモンド・チャンドラーをあげている。中でも「ロング・グッドバイ」に一番影響を受けたといっている。 著者の小説は初期の「風の歌を聴け」から最近の「1Q84」にいたるまで基本的に失踪者を探す話が骨格になっている。失踪者を探す過程でいろいろなことがわかってくる。謎がだんだん解き明かされてくる。ミステリーの方法である。 本書では高校時代仲の良かった男女5人組のひとり、多崎つくるが20才の時突然他の4人から絶交を申し渡される。何故だ。 いくら考えてもわからない。36才になったつくるは恋人から原因を追究しないとあなたは中途半端に生きることになる、といわれる。つくるは他の4人をひとりひとり訪ね当てながら原因を聞きだしていく。解き明かされる真実とは…。 ミステリーの手法である。解き明かされるまでは寝てなどいられない。 (2016.1.27) |
---贈る言葉---by 柴田翔 |
10代後半から20代前半にかけては男も女も試行錯誤の時代である。あらゆることに対して経験と知恵の無い分体力と後悔の念で支払わなければならない。 この中の2編の小説のうち「贈る言葉」は現在進行形の、「十年の後」は過去から追いかけてくる、それぞれの青春時代の苦い試行錯誤について書いてある。 作者の柴田翔はその後、東大文学部の教授になり、文学部長を経て退官し、東大名誉教授として現在も存命である。ちなみに奥さんはピアニストの三宅榛名である。 小説の主人公イコール作者というわけでもないだろうが悩み多き青春時代を送ってもそれに流されずやることさえやっていればこのような人生を送れるのである。 柴田翔は20代後半から30代にかけて書いた数冊の小説で永遠の青春小説の作者になったが彼の本来の業績はゲーテの研究家としてのものである。 (2016.1.23) |
---氷壁---by 井上靖 |
新潮文庫版の「氷壁」は昭和38年発行以来平成18年時99刷、平成28年の今年はさらに刷数を重ねているだろう。息の長いベストセラーと言っていいだろう。 ベストセラーイコール名作とは限らないが、この本も名作とは言えない。 主人公とその親友が山で遭難するシーンは初めの百数十ページで終わり、残りの500ページ近い部分を延々と何故ふたりをつないでいたロープが切れたんだろう、と考えるシーンが続く。遭難のシーンで作者は何の抵抗もなくロープは切れ、小坂は垂直に切り立ったがけを落ちていったと書いている。何の抵抗もなく、というのは主人公の魚津が思ったことを作者が書いているのだから、魚津は小坂が自分でロープを切って落ちていったということを知っているのだ。 知っていながらなぜ悩むのか。 ロープが切れた原因を調査するために研究機関に実験を依頼したり、春になるのを待って小坂を雪の中から掘り出し、研究機関にロープを調べさせるシーンがあった。魚津は自分の体に巻き付けたロープをどうしたのだろう。それを調べれば一目瞭然ではないか。魚津の体に巻き付けたロープについては作者は一言も述べていない。 この本を読んだ数百万人の読者は疑問に思わなかったんだろうか。 私はそこが気になって最後まで読書に集中できなかったのだが、多くの読者は小坂-美那子-矢代と美那子-魚津-かおるの二組の三角関係のゆくえが気になって切れたロープなどどうでもいいのかもしれない。 (2016.1.21) |
---ゴメスの名はゴメス---by 結城昌治 |
1960年代のベトナムを舞台にしたスパイ小説である。 ベトナムに赴任した商社マンがあるスパイ組織と関わり合いを持つ。素人がプロのスパイ組織に巻き込まれるという典型的な巻き込まれ型スパイ小説である。 自由に行き来できる今ならいくらでも取材して書くことができるが60年代のベトナムをリアルタイムで書くということはかなり難しかったのではないか。 物語の前半、主人公が歩き回るサイゴン(今のホーチミン)の街には平和になった2000年代に何度も足を運んでいるが、景色も含めて空気感をかなりリアルに描いている。 主人公の周りは謎だらけ、謎を解くべくひたすらサイゴンの街を歩き回る。そしてあることをきっかけに急転直下謎が明らかになり大活劇の後日本に脱出する。ベトナム人を含めた関係者を残して。 そうしなければ結末が難しかったのだろうがもう少し工夫が欲しかった。撃ったり撃たれたりの活劇無しで、見た目平穏の中で絡まった糸をほぐすように静かに謎を解いていく。解決不可能なあるものを残して、という風にすれば世界的な名作になったのではないか。 ル・カレやアンブラーのような。 (2016.1.13) |
---波---by 山本有三 |
作者はふりがな廃止論者らしいが変な文章を書くので逆にそれが気になって内容に集中できなかった。 どういう風に変かというと、 等々。こういう文章に会うと一瞬「ん?」、となる。 これならまだ漱石のように総ルビにする方がいい。 内容は父と子の話である。父は息子が自分の本当の子かどうか疑っている。母は息子を生んですぐ亡くなったため、それを訊く人もいない。訊いたところでわかるかどうかもわからない。 そういう関係の中で暮らしているうちに徐々にどちらでもよくなって息子が可愛くなってくる。息子も中学生になり、女学生に恋文を出したりする年齢になる。 普通の家庭小説である。 (2016.1.9) |
---フランク・オコナ―短篇集---by フランク・オコナ― |
フラナリ―ではない方のオコナ―である。フラナリーはアメリカ人であるがフランクはアイルランド人である。 フラナリーは日常生活に潜む狂喜を描いたが、フランクは日常生活そのものを描く。 普通の人の日常生活を描いてもなんとなく「狂気」を感じることもあるのだが。 フランクはアイルランドの生活、特に田舎に住むアイルランド人を描く。そこに人間の普遍的な生活があるとばかりに。 確かに日本の田舎の風景、日本の田舎の頑固おやじ、日本の田舎のばあちゃんを感じることがある。 面白かったのは「法は何にも勝る」と「ジャンボの妻」。前者はかなり短い小説だが、起承転結がはっきりしていて最後に切れのいい落ちがある。後者はアイルランドの独立運動と夫婦の関係を絶妙に絡めた作品である。この夫婦の関係がどこにでもいそうなだらしない夫と世話焼き女房の話でまさに普遍的である。 (2016.1.6) |