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--- 皆のあらばしり ---

by 乗代雄介

皆のあらばしり

栃木市内に皆川城内町というところがある。町の中央あたりに皆川城址公園がある。この公園の中の小高い丘の上が本書の舞台である。物語は丘の上にあるベンチで大阪弁の男と男子高校生が交わす会話から成り立っている。

ここで交わされる会話は本当なのか嘘なのか、どこからどこまでが本当のことなのか、読者には皆目わからない。暗闇の中を灯りを持たずに引き摺り回されている感じである。

以前「スルース」という映画があった。「スルース」は「Sleuth」で探偵の意味である。ミステリー作家と探偵の虚々実々のやり取りが見せ場の映画であった。

本書を読みながら昔見た映画「スルース」を思い出していた。大阪弁の男と男子高校生のやり取りはよくできた舞台劇のようである。謎の男が「青年は小津安二郎は知っとるか?」と問いかけたあたりから、一気に物語の世界に引き摺り込まれてしまった。

そういえば乗代氏の「本物の読書家」の語り手と大阪弁の乗客のやり取りも虚々実々であった。乗代氏の作品において大阪弁の男は要注意人物なのかもしれない。

本書の題名「皆のあらばしり」も不思議な言葉である。本当にこんな言葉があるのか、それとも・・・。

(2023.12.31)



--- 高島易断を創った男 ---

by 持田綱一郎

高島易断を創った男

毎年この季節になると書店の店頭に平積みで高島易断の運勢暦という冊子が姿を現す。最近ではどの百均の店頭でも見ることができる。

いつ誰が創ったものかを意識することもなく、自分の運勢などを占っていた。

高島易断は天保3年(1832年)に生まれた高島嘉右衛門という人が創案した。元は中国の古い書物・易経である。高島が易経を日本の風土に合わせて創案したものである。

高島嘉右衛門というひとはどういうひとなのか。

彼は庄屋の長男として生まれた。元は裕福であったが父親が破産し、多額の借金を背負った。長男だった彼は父親の借金を返すためにさまざまな職に就いて働いた。

ときには危ない橋を渡ることもあった。事業に失敗し、小伝馬町の牢獄に入ったこともある。入牢中、隠し持っていた易経を解読し、自分なりの工夫を加えて創案したのが、高島易断の元になっている。

もともと頭が良く、胆もすわっていたため、30代なかばには頭角をあらわして実業家となっていた。若い頃知り合った伊藤博文や陸奥宗光といった政治家と結びつき、鉄道や運輸その他のさまざまな事業を起こした。

彼が横浜あたりの海岸を埋め立てて創った高島町には、今「みなとみらい」という駅ができている。

人生の岐路に差し掛かると、易経から創案した独自の易で自分のいく方角を占った。頼まれればひとの運勢を見ることもあったが、易で金をとることはなかった。彼の易はよく当たったようだ。毀誉褒貶はあったが最終的には大金持ちになって寿命をまっとうした。

毎年何気なしに占っている運勢暦の冊子の裏にこのような人生があったことを、この年の暮になって知り、目から鱗が落ちた。

(2023.12.30)



--- 最高の任務 ---

by 乗代雄介

最高の任務

「生き方の問題」と「最高の任務」の2篇が収められている。

「生き方の問題」は24才の語り手が2才年上の従姉(いとこ)との関係をどのように展開させるのか、という生き方の問題を追求する物語である。

従姉(いとこ)であるから2人の関係は物心ついてから続いている。語り手が意識したのは15才の時であった。従姉(いとこ)はいつだったのかはわからない。女の子だから当然語り手よりはずっと早い時期からだったに違いない。

語り手は従姉(いとこ)に長い手紙を書く。それが彼の告白になっているのだが、何を目指しているのか、筆者には読み取れなかった。この手紙は24才の青年にしては難解で曲がりくねった文章で書かれているからだ。結論を相手に投げかけているようにも思える。

読んでいてハッとしたのは彼女の祖母は語り手の祖母でもあるのだ。両者が祖母のことをおばあちゃんと呼んでいる。当然のことなのだが、いとこ同士で好きになってしまうということは面倒なことでもあるのだ。

「最高の任務」。23才の私は小5の時に叔母のゆき江ちゃんから鍵つきの日記帳をもらう。日記は23才の今まで断続的につけている。

大学卒業の日、父母と弟に連れられて自分だけ行き先を知らされていない「ミステリー・ツアー」に出かける。北千住から東武線に乗り換える。道中ゆき江ちゃんと東武特急で旅したことを思い出す。

ここで小5のときの日記の文章が挿入される。その後ひとりで旅した時の文章も挿入され、文章同士がシンクロし始める。さらに現在進行中のこともシンクロし、読者は頭が混乱してくる。

最後に家族はある場所に到着し三つの時制の意味が判明する。著者が言いたかったことはこれなのか。

著者の作品は入れ子細工になっていて2度読まないと全体の構造がわからないようになっている。

語り手の阿佐美(あざみ)景子という人物は「未熟な同感者」の阿佐美ちゃんと同一人物だろう。彼女もまた早くに慕っていた叔母を亡くしているので。

(2023.12.29)



--- エステルゴムの春風 東欧の街と人 ---

by 持田綱一郎

エステルゴムの春風

著者が1991年から1992年にかけてポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーを旅した時の旅行記である。

旅の目的は雑誌に掲載するためであった。現在でも若干そうであるように、当時はもっと個人の旅行はしにくい場所であったろう。

著者はいく先々で人びとに積極的に話しかけている。中には友人になってのちに日本で再会した人もいた。

訪れた国々はいずれもロシアやドイツに侵略され、散々な目にあっている。その中にいるユダヤ系やジプシー(ロマ) の人びとはさらに迫害されている。日本ではイギリス、フランス、ドイツというヨーロッパでは勝ち組に属する国のことはよく知っているが、虐げられた方に属する国に関する情報は乏しい。

東欧諸国は未知の国々である。それだけにエキゾチックな趣がある。

エステルゴムとはなんのことだろうと思ったら、ブダペストの北方、スロヴァキアとの国境近くにある地方都市の名前で、240年前はハンガリーの首都であったらしい。個人ではブダペストまでは行けても、このような地方都市まではなかなか行けない。

(2023.12.25)



--- 総統奪取 ---

by 生島治郎

総統奪取

あの時こうだったら、という「IF」ものである。

教科書に出てくる歴史は結果のみを記してある。実際にはさまざまなことが起きていた、あるいは起こりそうだった、という可能性があるが、それらは記されていない。

著者は初期の名作「黄土の奔流」の主人公紅真吾を日中戦争前夜の上海にもってきて、国際的な謀略に巻き込ませた。蒋介石の替え玉を用意して抗日戦争に突入させようとする。実際に蒋介石は抗日戦争を指導したのだから間違いではない。

そこに至るまでの工作と錯綜した人間関係が本書の読みどころになっている。

1936年頃の中国では何が起こっていても不思議ではない。特に各国のスパイが入り混じって諜報活動をやっていた無政府状態の上海では。

(2023.12.23)



--- やさしい共犯、無欲な泥棒 珠玉短篇集 ---

by 光原百合

やさしい共犯、無欲な泥棒

珠玉短篇集という副題にあれっと思った。これって既に物故した作家の作品につける題名ではないか。

ウィキで調べたら光原百合は昨年8月に亡くなっていた。享年59。まだ若い。

数年前に著者の短篇集「十八の夏」を読んで感動し、2021年に文庫本を買って読み、またまた感動した。よくできた短篇集であった。

本書には9篇の短篇が収められている。2023年発行だから著者の死後編集者が選んだ作品集だろう。

「黄昏飛行」と「黄昏飛行 涙の理由」は著者のふるさと尾道が舞台になっている。作品では「尾道」を「潮ノ道」としてある。うまいネーミングである。

瀬戸内海に面するこじんまりした町「潮ノ道」の地方ラジオ局のDJ永瀬真尋が語り手である。彼女は午後5時から午後7時までの番組「黄昏飛行(トワイライト・フライト)」を受け持っている。

小さな街で起こる小さな出来事を取り上げていく。

「不通」は街で知り合った女の子と付き合い始めた男子大学生の話。

花散る夜に。耀海(かぐみ)という(くに)大河(たいが)という名前の領主がいた。彼には水澄(みすみ)というお妃と蒼波(そうは)という弟がいた。この3人のうえに事件が起こり、「マノミの花」の番人である初音(はつね)竹流(たける)が解決する。

「やさしい共犯」「無欲な泥棒」。いずれも浪速大学ミステリ研究会のメンバーが挑む街で起こる小さな謎を解決する話である。

著者の出発点であるメルヘン風の作品が並んでいる。代表作「十八の夏」がそうだっように、光原氏はガチガチのミステリーにはこだわらない。ほのぼのとした味わいを失うことのない作家であった。

(2023.12.22)



--- 仲代達矢が語る日本映画黄金時代 ---

by 春日太一

仲代達矢が語る日本映画黄金時代

今年91才になる仲代達矢は現役の役者である。

仲代達矢というと思い出す映画は「用心棒」「椿三十郎」「人間の条件」「切腹」と数多くあるが、すべて彼が20代の作品ということに驚いた。

30代以降も切れ目なく映画や舞台に出演しているのだが、あまり印象に残っていないのは20代の頃の作品がいずれも強烈なイメージを我々に残してくれたからだろう。「椿三十郎」で仲代?する室戸半兵衛が三船敏郎に切られた時の血しぶきの凄さには筆者だけでなく、世界中の人が驚いたろう。

本書は80才の仲代に時代劇・映画史研究家の春日太一がロングインタビューした時の記録である。

仲代は役者を志した10代後半から現在までの自分の軌跡を語っている。

本人も印象深かったのは上にあげた初期の作品であったようだ。なかでも「人間の条件」は4年間かけて作り上げた作品だけに愛着があり、自分を抜擢してくれた小林正樹監督とはその後生涯の付き合いになる。

本書の中でも小林正樹監督や黒澤明監督と一緒に映画を作った時のエピソードの数々が興味深い。

(2023.12.21)



--- 本物の読書家 ---

by 乗代雄介

本物の読書家

本書には中編2編が収められている。

【本物の読書家】

語り手の青年が叔父を常磐線の高萩まで送っていく。天涯孤独の叔父が老人ホームに入るためだ。

隣に座っていた男はかばんから本を取り出して読み始めた。どうやら語り手の愛読書シャーウッド・アンダーソンの「黒い笑い」のようだ。

視線を感じた男は語り手に話しかけて来た。改めて見ると中年のかっぶくのいい男で、関西弁で喋る。

本好きらしい男は語り手が同好の士であることを見抜き読書談義を始めた。ここから関西弁の男と語り手と叔父の3人による緊張感に満ちた文学談義が繰り広げられる。

何が本当で何が作り事だかわからない虚々実々の会話は柏から水戸まで続く。そして・・・。

彼らの文学談義は「ワインズバーグ, オハイオ」以外はほとんど入手困難な作家シャーウッド・アンダーソンの「黒い笑い」に始まり、太宰治が志賀直哉に対する恨みを書き連ねた「如是我聞」、そして叔父と川端康成との因縁話から松本清張の芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』へと続いていく。

作者は3人の会話を通して、文学作品の持つ詐欺性とは、というテーマを読者に提出しているようである。

【未熟な同感者】

登場人物は英文学のゼミに集まった4人の大学生とその教師。舞台は教室。

先生の授業が太字で書かれ、学生の様子が細字で書かれている。物語の3分の1は授業の内容で占められている。

読者は4人の大学生の会話や人間関係とほぼ同様の比率でサリンジャーの「ハプワース 16, 1924」の講義録を読むことになる。「ハプワース 16, 1924」はなぜかアメリカでは発禁で日本でしか読むことができない。これは「グラース家シリーズ」の最後の話であり、サリンジャーの最後の小説でもある。

著者独特の凝った文章で語られる4人の話はそれだけとればごく普通の青春物語である。それとグラス家の長男シーモアの手紙で構成された「ハプワース 16, 1924」の講義録をからめることで著者ならではの物語になっている。

(2023.12.20)



--- 志賀直哉随筆集 ---

by 高橋英夫編

志賀直哉随筆集

志賀直哉が27才から86才までさまざまな媒体に発表した随筆を文芸評論家の高橋英夫が集録した本である。

作家として世に出た直後から亡くなる2年前までの時々に思っていたことを書いたものであるから、志賀直哉のひとつの年代記といえるだろう。

志賀直哉は夏目漱石や芥川龍之介と同時代人でありながら、筆者にとっても同時代に生きた作家だった。長生きした志賀は筆者が就職して社会に出た年の前年まで生きていた。生きていただけではなく、86才の時に書いた随筆「ナイルの水の一滴」を読んでもわかるように、頭脳が鮮明であった。

昭和6年、48才の時に書いた随筆「リズム」で、いい絵、いい小説、いい仕事は人に快感を与える。その原因はリズムである。リズムが弱いものは「うまく」できていてもつまらない、という意見を述べている。志賀直哉の随筆はいいリズムを持っている。読んでいて何か心地よいものを与えられる。

「創作余談」で「暗夜行路」やその他の自作を制作する過程を述べている。作者本人の言葉で書いてあるので興味深かった。

(2023.12.17)



--- 小説世界のロビンソン ---

by 小林信彦

小説世界のロビンソン

著者が自身の読書歴のなかで出会って来た本を材料にして、小説の構造の変化を論じている。

夏目漱石、太宰治、バルザック、白井喬二、フレデリック・ブラウン、カート・ヴォネガット JR.、リチャード・ブローティガン、ジョン・アーヴィング、谷崎潤一郎というのが著者の大まかな読書遍歴となっている。

漱石の英文学の知識は深く、ロレンス・スターンやヘンリー・フィールディングの難解な英語を完璧に理解していた、と述べる。「吾輩は猫である」について4章にわたり解説しているが、その中で漱石は「フラット・キャラクター」と「ラウンド・キャラクター」を使い分けていた、と述べている。

「フラット・キャラクター」とは「坊ちゃん」で言えば「赤シャツ」や「野だいこ」のような典型的な人物を指し、「ラウンド・キャラクター」とは「行人」の中の「一郎」や「お直」のような複雑な人物を指すらしい。漱石の前期の小説には「フラット・キャラクター」が、後期の小説には「ラウンド・キャラクター」が多く登場している。

著者が採り上げた小説の中から、バルザックの「ラブイユーズ」、白井喬二の「富士に立つ影」、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」が印象に残った。

(2023.12.14)



--- 死ぬのは奴らだ ---

by イアン・フレミング

死ぬのは奴らだ

007号シリーズの第2作目の作品である。第1作目は「カジノ・ロワイヤル」であった。

英国の諜報部員ジェイムズ・ボンドが単身で悪の巣窟に忍び込み、散々な目にあったあげく、悪の一味を壊滅させる。あらすじは同じようなものであるが悪人の風貌や目的、手段にそれぞれ工夫がある。

本書はカリブ海の海賊「血まみれモーガン」の財宝を独り占めしようとするミスター・ビッグという黒人の大男が敵役だ。舞台はフロリダからジャマイカにかけてのアメリカ南部。南国情緒に満ちた環境の中で活躍するジェイムズ・ボンドの姿が描かれる。

ホテルでどんな料理を食べたか、部屋の雰囲気は、街を歩いた感じは、その時にボンドがどう感じたか、ということを書き込むのが著者の特徴である。そうした時に読者は主人公のボンドを身近な者として感じる。

ボンドは実際のスパイ活動では行われないような、身体中傷だらけになりながらも不屈の活動をする。スパイものというよりはハードボイルドものという方が合っている。007号シリーズというのはジョン・ル・カレやエリック・アンブラーの描くスパイ小説よりもダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーの描くハードボイルド小説の雰囲気を持っている。

とはいっても007映画のような派手はアクションは出てこないし、ボンドはめちゃくちゃ強いわけでもない。我々より少し強い程度の戦闘能力である。だから敵に捕まった時のドキドキ、ハラハラ感は映画より本の方が強い。

(2023.12.9)



--- この素晴らしき世界!? ---

by 中野 翠

この素晴らしき世界!?

書名はサッチモの歌唱で有名な「What a Wanderful World」からきている。

全共闘世代の著者は「映画」「落語」「歌舞伎」の評論で活躍している。プラス常に柔軟な感性と的確な判断力で時代の世相を切り抜いて我々に提示してくれている。

本書はサンデー毎日に連載していたエッセイを集めたものである。そのときどきの世相を鋭く論じている。映画界では高倉健や桂小金治を論じ、落語界では三遊亭兼好を論じながら、新進の落語家として古今亭文菊を推している。世相的にはサカキバラ事件や林真須美事件を論じ、名古屋の19才の異常犯罪者を論じている。

何物にも忖度せず独自の意見を明確に述べる著者の姿勢はいさぎよく、爽快である。

(2023.12.8)



--- 星月夜 ---

by 伊集院 静

星月夜

著者の初めてのミステリーである。

解説に書いてあるように「砂の器」や「飢餓海峡」を思わせる。「過去からの狙撃者」ものである。この手のものは夢中で読んでしまう。

昭和42年度の宇部高専の3年生、男二人と女一人の関係から始まる。設置初年度の1962年(昭和37年)に、国立12校が開校した。宇部高専は設置初年度の12校の中に入っていたらしい。筆者は他の高専に昭和42年度に入学した者として、この出だしに心を掴まれてしまった。

事件が起こるのは東日本大震災のあった年、2011年である。一見関係のなさそうな事件が何件か起き、鑑識課と捜査一課の刑事たちが事件に関わっていく。

最後にたどり着いたのは宇部高専の同級生たちということになる。そこに至るまでの刑事たちの地道な捜査を描いていく。読者は刑事たちの視点に寄り添いながら、少しずつ真実を知っていくことになる。

最後に明かされた真実は・・・。犯人像とその動機にチグハグなものがあり、名作「砂の器」や「飢餓海峡」と比べることはできない。が、最後までページをめくる手を止めることはできない。

(2023.12.7)



--- 海流のなかの島々 ---

by アーネスト・ヘミングウェイ

海流のなかの島々(上) 海流のなかの島々(下)

「ビミニ」「キューバ」「洋上」の三部に分かれている。主人公はいずれも画家のトマス・ハドソンであるが、別の物語といってもおかしくない。いずれもヘミングウェイが体験したことが元になっているだろうということは想像される。自分が経験したことしか書かなかった作家だからだ。

「ビミニ」ではハドソンと母親の違う三人の息子たちと友人の作家ロジャー・デイヴィスとのビミニ島での1ヶ月間の共同生活を描いている。そこは男だけの世界である。

ビミニ島では魚捕りの船長たちとの交流や酒場での馬鹿騒ぎ、カジキマグロを釣る話などが描かれている。子どもたちの夏休みが終わると彼らは母親の元へ帰って行き、ロジャーは若い女とどこかへ行ってしまう。しばらくするとハドソンの元へ子どもたちのうちの二人が母親と共に交通事故で亡くなったことが知らされる。

「キューバ」。その数年後、ハドソンは行きつけのバーで昔馴染みの娼婦と延々と会話をしている。娼婦のリルは最近ハドソンの長男が戦死したことを知る。泣き出すリル。手持ち無沙汰に酒を飲み続けるハドソンの様子が語られる。

「洋上」。一転して戦場の海の上。敵を追い詰める小型艇を指揮するハドソンの姿が描かれる。乗組員は7、8名で海兵隊員たちである。画家のハドソンは元軍人ででもあったのか。

キューバ沖でUボートから離脱したドイツ兵を島から島へ追い詰める。最後の島で戦闘になる。この章で主に描かれているのは戦闘そのものよりも、敵を追い詰めている最中の味方のメンバーの人間関係である。ヘミングウェイの興味の対象は常に人間である。

「キューバ」は「洋上」で出撃するまでのつかの間の休息をとるハドソンの生活が描かれている。「ビミニ」はそれより数年前、三人の息子たちとの団欒を描いている。もう一人登場するロジャーという人物はヘミングウェイのもう一人の分身だろう。「洋上」の時点では息子たちは三人とも事故あるいは戦争で亡くなっている。ハドソンは息子たちの弔い合戦のような気持ちで戦場に出ていく。この三部作はヘミングウェイが書いた「戦争と平和」なのだろう。

この作品は「老人と海」を書いた前後に書かれたものとされている。ヘミングウェイは生前この作品を発表することはなかった。

(2023.12.6)



--- うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした1年間 ---

by 先崎 学

うつ病九段

現役のプロ棋士がうつ病になり、回復するまでの約1年間どのように過ごしたかを書いた本である。

うつ病になると本当に何もできなくなるということを具体的に書いてある。何もできなくなるということは何も感じなくなるということである。忙しいとも暇だとも感じない。焦りも感じない。無の状態になるということだ。

何もしない毎日が暇だなあ、と感じることは病気が良くなりはじめた証だ。病気の最中は死に対する敷居がやたら低くなるという。なんとも恐ろしい世界である。

うつ病は心の病気ではなく、脳の病気である。誰でもかかる可能性がある。そして必ず治る病気でもあるという。

著者のことは若い頃から将棋の棋士としてよりも、エッセイストとして知っていた。よく買っていた週刊誌に連載していたと記憶している。

うつ病という病気についてこれほど具体的に書いた本は無かったのではないだろうか。

闘病中、奥さんが苦労した話も書いてある。奥さんが以前、NHKの「囲碁の時間」で聞き手をやっていた穂坂繭三段だということを本書で知った。

(2023.11.24)



--- 日傘を差す女 ---

by 伊集院 静

日傘を差す女

著者の2作目のミステリーである。

本作に関係する言葉を三つあげるとすれば、「鯨捕り」「政治家」「赤坂」となる。

本書を読むと捕鯨の世界と赤坂の花柳界を知ることができる。

舞台は和歌山県の太地町。那須勝浦の近くで捕鯨の中心基地であった。そして青森県の三厩村。太宰治の「津軽」に出てくる地名だが、やはり捕鯨の基地であった。東京の赤坂。今でも政治家たちの夜の舞台である。

赤坂のビルの屋上で昔捕鯨の英雄であった老人が銛で刺された死体として発見される。さらに同じ種類の銛で刺殺された死体が発見され、連続殺人事件として捜査本部ができる。

警視庁の若い刑事草刈は事件を追って太地町、三厩村に出向く。さらに行動範囲は浅草や赤坂の三業地にも延びていく。そこで出会うのは複雑に絡み合った人間関係であった。

著者は過去吉川英治文学新人賞をはじめ、直木賞、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞などを受賞した作家である。純文学ではないが、一般の小説を書く作家が書いたミステリーということで、一般のミステリーよりも人間関係の中身が濃い。じっくりと読める。ただし殺人の動機や犯人像については納得できないところがある。

(2023.11.23)



--- 我が愛する詩人の伝記 ---

by 室生犀星

我が愛する詩人の伝記

ここで取り上げられている詩人は以下の通りである。

  1. 北原白秋
  2. 高村光太郎
  3. 萩原朔太郎
  4. 釈 迢空
  5. 堀 辰雄
  6. 立原道造
  7. 津村信夫
  8. 山村暮鳥
  9. 百田宗治
  10. 千家元麿
  11. 島崎藤村

いずれも日本の代表的な詩人たちである。彼らと日常的に付き合ってきた著者もまた日本の代表的な詩人、作家である。

教科書に載るような詩人たちであるが、本書で知る彼らは我々と等身大の人物である。普通の人としての彼らを知ると今までよりもいっそう親しみが湧いてくる。

北原白秋は童謡「からたちの花」や「砂山」などの作詞家として有名だが、前期の白秋は日本の詩人のまとめ役として活動していた。萩原朔太郎や室生犀星は白秋の弟子にあたる存在であった。

いつも超然としていた高村光太郎の姿や、彼と智恵子との関係が室生犀星との付き合いの中から描かれている。

日本の代表的な民俗学者、国文学者、国語学者、折口信夫は釈迢空(しゃくちょうきゅう)というペンネームで日本の代表的な詩人、歌人でもあった。才能豊かな釈迢空はゲイでもあった。20年近く妻であった青年を戦場に送る場面で釈迢空の姿はもの哀しい。

堀辰雄、立原道造、津村信夫は軽井沢の著者の別荘にたびたび遊びに来た年少の友人たちであった。誰かが来ると家族に笑い声が絶えない、明るい青年たちであったが、皆若死にした。特に世に知られていない詩人津村信夫の在りし日の姿を的確な文章で捉えている。

島崎藤村については詩人から小説家になった先輩として尊敬して書いている。唯一親しみを伴わない存在として。

同時代人の書く詩人たちの私生活と思想は研究家による評論とは一味違うものがある。萩原朔太郎、釈迢空の詩を読んだことがあるが、それ以外の人間性を知ることができた。また、ほとんど知らなかった津村信夫、百田宗治、千家元麿という詩人の作品や生涯を知ることができた。

(2023.11.21)



--- 高慢と偏見 ---

by ジェイン・オースティン

高慢と偏見(上) 高慢と偏見(下)

サマセット・モームが「世界の十大小説」の中で、トルストイやドストエフスキーの代表作と共に選んだ小説である。本書はジェイン・オースティンが21才の時に書いたものを38才の時に修正して出版したものである。

物語はベネット家の娘たちの結婚話を中心にして、家族やその周辺の人物たちとの人間関係を描いていく。

父親のベネット氏は皮肉な性格で次女エリザベスがお気に入りである。ベネット夫人は考えが浅く、ミーハーな性格である。長女は姉妹の中で一番美人だが、大人しく従順な性格。次女は本書の主人公で、機知に富み、明るい性格をしている。自分にプロポーズするダーシー氏に対して偏見を持っている。末っ子は跳ねっ返りで、16才で好きな男と駆け落ちしてしまう。

次女エリザベスにプロポーズするダーシー氏は貴族の御曹司である。正義感にあふれているが表現の仕方がへたで、家族以外の者からは高慢な人だと思われている。

高慢の持ち主ダーシー氏は自分を評して「僕は一旦好意を失うと、もう一生好意がもてないんです」と述懐する。

著者に「男とか夫婦生活とかには重きを置かないで、ただ結婚ということが彼女の目的であった」と書かれる従姉妹シャーロットは夫コリンズ氏には初めから期待せず、夫とは当たらず障らずにして自分の生活を楽しんでいる。

ベネット氏はベネット夫人の美貌に惚れて結婚したが、結婚してみると彼女の無教養と考えの浅さに気づき、まともに相手をするのを諦めてしまう。

さまざまな出来事があり、最後は5人姉妹のうち3人の娘の結婚ともう1組の夫婦が誕生してめでたしめでたしとなる。

この小説に漱石やモームが感心したのはテーマの普遍性によるものであろう。たとえばシャーロットの結婚観は現代にいたるまで女性の大半が持たざるを得なかったものであろうし、ベネット氏のような夫は至るところに存在する。筆者はダーシー氏のような高慢な考え方に100パーセント同調する者である。200年前に書かれたにもかかわらず、登場人物それぞれが確実に自分の身の周りに実在している。21才の女性がこれを書いたことに感心するしかない。

これでジェイン・オースティンの6冊をすべて読了した。最後に自分なりの順位をつけておく。順位の基準は心に響いた順番と単純に面白かった順番を総合して判断した。面白さだけなら「ノーサンガー・アビー」が一位であるが、心に響くものを加えると「マンスフィールド・パーク」が一位となる。

  1. マンスフィールド・パーク(Mansfield Park)
  2. ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey)
  3. エマ(Emma)
  4. 高慢と偏見(Pride and Prejudice)
  5. 説得(Persuasion)
  6. 分別と多感(Sense and Sensibility)

(2023.11.19)



--- 分別と多感 ---

by ジェイン・オースティン

分別と多感

本書はジェイン・オースティンの第2作目、彼女が20代前半に書いた3作のうちの一冊である。

主人公は19才の姉エリナーと17才の妹マリアンの二人である。題名の「分別」は姉エリナーを、「多感」は妹マリアンを象徴する言葉となっている。

本書はオースティンの他の著作に比べて物語の流れが停滞している。なかなか流れに乗っていけない。

ふたりの恋愛、結婚話がメインテーマになっているのだが、姉の相手は優柔不断で二人の女性に二股をかけてのらりくらり、妹の相手はプレイボーイで、飽きられて捨てられた妹が延々と彼に執着するという展開が続くのである。他の作品のようにキレの良い展開にはならない。

それでも最後にはめでたしめでたしとなるのがこの頃の小説の常道である。最後には心温まる結末が待っていることで、途中の停滞は帳消しになってしまう。

オースティンの小説に登場する人物たちに共通して言えることは類型的な人物はひとりもいない、ということである。にもかかわらず我々の身の回りにいそうな人たちなのである。

たとえば副主人公エドワードの弟のロバート。彼は軽薄でおしゃれな気取りやで母親のお気に入りである。彼がどんなことをしても最後には母親に許される。長男のエドワードは誠実で優しい性格だが要領が悪いため、なんとなく煙たがられ、母親の財産は弟に譲られてしまう。こういう人ってどこかにいないだろうか。

主人公のひとりマリアンを評して「何をするにも熱心で、真剣で、ときどきすごく饒舌になるし、いつも元気いっぱいだけど、ほんとに陽気なときってあんまりない」人と述べる。

ジェイン・オースティンの観察力は20代前半から人なみはずれて鋭敏だった。彼女の小説が平凡な家庭小説やロマンス小説として歴史に埋没することなく、200年生き延びてなお我々の目の前に人生の面白さを展開してくれている秘訣はそこにあるのだと思う。

(2023.11.13)



--- アメリカを読むミステリ100冊 ---

by 野崎六助

アメリカを読むミステリ100冊

著者が選んだミステリー100冊を論ずることによって、アメリカのミステリー小説史をたどる。

先駆けとなった作品としてジャック・フットレルの「十三号独房の問題」、コナン・ドイルの「恐怖の谷」シオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」を紹介する。

黄金期の作品としてはヴァン・ダイン、ダシール・ハメット、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーの数々の作品を並べ、さらにエド・マクベイン、カート・ヴォネガット、ロス・マクベインと続けていく。

新しい作家からはジェフリー・ディーヴァー、ローレンス・ブロック、デニス・ルヘインの名前を挙げている。

アメリカミステリー史を総括する評論となっている。

本書を読んで、過去に読んだことがあるがもう一度読んで見たい作品としてピート・ハミルの「マンハッタン・ブルース」、パトリシア・ハイスミスの「死者と踊るリプリー」、未読であり是非読んで見たい作品としてデニス・ルヘインの「シャッター・アイランド」、ローレンス・サンダースの「魔性の殺人」、ジョセフ・メンの「ナップスター狂騒曲」などが挙げられる。

(2023.11.10)



--- マンスフィールド・パーク ---

by ジェイン・オースティン

マンスフィールド・パーク

ジェイン・オースティンの全6作のなかで、文庫本で733ページの本書は765ページの「エマ」の次にページ数の多い著作となっている。

主人公のファニーは18才の女性である。6作中「ノーサンガー・アビー」の主人公キャサリンの次に若いが、幼いところのあるキャサリンよりずっと老けている。それはファニーの生い立ちに関係がある。

ファニーは家が貧しかったため、10才の時に金持ちの伯母の家に養女としてもらわられ、そこでもうひとりの伯母に差別的に育てられる。その屋敷は森を含む広い敷地の中にあったため、マンスフィールド・パークと呼ばれていた。彼女の味方はその家の次男ひとりであった。

18才のファニーは体が弱く、引っ込み思案で悲観的な性格だが他の兄弟たちにない道徳心と優しい心を持っている。

本書は彼女と家族や親戚、友人たちの約1年間の物語である。狭い範囲の人間関係のなかで、ファニーの心の揺れを追うことで読者も彼女と一緒に恐れ、悩み、喜ぶことになる。読了後筆者はまるで大河小説を読み終えたような達成感を感じた。

薄幸のヒロインが逆境の中で、悩みながらも自分の道徳心に忠実に生き、最後に幸せをつかむというメロドラマの王道のような話であるが、それだけでは今日まで世界文学として生き延びることはできない。

主人公も含めて本書にはひとりとして類型的な人物は登場しない。すべての人物が我々の身の回りに実際にいるひとびとのように複合的な性格を持っている。

たとえばファニーの実の母プライス夫人は、「いつも忙しく動きまわっているのだが、何をやってもうまくいかないし、何をやっても手遅れで、いつもそれを嘆いてばかりいるけれど、けっして自分のやり方を改めようとしな」い人物として描かれている。

さらに活発で明るい美人ミス・クロフォードのことを「本人は気がついていないが、道に迷った堕落した心の持ち主であり、ほんとうは闇の中にいるのに、自分では光の中にいると思い込んでいる」人物と書いている。ファニーは終始彼女のことを疑いの気持ちなくして見ることができない。

我々が日常感じたり思ったりすることを、このようにわかりやすい文章で表現することはとても難しい。ジェイン・オースティンはそれをいともたやすくやってしまう。漱石やモームを含む多くの文学者たちがオースティンに感嘆するのは、彼らがいつもそこに苦労していたからだろう。

「マンスフィールド・パーク」という題名は「ノーサンガー・アビー」がノーサンガー修道院ではなく、ノーサンガー屋敷の意味であるのと同様、マンスフィールド公園ではなく、マンスフィールド屋敷の意味である。英国ではアビー(修道院)やパーク(公園)やコート(法廷、宮廷)というのは場合により皆同様の意味となる。

(2023.11.9)



--- エマ ---

by ジェイン・オースティン

エマ(上) エマ(下)

主人公エマ・ウッドハウスをめぐって何組かの家族が登場する。登場人物のそれぞれが個性的で、一度登場するとその姿が眼に浮かんでくる。

エマは人の恋愛関係に興味があり、似合いと思われる男女を結びつけようとするが、いずれもエマの見込み違いに終わる。21才のエマは少女時代から甘やかされて育ったために、人の感情を正確に読み取れない。

物語が進むにつれて本当の人間関係が明らかになってくる。真実の姿が徐々に現れてくる様子はまるでアガサ・クリスティーのミステリーのようだ。もちろん血生臭い事件ではなく、愛情関係のミステリーなのだが。

人間観察の鋭い著者はところどころで鋭い意見を述べている。

「相手の女性がどんな人間か知るには、その女性が自分の家で、家族と普段通りの生活をしている姿を見るしかない」とか、「不幸な結婚をして、一生不自由なつらい生活を送る人は、決断力のない弱い人間だということです」とか「まだ23か。男がその歳で妻を選んだら、たいてい貧乏くじを引くものだ」のように。

人間関係に強い光を当てて描くことを追求したオースティンは最も倫理的な作家である。書かれてから200年経っても、古くさくならないどころか、まるで現在の我々の人間関係を描いているようである。

(2023.11.3)



--- 説得 ---

by ジェイン・オースティン

説得

主人公は8年前にある男性と婚約を解消した27才の女性である。8年後、彼は海軍で出世してアンの住むコミュニティに帰ってきた。アンの家族や友人関係との交流を通して、彼とのぎこちない関係が続く。そして・・・。

まるでアメリカのベストセラー作家 ダニエル・スティールのロマンス小説のようだ。しかし漱石が称賛し、モームが世界の十大小説に選んだほどの作家がただのロマンス小説を書くはずがない。

アンの周りの人物に対する考え方が示唆に富んでいる。たとえばある人物を評して「理性的で慎重で、とても洗練されているけれど、率直さがまったくない。他人の善悪に喜んだり怒ったりすることがまったくない。それが彼の致命的な欠陥だった」と思う。筆者も身近にこういう人物がいたら、敬遠するだろう。

その他「人間は自分の家を離れると、何者でもない存在になってしまう」とか、「夫婦というのは、反対しても無駄なときはすぐにわかるものである」とか「家庭の平和は、たとえ表面的な平和でも保ったほうがいい」など、ところどころ示唆に富む言葉があらわれ、本書が世界文学であることを証明してくれる。

(2023.10.30)



--- ノーサンガー・アビー ---

by ジェイン・オースティン

ノーサンガー・アビー

ジェイン・オースティンが20才代前半に書いた作品である。少女漫画かラブコメまたはライトノベルのような内容に驚いた。ノーサンガー修道院という題名からもっと重々しいものを予想していた。

「Northanger Abbey」というのは元修道院であった建物をを買い取り、個人の住居にしているもので、ノーサンガー邸またはノーサンガー屋敷という意味のようだ。

物語は中世のゴシック・ロマンス小説のパロディになっている。美女が古い修道院に囚われの身になっていて、騎士が救出するというあらすじが古いゴシック物語の筋だが、本書ではコメディ仕立てになっている。主人公がノーサンガー屋敷で過ごす恐怖の一夜のシーンはまるでスピルバーグの映画のようだ。

本書の主人公はどこにでもいそうな17才の女の子である。彼女も含めて3組の兄妹が登場し、恋の鞘当てをするという話はアメリカン・グラフィティを彷彿させる。

ライトノベルにしかならなさそうな題材だが、これは約200年前に書かれた世界文学の古典である。登場人物それぞれの性格の際立ち方が違う。一人として類型的な人物はいない。そしていずれも我々の身近にいそうな人たちである。

何事にもうわの空のアレン夫人、気難しくて功利的なティルニー将軍、男女関係のルーズなイザベラ、人間関係の裏面が理解できない主人公のキャサリン、・・・。彼らの行動を追いかけているうちにすっかり物語の中に取り込まれてしまった。舞台が保養地のバースからノーサンガー屋敷に移ったあたりからは目が離せなくなり、最後まで一気に読んでしまった。

読み終えて、こんなに面白くて世界文学なのだろうか、と思った。

(2023.10.27)



--- ジェイン・オースティン 「世界一平凡な大作家」の肖像 ---

by 大島一彦

クリヴィツキー症候群

夏目漱石はジェイン・オースティンを読んで「平淡なる写実中に潜伏し得る深さを知るべし」と評した。プリーストリーは「彼女ほど繰り返し読むに耐え得る作家は少ない」、と述べ、サマセット・モームは世界の十大小説の中に「戦争と平和」や「カラマーゾフの兄弟」とともにオースティンの「高慢と偏見」を選んでいる。

筆者は以前岩波文庫で「高慢と偏見」を読んだことがある。英国の田舎の上流階級の家庭でその家の次女の結婚問題が延々と語られる。特に事件も起こらないまま、最後になってすったもんだした結婚相手が決まる、という話だった。

少女漫画のようなあらすじで、通常なら途中下車するところをなんとなく止めることができず、ずるずると最後まで読み通してしまった。「平淡なる写実中に潜伏する深さ」を少しでも感じたのだろうか。

本書は41才で亡くなった英国の片田舎に住んだ平凡な女性作家の生涯と彼女が残した6つの作品を紹介したものである。

著者は「自負と偏見」の解説の中で、ジェイン・オースティンは「人間とその相互反応」のみに興味があり、それだけを書いた。さらに、「モーツァルトの音楽が古くないように古くないのである」と述べている。

「エマ」を評して「再読されて初めて一回の全編通読がなされたことになる」と述べ、その小説技法の巧みさに感嘆している。

オースティンは生涯に「ノーサンガー・アビー」「分別と多感」「自負と偏見」「マンスフィールド・パーク」「エマ」「説得」の6編の小説を残した。

「Pride and Prejudice」を古くは「高慢と偏見」と訳していたが、最近では「自負と偏見」と訳している。確かに「プライド」は「高慢」というより「誇り」とか「自負」の方が適切だろう。

(2023.10.24)



--- 長い別れ ---

by レイモンド・チャンドラー

長い別れ

暇な探偵のところに依頼人が現れる。依頼人の目的は失踪した親族を探してほしい、というのがハードボイルド小説の定番だ。探偵はわずかな手がかりをもとに失踪者を追い求める。生きているか死んでいるかはともかくとして、最後に失踪者は探し出され、大団円を迎える。

探偵が失踪者を追求する過程が丹念に描かれ、それがまるで人生模様の地獄めぐりのように読者の前に展開される。

こういうタイプの小説の元祖はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズだが、それに文学的な深みを持たせたのがダシェル・ハメットである。本書の著者レイモンド・チャンドラーはハメットが創造したハードボイルド小説に人生の苦味と甘みを付け加えて、より人間味を深めた。

本書もその構造に従い、失踪者の依頼人が現れる。ただその前に探偵はテリー・レノックスという人物に出会う。出会ってしばらくしてからテリー・レノックスは失踪する。

依頼された失踪者を追いながら、通奏低音のようにテリー・レノックスの存在が見え隠れする。複合的な構造になっている。

探偵は複雑に絡み合った地獄めぐりの末、ある真相にたどり着く。それは戦争に引き裂かれた男と女の物語だった。

ハードボイルド系のミステリーの外見で進行してきた物語は最後に近づくにつれて人生の深淵をのぞきんでいく。

「ギムレットにはまだ早すぎるよね」というセリフと共に頂点に達した物語は、脱力感とため息と共に終焉を迎える。

本書は長年の間(50年以上)清水俊二訳が定番となっていた。2007年、村上春樹が50年ぶりに新訳を発表した。清水訳が硬質なハードボイルドを目指していたのに対して、村上訳はチャンドラーの意図を汲んで人間味のある文体になっていた。村上訳で弾みがついたのか、2022年に田口俊樹が、2023年に市川亮平が翻訳している。

早川書房版の村上春樹訳は会話が丁寧すぎるようだ。創元推理文庫版の田口俊樹訳はハードボイルド寄りにくだけていて、より現実味のある会話になっている。

(2023.10.20)



--- サリンジャーに、マティーニを教わった ---

by 金原瑞人

サリンジャーに、マティーニを教わった

あとがきで「いったい、なんで自分は翻訳家なんかやっているんだろう」という著者のエッセイ集である。

翻訳家である著者は、自分やほかの人が翻訳した本、これから翻訳したい本、映画や舞台、その他さまざまなことを書いている。著者の興味は広い。筆者は狭い分野の話題にしか付いていけなかった。歌舞伎や文楽、長唄やシェイクスピアの舞台劇となると手も足も出ない。

「速記が生み出したもの」という章では三遊亭圓朝を取り上げている。圓朝の作品「塩原多助一代記」「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「英国孝子ジョージスミス之伝」「松の操美人の生埋」「文七元結」などが今日文学作品として認められているのは、当時の速記者が圓朝の語りを文字で残したからである。語ったままではその場で空中に四散してしまうところを、紙の上に固定することができたのは、速記という武器があったからである。

話し言葉を本の形にしたことが、それまで文語体で書かれていた小説を口語体、言文一致体にすることに貢献したという。夏目漱石の作品が今読んでも違和感がないのは、言文一致体で書かれているからである。漱石は三代目小さんのファンであった。

「中島敦とスティーヴンソン」や「ハーパー・リーとカポーティ」では作家同士の運命的な関係を、「道具が、作品を規定する」ではビリー・ホリディとレスター・ヤングについて独自の意見を述べている。

(2023.10.11)



--- 日本倫理思想史 ---

by 和辻哲郎

    【一】

日本倫理思想史(一)

 ◇ 緒論  ◇

著者は倫理とは個人にして同時に社会であるところの人間の存在の理法である、といい、社会を形成する以前の孤立的個人は存在しない、と述べている。

個人と社会を並立して考察する考え方はカントやハイデガーなどの西洋の哲学者にはない方法である。ここに日本人・和辻哲郎の独自性がある。

 ◇ [第一篇]神話伝説に現れたる倫理思想  ◇

日本で人間の社会活動が生まれたのは、紀元2世紀、卑弥呼の時代からである。それより前、紀元前2世紀ころ、大陸から衝撃的な文化が伝わった。稲作である。農耕文化と共に人間の社会が発生し、国家が作られた。はじめの統治者が卑弥呼である。

ここで著者は魏志倭人伝から邪馬台国の位置と卑弥呼の正体について読み解こうとする。この箇所は推理小説を読むようにワクワクする。

神話は空想からではなく、古い記憶から生まれる。魏志倭人伝や古事記、日本書紀を読み解くことによって昔どういうことがあったのかを推測することができる、と著者は述べる。

 ◇ [第二篇]律令国家時代における倫理思想  ◇

650年(7世紀)に行われた大化の改新によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わった。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになった。

著者は大化の改新後、主に奈良時代の日本の政治について語っている。政治が天皇中心に行われるようになってから、日本独自の倫理思想というものが発展した。実像はともかく、制度的には支配者の利益のための政治ではなく、民衆の生活を重んじた政治に変化してきた。

平安時代になると、天皇は左大臣・藤原道長によって棚上げされ、道長の世の中になる。当時の様子は「伊勢物語」や「枕草子」、「源氏物語」などの文芸作品に描かれている。

(2024. 1.23)


    【二】

日本倫理思想史(二)

 ◇ [第三篇]初期武家時代における倫理思想  ◇

初期武家時代とは、平安、鎌倉時代を指す。この時代は公家時代から武家時代への転換期にあたる。

貞永式目、御成敗式目等の様々な式目(憲法、規範)が制定され、それらはいずれも主従関係が重要な規範になっている。

仏教では浄土宗の法然、、浄土真宗の親鸞らが武士階級に支持された。民衆階級には新しい宗派を起こした日蓮が支持され始めた。

著者は神道、仏教、そして儒教から「正直」「慈悲」「正義」の思想が民衆の間に芽生え始めた、と考察する。

 ◇ [第四篇]中期武家時代における倫理思想  ◇

鎌倉時代が主従関係によって成立していたのに対して、室町時代になると、領主同士の実力の時代に変化する。いわゆる下剋上の時代である。

それは応仁の乱を経て一気に加速し、民衆による自治組織にまで発展する。中でも蓮如が組織した一向宗一揆の力は強力で、総本山石山本願寺は織田信長によっても征服されることはなかった。

安土桃山時代になり、民衆の中から現れた豊臣秀吉は民衆の力を弾圧するのに成功した。徳川家康はそれを完成の域にまで導いた。

倫理という面から見ると室町時代までは生存欲が中心になっていたように思う。よりよく生きるというより、生き延びる方が重要な時代だった。人間の生きる規範となる倫理をより深く考えることは江戸時代の平和な300年間に成熟した。このことはその時代に民衆が完全に弾圧されていたことと矛盾しているように思える。

著者は民衆の倫理思想を模索する上で、室町時代に発生した能の謡曲に注目する。謡曲でうたわれた「平家物語」や「義経記」を読み解くことによって、そこに現れた倫理思想を分析する。著者は天皇尊崇、主従関係、正直、慈悲、正義の思想が、この時代、民衆の間に芽生え始めたと考察する。

本書は「神話伝説に現れたる倫理思想」に始まり、「明治時代の倫理思想」で終わっている。昭和35年まで生きた和辻哲郎はなぜ大正時代、昭和時代という注目すべき時代を考察しなかったのか。和辻が重要視する「天皇尊崇」の考えが、戦後のGHQや日本政府に忌避されたためではないだろうか。古来から日本人が持つ「天皇尊崇」を利用して太平洋戦争に持ち込んだのは日本の軍部であることははっきりしている。そのことと日本人の精神のあり方を論ずるのとは訳が違う。

明治時代までしかないにせよ、この書が日本人の過去から現在までの精神の変遷をたどるのに重要な役割を果たしていることに変わりはない。

(2024. 2.1)


    【三】

日本倫理思想史(三)

 ◇ [第五篇]後期武家時代における倫理思想  ◇

第一巻と二巻は手に入りにくかったため、たまたま手に入れることができた第三巻と第四巻を先に読むことにする。

第三巻は後期武家時代という親しみやすい時代からスタートする。信長、秀吉、家康の時代だ。

第一章では信長、秀吉、家康の特徴を述べる。大まかにいうと世人がホトトギスにたとえたようなことだが、著者がいうと説得力が一段と増す。

第二章は武田信玄の家臣・小幡景憲が監修したと伝えられる、武士の心構えについて記した「甲陽軍鑑」という書物について述べている。

「甲陽軍鑑」では政治や武士の生き方の理想として、「正直」「慈悲」「知恵」の三要素を挙げる。

「良き大将」「悪き大将」「臆病な大将」「利根(利口)過ぎる大将」「国を滅ぼす大将」について、さまざまな具体例を挙げて説明している。「大将」を「上司」に言い換えると現代でも十分通用する論説である。

また、卑しい敵は、敵としても避ける方が良い。とか、自分が己を臆病者と感じる行動を取らない。や、多数決は必ずしも正しい判定とはいえない。などの説は現代人が忘れたか捨て去った行動であるが、今後復活させなければいけないことだと思う。

第三章は仏教、キリスト教、儒教の三つ巴の関係を述べている。信長は仏教を排斥し、キリスト教を保護した。ただし宗教として信じたのではなく、それに付随している西洋文化が目的であったようだ。秀吉は初めはキリスト教を保護していたが、天下を取ると排斥に変わった。これも宗教としてではなく、西洋がキリスト教を日本を支配する道具に使おうとしていると考えたからだ。家康もまたキリスト教を排斥した。家康は儒教をもって日本の支配を安定化しようとした。そのために徳川幕府は300年続いた。さらに儒教思想は神道と結びついて第二次大戦まで日本人の精神的支柱となった。

儒教と日本の支配体制を結びつけようとした家康の策は成功した。家康の政策を思想的に支えたのは林羅山という学者であった。

第四章。江戸時代の儒学者、中江藤樹、山崎闇斎、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤東涯の思想を述べる。この時代の儒学者たちはいずれも儒学のなかに神道の思想を取り込みながら論じている。

第五章。赤穂浪士の敵討を武士と町人、それぞれの立場からの見方を述べ、その違いを論ずる。


    【四】

日本倫理思想史(四)

第六章。江戸時代の国学者、水戸光圀、新井白石、荻生徂徠、契沖と荷田春満、賀茂真淵、本居宣長他の思想を述べる。武家時代後期になると、武家に対する批判からその立場を支えた儒教から古事記、日本書紀などの日本古来の思想が学者の間で主流になってくる。それら日本の古典に神道を結びつけ、尊王思想が持ち上がってくる。徳川幕府は当然その思想をとなえる学者たちを弾圧する。

何事もそうであるが、今まで信じられてきたものを変革する時は、そのことばは必要以上に激しい調子となる。なかでも本居宣長は急進的な尊王思想を持っていた。その思想を実際に言葉にして幕府と対決したのは竹内式部、山県大弐らの学者たちであった。

第七章。町人の道徳と文化について述べられている。江戸時代後期は武士が衰退し、町人が栄えた。家康が天下を統一した時から武士は無用のものとなった。人々は自分の生活の充実を図ることができるようになった。金のあるものは衣食住に贅沢ができるようになった。さらに娯楽が生じ、町人独特の文化が生ずるのは時の流れであった。

第八章。江戸時代末期の国学者たち、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖、頼山陽、平田篤胤、吉田松陰らについて考察する。世界は植民地時代となり、イギリス、スペイン、ロシアなどの船が来航するようになる。目的は日本を属国化し搾取するためである。西洋の文化は欲しいが植民地にされるのはごめんだ。300年の平和に慣らされた武士は頼りない存在になっている。国学者たちは頼りにならない幕府ではなく、天皇のもとに統一した日本民族としての立場から尊皇攘夷を主張し始める。

 ◇ [第六篇]明治時代の倫理思想  ◇

第一章。明治維新後、20〜30年で士農工商の身分が消滅した。これは江戸時代末期において武士の実質的な力が弱まり、町人の力が強くなつつあったからである。

幕末から明治初期にかけて活躍した福沢諭吉は政治運動に一切関わることなく、ひたすら西洋の文明を吸収することに努めた。明治維新後20年間で世界の文明に追いついたのは、福沢諭吉のように政治に関わらず、文明の進歩に興味を持つ人々がいたからである。

第ニ章。明治20年代から30年代にかけて、以下のような文化人たちが活躍し始めている。夏目漱石、岡倉天心、森鴎外、内村鑑三、新渡戸稲造、波多野精一、新村出、西田幾多郎。そして明治22年には本書の著者・和辻哲郎が誕生している。

著者は、このころ政府がむやみに社会主義者たちに弾圧を加えることがなかったならば、日本にももっと秩序を重んじる社会党あるいは労働党が育っていただろうと述べている。

王政復古運動からわずか数十年で世界の文明に追いついた日本は、その分さまざまな矛盾を抱え込みながら成長していかざるを得なくなった。

著者は、その他教育勅語の問題や、個人主義と社会主義の関係性など、独自の興味深い意見を述べている。

   ー   ー   ー   ー   ー

歴史の本というと政治史がほとんどで、この本のような思想史は他にないのではないか。その時代における民衆の考え方は土着的、因習的なものから学者主導のものまでさまざまである。我々にしても、生きてきた時代の波に乗って物事を考えてきた。団塊の世代にとってレジャーに欠かせないものは車、スキー、旅行だった。現代の若者たちにとってそれはなんだろう。多分違うと思う。時代の考え方は世代が変われば変わっていく。団塊の世代が若い頃は政治の時代だった。いつのまにかレジャーの時代になり、シラケの時代になり、そして今はなんの時代なんだろう。

著者は古代から明治時代までの、思想から見た日本人の歴史をまとめ上げた。本書は日本人を総合的に分析した労作である。

(2023. 10.10)




--- 一刀斎の古本市 ---

by 森 毅

一刀斎の古本市 一刀斎の古本市

数学者・森 毅による書評である。

数学者だけあって一般的な本は少ない。ヴォネガットの「母なる夜」やプルーストの「失われた時を求めて」、バラードの「太陽の帝国」などがあるが、いずれも筆者の対象からは外れている。

むしろ中井久夫の「分裂病と人類」や本田和子の「異文化としての子供」、花田清輝の「復興期の精神」などは自分からは手に取りにくいが、中身は興味深かった。

松本キミ子の「教室のさびしい貴族たち」は人間の交感を主題にした本であるらしい。登場する子供たちは「問題児」として傷つけられやすい存在である。傷つけられやすいさが彼らを貴族たらしめている、と著者はいう。

どこかの古本屋で見つけたら手に取ってみたい本である。

(2023.9.26)



--- リリー・マルレーンを聴いたことがありますか ---

by 鈴木 明

リリー・マルレーンを聴いたことがありますか

1978年に出版された本で、当時ラジオの深夜放送を通して評判になった。当時読んだ記憶があるが内容は忘れてしまった。マレーネ・ディートリッヒが歌う「リリー・マルレーン」は耳についていていつでも思い出せる。

本書は先日行った「つちうら古書倶楽部」で見つけた。100円だったので即購入した。

「リリー・マルレーン」は第二次大戦中、ヨーロッパ戦線で流行った歌で、元々はドイツの曲でありながら、ドイツ軍ばかりでなく連合軍の兵士たちにも流行った。

初めはドイツ人の歌手・ララ・アンデルセンが歌っていたポピュラー・ミュージックであったが、ユーゴスラビヤのベオグラード放送局が21時57分に流し始めると戦場の兵士たちに自然に広まっていった。

戦時中ドイツからアメリカに亡命した女優・マレーネ・ディートリッヒがアメリカ軍の慰問団として戦場におもむき、兵士たちの前で英語で歌い始めた。彼女はどこの戦地でも兵士たちに熱狂的に迎えられたという。

本書は1970年の大阪万博でマレーネ・ディートリッヒ・ショーを見にいった著者が彼女が最後に歌った歌に心をとらえられ、その歌「リリー・マルレーン」を追求していく過程を追った物語である。

初めは興味本位で調べていたが、徐々に興味は深まっていき、ヨーロッパへ行ってしまう。レンタカーを借りて、ドイツを皮切りにイギリス、フランス、イタリアへ行き、最後はユーゴスラビヤのベオグラード放送局まで数千キロの旅をすることになる。

いろいろな人から話を聞いたり、レコードを買ったりしているうちに、曲は共通だが歌詞はそれぞれの国によって、また歌っている歌手によって違うことがわかってくる。

ユーチューブでいろいろな歌手が歌っているのを聴くことができる。一番初めに歌ったララ・アンデルセンは何の屈託もなく明るく歌っている。著者が聴いて感動したマレーネ・ディートリッヒは陰影のある歌い方をしている。イギリス人のヴェラ・リンは兵士たちをはげますように力強く歌っている。

レンタカーでヨーロッパ中を走り回り、少しでも関係のありそうな人に会って話を聞いていく著者の行動力には感心した。

戦時中ではないが日本人の歌手もこの歌を歌っている。最初に歌ったのは梓みちよでその後、倍賞千恵子、加藤登紀子と実力派の歌手たちが歌っている。なかでも夏木マリがドイツ語で歌っている「リリー・マルレーン」はすばらしい。

(2023.9.22)



--- わがスタンダール ---

by 大岡昇平

わがスタンダール

大岡昇平は「俘虜記」「武蔵野夫人」「野火」などを書いた小説家であるとともに、フランス文学(主にスタンダール)の翻訳家でもある。スタンダールの著作では「赤と黒」(講談社文庫)、「パルムの僧院」(新潮文庫)、「恋愛論」(新潮文庫)を翻訳している。

大岡はアテネ・フランセの夜学でフランス語を学び、小林秀雄からフランス語の個人教授を受けた。のちに京都大学でフランス文学を専攻し、スタンダールに傾倒していった。

また、「事件」で日本推理作家協会賞を受賞したり、イーデン・フィルポッツの「赤毛のレッドメーン」や E・S・ガードナーのペリー・メイスン・シリーズの「すねた娘」を翻訳するなど、多彩な面を持つ作家である。

本書はスタンダリアン・大岡昇平が折に触れて発表したスタンダールについての評論を集めたものである。

一般的なフランス文学者の名前、ヴィクトル・ユーゴーとかエミール・ゾラとかジュール・ヴェルヌとか、に対してスタンダールというのは奇妙な名前だが、これはペンネームでドイツの小都市シュテンダルからとったものである。本名はマリ=アンリ・ベールという。彼の場合は世界中で、ファースト・ネームだかラスト・ネームだかわからないスタンダールの一語で通用している。これはジュリアン・ソレルという強烈な個性を持つ男性を主人公にした「赤と黒」という小説を書いたからなのだが。この小説はサマセット・モームが書いた「世界の十大小説」でトルストイの「戦争と平和」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」とともに選ばれている。

「バルザック『スタンダール論』解説」と「バルムの僧院について」の章で著者はさまざまな他説、自説を述べながら「パルムの僧院」を鑑賞している。

その中で「赤と黒」と「パルムの僧院」のどちらが好きか? という問題を提示する。サマセット・モームは彼の著書の中で「赤と黒」を推奨した。アンドレ・ジードは「フランス十大小説」で「パルムの僧院」を推奨しているという。そのあとはあいまいにして著者自身の好みは述べていない。解説の菅野昭正は大岡昇平は生涯「パルムの僧院」に魅せられていたと書いている。

パルムの僧院は1838年11月4日から12月26日までの53日間で書かれた。その大部分が口述で筆記され、校正されぬまま印刷にまわされた。その書きなぐったような作品の一部を完璧主義者のトルストイが「戦争と平和」のある場面で参考にしたというのは定説になっている。大岡氏は両者を読み比べて、なぐり書きの「パルムの僧院」の戦場シーン方が生々しくて迫真的である、と述べている。解説の埴谷雄高もまた「パルムの僧院」と「戦争と平和」の戦争のシーンについて述べている。

著者は作家のスタンダール評を紹介する。谷崎潤一郎は「スタンダールという人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で・・・」。イギリスの批評家モーリス・ヒュレットは「彼は記録する。描写しない」とスタンダールを評している。筆者も同感である。こんなあらすじを要約しているような文章で世界文学なのか、と「赤と黒」や「パルムの僧院」を読み返すたびに思った。谷崎がそう思っているのなら間違いない。谷崎はその後に「それがかえって緊張みを帯び、異常な成功を収めている」と書いている。筆者は何だかそっけない文章だな、と思っただけなのでそこが大谷崎と違うところだ。

(2023.9.18)



--- 人間の学としての倫理学 ---

by 和辻哲郎

人間の学としての倫理学

本書は和辻哲郎の代表作「倫理学」の2年前に出版された。倫理学とは何か、ということを確認するようにひとつずつの言葉を吟味している。

「倫理」「人間」「世間」「世の中」「間柄」「存在」という、和辻哲学ではおなじみになった言葉をていねいに説明している。

たとえば「世間」あるいは「世の中」といわれるものの本質は、不断の自己否定とそれをさらに否定しうる可能性をさぐるもの、または「愛別離苦(あいべつりく)」(別離を欲せざる愛において別離が現れる)、「」(会うを欲せざる怨憎において会わざるを得なくなる)ということである、と・・・。

次に「アリストテレス」「カント」「コーヘン」「ヘーゲル」「フォイエルバッハ」「マルクス」といった過去の哲学者たちの倫理学に関する考え方を紹介する。過去の哲学者たちが展開した哲学とは、結局のところ人間についての考察に尽きる、ということがわかる。

著者はハイデッガーについても触れている。ハイデッガーの主著「存在と時間」は人の存在(dasein)について述べたもので、人間について述べたものではない、と指摘している。和辻哲郎は「人間」「世間」「世の中」「間柄」という関係から目をそらせることができない哲学者である。彼の理論はいずれ世界で認められるだろう。

(2023.9.14)



--- 日本精神史研究 ---

by 和辻哲郎

日本精神史研究

ヘーゲルやニーチェ、ハイデガーら近代の西洋の哲学者たちはプラトンとアリストテレス、それとキリスト教を基礎にして物事を考えた。日本の哲学研究者たちもギリシャ哲学から逃れられなかった。ひとり和辻哲郎を除いて。

和辻哲郎はギリシャ語やドイツ語からの翻訳ではなく、日本語による哲学を打ち立てることを目指した。彼は飛鳥・天平時代が日本人が物事を哲学的に考え始めた時代であると考え、そこから自分の哲学を組み立てようとした。

東大哲学科でニーチェなど西洋哲学を研究していた和辻は29才の時に仲間たちと奈良付近の古寺を見物した。翌年その時の印象をまとめ、「古寺巡礼」と題して出版した。「古寺巡礼」はベストセラーになった。この時から日本古来の文化に興味を持ち始めた和辻は「日本古代文化」、「日本精神史研究」(本書)、「原始仏教の実践哲学」、「人間の学としての倫理学」、「風土 人間学的考察」、「鎖国 日本の悲劇」、「倫理学」などの執筆により日本の風土に根差した哲学の研究を深めていった。

「飛鳥寧楽時代の政治的理想」「推古時代における仏教受容の仕方について」「仏像の相好についての一考察」「推古天皇美術の様式」「白鳳天平の彫刻と『万葉』の短歌」までは飛鳥天平時代の仏像とその成り立ちについて考察する。

飛鳥時代、中国から渡来した新しい文化としての仏教は日本人に受け入れられたのか。信仰の対象としての仏像はその本来の目的を果たしていたのか。和辻は数少ない資料と豊かな想像力を使って当時の日本の原住民の思考を推測する。

「万葉集の歌と古今集の歌との相違について」「お伽噺としての竹取物語」「枕草紙について」「源氏物語について」「もののあはれについて」で著者は初めて日本に現れた日本独自の文学について考察する。

「竹取物語」の斬新さ、「枕草紙」の作者のクールに独自性、「源氏物語」のチグハグな描写を論じ、日本の文化創世記に現れた強烈な個性と独自性について論ずる。

本書で最も長い論文「沙門道元」で著者は、弟子の懐奘が記録した道元の言行録「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」によって道元の行動をたどりながら、道元の著書「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を哲学的に解析する。「随聞記」の方はなんとかついて行くことができるが、「正法眼蔵」の方はそう簡単に理解できるようなものではない。仏教の教えと道元の哲学が渾然(こんぜん)一体となっていて解説書を脇に置いて一字一句読まないと無理だ。ただ一箇所「女人の済度を拒むのは、人類の半ばを捨てるのである」という道元の言葉には目を見張った。真実を語るのに時代は関係ないな、と思った。また真実をごまかして生きる者の存在も時代とは無関係だ、ということも。

「歌舞伎劇についての一考察」という章では、歌舞伎の様式的な美しさは認めるものの、その戯曲の不合理さ、理不尽さについては認められないという意見を述べている。昔から伝わる伝統的なものは必ずしもすべて良いとは限らない、という合理的な意見である。

(2023.9.10)



--- 霧の橋 ---

by 乙川優三郎

霧の橋

本書は著者の2作目の作品であり、本作によって第7回時代小説大賞を受賞した。

主人公は紅屋の婿であり、その過去は武士であった。紅屋というのは口紅屋のことで、ベニバナを加工して口紅を作り、売る商売のことである。

主人公は父親を殺され、その敵討のために6年間放浪したのち、目的を達成した。ある事情により、武家に戻ることができなくり、紅屋に拾われて町人になった。

紅屋の娘、おいとと一緒になった彼は町人として世の中を渡って行く。武家には武家の、町人には町人の苦労があり、さまざまな困難を乗り越えて成長して行く。

ラストは武家の世界からやってきた過去の因縁と戦うことになる。早朝の霧の中、吾妻橋で待つ過去からの狙撃者の姿は・・・。

(2023.9.7)



--- ナインストーリーズ ---

by 乙川優三郎

ナインストーリーズ

「1/10ほどの真実」「闘いは始まっている」「蟹工船なんて知らない」「パシフィック・リゾート」「くちづけを誘うメロディ」「安全地帯」「六杯目のワイン」「あなたの香りのするわたし」「海のホテル」の9篇が収められている。

「1/10ほどの真実」。キャリアウーマンの妻はパリで宝石のデザイナーとして働いている。夫の自分は日本で本の装丁の仕事をしている。妻は忙しいため、自分がパリへ会いに行かなければならない。妻は今の生活に満足しているようであるが、自分は物足りない物を感じている。

「闘いは始まっている」。広告代理業の自分は韓国のホテルのGMを探している。日本のホテルで働いているハーフの女性を紹介し、彼女はGMとして韓国へ行くことになった。彼女が連れて行くスタッフとして行きつけのバーのバーテンをしている女性を紹介したらOKとなった。意気上がる二人の女性を見ながら、変わらない自分をかえりみる。

「蟹工船なんて知らない」。姉の夫の葬儀の日、久之は詐欺師同然の生活をしていた生前の義兄を思い出す。

「パシフィック・リゾート」。勝浦あたりに豪邸を構える未亡人とその友人の主婦の話。お金は有り余るほどあるが満ち足りない65才の未亡人の独りよがりな会話に付き合うごく普通の主婦は30年間付き合ってきたが、そろそろやめようかなと考えている。

「くちづけを誘うメロディ」。定年退職して暇を持て余す男は高校時代の友人から街の片隅のスナックバーに誘われた。そこの経営者はやはり高校の同級生だった女性だった。

「安全地帯」。地方公務員を定年退職した夫婦はお金には困らない暮らしをしている。大学を出た息子は引きこもりになっている。夫はそれでもいいか、と思っている。

「六杯目のワイン」。定年が近づいた出版社勤めの男はお見合いサークルで出会った女性と付き合い始めた。親しくなり始めると、女性はその気になってきたが、自分はだんだん億劫になってきたのを感じている。

「あなたの香りのするわたし」。娘が看護師として一人前になり、自由な立場になった女性は、男と再婚して海外の駐在先へついて行くことを考えている。

「海のホテル」。海外出張の多い夫と一人で家を守る妻。妻は離婚届を用意して夫と海辺のホテルへ行く。

いずれの話も子育てから解放された女性が今後の人生をどのように生きて行くのか考える話である。若さと恋愛と子育ては人生の祭りの時期である。過ぎてみると祭りは意外とあっ気なく通り過ぎて行く。さてその後の人生は・・・。前半とは違い、後半の人生はひとつとして決まったものはない。おもしろくもつまらなくも、ひとりひとりが創造していかなければならない。

(2023.9.6)



--- モンマルトル日記 ---

by 辻 邦生

モンマルトル日記

辻邦生はパリに2度長期滞在した。1度目は32才から36才までの5年間、2度目が43才から44才までの1年間である。このモンマルトル日記は1968年10月から1969年8月にかけて、2度目にパリに滞在した時の日記である。

解説によると辻の文学はこの2度のパリ滞在によって生まれ、そして深まった。1961年、1度目のフランスからの帰国の途中で書きはじめた「廻廊にて」で近代文学賞を受賞した。1973年に毎日芸術賞を受けた「安土往還記」「背教者ユリアヌス」などの作品はいずれもパリ滞在中の思索から生まれている。

モンマルトルの街角

本書は日記とはいっても日々見たり聞いたりしたことよりも、日々の思索が主に書かれている。繰り返し繰り返し、小説とはこうであらねばならないと、自分に言い聞かせるように日記を書いている。

「小説とは論文を書くのとは違い、憑依状態となってある「感じ」をうわ言のように書くのである」とか「無感覚な日常から外に出て、つねに詩的な情感の中に生きる」とか、小説を書く上での心構えを繰り返し書いている。彼にとってはパリの一角に住むことが思索を進めるうえで必要なことだったのだろう。

「生のよろこび」のために生を「太陽」や「空」や「風」や「木」や「雨」や「夜」などの単一要素に還元すること、の重要性をうたう。リルケが「マルテの手記」の中で、マルテをパリの雑踏の中に彷徨わせたように、辻邦生は自身をパリの雑踏に放り込んでこの日記を書かせたのだ。

(2023.9.5)



--- 武家用心集 ---

by 乙川優三郎

武家用心集

「田蔵田半右衛門」「しずれの首」「九月の瓜」「邯鄲(かんたん)」「うつせみ」「向椿山」「磯波」「梅雨のなごり」の8篇が収められている。

「田蔵田半右衛門」。半右衛門は義理の兄から刺客を頼まれる。殺す相手は家老の大須賀十郎。理由は大須賀が汚職をしているからという。半右衛門が調べてみると、大須賀の方が正しい。義理と正義の板挟みになった半右衛門の取った行動は・・・。(泣)

「しずれの首」。実家で兄と兄嫁から邪魔にされている半身不随の母親を引き取ろうとするが、夫の周助はいい顔をしない。それでも1年間だけという約束で引き取る。1年経ち、雪の日、母親を荷車に乗せて実家に返しに行く。道の途中で後ろから誰かが走ってくる・・・。(泣)

「九月の瓜」。奉行の太左衛門はそろそろ定年を迎えようとしている。若い頃同期の捨蔵を裏切ったことがきっかけとなって上司に気に入られ、出世の階段を登った太左衛門は、落ちぶれたまま隠居になった捨蔵に詫びを入れたいと考えている。思い切って捨蔵を訪ねた太左衛門は・・・。

邯鄲(かんたん)」。家老の陰謀で刺客の刺客となった輔四郎は谷川次郎太夫と決闘におもむく。谷川は忍者の頭領で手強い。谷川を仕留めた後、次は自分が狙われる番だと気づく・・・。

「うつせみ」。孤独に生きた祖母津南の歩いた道を自分も歩こうとしている女・・・。女の一生。

「向椿山」。江戸へ医師としての修行に行く庄次郎と5年後にならないと会えない運命の美沙生の悲恋・・・。メロドラマ。

「磯波」。妹に恋人を奪われた姉は一生独身で生きようと覚悟する・・・。メロドラマ。

「梅雨のなごり」。お家騒動に巻き込まれた一家は主婦の兄に救われる・・・。

いずれの話も武家をサラリーマンと考えれば身につまされる話である。昔の話と思ったことが、今でもよくある話に思えてくる。

(2023.9.4)



--- もっと太宰治 太宰治がわかる本 ---

by 太宰治倶楽部・編

もっと太宰治 太宰治がわかる本

「生まれてすみません」は盗作?。太宰は実は「陽気で快活」。酔った時の癖は?。等々、太宰治についてのあれこれを集めた本である。

「走れメロス」のメロスは太宰治であった。メロスが帰ってくることを最後の最後まで信じて疑わなかった親友のセリヌンティウスは檀一雄であった。酒場で檀一雄と飲んでいた太宰は途中で金が足りなくなり、壇を人質に置いて金を取りに帰った。太宰は壇を置いてきたことを忘れてしまい、井伏鱒二の家で将棋を打っていた。結末を変えて小説にしたのが「走れメロス」だった。筆者が中学時代、まるごと国語の教科書に出ていて、読み終えて涙が止まらなくなったことがあった。

太宰は高校時代、英作文を書いてイギリス人の教師に激賞された。日本語で名文を書ける者は、英語で書いても名文になるらしい。

太宰治に関するあれこれは読んでいて飽きない。漱石の「こころ」を抜いて、新潮文庫の発行部数が圧倒的な一位をキープしているのが自分の書いた「人間失格」だと知ったら、地下の太宰は卑屈なまでに芥川賞に執着したことをなんと思うだろう。

(2023.9.3)



--- 太陽は気を失う ---

by 乙川優三郎

太陽は気を失う

「太陽は気を失う」「海にたどりつけない川」「がらくたを整理して」「坂道はおしまい」「考えるのもつらいことだけど」「日曜日に戻るから」「悲しみがたくさん」「髪の中の宝石」「誰にも分からない理由で」「まだ夜は長い」「ろくに味わいもしないで」「さいげつ」「単なる人生の素人」「夕暮れから」の14篇の短篇が収められている。

小説全体のタイトル「太陽は気を失う」は東日本大震災で家が崩壊した家族の物語。実家は被害にあったが、都会に住む50代の主婦も別の意味でダメージを受けていた。被害に遭った人々はひとりひとりがそれぞれの生活を持っていて、この小説のようなパターンもあるのだろう、と考えさせられた。

「海にたどりつけない川」と「日曜日に戻るから」は定年退職後、安楽な老後が待っているはずだったが、人生はなかなかうまくいくものではない。生活が急に良くなったり悪くなったりするものではなく、それまでの生活の延長として続いていく。というほろ苦い話である。

「がらくたを整理して」と「坂道はおしまい」は頼りない夫との生活を清算して、あるいは死に分かれて、自分を慕ってくれる昔馴染みの男との生活に期待を持つ中年の女性の話だが、小説では何も暗示されてはいないが、果たしてそううまくいくものかどうか。という予感がする。

「ろくに味わいもしないで」は高校を卒業して長野県から東京に出てきた二人の女が30年後共同でジャズクラブを始める。一人が経営者として、一人が専属歌手として。

いずれも中年を過ぎ、老年にさしかかった男女の過去と現在と、そしてこれからの生活を語る。最後の「夕暮れから」は、航空会社に勤めていた女が料亭の女将になり、一から仕事を覚えていく。30年後の現在、斜陽となった花柳界で孤軍奮闘せざるをえなくなるが・・・。若い頃、高度経済成長の時代を生きてきた戦士たちが老年になり、安定化というより衰退化といえる時代のなかで、過去を思いながらも現在をどのように生きていったら良いのかを模索する。

1971年に千葉県立国府台高等学校を卒業し、ホテル・観光業の専門学校卒業後、国内外のホテルに勤務。会社経営や機械翻訳の下請を経て作家になった著者が、生きてきた時代に出会ったひとびと、および自分の経験がにじみ出た小説である。

(2023.9.2)



--- 文章読本 ---

by 向井 敏

文章読本

歯に(きぬ)着せぬ書評家・向井敏の文章読本である。

「序に代えて」と題した章で林達夫による三木清への追悼文を載せ、名文の代表とした。林氏は毀誉褒貶(きよほうへん)の多かった生前の三木清について厳しい意見を述べ、最後の一文で「寛容な温かさ」という言葉で三木氏に対する自身の思いを伝えた。

「乾いた文章 湿った文章」では乾いた文章の代表として北条秀司の「古都好日」を、湿った文章の代表として朝日新聞の天声人語をあげる。暗い題材を乾いた文章にユーモアを含ませた名文で綴る前者に対して、思わせぶりで論旨の曖昧(あいまい)な後者を配し、鮮やかに対比させる。

「明晰と曖昧」では明晰な文章の代表として倉橋由美子の「大人のための残酷童話」の「あとがき」をあげ、曖昧な文章の代表として野間宏と大江健三郎の文章をあげる。確かに前者の文章が分かりやすいのに対して、後者は何が言いたいのかわからない。

「文体とは何か」ではアイザック・ディネーセンの「Out of Africa」の翻訳本をとりあげ、翻訳文について考察する。翻訳本は渡辺洋美・訳の「アフリカ農場」と横山貞子・訳の「アフリカの日々」。この2冊はほぼ同じ時期に翻訳されている。翻訳された一節をあげ、比較検討する。確かに著者が述べるように後者はどちらかというと直訳に近いのに対して、前者の訳した文章は格調が高い。筆者は公開された映画を見たあと、「アフリカの日々」を購入して読んだ。淡々とアフリカの生活を綴った小説だなーという感想だった。その時「アフリカ農場」を購入したら別の感想をもったかもしれない。

著者は実例をあげて良い文章と悪い文章を読者に教えてくれる。なによりも著者・向井氏自身の文章が一点の曇りもなく明晰で分かりやすいのが良い。

本書を読んで読んでみたくなった本は以下。

  1. アフリカ農場〜アウト・オブ・アフリカ-----カーレン・ブリクセン---渡辺洋美・訳
  2. 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド-----村上春樹
  3. 監督-----海老沢泰久
  4. ただ栄光のために-----海老沢泰久

(2023.9.1)



--- 倫理学 ---

by 和辻哲郎

    【一】

倫理学(一)

 ◇ 序言  ◇

著者は序言でこう述べている。この書は、人間存在の理法たる倫理を体系的に叙述しようと試みたものである。

プラトンが「国家」と「法律」で国家の体系を説明したように、和辻氏が「人間の存在」の仕組みを説明しようとする。プラトンがギリシャ人の生活から国家の体系を組み立てていくように、著者は日本人の生活から「人間の存在」を組みあげていく。

プラトンも和辻哲郎も既製の考え方には頼らず、根本のところから体系を組みあげていく。

著者は何度も人間について述べている。人とは個人のことであり、自我である。間とは世間とか世の中を指す言葉であり、社会性のことである。人と間を足して人間という。人間とは社会の中に生きる個人のことであり、人と人との間柄の問題を内包した存在である。

そうした存在である人間について、著者は4つの章に分け、議論を積み上げていく。

  1. 序論
  2. [第一章]人間存在の根本構造
  3. [第二章]人間存在の空間的・時間的構造
  4. [第三章]人倫的組織
  5. [第四章]人間存在の歴史的風土的構造

 ◇ 序論  ◇

 ◇ [第一章]人間存在の根本構造  ◇

間柄とは我と汝の関係であるが、汝は人間でなくても良い。自分と本があればそこに、自分とペンがあればそこに2者の間柄が発生する。人間として存在する以上、独自の存在というのはあり得ない、というのが著者の趣旨である。

この本は和辻哲郎の倫理学の集大成である。500ページの文庫本4分冊にわたって独自の論理を組み立てている。文庫本で2,000ページはトルストイの「戦争と平和」に匹敵する長さである。哲学書を小説と同じ速さで読むのは難しい。以下少しずつ読み進めていくことにしたい。

 ◇ [第二章]人間存在の空間的・時間的構造  ◇

著者は間柄を重視する。間柄とは我と汝、自と他、主体と客体との関係ということである。カントやハイデガーは自己から離れることなく論理を進める。ハイデガーの著書が「存在と時間」であって「人間存在と時間」ではなかったことは、一面的である。自と他があって人間となり、倫理学とは人間の学である、と著者は主張する。

ハイデガーの「存在と時間」が出版されたのは1927年、著者の「人間の学としての倫理学」が1934年、本書「倫理学」が1937年に出版された。和辻哲郎とハイデガーはほぼ同時代に生き、人間の存在と時間の問題について考察していたことになる。

「過去が今の中に延び込み、未来に食い込みつつ前進する」「子供の時以来感じ考え欲したことは、今そこにある。現在に融け込んでいる」とは自己の存在と時間の関係をわかりやすく述べたものである。

「個人の独立性は存せず、ただ共同性の否定としてのみ成立する」とは著者がカントやハイデガーとは違う立場で人間の存在を考えていることを述べたものである。


    【二】

倫理学(二)

著者は「真実と虚偽の問題は対人関係において定まるのであり、事実と言葉との関係によるものではない」とはっきり述べている。生命の危険から免れるために嘘によって言いのがれたとすれば、その嘘は人間関係から押し出されたものであり、正常な意味で人を欺いたことにはならない。こうしてはっきり指摘されると、敵からスパイをかくまうために嘘をついた息子を撃ち殺した父親を擁護することはできない。嘘も方便なのである。

ヨーロッパ人は「罪責」(贖罪?)の観念を神への違犯と考えているが、著者はそれは人間の信頼関係への裏切りであると述べている。我々日本人に前者は理解しにくいが、後者なら容易に理解できる。翻訳された哲学は理解しにくいが、母国語で勝てられる哲学の観念は理解できる。「善」という言葉はギリシャ語やドイツ語にはない。逆に「イデア」という概念を表す言葉は日本語にはない。哲学は難しいと考える大きな理由は言葉の問題がある。

(2023.8.14)

 ◇ [第三章]人倫的組織  ◇

この章の重要な節として著者は家族について説く。家族を「二人共同体」「三人共同体」「同胞共同体」にわけ、それぞれを「夫婦関係」「親子関係」「兄弟姉妹関係」とする。

「夫婦関係」は「相互に人格や個性や身体や心などの全体を所有し合おうとする」ものであるとし、性的な関係のみでは「二人共同体」を満足するためには不足であるとする。

「三人共同体」において夫婦関係から親子関係へと変化するが、著者は性交と性殖は異なるという。性交は男女の人格的結合であり、性殖は血縁を生む行為であるという。したがって夫婦関係と親子関係は本質的に異なったものになる。

兄弟姉妹関係による「同胞共同体」は「二人共同体」「三人共同体」よりも結びつきは弱いものの家族を平面から立体へと激変させる要素となっている。

親族、あるいは親戚、親類の関係は兄弟間の友愛が基礎になっている。親族の交流は親子関係に次ぐものである。と昭和十二年(1937年)に書かれた本書で著者は述べている。令和五年(2023年)の現在、親族の関係はだいぶ変化してきているように感ずる。

地縁共同体はどの国でも人が1日で往復できる範囲の広さであった。それは方言の範囲とも一致していた。地縁共同体において個人が一定の役割を担うことでひとは「一人前」となっていった。

この章の重要な節として著者は家族について説く。家族を「二人共同体」「三人共同体」「同胞共同体」にわけ、それぞれを「夫婦関係」「親子関係」「兄弟姉妹関係」とする。

「夫婦関係」は「相互に人格や個性や身体や心などの全体を所有し合おうとする」ものであるとし、性的な関係のみでは「二人共同体」を満足するためには不足であるとする。

次に著者は「経済的組織」および「文化共同体」さらに「国家」へと人倫的組織の論を進める。著者のいう人倫的組織とはひと言で言えば「我と汝との間柄」ということになる。

「文化共同体」では芸術、宗教、学問、道徳等における「我と汝との間柄」について論ずる。ここでは宗教体験は幼少時に教え込まれたことが大きな役割をする。隣人愛は地縁的存在共同、友情は文化的存在共同に属する、など興味深い論点が指摘される。


    【三】

倫理学(三)

最終的な共同体は「国家」という公的な共同体となる。国家は私的な共同体と違って刑罰と強制執行による強制力を持っている。したがって国家のことを行なう者は「私」を混じえてはならない。

さらに著者は人倫的組織たる国家の防衛は意義がある、と述べる。国家が非人倫的な力によって脅威を受けるとき、それを防ごうとしないのは人倫的な弱さを示すものである。和辻氏が右翼的と言われるのはそうした意見を持つゆえんと思われるが、筆者には正論としか思えない。あらゆる国家が人倫的任務に忠実ならば国防の必要はなく、戦争も根絶するであろう、と述べた後、あらゆる個人がその人倫的任務に忠実であるならば法律の必要はなく、裁判もなくなるであろう、といい、現実的には戦争がなくなることは不可能だろうと言っている。

古代ギリシャにおいては正義、智慧、勇気、節制がポリス(国家)を治める上で必要な「徳」であるとした。これは現代のあらゆる国家においても同様のことが言えるだろう。

(2023.8.21)

 ◇ [第四章]人間存在の歴史的風土的構造  ◇

(人間存在の歴史性)

過去はなく、未来もない。あるのは現在のみ。という考え方でいた。著者は過去は亡び去ったものではなく、現在と異なったところにあるものでもない。という。過去は現在を現在たらしめているものだ、という。青年はかつて母の懐の幼児であった。今は幼児でないにもかかわらずこの母の子なのである。と述べる。未来もまた、まだ現実でないことの実現を目ざすものとして考えられる。人類の歴史はそのようにしてつながっており、我々はその一員である。

人間存在と時間、歴史は関連性がある。ハイデガーの「存在と時間」という書物もそういうことを述べているのかもしれない。

(人間存在の風土性)

著者は「人の感覚」「想像力」「実践的な理解」「感情や衝動」「幸福」などが、ひとが生育した風土から影響を受けると述べる。日本や東南アジアなどのモンスーン地帯に住む人々は平和で穏やかな感情融合的な性格になり、砂漠地帯に住む人々は服従的、戦闘的な性格になる、という。

世界の四大宗教のうち、二つが砂漠地方から生まれたのもその厳しい風土が関係している。その性格は柔らかい感情や豊かな直感には欠け、意志の力は不屈で強靭になる。世界の戦争の大部分がこの二つの宗教から始まっているのも理解できる。

和辻氏は本書の2年前に代表作「風土」を刊行しており、本章は著者の思想の原点と言える。

[第四章]はさらに続く。

(2023.8.26)


    【四】

倫理学(四)

本巻で著者は世界史を第一期、第二期、第三期の三段階に分けて、それぞれについて説明する。

いつから世界史が始まったかを示す起点を、人類が原始的な存在から倫理的な存在になった時とする。500万年前にアフリカで誕生したとされる人類は原始人とも猿人ともいわれる存在で、他の動物と変わらない存在であった。著者は人類が複雑な社会を構成し始めたのは、紀元前30世紀(3,000年)のエジプト、ナイル川流域に生きた人類であったとする。メソポタミア・エジプト・インダス・ 黄河流域の四大文明はこの時、ほぼ同時期に始まった。

砂漠地帯、またはそれに準ずる過酷な土地で文明が始まった理由を著者は、そういう土地に特徴的な人類の性格が戦闘的かつ服従的であることをあげている。暮らすのに便利で楽なモンスーン地帯(アジア)や草原地帯(ヨーロッパ)ではなかった。

第二期において、四大宗教が過酷な土地から始まったのも同様の理由である。過酷な土地からは宗教が始まり、温暖なギリシャでは哲学が始まった。旧約聖書に書かれた神話は第一期で人類がしたさまざまな体験が元になっている。この二つの文化が現在にまでつながる人間の倫理的生活の起源になっている。

第三期はキリスト誕生後現在までの人類の歴史である。著者によって第一期、第二期、第三期を通して語られる人類の歴史は、まるで壮大な大河ドラマのようである。

人類の壮大なドラマを語り終えた後、和辻氏は「国民的当為の問題」と称して日本国民がこれからしなければならないことをひとつずつ考察していく。1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで書き続けられたこの論文の最後の章で、戦後立ち直ろうとしている日本国民に対して、政治、宗教、芸術、教育等に関してこれからしなければならないことを切々と語りかけている。

「我が国民は物を厳密に考えることを好まない」。そうした欠点を改めるために国民がしなければならないことは、「既成の知識あるいは指示された公式を覚え込むのではなく、みずから考える力を養うこと」が大切であると述べる。和辻哲郎は最後にこのことを訴えて、戦前から戦後にかけて書いた本書を締めくくっている。

   ー   ー   ー   ー   ー

ドイツ語によるギリシャ的思考を直訳した日本語の哲学書は読みづらいし、理解しにくい。夏目漱石の最晩年の弟子であった和辻哲郎は、純粋な日本語で哲学を叙述することを目標にし、それは成功した。本書は哲学的な内容は難しいが、少なくとも日本語としては理解できる。日本生まれの哲学書である。

本書は和辻哲学の集大成である。本書に至るまでの和辻氏の思考の流れは以下の著書で知ることができる。
 
風土 鎖国鎖国 イタリア古寺巡礼
風土鎖国イタリア古寺巡礼
 

(2023. 8.31)




--- 和辻哲郎随筆集 ---

by 和辻哲郎

和辻哲郎随筆集

本書で和辻哲郎氏は日本の古典芸能について、日本文化について、過去および現在の交友関係について語る。

特に興味深かったのは夏目漱石について語ったことと島崎藤村について語ったことである。

日本の文人の中で語られたことのある一番多い人物は夏目漱石だろう。彼の作品に影響力があったことがいちばんの原因だろうが、彼の門下に影響力のある文化人が多かったこともあるだろう。

作家はもちろんのこと画家、物理学者、歌人、随筆家などに混じって本書の著者のような哲学者にいたるまで数え上げたらキリがないほどである。書店を起こした岩波茂雄のような人物までいる。

著者が漱石に接した期間は後期の3年間だったそうだが、その間に漱石から強い影響を受けている。

島崎藤村は強い個性の持ち主であったと述べている。姪との不倫騒動の後、藤村はフランスのパリへ移住し、そこで3年間を過ごす。他人を頼まず、自己完結する藤村の行動の原因に「少年の時分から他人の中で育ったこと」をあげている。

その他木下杢太郎、幸田露伴、岸田劉生についての思い出を語っている。

「茸狩り」という章の冒頭近くに「トルストイの確か『戦争と平和』だったかに茸狩りの非常に鮮やかな描写があったと思う」と書いてある。これは和辻先生の勘違いで「茸狩り」ではなくて「狼狩り」のシーンであろう。「戦争と平和」の中でこの場面に来るとホッとする唯一のシーンである。同書には茸狩りのシーンはない。

(2023.8.1)



--- ミステリオーソ ---

by 原りょう

ミステリオーソ

ミステリー作家・原りょうのエッセイ集「ハードボイルド」と対になっている本である。「ミステリオーソ」という題名はジャズ・ピアニスト・セロニアス・モンクの曲からとったものである。原りょう自身40才で作家デビューするまではジャズ・ピアニストであった。

このエッセイ集は著者が時に応じてさまざまな媒体に発表したものである。「飛ばない紙ヒコーキ」「観た 聴いた 読んだ」「視点」「トレンチ・コートの男たち」「ジャズについての六つの断章」「ジャズを愉しむ」「同級生おじさん対談」と分かれているが、自伝の「飛ばない紙ヒコーキ」と高校の同級生・中村哲氏との対談「同級生おじさん対談」以外はジャズとミステリーと映画に関するエッセイである。

エッセイとしては書きやすい題材だが著者独自のものの見方が楽しめる。元ジャズ・ピアニストという独特の経歴が著者の持ち味になっている。

初めのページから順番に読むよりも時に応じて興味のあるところを読むほうが入り込みやすいし、著者もそれを望んでいるように思う。

中村哲氏は2019年アフガニスタンで武装勢力に銃撃され、亡くなられた医師である。対談は2005年に行われた。

(2023.7.30)



---火曜クラブ---

by アガサ・クリスティ

火曜クラブ

原題は「The Thirteen Problems」である。13の事件が語られる。初めの6作はセント・メアリ・ミード村のミス・ジェーン・マープルの家に集まったメンバーの夕食後の趣向として過去迷宮入りになった事件を一人ずつ提出するという設定の物語である。

登場人物はミス・マープルと甥のレイモンド・ウェスト、元警視総監のヘンリー・クリザリング、牧師のペンダー氏、弁護士のペサリック氏。画家のジョイス・ランブリエールの6人である。

次の6作はセント・メアリ・ミード村の近くのバントリー大佐夫妻の家に集まったメンバーによって語られた話になっている。メンバーはミス・マープルとバントリー大佐夫妻、元警視総監のヘンリー・クリザリング、女優のジェーン・へリア、ロイド医師の6人である。

最後の話はバントリー大佐夫妻の家に滞在しているヘンリー・クリザリングがミス・マープルの助言を受けて村で起きた事件を解決する話である。

ミス・マープルは第一話の「火曜クラブ」で暖炉の脇で編み物をしながら皆の話を聞いている忘れられた存在として登場し、第十三話の「溺死」では元警視総監にアドバイスするくらいに有名になる。彼女の特技は人間の心理の深い洞察力である。第十二話の「バンガロー事件」ではこれから起きるであろう事件を見破り、未然に防ぐ。彼女は心理トリックの専門家なのである。

(2023.7.29)



---ハイデガー拾い読み---

by 木田 元

ハイデガー拾い読み

ハイデガー拾い読みとはハイデガーの講義録の中の興味深い箇所を取り出して解説するという企画である。著者によると、ハイデガーの著作は大学で専門に勉強した者以外には理解できないだろうと思われるのに対して、大学における講義録は実際に学生を前にして噛んで含めるように話されたものだけあってわかりやすい。

本書はハイデガー全集の中の膨大な講義録の中から木田氏が選んで季刊誌に発表したものである。

とはいってもハイデガーは難しい。その哲学の雰囲気だけを感じる程度の理解にとどまらざるを得ない。何しろ著者の木田元氏がハイデガーの著書「存在と時間」を読みこなしたいという理由で東北大学の哲学科に入学したくらいである。

ひとつ興味深い箇所があった。ハイデガーがよく使う「世界内存在」(Das In-Der-Welt-Sein)という言葉が荘子の「処世」という言葉の独訳ではないかというものだ。第一次対戦後、ドイツに留学していた伊藤吉之助がハイデガーを家庭教師に雇っていた。帰国する時に岡倉天心の「茶の本」の独訳版をプレゼントした。本の中で天心は荘子の「処世」を「Being In The World」と英訳した。8年後に出版された「時間と存在」の中で「世界内存在」(Das In-Der-Welt-Sein)という言葉が使われていたのは荘子の「処世」という言葉がハイデガーの気持ちにフィットしたいたためだろう、と木田氏は述べている。

人間の気持ちや感覚は適切にそれを表現する言葉があれば一般化し、普遍的なものになる。哲学というものは普遍的な言葉を追い求めるための学問ではないかと思った。

(2023.7.27)



---私の随想選 第一巻 私のパリ---

by 河盛好蔵

私の随想選 第一巻 私のパリ

フランス文学者・河盛好蔵氏のエッセイ集である。

「私のパリ」「パリの日本人」「パリの匂い」「文学都市パリ」「パリ物語」「フランス歳時記」の項目にわけてパリを語っている。

「私のパリ」では著者が27才の時に初めて洋行した1928年から1930年までのパリが語られている。若い頃に初めて行った外国のことは生涯にわたって一番印象が強く残るものだが著者にとってもそうであったようだ。この章は初めて行ったパリの印象がみずみずしい思い出として語られている。

「パリの日本人」ではかつてパリに行った日本人たちの様子がそれぞれの著書や関係者たちから聞いたこととして語られている。ここでは黒田清輝、島崎藤村、永井荷風といった人たちが登場する。

「パリの匂い」はパリの風俗について、「文学都市パリ」では著者が見歩いた古書店について、「パリ物語」ではパリの歴史やバルザックやモーパッサン等パリ関係した文学者たちについてについて語られている。

残念ながら筆者は河盛氏が翻訳した本を読んだことがない。一度読んでみたいと思っている。

(2023.7.25)



---マイルス・デイヴィスとは誰か ジャズの帝王を巡る21人---

by 小川隆夫・平野啓一郎

マイルス・デイヴィスとは誰か ジャズの帝王を巡る21人

マイルス・デイヴィスが影響を受けた21人について、整形外科医でジャズ評論家の小川隆夫氏と作家の平野啓一郎氏が評論する。

21人とはチャーリー・パーカーから始まりソニーロリンズ、ジョンコルトレーンといったお馴染みのジャズ演奏家、マイケル・ジャクソンからプリンスに至るまでさまざまな人びとが並んでいる。

なかにはボクサーのシュガー・レイ・ロビンソンとか画家のジョー・ゲルバードのようなひともいてバラエティに富んでいる。

マイルスと親しかった小川隆夫氏とジャズに詳しい平野啓一郎氏が選んだだけあって、その人選には説得力がある。

「ひとの真似をするくらいなら、どうやったら自分の個性が表現できるか考えろ」とはマイルスの言葉のようだが、デイジー・ガレスピーが若いマイルスに言った言葉だった。

「もう一度やるとしたらキース・ジャレットとやりたい」とはマイルスの言葉だが、マイルスのグループにいた時のキースは目立たないオルガンを弾いていた。

マイルスはプリンスをかっていて「ヤツはいつかデューク・エリントンのようになる」と語っていた。

以上は本書を読んで意外に思ったことだった。

マイルス・デイヴィスという音楽家は最後まで自分のやっていることに満足できなかった。自分が頂点にいることに気づかず、常に自分より優れている芸術家を尊敬していた。それは彼の音楽が最後までとどまることをせず前進していたことからもわかる。

彼のファンは50年代のマイルスは良かった、だの「ビッチェス・ブリュー」以降のエレクトリックなマイルスが最高だよ、とかいうが、彼からすればそれらはすべて抜け殻で、今やっていることが本当の自分の音楽なんだよ、というだろう。

筆者は「マイルストーンズ」とか「クッキン」に代表される50年代後半のマイルスのファンである。

(2023.7.23)



---私の随想選 第六巻 私の人生案内---

by 河盛好蔵

私の随想選 第六巻 私の人生案内

河盛好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者・評論家である。フランス文学者としてはアベ・プレヴォ、ジャン・コクトー、バルザツク、スタンダール、ポール・ヴァレリー、アンドレ・ジイド等の著作の翻訳をしている。エッセイストとしては「ふらんす手帖」「女の学校」「フランス歳時記」「恋愛と結婚の書」「人とつきあう法」「パリ物語」「青春と人生」等数多くの著作がある。

物語は著者のエッセイ集「私の随想選 全七巻」のなかの一冊である。このエッセイ集には「私のパリ」「私のフランス文学」「私の日本文学」等、興味深い著作が含まれている。行きつけの古書店にはこの一冊だけが残っていた。

本書は大きい段落として以下の三つの章に分かれている。「私の人間読本」「私の人生実践講座」「私の人生談義」。いづれも堅い題名がつけられているが中身はいづれもわかりやすく具体的である。

「私の人間読本」の中の「友達のできない人」という項では人と接する時に自分の劣等感を強く持ったり、臆病になったりしていたのでは友達ができにくい、と書いている。また親友ができたとしてもいつまでも親友であり続けることも難しい、と書いている。

「親に似たくない子」という項では親は自分の欠点を子供に受け継がせたくないと念じ、子供は親に似たくないものだと思って親と反対のことをするようにしたりする。だが歳をとってみると自分が嫌いだった父親のしぐさや言動に似てきたことを発見し、愕然とすることがある、と書いている。

「私の人生実践講座」では「恋愛の定義」「初恋について」「恋がたき」「別れも愉し」と恋人同士や夫婦間の感情について述べている。

「私の人生談義」では自身の生い立ちや戦争中の嫌な思い出、戦後の生活について述べている。戦争中、時の権力に屈して自分の主張をまげたことはいまだに後悔している。

1959年に書いたエッセイに、今では大学教授になっている学生時代の友人たち5人に恩師を交えて、月に一度フランス語の勉強会をしている。これは人生の幸福のひとつである、と書いている。57才になった元同級生とその恩師による勉強会か。楽しくないわけがないだろうな、と思う。

著者は子供時代から体が弱かったと書いているが、明治35年に生まれ、世紀をまたいで2000年に97才で亡くなった。明治から平成まで、戦前、戦中、戦後、どの時代でも片寄った考えにとらわれない自由な発想で物事を考えている。

(2023.7.21)



---ミス・マープル最初の事件 牧師館の殺人---

by アガサ・クリスティ

ミス・マープル最初の事件 牧師館の殺人

本書は2022年7月発行の新訳である。翻訳者は山田順子氏。翻訳は新しい方が良い。50年前の言葉遣いと今とでは微妙に違う。50年前に一般的でなかったものが今では普通に使われている例もある。

近来、翻訳文の質が進歩している。村上春樹氏の翻訳が影響を与えていることは間違いないが、最近の翻訳者たちは違和感のない日本語、文学表現としての日本語を組み立てることに苦心している。50年以上前の翻訳文には原文の直訳で、こんな日本語の表現はないだろう、というものもある。

本書は現代の日本語として違和感なく読むことができた。

読み終えてから、始めのページから読み始めてみると無駄なセリフ、無駄な描写がひとつもないのに気づく。本書は3年前に羽田詩津子訳で読んでいる。3年経つと内容をすっかり忘れていて、犯人も誰だかわからない状態で読んだので楽しめた。

登場人物たちの隠されていたことが徐々に明らかになっていく過程はワクワクするほどおもしろかった。当然最後に全てのヴェールを引き剥がすのはミス・マープルである。犯人だけでなく、思わぬ人間関係が明らかにされ、目から鱗がおちる快感が味わえる。

ミス・マープルが初めて読者の前に登場する作品である。セント・メアリ・ミード村の見取り図がついているのが興味深い。

(2023.7.19)



---心は孤独な狩人---

by カーソン・マッカラーズ

心は孤独な狩人

カーソン・マッカラーズは23才の時にこの小説を書いた。彼女の処女作である。

登場人物は聾唖者のジョン・シンガー、共産主義者のジェイク・ブラント、酒場の経営者ビフ・ブラノン、黒人の医師コープランド、13才の少女ミック・ケリーの5人である。この5人の行動が順番に語られる。ミック・ケリーは著者の分身であろう。

ミック・ケリーは下宿屋の娘である。彼女には兄がひとりと弟が2人いる。17才の兄ビルと7才の弟ジョージ(ババーとよばれている)、メイドのポーシャ(コープランド医師の娘)の関係は6年後に書いた小説「結婚式のメンバー」で発展的に受け継がれている。

物語が進むにつれてジェイク・ブラント、ビフ・ブラノン、コープランド医師、ミック・ケリーそれぞれが聾唖者のジョン・シンガーを精神的な支えにしていく。それぞれが読唇術でしかひとの話を聞くことができないジョン・シンガーの部屋を訪れ、自分の話をする。ジョン・シンガーは彼らの話をまともに聞いてはいない。

ジョン・シンガーは精神病院に入っている聾唖者仲間のアントナプーロスを訪れ、手話で自分の話を果てしもなくする。が、アントナプーロスはそれをまともに聞いていない。

登場人物それぞれが自分の話を聞いてもらいたいと思っているが、ひとの話を聞きたいとは思わない。原題は「The Heart is A Lonely Hunter」。現代人のこころの状態をあらわしている。「結婚式のメンバー」でさらに繰り返される「果てしなく続く井戸端会議」の原型であるこの小説が23才の女性によって書かれたことは必然であるのかもしれない。

著者はこの小説の主人公を誰に設定したのか。映画版では聾唖者のジョン・シンガーであった。翻訳者は著者自身の分身であるミック・ケリーと考えている。ジェイク・ブラントやコープランド医師は考えられない。筆者はニューヨーク・カフェの主人(あるじ)ビフ・ブラノンではないかと思っている。

他の登場人物に比べて彼の立ち位置は明確ではない。なんとなくあやふやな人物だ。カウンターの中からひとびとをじっと観察しているように見える。少女ミックに恋心を抱いているようだが、決して態度に表すことをしない。そしてそれはミックの成長とともに消滅してしまう。

小説はビフ・ブラノンが夜のカフェで朝日が昇るのをじっと待っているシーンで終わる。

カーソン・マッカラーズは1917年にアメリカ南部のジョージア州コロンブスに生まれ、若い頃からうつ病やアルコール依存症に悩み、1967年脳卒中のため亡くなった。

アメリカ南部に生まれた女流作家にはマーガレット・ミッチェル(1900-1949, ジョージア州アトランタ)、パトリシア・ハイスミス(1921-1995, テキサス州フォートワース)、フラナリー・オコーナー(1925-1964, ジョージア州サバンナ)、ハーパー・リー(1926-2016, アラバマ州モンロービル) などがいる。それぞれの代表作は「風と共に去りぬ」「太陽がいっぱい」「黒んぼの人形」「アラバマ物語」となっている。それぞれがアメリカ南部の風土から生まれた作品である。なかでも本書は南部の雰囲気を肌で感じる作品である。

本書は1968年にアラン・アーキン主演で映画化された。英語の題名は原作と同じ「The Heart is A Lonely Hunter」。日本語の題名は「愛すれど心さびしく」であった。配役はジョン・シンガーにアラン・アーキン、ミック・ケリーにソンドラ・ロック、ジェイク・ブラントにステイシー・キーチ。音楽はデイヴ・グルーシンであった。公開当時に見ても内容が理解できなかったろう。今見たら共感できそうな気がする。

(2023.7.18)



---地球はグラスのふちを回る---

by 開高 健

地球はグラスのふちを回る

題名からではなんのことやらわからないが、著者独特の食レポエッセイである。著者が今までに行った日本中の、または世界中のある地域の酒と食べ物に関するエッセイである。

著者は行ってない地域というものはないのではないかと思えるくらい様々なところへ行っている。そのところどころで地元産の酒や食べ物を味わい、蘊蓄(うんちく)を述べる。蘊蓄を述べたいがために飲みまたは食べるのではないかとさえ思える。著者はあらゆることに精通している。

開高氏の二人の親友の著作によると、氏は日本国内では火宅の人であった。自宅では屈託しているが、旅に出ると元気になった。ヘミングウェイのように、行動する作家であった。アマゾンで釣りをし、ベトナム戦争に特派員として従軍し、その体験をエッセイや小説として発表した。

これは著者が世界中を駆けめぐって、飲み、食べ、体験したことを綴ったエッセイである。

(2023.7.11)



---大人の極意---

by 村松友視

大人の極意

村松友視は中央公論社の編集部に勤めていた。その時とその後作家になったてから出会った人びととの交流を通して、大人とはどういうものかということを考察する。

村松友視といえば、編集者時代に書いた「私、プロレスの味方です」がベストセラーになったことがある。プロレスに関して独自の理論をまとめたもので、瞬く間に筆者も含め当時のプロレス・ファンたちのバイブルとなった。

本書はあらゆることについて独自の視点を持つ見巧者・村松友視が人間について、特に社会の中堅に位置する大人について、蘊蓄(うんちく)を述べたものである。

目次をあげただけでも興味深い。「お辞儀の達人」「笑い方という厄介な世界」「反則がかもし出す華」「フランク永井の残像」「大女優の輝ける度胸」等々。

「男の歩き方という領域」という章ではゲーリー・クーパーとバート・ランカスターとヘンリー・フォンダの歩き方について述べる。それぞれが独特の歩き方をしているという。DVDを借りてきて見てみたくなる。

(2023.7.10)



---族譜・李朝残影---

by 梶山季之

族譜・李朝残影

「族譜」「李朝残影」「性欲のある風景」の3篇が収められている。最後の無頼派と言われ、産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説、時代小説、風俗小説などを量産して45才で早逝した梶山季之は歴史小説も書いている。1930年京城(現在のソウル)で生まれた梶山は当時の朝鮮に強い関心を抱いていたようである。

「族譜」。1936年、主人公は朝鮮総督府の所員として創氏改名の仕事をしている。朝鮮人たちの氏を創り、名を改める作業を進める仕事である。日本政府の目的はより多く兵隊を徴用することであった。対象者に700年の族譜(家系図)をもつ旧家の主人(あるじ)がいた。

韓国と日本の間には今でも慰安婦や徴用工の問題がある。戦後70年以上経過し、ほとんどの関係者が鬼籍に入った今になってもなぜ・・・、と思っていたが、反対に日本人がこういう目にあったら、と考えると、何年経っても恨みとか怒りの感情は消えないだろうな、と思う。

「李朝残影」。主人公は朝鮮の女学校で教師をするかたわら絵を描いている。鮮展に出品するための題材を探しているところに現れたのが妓生(キーセン)の英順による朝鮮舞踊であった。朝鮮を植民地化しようとする日本の政策とそれに抵抗する朝鮮人を描く。

韓国人の日本に対する感情は過剰反応だと思っていたが、本書を読むと当時の日本の軍人はかなり横暴であった。このような日本人は今の日本には存在しないから過剰反応だと思うのである。考えてみると会社組織におけるパワハラ上司はこれ(旧日本軍の軍人)に近いのではないか。

「性欲のある風景」。終戦の日。京城(現ソウル)に住む主人公の1日を描く。著者自身と思われる高校生は玉音放送を聞き逃し、戦争が終わるはずはないと思っている。その日は著者にとっての特別な日であったろう。

梶山季之初期の瑞々しい作品である。このあと産業スパイ小説「黒の試走車」によってベストセラー作家になった著者は面白いが中身の薄い小説を書き飛ばしていく。

(2023.7.7)



---廃墟に乞う---

by 佐々木 譲

廃墟に乞う

「オージー好みの村」「廃墟に乞う」「兄の想い」「消えた娘」「博労沢の殺人」「復帰する朝」の6篇が収められている。

「オージー好みの村」。ある事件で精神的な障害を負い在宅療養中の刑事・仙道が全篇にわたっての主人公である。現職の刑事ではあるが休職中のため、自分の判断で捜査に関われないところが足枷となり、私立探偵のような行動をとらざるを得なくなる。

オージーとはオーストラリア人のことである。北海道の倶知安からニセコの辺りにはオーストラリア人が多く住んでいるらしい。仙道は知人に頼まれてニセコの別荘地で起きた殺人事件を個人的に調査する。

「廃墟に乞う」。夕張近辺の炭鉱町で起きた殺人が、以前扱った事件と同じ手口で行われたことに気づいた元同僚が仙道に手伝って欲しいと連絡を入れてきた。

「兄の想い」。仙道は知人に頼まれて女満別の近くの漁師町で起きた殺人事件を調査する。

「消えた娘」。失踪もの。仙道の行動は刑事というよりもハードボイルド小説の私立探偵のようだ。日本でアメリカの探偵を描こうとするのは不可能なので、ミステリー作家は苦労しているようだ。著者のこの作品集はその手があったか、という感じである。

「博労沢の殺人」。「バクローザワの殺人」は「カラマーゾフの兄弟」を模したものだという。確かにそうだ。

「復帰する朝」。3年間の休職期間が終わる。仙道は職場復帰できる状態にまで回復した。過去の事件を回想し、同僚と話し合えるまでになった。ということで仙道ものはシリーズ化されることはなさそうだ。

(2023.7.4)



---一人称単数---

by 村上春樹

一人称単数

「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「ヤクルト・スワローズ詩集」「謝肉祭 (Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」の8篇が収められている。

「石のまくらに」。語り手が昔アルバイトで知り合った女性との短い顛末。

「クリーム」。やはり昔ピアノを弾く少女に招待された場所に行ってみると、そこには誰もおらず・・・。

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」。学生時代、表題のアルバムのレコード評を書いたところ、・・・。

With the Beatles

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」。表題のアルバムを抱えていた少女の記憶を追いかけているうちに、高校時代に付き合っていた少女の家に行った時のことを思い出す。

「ヤクルト・スワローズ詩集」。これは著者自身の言葉で綴ったヤクルト・スワローズ愛に満ちたエッセイである。1970年代、神宮球場の外野芝生席でビールを飲みながら試合を観戦する著者の姿が目に浮かぶ。1978年ヤクルトが広岡監督の元でリーグ優勝し、さらに日本シリーズまで制した年、著者は処女作が賞を受賞し作家になった。さぞや嬉しい年だったろう。

「謝肉祭 (Carnaval)」。ある容姿の醜い女性について語る。容姿は醜いがなぜか惹きつけられるものがあり、彼女とお酒を飲みながら語り合うのを楽しみにしている。特にクラシックのピアノ音楽の好みが一致しており、なかでもシューマンの「謝肉祭」についてあれこれと語り合うのを楽しみにしている。彼女はベネディッティ・ミケランジェリの演奏を、語り手はアルトーロ・ルービンシュタインの演奏を推している。

著者の小説「1Q84」によってそれまではマイナーだったヤナーチェクの「シンフォニエッタ」のCDがベストセラーになったように、本書が発売されるとルービンシュタイン演奏の「謝肉祭(CARNAVAL)」のダウンロード回数が増えたそうである。

「品川猿の告白」。2005年に発行された「東京奇譚集」の中の一篇「品川猿」の続編である。品川猿は本篇では群馬県の鄙びた温泉の雇人として登場する。品川猿は語り手との会話で、ブルックナーが好きで特に交響曲第7番の第三楽章には勇気づけられる、と述懐する。ブルックナーの交響曲第7番も売れているのかもしれない。

「一人称単数」。語り手がバーのカウンターでギムレットを飲みながら本を読んでいると、一人で飲んでいた女性に突然「恥を知りなさい」と非難される。語り手はなんのことやらわからないので当惑する。短篇なのでなんのことやらわからずに当惑するだけで終わり、読者はそのまま放り出される。

わからない人は永久にわからないのだから説明する必要はない、ということか。確かにそうかもしれない。

自分が普通にしていることが他人にとって不愉快だったりすることがたまにある。そういうことかもしれないし、違うかもしれない。

(2023.7.2)



---5年まえの(ひと)---

by 梶山季之

5年まえの女

中編と短篇がそれぞれ一編ずつ収められている。

「5年まえの女」。主人公は著者・梶山季之を思わせる速記者。彼の女性関係が主題になっている。

貧しい時は裕福な暮らしを目標にして夫婦がわき目も振らずに協力する。少し生活が上向きだすと夫婦のどちらかが別の異性と付き合い始める。よくある話である。

今から5年前、主人公は成り行きからふたりの女と付き合い始めた。彼は5年後の今、当時を思い出して妻とふたりの女との関係を回想する。

著者が風俗小説を書き飛ばしていた頃の一冊であろう。主人公と女たちとの関係性がリアルに描かれていて、これは著者自身の体験が結構入っているな、と思わせて興味深い小説である。

「妖しい契約」。著者得意の企業謀略ものの一篇である。日本がこれから高度成長時代に差し掛かろうとする時代の話である。短篇なので端折った部分があるが、血肉をつければ十分長編になる題材である。

二篇ともあの暑苦しくて生命力に満ちた昭和という時代を描いている。

(2023.6.30)



---暴雪圏---

by 佐々木 譲

暴雪圏

北海道帯広近くの駐在所勤務の巡査が主人公の物語・第二弾である。

前回の「制服捜査」は短篇であったが、本書は長編である。グランド・ホテルものの長編である。

1日のうちに暴風雪に閉ざされた一帯でさまざまな事件が進展する。やくざの組長宅を襲って金を奪う者、不倫をする人妻、川の岸に流れ着いた変死体、義理の父親から逃げようとする高校生の娘、認知症になった妻の母親との同居を拒む夫。暴風雪のため密室状態になった街で彼らの人間模様が繰り広げられる。

町を管轄する駐在所の巡査川久保は北海道独特の暴風雪の中で自分の職務を果たそうとする。

暴風雪に閉じ込められた街の描写はリアルで迫力がある。

(2023.6.29)



---仏像は語る---

by 西村公朝

仏像は語る

著者は仏師・仏像修理技師・僧侶・東京芸術大学名誉教授である。戦前の東京芸術大学の彫刻科を卒業して仏像修理技師となり、京都の三十三間堂の千手観音像を修理したのが出発であった。生涯に修理した仏像の数は千数百体に及ぶ。

修理した中には福岡県大悲王院の十一面千手観音菩薩像や東大寺南大門の仁王像などクレーンで釣って移動しなければならないほど巨大なものもある。修理期間は数ヶ月から数年間に及ぶものもある。仏像の修理というのは大変な作業である。

本書は20章にわたって仏像修理にたずさわってきた著者の貴重な経験が語られている。仏像の修理をする前に御霊抜きが必要であったり、寺の住職は仏像が盗まれることを警戒しなければならなかったり、筆者にとって初めて聞く話ばかりでいずれの章も興味深く読んだ。

(2023.6.28)



---制服捜査---

by 佐々木 譲

制服捜査

「逸脱」「遺恨」「割れガラス」「感知器」「仮想祭」の5篇が収められている。

舞台は北海道帯広市の近くの志茂別町。主人公は札幌の北海道警察の本庁で15年間勤めたのち、志茂別町の駐在所に移動になった警官である。志茂別町というのは実在の町名ではない。帯広の近くには幕別町、本別町、更別町と似たような名前の町がある。その辺の街がモデルということだう。

「制服捜査」という題名が示すように、駐在所の制服警官には捜査権はない。犯罪の捜査は所轄の警察署の刑事が行う。主人公は駐在所のお巡りさんという足枷をはめられ、事件が起こっても所轄の警察署への連絡業務と地域住民との会話しかできない。

-本編では5つの事件が起こるが、主人公の川久保巡査部長はそうした手枷足枷をくぐり抜けて事件を解決に導く。

「逸脱」。本庁から駐在所勤務になったばかりの川久保は、不良のパシリをしていた男子高校生の失踪事件に関わることになる。

「遺恨」。牧場主の飼い犬が残酷な殺され方をした。放っておくとエスカレートする可能性があると思い、それとなく関係者の聞き込みをする。

「割れガラス」。中卒で不良のパシリをしていた無気力な青年と前科持ちの大工との関係を描く。長編にすれば成長小説になりそうな題材である。

「感知器」。町内の連続放火事件を調べていくうちにわかってきたことは・・・。

「仮想祭」。13年前の祭りの夜、7、8才の女の子が誘拐された。13年後盛大に行われる祭りの最中、同年齢の女の子が誘拐された。そこには町内の複雑な人間関係が潜んでいた。

捜査権と逮捕権のない駐在勤務の巡査が唯一の手段である聞き込みだけを頼りに事件を解決していく。発生する事件の90パーセントが身内か知り合いの犯行と言われている。町内の狭い人間関係を追うだけでほとんどの犯罪が解決するというのは当然なことである。それができる人は駐在所のお巡りさんであることも・・・。

(2023.6.26)



---紙鑑定士の事件ファイル 偽りの刃の断罪---

by 歌田 年

真相

「猫と子供の円舞曲」「誰が為の英雄」「偽りの刃の断罪」の3篇が収められている。

「猫と子供の円舞曲」。例によって渡部紙鑑定事務所に依頼人が現れた。と思ったら依頼人は小学生の女の子だった。依頼料の1,000円札を握りしめて。

「誰が為の英雄」。今回の事件も専門の紙ではなく、アメコミのフィギュアに関するものだった。

「偽りの刃の断罪」。紙鑑定士の渡部は第一話で知り合った神奈川県警の刑事からある依頼を受けた。

2019年に「このミステリーが凄い!」大賞を受賞した著者による紙鑑定士ものの第二弾である。「渡辺探偵事務所」と間違えられて事件を持ち込まれる「渡部紙鑑定事務所」シリーズは2022年に第二弾が出て、現在旬のミステリーである。紙鑑定士なのになぜか事件を依頼されて、プラモデル・オタクやフィギュア製作者などの絶妙なアドヴァイスによって見事に解決に導くという、今までにない探偵が本シリーズの主人公である。

第一話が8、9才の女の子、第二話が12才の引きこもりの男の子が重要な登場人物であったが、それぞれがみごとに大人の話になっている。第二話はラストに胸がジーンとする展開が待っている。第三話は本シリーズとしては初めて紙鑑定士にふさわしい話になっている。

(2023.6.25)



---マノン・レスコー---

by アベ・プレヴォー

マノン・レスコー

17世紀のフランスの作家アベ・プレヴォーは生涯で66編の小説を書いたが、現在そのすべてが失われている。

唯一残っている一編が本書「マノン・レスコー」である。本書の原題は「騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語」といい、7巻からなる自伝的小説集「ある貴族の回想と冒険」の7巻目に付録として書かれた。

内容は貴族の家に生まれたデ・グリューという若者と娼婦に近い生活をしている美女マノン・レスコーとの恋物語である。

デ・グリューが初めてマノンに会ったのは17才の時で、その時マノンは16才くらいであった。初めて会った時から夢中になり、その後数年間、時には同棲し、時には別々に暮らしながら、自由奔放なマノンに翻弄される。

なぜ紙がなかった時代にパピルスに書かれたプラトンの「対話編」が現代にまで伝わっているのか、アリストテレスの膨大な出版物が全て失われたにもかかわらず、彼の講義録だけが残されているのか。アベ・プレヴォーの膨大な小説群が全て失われてしまったのにも関わらず、本書だけが残されているのか。

そこに本質的なものだけを残そうとする絶妙な歴史のふるいの存在を感じる。

本書はファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を描いた最初の文学作品といわれ、この作品を基に、数多くの舞台・映像作品その他が作られている。以下はその代表的なものである。

(オペラ)

  1. マノン・レスコー ーー ジャン=ピエール・オメール振付。1830年初演。
  2. マノン ーー ジュール・マスネ作曲。1884年初演。
  3. マノン・レスコー ーー ジャコモ・プッチーニ作曲。1893年初演。

(バレエ)

  1. マノン・レスコー ーー ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール作曲。1856年初演。
  2. マノン ーー マクミラン振付。1974年初演。

(映画)

  1. マノン・レスコオ ーー 1927年のアメリカ映画。アラン・クロスランド監督。ドロレス・コステロ主演。
  2. 情婦マノン ーー 1948年のフランス映画。アンリ・クルーゾー監督。セシル・オーブリー主演。
  3. 恋のマノン ーー 1968年のフランス映画。ジャン・オーレル監督。カトリーヌ・ドヌーヴ主演。
  4. マノン ーー 1981年の日本映画。東陽一監督。烏丸せつこ主演。津川雅彦、佐藤浩一共演。
  5. マノン・レスコー ーー 2013年のフランス映画。ガブリエル・アギヨン監督。セリーヌ・ペロー主演。

(テレビドラマ)

  1. 花はなにいろ ーー NHK「銀河テレビ小説」。1979年12月放送。中野良子主演。

(ミュージカル)

  1. マノン ーー 宝塚歌劇団花組公演。2001年。瀬奈じゅん主演。
  2. 舞音 -MANON- ーー 宝塚歌劇団月組公演。2015年。龍真咲主演。

(ポピュラーソング)

  1. あなた色のマノン ーー 岩崎良美
  2. マノン ーー 北出菜奈

「マノン・レスコー」の物語を語ることは男と女の本質について語ることであり、あらゆる芸術作品に採り上げられていることは自然なことである。筆者は見損なってしまったが、烏丸せつこ主演の「マノン」は公開された当時かなり評判になったと記憶している。

(2023.6.24)



---断裂回廊---

by 逢坂 剛

断裂回廊

主人公は公安調査庁の女性係官である。公安調査庁とは日本の情報機関のひとつで、破壊活動防止法や団体規制法の規制対象に該当する団体であるかどうかの調査(情報収集)と処分請求を行う機関であり、調査活動の過程で入手した情報を分析・評価し、政府上層部に提供している。警察と似ているが逮捕状、その他の令状を執行する権限はもたず、武器も持てない。

警察の公安部、警備部とかち合うことがあり、仲が良いとはいえない。

主人公はある殺人事件に遭遇し、事件に関わることになるが警察と協力して犯人を追うという展開にはならない。

組織は大きくなるほどセクショナリズムの壁も大きくなる。同じ役所にいても部が違えば敵同士となる。主人公の憩いの場は亡くなった友人の父親が営業しているバーである。時には2人分の夜食を持ってそそこを訪れる。

戦いに疲れた主人公は人生の先輩のアドヴァイスを受け、再び戦いの場に出ていく。そして最後に現れた敵は・・・。

(2023.6.21)



---紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人---

by 歌田 年

紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人

著者は2019年に本書で「このミステリーが凄い!」大賞を受賞した。その時の著者の年齢は56才であった。経歴を見ると長年出版社で編集者として勤務し、2015年に52才でフリーになった。

著者は本書で紙の鑑定士という新しい分野の探偵を創造した。

はじめの依頼人は探偵社と勘違いして鑑定士の事務所に訪れる。夫の素行を調査してほしいというまるで関係のない依頼を、暇で金のない主人公は受けることにする。紙についてはやたら詳しいが、探偵などしたことがない主人公は持ち前の洞察力と仕事でつちかった友人関係を駆使して依頼人の期待に応えてしまう。

2番目に訪れた依頼人の案件もまた失踪者の調査という、専門外のものだった。が、依頼人が美人だったので引き受けてしまう。

手がかりは専門の紙とは無関係のプラモデルであった。主人公は友人関係をたどり、プラモデルの専門家に相談する。事件は意外な方向に発展し・・・。

このミス大賞を取った作品だけあって本書は次から次へとページをめくらずにはいられない、ページターナー本であった。主人公の紙の知識は広く深い。その説明を読んでいるときは別世界に案内されたかのようだった。事件の解決にはあまり役には立たなかったのではあるが。

(2023.6.20)



---ショパンの心臓---

by 青谷真未

ショパンの心臓

ショッキングでキャッチーなタイトルである。いつもいく図書館の棚から思わず手に取ってしまった。

奇抜なタイトルに惹かれて手に取った本の大部分は途中下車する運命になるのだが本書は最後まで読むことができた。

奇抜なタイトルで手に取り、読み始めると就活という身近な話題、特異な人物と出会い、謎に巻き込まれていく。主人公は大学を卒業したが就職が決まらず、就活浪人中というどこにでもいるような人物。いつニートになり、落ちこぼれるかわからないから、むしろ危うい人物という方が合っている。

物語は「ショパンの心臓」というキーワードをめぐって、頼りなさそうな青年がさまざまな人物に出会い、成長していくという骨組みになっている。

ミステリーなのでところどころ思いがけない罠が仕掛けられている。これが本作を最後まで読み進めるうえでのモチベーションになっている。

このタイトルを考え出した時点で著者の目論見の半分は成功したのだと思う。

(2023.6.19)



---未完の女---

by リリアン・ヘルマン
未完の女

筆者がリリアン・ヘルマンを知ったのはフレッド・ジンネマン監督の映画「ジュリア」の原作者としてであった。

ジュリアを演じたのはヴァネッサ・レッドグレイヴ、リリアン・ヘルマンを演じたのはジェーン・フォンダ、ダシール・ハメットを演じたのはジェイソン・ロバーズであった。いずれも名演であった。その他に、ハル・ホルブルック、マクシミリアン・シェル、メリル・ストリープなども出演していた。

「ジュリア」はその年のアカデミー賞の11部門でノミネートされ、ジェイソン・ロバーズが助演男優賞、ヴァネッサ・レッドグレイヴが助演女優賞、アルヴィン・サージェントが脚色賞を受賞した。

映画では劇作家のリリアン・ヘルマンと作家のダシール・ハメットの関係が描かれ、結婚という形式にとらわれないクールな男と女の関係に憧れたものだった。

本書の原題は「An Unfinished Woman」。著者が64才の時に書かれた。79才まで生きた彼女にとって、確かにまだ終わってはいない時期だった。彼女は本書の後「逃亡地帯」や「ジュリア」、「眠れない時代」やその他の重要な作品を書いている。

本書は彼女が生まれてから、ダシール・ハメットと出会い、彼が亡くなってから数年後までの自伝である。ハメットと付き合っていた期間は31年間におよび、彼の最後を看取ることになる。

彼女は個性的な女性であり、幼少期から最後まで変わらなかった。一度結婚したが長続きしなかった。12才年上のハメットには何を言っても暖簾に腕押しのような関係でハメットの大きさに包み込まれてしまうようであった。彼女はヘミングウェイやフォークナーなど文学界の人びとやウイリアム・ワイラーやエイゼンシュタインなどの映画界の人びとと広く付き合い、知識も教養もあったが、ハメットのそれは彼女の上をいくものであったようだ。

スペイン戦争や第二次世界大戦を経験し、赤狩り旋風を生き延びた著者はその経験を作品に活かし、時代の先端を生き抜いてきた。29才の時に書いた戯曲「子供の時間」が30年後にオードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーン主演の映画「噂の二人」となった。さらにその50年後にLGBTQに対する差別をなくす運動が起こっている。彼女の先端性の鋭さを証明する事例である。

(2023.6.17)



---マノンの肉体---

by 辻原 登

マノンの肉体

「片瀬江ノ島」「マノンの肉体」「戸外の紫」の3篇が収められている。

表題作の「マノンの肉体」が一番長い。入院中の主人公が娘にアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」を読んでもらう。ひとに声を出して読んでもらうことで、黙読するのとは違う景色が見えてくることに気づく。

主人公はマノン・レスコーがどういう顔をしているのか、どういう服装をしているのか、が見えてこないことに気づく。著者のアベ・プレヴォーがマノンの外見をまるで書いていないことに気づく。これは意図的なものなのか、それとも無意識的なものなのか。

上記の命題から話は主人公の従兄弟が関係する大賀蓮の話題に切り替わる。数年前、従兄弟が栽培する大賀蓮の花を全て切り取った男が、その後人に毒を盛って殺し、自分もその毒で自殺した。主人公は新聞記事の切り抜きや裁判の公判記録を読み、その時の事件を回想する。

マノン・レスコーと数年前の殺人事件がどのように関連するのか。主人公とその妻の微妙な関係を暗示するが、それはどうなるのか。3つのことが収拾せぬまま物語は終わる。読者は途中でハシゴを外されたような感じになる。

「片瀬江ノ島」。ラフカディオ・ハーンのエッセイ「江ノ島行脚」の感想から始まる。江ノ島の近くに住む主人公は江ノ島に行き、昔そこで営業していたという映画館の跡を探す。

彷徨ううちに映画館は実在し、そこにかかっていた小津安二郎監督の「浮草」を観る。途中で映画館を抜け出し、江ノ島をさまよう。あれは幻だったのか。

著者はハーンの「江ノ島行脚」と自分のそれを対比したかったのか。それとも単なる思いつきを書いただけなのか。

「戸外の紫」。日常生活に退屈したOLが一緒に逃げようと言うヤクザの誘いに乗り、バスでの逃避行に同乗する。何日かの逃避行の末、いつの間にかヤクザはいなくなり、自分ひとり知らない土地に残される。

隔靴掻痒。中途半端。行き当たりばったり。単なる思いつき。・・・という感想。著者は純文学を気取っているのか。トルストイ、ドストエフスキーの例を引くまでもなく、本物の文学は読んでいて面白いものだ。

(2023.6.12)



---厳選500 ジャズ喫茶の名盤---

by 後藤雅洋

厳選500 ジャズ喫茶の名盤

著者は四谷にあるジャズ喫茶「いーぐる」の店主、ジャズ評論家である。

「グルーヴィ・ジャズ」「ピアノ・ジャズ」「フリー・ジャズ」「ビッグバンド・ジャズ」等テーマごとに数枚ずつ選んだアルバムについて20列8行合計160字の寸評がついている。これがいずれも的確にそのアルバムの特徴を表現している。

以下に記すようにミュージシャンの名前とアルバム名と寸評のみの簡潔な表示である。メンバーや録音日時、レーベル名は巻末にまとめて書いてある。データをズラズラと書いていたのでは新書版の本に500枚のアルバムを載せることは不可能だろう。合理的なレイアウトである。

巻末の中平穂積氏との新旧ジャズ喫茶店主同士の対談は、世界に類を見ない日本のジャズ喫茶の歴史とジャズ・ファンに果たしてきた役割を知るうえで貴重な証言である。

現在所有していないがぜひ聴いてみたいアルバムを以下に記しておく。

  • Miles In Berlin ーー Miles Davis
  • Coltrane Live At Birdland ーー John Coltrane
  • No Samba ーー Allen Houser
  • Live On Mount Meru ーー Eric Dolphy
  • Born To Be Blue ーー Grant Green
  • Happy Flame Of Mind ーー Horace Parlan
  • Let It Go ーー Stanley Turrentine
  • In 'N Out ーー Joe Henderson
  • Basie Jam ーー Count Basie
  • But Not For Me ーー Ahmad Jamal
  • Favorite Things ーー George Shearing
  • No Blues ーー Horace Parlan
  • Hous On Hill ーー Brad Mehldau
  • Blue Burton ーー Ann Burton
  • Live! ーー Pat Martino
  • Blue Sunset ーー Michel Sardaby

(2023.6.11)



---マイルスの夏、1969---

by 中山康樹

マイルスの夏、1969

モダンジャズの演奏者にはアート・ブレイキー、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズなどがいて誰の演奏をよく聴くかでそのひとの嗜好がわかる。マイルス・デイヴィスだけは他のミュージシャンと違う。どの時代のマイルスが好きかが問題になる。

ビー・バップ、ハード・バップ、モードそしてビッチェズ・ブリュー以降のどのマイルスの演奏が好きなのかが問題になる。筆者は1950年代後期から1960年代前期までのモードジャズの時代の演奏が好きである。

本書はマイルス最大の問題作「ビッチェズ・ブリュー」の成立前後の話である。著者・中山康樹氏はビッチェズ・ブリューの参加メンバーやプロデューサーなどのインタビュー記事やその前後の出来事からこのアルバムがどのようにしてつくられたかを明らかにする。

本曲のためにマイルスがどのような人選を行ったか、ドラマーは、ベーシストは、ピアニストは・・・。「七人の侍」で勘兵衛が浪人者の中から役に立ちそうな者を人選するように。

ドラマーがトニー・ウィリアムズからジャック・デジョネットに、ベーシストがロン・カーターからデイヴ・ホランドに、そしてピアニストがハービー・ハンコックからジョー・ザヴィヌルとチック・コリアにならなければならなかった。特にジョー・ザヴィヌルの存在がなければこのアルバムは成立しなかったというところは実に興味深かった。

「ビッチェズ・ブリュー」の演奏を録音し終わり、編集作業をしている最中に、マイルスはインド楽器のシタールやタブラを使った「オン・ザ・コーナー」の準備を始めている。今までのメンバーはお役御免となり、新しいメンバーの人選をしている。「七人の侍」の勘兵衛のように。

(2023.6.9)



---大いなる眠り---

by レイモンド・チャンドラー

大いなる眠り

双葉十三郎が翻訳した1959年版の「大いなる眠り」である。2012年に村上春樹訳が出版されるまではこの本が流通していた。双葉訳から村上訳まで53年かかったことになる。翻訳の寿命は50年であるという村上春樹の説は正しいと思う。

レイモンド・チャンドラーの第一長編とあって、フィリップ・マーロウは33才と若い。事件も大したことはない。ただ、のちの作品「ロング・グッドバイ」出てくる印象的な人物テリー・レノックスの原型のような人物が出てくる。

本書は双葉十三郎の翻訳が問題かな。マーロウは「うふう」とか「モチです」とか「承知之助で、お嬢さん」とか「味をやったな」とか言う。これらのセリフがピンとこない。マーロウがこんなこと言うか、と思ってしまう。同年代の翻訳家でも田村隆一はこんなセリフは書かない。本業映画評論家の双葉十三郎氏独特の言い回しだろう。

「失業中のレビューガールがとっておきの最後の靴下をはくときみたいに、注意深く・・・」とか「ふくらはぎは美しく、韻をふんだ詩みたいになめらかな線だった」とか「微笑は歯と眉にひっかかり、落ちたらどこへぶつかるか迷っているかっこうだった」のような冴えた言い回しは絶好調なのだからマーロウのセリフももう少しハードに表現して欲しかった。

「口の中が自動車工の手袋をおしこんだみたいだった」とは、前日の夜ウイスキーを飲み過ぎたときの翌朝の表現だが、言われてみるとその通りだが、自分でその文章を発明することは不可能である。レイモンド・チャンドラーは文章表現の魔術師である。

(2023.6.7)



---殿山泰司のしゃべくり105日---

by 殿山泰司

殿山泰司のしゃべくり105日

著者が1984年1月5日から5月6日まで夕刊フジに連載していたエッセイをまとめたものである。筆者は1984年当時会社帰りの電車の中で夕刊フジをほとんど毎日読んでいた。大部分は電車の網棚の上からタダでいただいたものだが、たまには自分で購入したものもあった。

本書の話題は国内外のミステリーとジャズ、それと映画とテレビの撮影の話、若い頃の遊郭の話、軍隊の話など。

著者は新宿のピットインで山下洋輔トリオ+1を聴いたり、読売ホールで高橋達也と東京ユニオン+リッチー・コールのコンサートへ行っている。筆者はそのどちらへも行っているから、殿山氏とニアミスしている。

落語についても「大阪の落語はそりゃァ無類に面白いけど、なーんか風格に欠けとるとこもあり、東京の落語はその反対」と述べている。

遊郭については吉原に始まり、玉の井、亀戸、洲崎、品川、北千住の公娼私娼街娼についての自身の体験を詳しく述べている。

兵隊時代、「吉田クンは湖北省の山中で討伐行のとき、タイガー・ラグなんかを口笛で吹いてやがった」という吉田クンとは、日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」の創業者・吉田衛氏のことである。戦後、横浜・野毛の「ちぐさ」には若き日の秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正らが毎日のように集まってジャズのレコードを聴き、勉強していたとのことである。

役者は待ち時間をいかに過ごすのかが大切、という著者はひたすら内外のミステリーを読む。「ハフハフキイキイと読ませてもらったぜ」と著者が勧めるミステリーのうち、今筆者が読んでみたいものだけ下に列挙する。

  1. 神谷玄次郎捕物控 霧の果て ーーー 藤沢周平
  2. 共犯証言 ーーー スティーヴン・グリーンリーフ
  3. 第三の大罪 ーーー ローレンス・サンダース
  4. 殺人者は長く眠る ーーー 梶龍雄
  5. 飛車角歩殺人事件 ーーー 本岡類
  6. 柩の十字架 ーーー 勝目梓
  7. レコーディング殺人事件 ーーー 今野敏
  8. 復讐相続人 ーーー 桜田忍

「やたら仕入れるけど、やたらに途中下車するのも多いというのが現状」と述べているのが筆者には心強い。

(2023.6.2)



---第三の時効---

by 横山秀夫

第三の時効

「沈黙のアリバイ」「第三の時効」「囚人のジレンマ」「密室の抜け穴」「ペルソナの微笑」「モノクロームの反転」の6篇が収められている。本書は2002年の第16回山本周五郎賞にノミネートされている。

「沈黙のアリバイ」。容疑者と刑事の取調室での戦い。法廷での勝利を勝ち取るために容疑者が採った作戦とは・・・。

「第三の時効」。今は殺人に時効はないが、本書が書かれた当時は15年という時効があった。ただし、海外に出国している期間を除く、という条件があった。それが第二の時効である。では第三の時効とは・・・。トリッキーな結末。

「囚人のジレンマ」。三つの事件が同時に進行する。それぞれの事件をそれぞれの担当刑事が追及する。エド・マクベインの87分署のような展開。短篇でこれはきつい。それぞれの事件を追いきれなかった。長編でじっくりやってほしい。

「密室の抜け穴」。著者の小説に必ず取り上げられるのがセクション間の対立である。本篇では強行係とマル暴係の対立、さらに強行係の内部でも・・・。事件そのものよりも警察内部の争いが複雑化しながら物語は進んでいく。

「ペルソナの微笑」。これは複雑な話。物語は何度も反転する。そして刑事と容疑者との一騎打ち。解説者は「囚人のジレンマ」が本書中の白眉だとしているが、筆者は本篇だと思う。

「モノクロームの反転」。この篇では第一係と第三係が対立する。ラストは泣ける。

(2023.5.31)



---半落ち---

by 横山秀夫

半落ち

著者の横山秀夫氏は1998年の「陰の季節」、2000年の「動機」、そして2003年の本書で直木賞にノミネートされ、いずれも受賞をのがしている。

なかでも本書が賞をのがしたことについてはいわくがあるようだ。選考委員の北方謙三氏が受刑者がドナーになるのはありえない、と発言し、同委員の林真理子氏がその尻馬に乗って反対したということらしい。実際には受刑者でもドナーになることはあり得る、ということで北方氏の意見の方が間違っていたようだ。

本書は犯行後の容疑者の謎の二日間をめぐって、県警内部の警務部と刑事部のマウントの取り合い、さらに検察が絡んで複雑化する勢力争いがメインテーマで、受刑者がドナーになれるかどうかの議論は枝葉のことである。

読者が本を読んで感動したり、ドキドキしたりすることと上記のことは関係がない。重箱の隅をつつくような意見で面白い本をおとしめるのは良くない。特にエンタテインメント志向の強い直木賞においては。

過去のある容疑者の声「検事さんあなたは誰のために生きているんですか」と、ある裁判官の回想「父の知る唯一の庶民が母だった」には涙せずにはいられなかった。

(2023.5.30)



---悲の器---

by 高橋和巳

悲の器

高橋和巳は1962年に刊行した本書を皮切りに1971年に39才で亡くなるまでに「邪宗門」「憂鬱なる党派」「日本の悪霊」などの作品を発表し、全共闘世代に支持された。

1960年代後期、高橋和巳という作家は若者の間でカルト的な人気があり、その時代筆者も「我が心は石にあらず」のハードカバーを購入した。読み始めると、期待に反して左翼的な文章は見当たらず、知識階級に属するひとのモノローグ的な文章が延々と続いていた。何度か挑戦したが、読み始めると睡魔に襲われ、読了しないまま本はどこかへいってしまった。

それ以来高橋和巳という作家は自分には縁のないひとだと思っていた。最近よく行く古書店で本書と「日本の悪霊」を発見し、久しぶりに見た作家の名前を新鮮に感じて、またかなり安い価格だったので読む読まないはともかくとして購入した。

今回読み始めてみて、意外と読み進められるのに驚いた。主人公が定年間際の大学教授で、妻に死に別かれて家政婦と通じ、同僚の娘(27才)と婚約中という設定が取り付きやすかったのかもしれない。

物語は主人公が家政婦から婚約不履行で訴えられるところから始まる。本書は裁判のシーンの途中で終わるから、話としてはあまり進んでいないのだが、著者の意図はそこにあるのではなく、国立大学の刑法の権威として学部長を務める主人公の、現在までの20年間の生活と意見を順不同に述べることにある。注意して読まないといつの時代の意見なのかわからなくなる。

彼は全共闘時代の大学教授という難しい立場で奮闘する。奮闘すればするほど泥沼にはまり込むが、専門知識では負けないという矜持から、学生たちと妥協することなく対立する。当時学生たちにおもねったり、妥協して良い顔をしたがる教授が数多くいたが、主人公・正木典膳は自分の意見を曲げることはない。

職業に関する整然とした倫理と私生活における感情のおもむく方向は違う。主人公は自分を訴えた家政婦を、逆に名誉毀損で訴える。家政婦対刑法の権威である。ライオンがネズミとまともに戦おうとするようなものではないか。正木は自分の職業への矜持からそれを行い、感情は千々に乱れる。

日本の知識人が誠実に生きようとしたらこうなるのではないか、と本書執筆時30才の著者は考えていた。それにしても30才の時に書いた処女作で、定年間際の大学教授の生活と意見をここまで迫真的に書くとは、高橋和巳という作家はすごい人だったと言わざるを得ない。

京都大学の中国文学科を卒業した著者だからこそ書ける文章、「死都を見て火山の噴火を、泥濘と荒蕪地を見て洪水を回想する難民よりも強く鮮明に」とか「近代刑法は応報主義と保護刑説に分岐して発展し」とか、これらの硬質な文章は読み進める上で障害にならないばかりか、次のページをめくろうとする意欲を亢進する。

(2023.5.29)



---三文役者あなあきい伝---

by 殿山泰司

三文役者あなあきい伝 PART I 三文役者あなあきい伝 PART II

1960年代後半から1980年代前半までに書かれた殿山泰司のエッセイのほとんどが絶版になっていて再販される見込みはない。だから古書市場での殿山本は高い。角川文庫の「日本女地図」は数万円で取引されているくらいである。

本書は著者唯一の自伝である。誕生から1970年代までの歴史を虚実混えて書いてある。

「PART I」のもくじは「INFANCY(幼年期)」から「SUMMING UP(総括して言えば)」まで英語に、「PART II」のもくじは「最後の鉄腕」から「人間」まで出演した映画になっている。

「PART I」は生まれて育った土地である銀座と軍隊での経験が、「PART II」では出演した映画の思い出がメインに書かれているが、話はあっちへ飛びこっちへ飛び、昔のことを書いたかと思えば今読んでいる本のことや飲みにいった酒場でのことを書いたりして取り留めがない。

著者の文章は殿山体と言われる独特の文章で、筒井康隆、山下洋輔、坂田明といったジャズ系の人たちに影響を与えている。

大きな特徴は話の途中で第2の人格が登場し、「そうだろうミンナ? 返事くらいしたりいなア」と合いの手を入れたり、文書の最後に「糞ったれ!!」と捨てゼリフを入れたりする。

印象的だったのは松竹の撮影所前で長谷川一夫の顔を切った男に酒をたかられるシーンと映画「わが町」での川島雄三監督との思い出である。戦争に関しては常に批判的で、特に軍隊の員数主義や軍人の横暴さを非難し、「糞ったれ!!」や「バカタレ」を連発している。

殿山本がなぜ再販されないかと言うと、天皇制を批判したり、オンナの話題になった時、そのものずばりのフォー・レターを連発する癖があるためだろうと推測している。

(2023.5.18)



---スーツケースの半分は---

by 近藤史恵

スーツケースの半分は

第一話から第九話まで9篇の短篇が収められている。短篇はそれぞれ独立した話だが登場人物は共通である。本書の主人公は登場人物たちであり、青い革製のスーツケースでもある。

第一話は真美、第二話は花恵、第三話はゆり香、第四話は悠子、第五話は栞、第六話と七話は春菜、第八話は花恵、ゆり香、悠子、第九話は和司が主人公である。

青いスーツケースはその時々で主人公たちが所有することになる。主人公たちの間にはそれぞれつながりがあり、友人同士だったり、親戚だったりする。最後の和司だけが少し違うが、まるで関係がないわけでもない。

第一話で真美がフリーマーケットで手に入れたスーツケースがどのようにして他の人に渡っていくか、そしてそれぞれのひとの人生にどのように関わっていくかが話の主題になっている。第九話でスーツケースが和司の目の前を通り過ぎていったとき、この長い物語は完結する。

そして読者は第一話から、もう一度本書を読み直すことになる。ひとの運命の不思議さに心を揺さぶられながら・・・。

(2023.5.13)



---ときどき旅に出るカフェ---

by 近藤史恵

ときどき旅に出るカフェ

第一話から第十話まで10篇の短篇が収められている。短篇はそれぞれ独立した話だが登場人物は共通である。

このカフェでは世界中の料理やケーキを出す。店主が月初めの何日間か旅をして味わってきた美味しい食べ物を出すのである。店主がときどき旅に出てその土地の美味しい食べ物をリサーチして自分の店に出すことからこの題名になった。

本作の主人公はこのカフェの店主、葛井円とそこに時々食べに行く客、奈良瑛子のふたりである。

本書はミステリーであるから各話ごとに小さな事件がある。事件とはいっても8個あるはずの月餅がいつの間にか4個になっていた、とか顔を合わせると嫌味ばっかり言う上司がなぜそうなったか、という日常の小さな謎である。

客の瑛子がカフェに立ちよった時に何気なく円に相談する。すると円はいくつかの質問の後、謎と思っていたことを解き明かしてしまう。

各話ごとに副題がついていてそれが「苺のスープ」だったり「ロシア風チーズケーキ」だったりする。毎回副題になったケーキが話の中に登場して、主人公たちが美味しそうに食べるシーンがあるのは楽しい。

第十話のみ副題がついていない。最終話としてあるのみである。もちろんこれには深い意味がある。

(2023.5.12)



---結婚式のメンバー---

by カーソン・マッカラーズ

結婚式のメンバー

メインの登場人物は12才の白人の女の子、6才の白人の少年、そして36才の黒人のメイド。舞台の90パーセントは女の子の家の台所。

この三人がとりとめもなく話している。本書はそういう小説である。「結婚式のメンバー」という題名から想像されるような華やかな話ではない。

不思議なことにこの三人の話を聞いていると人生の深いところを探っているように思えてくる。

翻訳者は村上春樹だ、つまらない小説を翻訳するはずがない。読みながらこれはカーソン・マッカラーズというアメリカの女流小説家が書いた作品というより、村上春樹が書いた小説のような気がしてくる。

村上春樹は数々のアメリカの作家の小説を翻訳している。J.D.サリンジャー、レイモンド・チャンドラー、レイモンド・カーヴァー、スコット・フィッツジェラルド等々。その中でこの作品が一番村上にふさわしい作品ではないかと思う。本書は村上の初期の作品「午後の最後の芝生」に通じるものがあるような気がする。神は細部に宿る。庭の片隅の刈り残された芝生や黒人のメイドが働く台所とかに。

マッカラーズが1946年に本書を出版した5年後の1951年に、サリンジャーは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を出版した。サリンジャーは本書の主人公フランキーを、男女をひっくり返し、2、3才年上にしてホールデン・コールフィールドを作り出したのではないないか。共通点はふたりのとりとめもなく出てくる言葉の数々。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデンの独白は精神病院に入院している時になされた。「結婚式のメンバー」で黒人メイドのベレニスがフランキーに「あんたは頭がおかしくなって、病院に入るのさ。それがあんたの行き着くところだよ」というセリフや「彼女はまるでミレッジヴィルの精神病院から逃げ出した人みたいに、思い切り走った」という文章は12才のフランキーがいずれは精神病院に入ることを暗示している。

フランキーは「自分はいったいなにものなのか、自分は世の中に出てどんな人間になるのか、なぜ今の瞬間自分はここに立っているのか」と自ら問いかける。ホールデンも常に自分の生き方を自分自身に問いかけている。

「世界はあまりにも遠くにあった。そしてどう考えてももう、彼女がその一部となれる見込みはなかった」という疎外感はホールデンとフランキーに共通する通奏低音になっている。

結婚式のメンバーになりたくて、なれなかった少女の行き先は・・・。

(2023.5.11)



---マネー・ボール---

by マイケル・ルイス

マネー・ボール

2011年公開の映画の原作である。映画も面白かったが原作はその倍くらい面白かった。

1997年オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネージャーに就任したビリー・ビーンはセイバーメトリクスを駆使し、無駄な要素を極力省き低予算でチームを強くすることを実現した。セイバーメトリクスとは、野球ライターで野球史研究家・野球統計の専門家でもあるビル・ジェームズによって1970年代に提唱されたもので、アメリカ野球学会の略称SABR (Society for American Baseball Research) と測定基準 (metrics) を組み合わせた造語である。

ビル・ジェームズは野球を数値から客観的に分析し、それまで常識とされていた戦術を否定し、新しい価値基準を考案した。たとえばバントや盗塁より出塁率を重要視し、打率よりも出塁率と長打率を足し合わせた値であるOPSを重要であるとした。

ビリー・ビーンは高収入のホームランバッターをトレードに出し、目立たないが出塁率の高いバッターを入れるなど、低予算で効率的なチーム編成を行い、アスレチックスを地区優勝に導いた。

セイバーメトリクス理論からすると、トラウトやレンドーンなどのスター選手が数多くいるロサンジェルス・エンゼルスがこの数年低迷しているのもうなづける。

年間を通じてトータルの勝率を上げるためには、四球を選ぶのが上手いハッテバーグやボールは遅いがヒットを打たれにくいアンダースローのピッチャー・ブラッドフォード、小太りで鈍足だがここぞというところでヒットを打つキャッチャー・ジェレミー・ブラウンがいたほうが、派手なホームランを打つバッターや華麗な守備の三塁手がいるよりも役にたつ、ということは野球ファンとしては知っておいた方がいいだろう。

(2023.5.8)



---経済学殺人事件---

by M. ジェヴォンズ

経済学殺人事件

舞台はケンブリッジのハーバード大学。登場人物は大学関係者たち。探偵役は大学の経済学部教授。という布陣のミステリーである。

原題は「The Fatal Equilibrium (破滅的な均衡点)」。経済学用語だそうだ。本文中にも経済学用語がたくさん出てくる。そのほとんどは読み飛ばして良い。「効用極大化理論」を除いて。

それが事件の真の犯人にたどりつくに至った理論だからだ。

この小説は事件以外に興味深いことがいろいろ書かれている。事件が起こるのは小説の半分を過ぎたあたりであり、そこまでは伏線というよりも、事件に関係ない情報が多く書かれている。

ハーバード大学というアメリカの名門大学がどんな場所にあり、その中で教授や大学関係者たちがどのように暮らしているか。高所得の教授が暮らす地域とそうでない者たちが暮らす地域の違い。学者たちがパーティなどでどのような会話を交わしているか。クイーンエリザベス号の中での乗客たちがどのように生活しているか。等々。

本書が面白かったので著者M. ジェヴォンズの他の本を検索してみたが、これ以外に見当たらない。本書もすでに絶版になっている。あまり当たらなかったようである。専門用語が多発されているのが敬遠されたのかもしれない。筆者はそこが興味深かったのだが。

最後の5行が本書の主人公・ハーバード大学経済学部教授ヘンリー・スピアマンの今後の生き方を暗示している。

(2023.5.5)



---さらばヘーゲル---

by 井上和雄

さらばヘーゲル

ヘーゲルの代表的著作「精神現象学」は難しい。まず何が書かれているのか理解するのが困難である。なんとかならないかと思い、手にしたのが本書である。著者は経済学者である。

著者・井上和雄氏は、日本の経済学者、音楽評論家,神戸商船大学名誉教授である。経済学者であるにも関わらず、1987年「モーツァルト心の軌跡」でサントリー学芸賞を受賞している。経歴は2003年神戸商船大学を定年退官、名誉教授。自身で弦楽四重奏団を結成し、画も描く、とある。著書は「モーツァルト心の軌跡 弦楽四重奏が語るその生涯」をはじめ、「ベートーヴェン闘いの軌跡 弦楽四重奏が語るその生涯」とか「ハイドンロマンの軌跡 弦楽四重奏が語るその生涯といった音楽関係が多い。本書は唯一の哲学関係の本である。

著者は長年ヘーゲルの著作、とくに「精神現象学」に親しんできて、彼の哲学に感心するとともに納得できないところも出てきた。本書は著者が1993年から断続的に1999年までの間に発表してきた論文をまとめたものである。

第1章「意味を問うヘーゲル」では畑違いの著者が複雑な人間精神を探究するためにヘーゲルを読むところから出発する。読み進むうちにヘーゲルの論に違和感を感じはじめる。

第2章「ヘーゲルの難解さ」ではヘーゲルの「思弁哲学」と「歴史哲学」を取り上げ、その概要を述べる。また、ヘーゲルがイエス・キリストに触れざるを得なかったことも。プラトンからヘーゲルを経てハイデガーに至るまで、そしてあのニーチェでさえもこだわらざるを得なかったのがイエス・キリストの存在である。

第3章「感覚の働きについて」。この章では感覚と知性というテーマでヘーゲルの誤りに迫っている。著者はイソギンチャク、クラゲ、ミミズ、魚、猫という順番で感覚と感情の関係の発展系について述べる。精神作用と身体作用の有機的な関係性については最近特に重要視されている。ヘーゲルの時代にはその視点の考察が欠けていた、と著者は述べる。

第4章「感情の働きについて」。この章で著者・井上和雄氏はヘーゲルの理論に真っ向から反対の意見を述べている。「さらばヘーゲル」という題名は著者がヘーゲルから脱却して独自の道を進み始めたことからきている。

ヘーゲルは理性こそが人間が生きるための根本的な要素であり、感覚や感情は排除すべきものであるという。著者は感覚や感情こそが人間の活動を生み出す根源的なものであるという。人間が行動を起こすモチベーションは感情からくるものであり、理性からではない。「人を愛せよ」と理性に命じられたとしても、愛を「感じ」なければ、愛は存在しない、という。

ただ、我々が苦しみもがくとき、我々は知らぬ間に理性に助けを求めている。その悩みから脱却するということは、理性がその苦しみの根源を教えてくれる時である。とし、理性と感覚、感情は互いに補完し合うことによって人間は前進していくのだ、という。誠に自然な意見であり、著者に説得力を感じた。

第5章「悟性と観念論」。ここで著者はヘーゲルは感覚と理性に関しての認識に間違いをおかしているという。理性を重んじるあまり感覚や感情という情動的なものを軽視し過ぎている、という。
ヘーゲルを原書で読んでここまで相手の間違いに気づき、それを批判するということはすごいことだ。
「精神現象学」の数行を読んでも、何をいっているのか筆者にはまるで理解することができない。「知覚を越えた境地にある意識は、現象界を媒介として、現象界を透視するという形で超感覚的世界とつながっている。そしてここに来て純粋な内面世界という一方の極と、純粋な内面世界を透視する内面的思考というもう一方の極が合体し、両極が極をなさなくなるとともに、両極とは違う中間項も消滅している」という文章が理解できるものだろうか。

第6章「自己意識について」。ヘーゲルの著作から「自我は自分及び他者を顕示する光である」という文章を取り上げ、考察を進める。ここでも著者は徹底的にヘーゲルの論旨の不備をとらえる。科学技術についてはもちろんのこと、学術的な論旨についても時代が進めばどんどん新しい知見が発生し、議論はとどまることなく進んでいく。著者はこの書物でそのことを明確に実証した。古典とはいえ納得できないことは正していくことが大切であることを教えられた。

(2023.5.3)



---プラトン---

by ゴッドフリード・マルティン

プラトン

理想社のロ・ロ・ロ・モノグラフィー叢書の一冊である。この叢書は文学、音楽、哲学、政治等にたいして創造的な業績をあげた人たちの生涯と作品を解説したものである。

本書は哲学者のプラトンについて書かれている。

プラトンが生きていた時代のギリシャやその周辺の国の地図とか、パピルスに書かれた対話編とか、同時代に生きたその他の哲学者たちの彫像の図版が数多く載せられていて興味深かった。

同じ内容の本として (R.S.ブラック著「プラトン入門」、 F.M.コーンフォード著「ソクラテス以前以後」、納富信留著「哲学の誕生 : ソクラテスとは何者か」) などがある。上記の方が専門的であり、本書は概括的である。

初めて哲学を学ぶ学生にとってはプラトンの生涯とその哲学の概要をわかりやすくまとめた本として役に立つであろう。

(2023.4.27)



---人生の踏絵---

by 遠藤周作

人生の踏絵

著者は不定期に紀伊國屋ホールで講演会を行った。その時の講演録である。

公演のテーマはいずれも直接的にまたは間接的にキリスト教に関係する本の書評である。著者自身の本もあれば海外の作品もある。

書評はいずれも作家ならではの意見で興味深かった。作家の感想は興味深いのだが、それと自分が読んで面白いかは別である。これは遠藤氏に限らず他の書評家が推薦する本でも一緒である。

遠藤氏がことあるごとに取り上げ、本書でも何箇所かで論じているお気に入りの本「テレーズ・デスケルウ」は以前読んでみたことがある。筆者は少しも面白いと思わなかった。

グレアム・グリーンの「情事の終り」も最後まで読み通すことができなかった。アンドレ・ジッドの「狭き門」は中高校生時代に読んでそれなりに感銘を受けたが、当然ながら遠藤氏のような深い解釈ではなかった。

   【取り上げられた本】

  1.  沈黙 --- 遠藤周作
  2.  テレーズ・デスケルウ --- フランソワ・モーリヤック
  3.  モイラ --- ジュリアン・グリーン
  4.  事件の核心 --- グレアム・グリーン
  5.  情事の終り --- グレアム・グリーン
  6.  狭き門 --- アンドレ・ジッド
  7.  田舎司祭の日記 --- ジョルジュ・ベルナノス
  8.  イエスの生涯--- 遠藤周作
  9.  キリストの誕生 --- 遠藤周作
  10.  侍 --- 遠藤周作
  11.  スキャンダル --- 遠藤周作

著者の「イエスの生涯」「キリストの誕生」はそれぞれ興味深く面白かった。

(2023.4.23)



---海と毒薬---

by 遠藤周作

海と毒薬

遠藤周作初期の作品である。戦争末期に行われた軍部と九州大学によって行われた生体実験により8人のアメリカ兵の命が失われた。関係者は戦後裁判にかけられ、5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。

作品は関係した助手、看護婦らの一人称で事件のありさまが描かれる。

「イエスの生涯」を読むまで、遠藤周作という作家を読むに値しない作家だと思っていた。「ぐうたら生活入門」とか「それ行け狐狸庵」とか「大変だァ」のようなユーモアものや「周作快談」のような対談ものを手に取ってみたが、いずれも中途半端な内容で途中下車した。この作家は物事に正面から向き合う気があるのか疑った。

つい先日「イエスの生涯」を読んで驚いた。そこにはレザー・アスランの書いた「イエス・キリストは実在したのか?」より真実味のあるイエスが書かれていた。しかも遠藤氏の方がアスランより40年も早い。

どうもこの作家は真面目な作品とおふざけの作品を使い分けているようだ。狐狸庵先生という愛称と親しみのある顔に騙されていたが、実は身長183センチの痩身の作家であった。

(2023.4.22)



---音楽と生活 兼常清佐(かねつねきよすけ)随筆集---

by 杉本秀太郎 編

音楽と生活 兼常清佐随筆集

吉田秀和の音楽評論を想定して読み始めた。

あれっと思った。この兼常(かねつね)先生の言うことはどこか違う。

例えば「名人滅亡」という章を読むと、ベートーヴェンに音楽を注文したウィーンの貴族たちはそこに芸術や哲学的なものを期待してそれを聞いたであろうか。そんなことは考えられない。彼らはその心を楽しませ耳を楽しませるためにこそ、シンフォニーを発注したはずだ。という。

「音楽の合理化」という章では、音楽を聞く大多数の人はそのところどころに出る美しいメロディを聞いて喜んだり、いろいろな楽器の豊富な音色を聞いて楽しんだりするぐらいなものである。と書いたりしている。

確かにその通りだ。我々には一秒間に12音の音を聞き取ることはできないし、音を同時に発する和音を聞き取れるわけもない。こんな正直なことを言うひとはどういうひとだろうかと調べてみたら、1885年に山口県萩市で生まれたひとだ。明治18年だから明治維新から18年しか経っていない。勝海舟や伊藤博文がまだ生きていた時代である。京都大学の先輩に西田幾多郎がいるし、同年代に和辻哲郎がいる。明治の自由な時代に生きたひとのようだ。

京都大学でギリシャ哲学を専攻し、同大学院で日本古典音楽を研究した。30才で東京音楽大学のピアノ科に入学した。37才の時、ドイツの国立音楽大学の作曲科に入学した。小遣い稼ぎに浅草で活動写真の弁士をしたこともある。その時の芸名は相良武雄といった。サガラ・タケオではない。アイ・ラブ・ユウと読ませたそうだ。独特なひとである。このひとの伝記を読んだらおもしろいだろう。

この明治生まれの先生の言うことは現代の音楽評論家の言うことよりも斬新である。楽譜は寸法が書かれていない洋服の注文書のようなもの、と言ったり、パデレフスキーがたたいても猫が鍵盤を踏んでも音は同じであると言ったり、ピアニストはタイプライターと同じである、と言ったりする。また歌舞伎の音楽はつまらなく、言葉はくだらないと言う。自分の体験から組み立て体験だから説得力がある。お仕着せの、どこかで聞いたような意見ではない。

兼常先生が語るのは音楽ばかりではない。俳句を語り、和歌を語り、草花を語り、科学を語る。その話題はとどまることを知らない。

読書は過去の人物との交流である、という意見を聞いたことがある。身の回りや同時代のひとにこれという人物がいなくても過去に素晴らしい人物がいてその言葉が残っていれば、十分役に立つ。紀元前400年に生きたプラトンの言葉が残っていて我々に生き生きと話しかけてくれる。硬直化した音楽理論でしか評論できない現代の評論家に物足らなくても、明治生まれの柔らかい考えを持つ兼常先生の意見を読むことができるのはありがたい。

(2023.4.21)



---キリストの誕生---

by 遠藤周作

キリストの誕生

新約聖書の約半分は4人の信徒による福音書で、残りの半分は使徒行伝と信者たちの手紙で占められている。

福音書にはイエスが生まれ、荒野をさまよいながら布教活動を行い、ローマ兵に捕縛されて死刑になるまでが書かれている。使徒行伝以降の文書にはイエスの死後、信徒たちによる布教活動の様子が書かれている。キリスト教の聖典は厚さ1センチ程度の文庫本に収まる程度の量である。

作家でキリスト教徒の遠藤周作は「イエスの生涯」で福音書を、本書で使徒行伝以降を書いた。

イエスは弟子たちに理解されないまま死んでいった。イエスが捕縛された時、蜘蛛の子を散らすように逃げていった弟子たちがなぜキリスト教を作り上げたのか。ユダヤ教の一分派に過ぎなかった弱小教団がどのようにして世界宗教になっていったのか。著者は本書で考察する。

結局著者はイエスの12弟子のひとりペテロとイエスを迫害しイエスの死後信者になったパウロの超人的な働きによるものだとする使徒行伝をなぞるしかなかった。イエスの死後数年でイエスを殺したローマ帝国にまで入り込んだキリスト教の浸透力を証明することはできなかった。こののち著者が「死海のほとり」や「沈黙」を書かなければならなかったのは必然だったといえる。

(2023.4.17)



---後悔と真実の色---

by 貫井徳郎

後悔と真実の色

貫井徳郎という作家はびっくりするようなトリックの作家で、それを除いたら若干物足りないかな、という印象を持っていた。

本書はトリックは普通だが、読者を引っ張っていくサスペンスと厚みのある人間ドラマが以前より増していた。

物語は連続殺人事件を追う刑事たちのドラマを丹念に描いている。捜査本部に集まった刑事たちの個性が際立っていて、エド・マクベインの「87分署シリーズ」やシューヴァル-ヴァールー夫妻の「マルティン・ベック シリーズ」を思わせる。

刑事たちの仕事は被害者の縁故関係を担当する者やウェブ関係を担当する者というように捜査対象が細分化されていて、全体を見ることができるのはトップの一部の者だけになっている。個々の刑事はひたすら地味な仕事をするだけである。だが彼らの地味な仕事は徐々に犯人に迫っていく。

ページが残り少なくなるにつれて緊迫度が増していく。読者はページターナーとなり、ひたすら次のページをめくる。そして姿を現した犯人は・・・。

(2023.4.14)



---イエスの生涯---

by 遠藤周作

イエスの生涯

2013年にレザー・アスランが出版した「イエス・キリストは実在したのか?」(原題「Zealot : The Life and Times of Jesus of Nazareth」「熱狂者 : ナザレのイエスの生涯とその時代」) より49年ほど前、1973年に日本の小説家・遠藤周作は本書を上梓した。

著者は実在したイエスの本当の姿を追求する。

ローマ帝国に支配されたユダヤの過激な預言者ヨハネの跡を継いだイエスは死海のほとりガリラヤ、サマリヤ、フェニキアで布教活動をする。。

「イエス・キリストは実在したのか?」ではローマ帝国に対抗する革命家としてのイエスを強調するが、本書では革命家としてのイエスに期待するユダヤの民衆の願いを退けようとするイエスについて語る。山上の教えでイエスはシュプレヒコールを期待する民衆に対して「心貧しき人、柔和な人、泣く人、心きよき人は幸いである」と唱える。この微妙な食い違いがイエスの生涯の最後まで付きまとう。

レザー・アスランはローマに対抗する革命家としてのイエスを主張したが、遠藤周作は宗教家としてのイエスを主張している。

イエスが十字架にかけられたのは革命家としてであった。民衆がイエスに期待したのもローマからユダヤを解放してくれる革命家としてであった。弟子たちも愛を唱える宗教家としてのイエスを理解していなかった。イエスは天涯孤独で十字架上で死んだのだ。

著者はイエスが囚われた時クモの子を散らすように逃げ去った頼りない弟子たちが、なぜ原始キリスト教団を組織し、自らが殉教者になったのかを考察する。彼らの働きがなければ現在のキリスト教は存在しなかったのだから、180度の変身を遂げた弟子たちの動機が知りたいところだ。

著者は弟子たちがイエスの死後その無私な愛にうたれたため、というところでお茶を濁しているが、本当のところはどうだったのか。

(2023.4.13)



---JAMJAM日記---

by 殿山泰司

JAMJAM日記

「JAM」とはごた混ぜの意味である。JAM SESSIONというのはジャズ・ミュージシャンたちが仕事が終わったあと、全員で好き勝手に演奏することである。

本書は著者の1975年11月から1977年3月までの日記である。といっても本物の日記ではないだろう。著者にとって重要な事柄について限定して書いてある。それはジャズとミステリーと映画、それと友人たちとの交流である。

筆者はあるジャズ・コンサートで殿山氏とニアミスしたことがある。その件については以前このホームページで書いたことがある。1970年代に殿山氏が出没していたコンサート会場は新宿厚生年金会館、芝郵便貯金会館、新宿PIT INNなどである。筆者のテリトリーとほぼ一致しているので、もっとニアミスしていたに違いない。

本書は内外のミステリーの案内書としても読むことができる。桜田忍「狼の牙」、黒木曜之助の「虚構の祭典」は読んでみたい。

映画ではアーサー・ペン監督の「ナイト・ムーブス」、アンジー・ディキンソン主演の「ビッグ・バッド・ママ」が面白そうだ。

ミステリーではないが、カースン・マッカラーズの「黄金の眼に映るもの」が「ヒイヒイいうほどおもろかった」そうだ。

執筆時62才の殿山氏の感性はみずみずしい。本書で合いの手を入れる「バアサマ」は当時同棲中の30才ほど年下の愛人であったらしい。

(2023.4.8)



---猫を棄てる 父親について語るとき---

by 村上春樹

猫を棄てる

村上春樹が若い頃から両親と絶縁状態になっていることは知っている。自身どこかで書いていたからだ。両親のどちらも国語の教師であったようだ。

副題に「父親について語るとき」と書いた本書にそのわけが書いてあるのでは、と期待をもって読んだが何も分からなかった。

「猫を棄てる」という題名が示す通り、著者が小さい頃飼っていた猫を父親と一緒に海岸へ捨てに行く話である。捨てて帰ったつもりの猫はいつの間にか自分たちよりも先に家に帰っていて、出迎えを受けたふたりは唖然としたという思い出である。このころの村上父子は仲が良かったのだろう。

父親の生い立ち、彼は徴集されて3回戦地へ行ったこと。もしかしたら捕虜を殺したかも知れなかったこと。

著者が60才の時、癌で入院している90才の父親を見舞った時に仲直りらしきことをしたこと。

著者がなぜ父親と疎遠になったかは書いていない。現在74才の著者はそのことを書く時が来るのだろうか。

(2023.4.4)



---カノン---

by 中原清一郎

カノン

「透明人間の告白」という小説を読んだことがある。ひとが実際に透明人間になったらどのように見えるのか。たとえば食べた食物はどこまで見えるのか。排泄する大便はどの時点から見えるのか。他人から見えないとかまわずぶつかって来られて往来を歩くのは危険である。とか、実際になってみると透明人間というのは不便なものである、ということを想像した小説であった。

本書は脳の一部である海馬を交換したらどうなるのかを書いた小説である。記憶障害になった32才の女性の海馬と末期がんになった58才の男性の海馬を交換し、男性の海馬が女性の中で生き残り、女性の障害を持った海馬が末期癌の男性のからだと共に死んでいく。男性の海馬を持った女性の生活を追うことで著者は脳を交換することの意味を考察する。

本書を読みながら脳の交換は同性に限る。と思った。異性では成り立たないのではないか。本書でも後ろから呼びかけられた時の動作を訓練する場面があるが、そうした何気ない場面でも男と女ではリアクションが違う。

脳の中で海馬という部品は記憶をつかさどっている。ただ思考、自発性(やる気)、感情、性格、理性などの一番本人らしいところは大脳の左前頭葉の前半部が受け持っているらしい。海馬交換後、主人公の女性は58才の男性の意識で考えているが、それからすると海馬を交換しただけでは58才の男性の意識は女性に移行することはなく、基本的な考え方は元の女性・カノンの思考が生きているのではないか。

著者は人間のこころはどこにあるのか、ということを追求するために本書を書いたのだと思われる。著者はこころは脳とからだが半々で受け持っていると証明したいらしい。

筆者はこころは脳の中にだけあり、からだは脳の命令で動く乗り物に過ぎない、と考えている。

(2023.3.31)



---人の()れ方---

by 中原清一郎

人の昏れ方

著者の中原清一郎氏は東京大学在学中に本名の外岡秀俊名義で書いた「北帰行」で注目された。が、卒業後朝日新聞社に入社し、58才で早期退職するまで勤めた。最後の役職は東京本社編集局長であった。61才の時、朝日新聞社社長就任を打診されたが両親の介護を理由に固辞した。退職してから作家に復帰し、2014年に「カノン」、2015年に「ドラゴン・オプション」、2017年に本書を発表した。2021年に68才で亡くなった。

「悲歌」「生命の一閃--朱夏」「消えたダークマン--白秋」「邂逅--玄冬」の4篇が収められているが、主人公はいずれも矢崎晃という報道カメラマンである。

あとがきによると4篇は人生の春夏秋冬を表している。「悲歌」は20才の時、父親が自殺する。父親の友人からその理由を聞き、戦争中の父親の生活を知る。

「生命の一閃--朱夏」は新聞社にカメラマンとして勤めている主人公を描く。仕事と家庭を両立することの困難を描く。

「消えたダークマン--白秋」では出世して主流になるか傍流に退くかの選択を迫られる。傍流に退いた主人公が戦争中のコソボでみたものは・・・。

「邂逅--玄冬」。早期退職した主人公は遺品整理会社でアルバイトをする。そこで会ったひとびとや60才を過ぎて新しい体験をする主人公を描く。

ここで描かれた主人公の人生はほとんどすべての男の人生と共通するものがある。ただ著者本人はひたすらエリートの道を歩いた人生のように思われる。

(2023.3.30)



---歳月---

by 司馬遼太郎

歳月

著者は1963年「竜馬がゆく」で明治維新前期を、1969年に本書「歳月」で明治維新後期を描いた。

革命というものは成功するまでが英雄の時代、その後新しい国を作る時が政治の時代である。革命家と政治家は違う人種である。「竜馬がゆく」と「歳月」を読むとそのことが明確にわかる。

明治維新の前期で活躍した英雄たち、西郷隆盛、勝海舟、桂小五郎、坂本龍馬らが早々に歴史の舞台から身を引き、その時に活躍できなかった大久保利通、伊藤博文、岩倉具視らが政治の舞台で活躍し始める。本書の主人公・江藤新平もそのひとりである。

江藤新平は明治新政府で司法卿としてところを得た。彼は現在まで続く刑法民法商法等国民が必要とするすべての法律の基礎を何もないところから築いた。佐賀藩の下層階級に生まれた江藤は荒事よりもそういう分野の仕事が得意だった。

江藤新平の悲劇は彼は荒事が苦手だったが、政治も得意ではなかった。人の顔色を読むことをしなかったし、人の気持ちを察することもできなかった。司法卿として法律を作り実施する仕事をこなすことにかけては一流だったが、政治家として人と人との間をうまく立ち回ることができなかったため、無用の恨みを買うことが多かった。彼の運命を決めたのは総理大臣ともいうべき大久保利通の恨みを買ったことだった。

佐賀の乱以降の彼の運命は悲劇としか言いようがない。江藤の死を演出した大久保も数年後暗殺された。岩倉具視、板垣退助、伊藤博文ら明治維新の功労者たちは後にその肖像を紙幣に印刷されたが、最大の功労者、大久保利通は外されている。江藤新平に対する過酷な仕打ちなど、暗い部分を持っていたためであろう。

(2023.3.29)



---インフルエンス---

by 近藤史恵

インフルエンス

三人の女性の半生。彼女らがお互いに影響(インフルエンス)を及ぼし合いながらどのように過ごしてきたかを描いている。

彼女らの関係は小学校低学年から始まり、30代半ばまで断続的に続く。

本書に起こるような大変な事件には至らないまでも、どんな女性でも似たような経験を持っているのではなかろうか。特に思春期からある程度人格が固まる時期(高校卒業程度)までは、女性は女性なりに、男性は男性なりに大変な時期である。著者は女性同士の混乱の時代の関係をある事件を通して鮮明に描いている。

(2023.3.25)



---ホテル・ピーベリー---

by 近藤史恵

ホテル・ピーベリー

始まってから3分の1までは普通小説のようだった。

主人公は仕事を辞めてハワイの長期滞在型ホテルに行く。ハワイに行ったのも目的があるわけではない。何にもしないで過ごしたかったのだ。

このホテルは日本人の夫婦が経営していて滞在客も全員日本人である。舞台がハワイというだけでそこが日本であっても違和感はない。ホテルとはいっても6組の客しか受け付けず、食堂兼居間で朝昼晩の食事ができる。シェアハウスのようなところである。滞在客同士は顔見知りになる。

ここまでは青春小説のような展開で物語は進む。

3分の1ほど進んだところで滞在客のひとりが事故で死ぬ。ここで、この小説はミステリーだったのか、と気づく。そのあともうひとりの滞在客が事故死し、犯人は誰かということになる。

とはいっても登場人物は少ない。ホテルの経営者夫婦、語り手とふたりの滞在客しかいない。

長期滞在とはいってもヴィザの関係で最長3ヶ月の滞在である。経営者も含めてお互いどういうひとかをさらけ出しているわけではない。それが徐々に解き明かされていく過程で軽い青春小説で始まった物語が意外に重い人生を語っていたことに気づく。最後の1行が語り手のこれからの人生を暗示している。

(2023.3.23)



---シフォン・リボン・シフォン---

by 近藤史恵

シフォン・リボン・シフォン

「シフォン・リボン・シフォン」というのは主人公が経営するランジェリー屋の店名である。第一話から第四話までの短篇はすべてこの店に関わりを持った人々の物語である。

女性用の高級下着の店が舞台になるわりにはすべて考えさせられる話になっている。読み終えたあとほろっとするようになっている。

第一話は母親が寝たきりになったために、自宅介護をせざるを得なくなった長女の話。長女には弟と妹がいるがそれぞれ独立していて家に寄りつかない。父親は働くのみで母親の介護にはタッチしない。

長女は誰からも感謝されないまま30代半ばになっている。介護の合間に少しだけ寄って立ち読みするのを楽しみにしていた本屋が閉店し、新しい店になるらしい。それが「シフォン・リボン・シフォン」という名のランジェリーの店であった。

長女は今まで縁のなかったおしゃれなランジェリーを買うことによって心の自由を取り戻す。今まで父親と母親に言葉の棘でしばり付けられていたことに気づいたのだ。女性がおしゃれなセンジェリーを身につけることがセックスにもエロスにも関係なく自分を解放するという心の持ちようは著者が女性だから説得力があるのだろう。

第二話はLGBTsに関係する話である。長男が「シフォン・リボン・シフォン」に通っているのを発見した父親は・・・。セックスにもエロスにも関係なく女性の下着を求める男性の話である。

第三話は「シフォン・リボン・シフォン」の店長の話である。彼女の生い立ちとなぜ彼女がランジェリーの店を始めることになったのか。以前「なんで下着屋なの?」という母親の言葉に反発した主人公。母親が要介護になったことが原因で主人公は「シフォン・リボン・シフォン」の店を都会から地方の街に引っ越すことになる。

第四話は「シフォン・リボン・シフォン」の店に来始めた上流夫人の話。彼女は高価な下着を買い置きしながら支払いをせず、日を置いて何事もなかったように来店することを繰り返す。「もし今の彼女が不幸だとしたら、それはきれいなものしか見ようとしなかったからだ」という言葉が胸に刺さる。

いずれも家族の話である。父と娘、母と娘、父と息子、母と息子。四篇の物語に副題をつけず、第○話としてあるのは、いずれも特別な話ではなく、読者それぞれの身の回りにある物語だからだと思う。

(2023.3.22)



---睡眠口座---

by コーネル・ウールリッチ

睡眠口座

「ハミング・バード帰る」「睡眠口座」「マネキンさん今晩は」「小切手と花と弾丸と」「耳飾り」の4篇が収められている。いずれの作品もミステリーというよりはサスペンスのジャンルに属している。

「ハミング・バード帰る」は盲目の母親のところへ犯罪者として帰ってきた息子と母親の物語である。暗くなった部屋の中で盲目の老女とギャングどもの戦いの結末は・・・。以前オードリーヘップバーン主演で同様の設定の一幕ものの映画があった。「暗くなるまで待って」という題名だった。原題もそのまま「WAIT UNTIL DARK」。

「睡眠口座」は睡眠口座の持ち主に成り済ました浮浪者が、うまく大金を手にいれたまではよかったが・・・。その金にはとんでもない紐がついていて・・・。

「マネキンさん今晩は」。都会に憧れた田舎の女が姉を頼って都会に出てきた。姉ははじめはまともなところに勤めていたが今はギャングの情婦になっていて・・・。ギャングは妹を堕落させようとし、妹を守ろうとする姉は・・・。世間によくある話だがウールリッチが書くと強烈なサスペンスとなってページをめくる手を止めることができなくなる。

「小切手と花と弾丸と」。詐欺師のクリップはうまく引っ掛けたはずの女優からある依頼を受ける。徴兵令状が来た恋人の腕を撃って兵役不能にしてほしいとというのだが・・・。騙し騙されのコンゲーム。結末は・・・。

「耳飾り」。その件については無実の犯罪者が冤罪で死刑の判決を受ける。目撃者の主婦は・・・。という話だと思うのだが、あまりにもサスペンス臭が強くて、どういう話なのかはっきりと把握できなかった。なぜ耳飾りが牛乳瓶の中に落ちたのかも。

(2023.3.20)



---「愛」という言葉を口にできなかった二人のために---

by 沢木耕太郎

本物の読書家

著者の沢木氏は映画好きである。過去に「シネマと書店とスタジアム」という映画評の本を書いている。

本書では32の映画を取りあげている。沢木氏が書くとすべて面白そうに思えるが、映画と映画評は違う。淀川長治氏が評した映画はすべて面白そうに思える。北上次郎氏が評した冒険小説はすべて面白そうに思える。実際に観たり読んだりするとそうでもないことが多い。

著者はプロローグでこう書いている。「成就した愛は変容する。成就しなかった愛は色褪せることはなく、むしろ年を経るごとに鮮やかにすらなっていく」。面白そうな映画はそのままにして、あえて観ないでおくということも大事かもしれない。

すべて面白そうな映画のうち、これは観たいと思ったのはキャシー・ベイツ主演の「黙秘」という映画である。これはスティーヴン・キング原作のミステリーで過去と現在でふたつの殺人事件が起こる。その間の母と娘のあつれきを描いたもので、キャシー・ベイツの母親の演技が秀逸であるらしい。「こうしてセリーナを見送るドロレスには永遠の母親の像が刻みこまれる」という文章を読んでは観ないわけにはいかない。

「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は証人保護プログラムにより保護された元殺し屋役をヴィゴ・モーテンセンが演じる。ふた通りの人格をモーテンセンがどのように演じるか、興味深い。

「旅する女/シャーリー・バレンタイン」も興味がある。結婚当初は優しかった夫が中年になると横暴になり、妻を家政婦のようにあつかうようになる。夕食に気に入らないものが出るとちゃぶ台をひっくり返すのは日本の亭主だけではないようだ。シャーリーは自分探しの旅に出る。結末はどうなるんだろう。

著者は「陳腐なサスペンス映画や不快なだけのホラー映画、潤いのない文芸映画やテンポの悪いアクション映画を見つづけていると、うまい役者と職人としての技術を持った監督による、さりげない小品を見たくなる」と述べているがまったく同感である。

(2023.3.18)



---読書狂(ビブリオマニア)の冒険は終わらない!---

by 三上延、倉田英之

読書狂の冒険は終わらない!

「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズの著者・三上延と「R.O.D」の構成、脚本を手がけた倉田英之の本にまつわる対談である。

第1章ではスティーヴン・キング。第2章では江戸川乱歩、横溝正史、山田風太郎。第3章では赤川次郎について述べる。モダン・ホラー、日本的なミステリー、ライト・ノベルに通じる赤川次郎と興味深い話題が続く。

江戸川乱歩に構成力がなく、横溝正史を羨ましがっていたのでは、という指摘。ライトノベルの元祖赤川次郎に意外に重い作品があった、という指摘など作家ならではの見方で読者の興味を誘う。「孤独な週末」や「世界は破滅を待っている」が赤川氏らしからぬ重厚な作品ということなので読んでみたい。

第4章では挫折本。第5章では珍本・奇本。第6章ではトラウマ本。読書好きには欠かせない話題だ。

最後の第10章では本の未来について語り合い、締めとなる。ありきたりではあるが紙の本は永久に無くならないという結論には同感である。

(2023.3.17)



---人斬り彦斎(げんさい)---

by 五味康祐

人斬り彦斎

人斬り彦斎(げんさい)こと河上彦斎は幕末に生きた実在の人物である。

佐久間象山を暗殺した人物として歴史に残っている。のちに勝海舟は彦斎を「それはひどい奴だったよ。しかし河上は殺されたよ。 私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ」と述べている。

著者はわずかに残された資料から河上彦斎という人物の38年間の生涯を書いた。

ここには時代に乗り遅れた剣豪の典型的な生き方が見られる。彦斎を始め、近藤勇、土方歳三、中村半次郎、西郷隆盛なども時代の急流の中で取り残されていった。

坂本龍馬、勝海舟、桂小五郎(木戸孝允)などの人物は時代を作り途中から脱落していった。維新の革命政府で最後に残ったのは大久保利通と伊藤博文である。大久保と伊藤は藩では身分が低く、江戸時代が続いていれば、到底浮かび上がることはなかったろう。

本書で著者は想像力を駆使して彦斎の私生活にまで入り込み、馴染みになった芸妓との関係を通して彼の内面を描写する。

そこから浮き上がってくるのはあまりにも実直で不器用な男の姿である。これでは時代を走り抜いた桂小五郎に見捨てられるのも仕方がない。その桂でさえのちに大久保利通に見捨てられる。この時代の政府中枢で生き残るのは並大抵のことではなかったろう。

(2023.3.16)



---オータム・タイガー---

by ボブ・ラングレー

オータム・タイガー

東ドイツの大物スパイ・スタピウスが亡命するという。それには条件があり、CIAの科学技術本部長・タリーに出迎えてほしいというものだ。タリーはCIAではずっと事務部門担当で情報関係の職務に就いたことはない。しかもあと4日で定年退官を迎える。

なぜ自分なのか、訳がわからないでいるタリーにスタピウスからライターが届けられる。それを手に取ったタリーは自分の全人生が変わってしまうことを予感する。

タリーは1945年2月に起きたことを回想する。タリーが若い頃、戦争中に体験したことが物語の95%を占めている。

これはかなり良くできた「過去からの狙撃者もの」である。

長い回想シーンから現在に戻り、スタピウスと対面した時、それと最後の1行を読み終えた時、読者は二段構えでショックを受けるだろう。最後の1行を読み終えて、涙しない者はこの物語を読む資格はない。

(2023.3.14)



---貧しき人びと---

by F.ドストエフスキー

貧しき人びと

ドストエフスキーの記念すべき処女作である。前編書簡体で書かれている。

47才で独身の9等官マカール・ジェーヴシキンと17才の孤児ワルワーラ・ドブロショーロワの手紙のやり取りで書かれている。お互いの境遇や生活が往復書簡を読むうちにわかる仕組みになっている。

読んでいるうちにふたりの性格や考え方などが読者の頭に浮かんでくる。

ワルワーラは地方の農園で比較的落ち着いた暮らしをしていたが、父親が亡くなり、母親と共にペテルブルグに出てきて貸間暮らしをするようになるが、やがて母親も病から亡くなる。

マカールは下っ端の役人で、どうやら文学を志しているようであるが、芽が出ない。それとなく匂わせているがアルコールに目がないようで、それがもとで時々失敗をしているらしい。47才まで独身なのは彼に生活力がない、甲斐性がないためである。

47才のマカールが17才のワルワーラに恋するようになるが、自分に甲斐性がないことを知っているため、手紙のやり取り以上にふたりの関係を進めることができない。

そのうちにワルワーラの健康が悪くなり、生活することができなくなる。役所から俸給を得ているはずのマカールは彼女に援助することができないばかりか、逆に彼女から金を援助してもらう始末である。

ふたりにとって救いのない状態が続くうちに、彼女に援助しようという金持ちのブイコフ氏が現れる。彼女を妻にしようという申し出をする。愛人とかお妾さんでないだけ彼女にとっては救いだったのだろう。ワルワーラはその申し出を受けることにする。

このふたりがのちに「罪と罰」の9等官マルメラードフと娼婦ソーニャへ移行したことは明らかである。

ワルワーラはマカールへの手紙にすべてを書くが、マカールにはなにも期待することはできないことを知っている。手紙をもらったマカールも自分には何もできないことを知っている。

救いのない話である。ただこれが19世紀のロシアの貧しい人びとの話である、とばかりはいえない。同様のことが現代の日本でも起こり得る、または起こっているのではないか、と読者に思わせるところがドストエフスキーの凄いところである。

ワルワーラとマカールは金銭的に貧しかったが、精神的に貧しい男女同士がうまくいかない、なんてことは日本では毎日のように報道されている。

(2023.3.13)



---白夜---

by F.ドストエフスキー

白夜

1848年、ドストエフスキー27才の時の作品である。処女作「貧しき人びと」とほぼ同時期に書かれた。本書はドストエフスキーでは珍しく毒のない作品である。

ある白夜の晩、あてもなく散策している夢想家の青年が酔っ払いにからまれそうになった少女を助ける。一目で少女のとりこになった青年は翌日も会ってくれるように申し込む。

4夜にわたって夢のようなデートをした青年は5夜目に少女の以前の彼氏と遭遇する。少女は・・・。

本書の純情な青年は「地下室の手記」では自意識過剰な破滅型の主人公になり、「罪と罰」では殺人者となる。

のちの重厚な作品に比べて純情な青年の淡い恋物語は物足りなさが残る。著者がドストエフスキーらしさを出し始めるのは5年間のシベリア流刑まで待たなければならない。

(2023.3.9)



---賭博者---

by F.ドストエフスキー

賭博者

「賭博者」は「罪と罰」と同じ年、1866年に書かれている。このふたつの作品は借金返済のために書かれたものとして有名である。

特に「賭博者」は期限が迫っていたため、速記者を雇って口述筆記した。その後、作品を書く時ドストエフスキーは口述筆記を多用したらしい。

ドストエフスキー自身が賭博に取り憑かれた人だったそうだが、自身の体験をもとにして書かれた本作にはふたりの取り憑かれたひとが登場する。ひとりは金持ちの老婦人、ひとりは語り手の25才の青年である。

老婦人は分別のあるひととして登場するが、いったん賭博の魅力に取り憑かれると我を忘れてしまう。彼女が勝ったり負けたりしながら次第にほとんど全ての財産を失ってしまう過程は迫真力に満ちていてドキドキしてしまう。

それまで冷静に周りのひとびとを観察していた語り手がルーレットにのめり込むや否や自分の力では後戻りができなくなるシーンも怖い。

物語の前半はロシアの裕福な一家がフランス人やイギリス人の取り巻きや家庭教師を連れてドイツの保養地バーデンのホテルでのんびりする。ドストエフスキー自身も愛人を伴ってヨーロッパ各地を転々とした経験がある。その時の体験が本書を書く上で役に立っているものと思われる。

この前半を読んでいると、ヘミングウェイがパリの街を漂う自分と友人たちを描いた「日はまた昇る」や「移動祝祭日」を思い出す。そこに生活の基盤を置いていない異邦人の生活を描いた小説は他にもヘンリー・ミラーの「北回帰線」があるが、本書が影響を与えたのではないだろうか。

(2023.3.8)



---二重人格---

by F.ドストエフスキー

二重人格

処女作「貧しき人びと」と同時期に書かれた作品である。その時ドストエフスキーは25才であった。

ペトラシェフスキー会に参加して逮捕される3年前である。ドストエフスキーは逮捕されたのち死刑判決を受け、銃殺刑執行直前に特赦が与えられて、シベリアに流刑となり、オムスクで1854年まで服役する。

この5年間の体験以前と以後では作風が大きく違う。以前の作品は喜劇的な要素を含んでいたのに対して、1860年に書かれた「死の家の記録」以降の作品はいずれも人生を深く感じる作品にらなっている。特に1866年に書かれた「罪と罰」以降の5作品は前人未到の作品群となっている。

「貧しき人びと」が人情ものであるのに対して、本作は怪奇ものあるいは異常心理ものと言える。

下級官吏ゴリャートキンは要領が悪くヘマばかり、そのくせ自尊心はひと一倍強い。ある雪の降る夜、通勤の帰り道で第二のゴリャートキンとすれ違う。それ以降職場やレストランや自宅の近所、いろいろなところで第二のゴリャートキンに出会う。第二のゴリャートキンは本家に比べて要領が良い。職場の上司にも気に入られる。本家のゴリャートキンは卑屈に落ち込むばかりである。

ゴリャートキンが招かれてもいない結婚式に出席して立ち往生するシーンはドストエフスキー的である。この辺は作者のマゾヒスティック(被虐的)な趣味全開といった感じで、読んでいてゾクゾクする。

第二のゴリャートキンは本家のゴリャートキンの妄想であろうと思われる。全編にわたって神経症的なゴリャートキンの妄想が書かれている。ドストエフスキーはゴリャートキンが発狂していく様子を描きたかったのか。

最後はゴリャートキンは精神病院行きとなる。カフカ的な結末である。

19世紀半ばに書かれた作品であるが、妙に現代の中間管理職とダブって見える。グチグチと重箱の隅を突つかれているような現代の日本のサラリーマンと19世紀のロシアの下級管理職ゴリャートキンが同じように見えてしまうのは何なんだろう。

(2023.3.5)



---永遠の夫---

by F.ドストエフスキー

永遠の夫

解説者によると「永遠の夫」とは「寝取られ亭主」とか「万年亭主」という意味だそうである。今で言うと「ダメ夫」といったところだろう。

ではドストエフスキーの描く「ダメ夫」とは・・・?、の回答が本書のトルソーツキイということになる。彼は「ダメ夫」であり「ダメ男」である。慇懃無礼、陰険、臆病、上の者に弱く、下の者に強く出る、・・・、なんともこんな奴が身近にいたらかなわない、という奴だ。

誰かに似ていると思ったらひとつ前の作品「白痴」の登場人物・レーベジェフに似ている。ロゴージンの腰巾着で卑劣極まりない人物だ。「罪と罰」の飲んだくれ・マルメラードフや「カラマーゾフの兄弟」のだらしない父親・フョードル・カラマーゾフにも似ている。ドストエフスキーはこういう人物を描くのが得意だ。

語り手はヴェリチャーニコフという中年のプレイボーイで彼は「カラマーゾフの兄弟」のミウーソフに似ている。ドストエフスキーの小説には同じような人物が出てくる。それぞれモデルとなった人物がいたのだろう。

よくできた小説が面白いのは、19世紀のロシアであれ、紀元前4世紀のギリシャであれ、時と場所に関わらず今の自分の身の回りにいるひとびとと同じような人物が出てくることである。

(2023.3.2)



---人さまざま---

by テオプラストス

人さまざま

テオプラストスはアリストテレスの弟子で12才年下である。ということは紀元前3、4世紀に生きた人ということになる。

彼が同僚や仲間たちの様子を見てひとの性格を分類したのが本書である。目次を見ても「空とぼけ」や「へつらい」、「無駄口」や「粗野」などわれわれの周りにもいそうな性格のひとびとが集まっている。

「頓馬」「お節介」「上の空」といったひとびとは興味深い。忙しくしているひとのところへ出かけて、相談を持ちかけたり、恋人が病気で熱を出している時に、彼女の前でセレナーデを歌ったりするひとは現代では「KY(空気が読めないひと)」と言われる。イエス・キリストが生まれる数百年前にKYのひとがいて、他人を困らせたというのはおもしろい。

紀元前3、4世紀には、その他「へそまがり」や「虚栄」や「横柄」や「へそまがり」など、困ったひとが勢ぞろいしていたようだ。

(2023.2.28)



---チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る---

by 大河内直彦

チェンジング・ブルー

気候変動に関する本である。

現在は間氷期になって1万年過ぎている。過去間氷期は3,000年だった時も3万年だった時もある。

氷期の気候が不安定なのに対して、間氷期の気候は安定している。人類は1万年間の安定した気候の恩恵を受けて発展してきた。

ということが過去100年間の古気象学者たちによって分かってきた。

どのようにして突き止めたかというと、グリーンランドや南極の氷床中の14Cや18Oの量を分析することによってである。14Cは原子量14の炭素、18Oは原子量18の酸素である。通常炭素の原子量は12、酸素は16である。微量に存在する炭素や酸素の量を分析することでその時代の気温を推定することができる。人が踏み入れることができないグリーンランドや南極の氷床は数万年、数十万年前の炭素や酸素を炭酸ガスあるいは氷という形で保存している。それを掘り出してきて保存し、分析するのだ。

なんのために古い気象を分析するのか。将来の気象を予想するためである。現在空気中の二酸化炭素濃度は380ppmである。10万年前は200ppmであった。それが数十年の間に280ppmまで上昇したことがある。その時世界の気象はどのように変化したのか。古い時代の氷を調べることによって手に取るようにわかるのだ。

人跡未踏の地へ行ってサンプルを採取する。ゆえに古気象学者は冒険家と紙一重である。

以下は20世紀初頭にアーネスト・シャックルトンが南極探検隊員を募集した時の求人広告である。

「求む男子。至難の旅。わずかな報酬。極寒暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証なし。成功の暁には名誉と称賛を得る」

(2023.2.23)



---燃えよ剣---

by 司馬遼太郎

燃えよ剣

1959年伝奇小説「梟の城」で直木賞を取った著者が、1964年に出版した小説である。その前年の1963年に「龍馬がゆく」を書き始めている。翌年には「国盗り物語」を発表と、本書は著者の初期の絶頂期の作品である。

著者は生涯幕末期の日本人を描いた小説を発表し続けた。その第一号は1963年から書き始めた「龍馬がゆく」であり、翌年書いた本書「燃えよ剣」である。

この2冊で幕末の表と裏から見た青年群像を描いた。表の代表的人物は日本を明治維新に導いた坂本龍馬であり、裏の代表的人物は本書の主人公、土方歳三である。

龍馬は明であり、どこまでも明るい。土方は暗であり、暗い。著者は幕末の群像を書くにあたって、広い世界の中の日本を見つめる心と日本の文化の中に執拗に入りこんでいく心、自分の中のふたつの心を表現したかったのではないか。どちらが欠けても物足りないものを感じていたのではないか。

本書によると近藤勇は新撰組のシンボルで対外的な代表者であり、土方歳三こそが実質的に新撰組の組織を運営していた。性格も近藤は政治家的であり、土方は策士である。

本書のなかばで徳川慶喜は大政を天皇に奉還し、徳川幕府は崩壊する。幕府が崩壊しても新政府に従うのを潔しとせず、戦う集団がいた。会津藩である。会津藩の出先機関である新撰組も追従する。最も土方歳三にはそれ以外に生きる道がなかった。近藤勇は敵方の銃弾によって重傷を追い、戦意を喪失する。本書の残り半分は土方の孤軍奮闘の記録である。

「おれは職人だよ。志士でもなんでもなく・・・」や「おれはつらをみるだけで好き嫌いが先に来る男だよ」のセリフが土方歳三の性格を表している。彼は勤王思想や佐幕思想に満ちた幕末の時代になんの思想も持たず、自分のやりたいことをやり抜いた。

京都で新撰組を組織し、反幕府の長州や薩摩の志士たちを斬りまくった。大政奉還後、明治の世の中になってからは会津戦争を経て、函館の五稜郭に籠城し、官軍と戦い抜いた。多勢に無勢となって降伏した時に土方だけは官軍に突っ込んで斬り死にした。土方以外の閣僚たちは生き残り、新政府に仕えた。総大将の榎本武揚は政府の要職を歴任し、72才で天寿をまっとうした。

土方歳三
土方歳三--wikipediaより
近藤勇
近藤勇--wikipediaより

剣に生き剣に死んだ土方は享年34。歴史の表舞台に生きた坂本龍馬は享年31。ふたりとも若かった。

著者は日本の動乱期を生きたふたりの青年の生き方を通して、スペシャリストとして生きるべきか、ジェネラリストとして生きるべきか、模索しているようである。

(2023.2.18)



---イルカと墜落---

by 沢木耕太郎

イルカと墜落 イルカと墜落(裏表紙)

著者がテレビの撮影に付き添ってブラジルの奥地に行く。そして乗ったセスナ機が墜落する。奇跡的に乗組員は全員助かった。

著者がテレビ局のディレクターに誘われてブラジル、アマゾン奥地のイソラドというインディオを取材するために行くことになった、という発端のところで途中停止していた。積んどく状態であった。

読もうという気が起きないと本は読めないものだ。ふと読む気になって読み始めたら面白く、あっという間に読了してしまった。

著者がインディオ保護局のポスエロ氏という人物に会うために飛行機や船を乗り継いでアマゾンの奥地へ向かう時、既視感に襲われる。もちろん今までアマゾンに足を踏み入れたことはない。よくよく考えてみたらポスエロ氏というカリスマ的人物に会いに行く自分を、以前観た映画「地獄の黙示録」でカーツ大佐に会いに行くウィラード大尉になぞらえていたのだ。

この辺りまで来たら途中で止めるわけにはいかなくなった。最後まで一気読みである。

墜落シーンは本人が書いただけあって迫真力があるが、筆者はアマゾン流域の小都市でホテルに泊まり、外に食事に行ったり、あるいはホテルの食堂で食べたりする日常のシーンが興味深かった。

表紙の絵は著者がリオの海岸でマッチ箱に絵を描いて売っているおばさんから買ったマッチ箱に描かれた絵である。

(2023.2.14)



---面白い本、もっと面白い本---

by 成毛 眞

面白い本 もっと面白い本

「面白い本」が2013年、「もっと面白い本」は2014年発行である。「HONZが選んだノンフィクション」は2021年発行である。岩波新書の「面白い本」が当たったので次々に出していったのだろう。紹介された本を全部読むと著者が言うように10年以上はかかるだろう。

「凍った地球」「チェンジング・ブルー」などの気候変動ものは興味がある。

「イノベーションのジレンマ」は副題が「技術革新が巨大企業を滅ぼす時」という。かつて一世を風靡したソニーや松下、ホンダなどの日本企業が衰退し、アップルやグーグル、テスラなどの企業が繁栄している。これは企業は常にイノベーションをしていなければ取り残されるということを物語っている。今繁栄している企業にしても変革努力を怠ればすぐに落ちてしまうだろう。

「未解決事件」。アメリカのフィラデルフィアに未解決事件のみを扱うクラブがある。彼らの報酬は未解決事件を解決したという誇りのみだという。小説のような話だが、本当のことらしい。

「失敗の本質」「太平洋の試練」。両方とも第二次大戦時の日本軍の話である。ミッドウェー海戦までは日本軍は勝っていた。ミッドウェー海戦以降連戦連敗したのはなぜかということを解き明かした本である。会社組織や個人の行動などにも応用できそうだ。

「世界史劇場 : イスラーム世界の起源」。題名通りの内容である。今世界のトラブルの半分以上はイスラム教に関係しているのではないか。その起源を解き明かす。

「量子革命」。著者は今は興味がなくても、絶版になる前に買って手元に置いておくべき本だと力説する。

「最初の刑事」。ミステリーのような題名だが、世界で最初に活動した刑事は英国のスコットランドヤードのウィッチャー警部だという。それまではただの警官しか存在していなかった。

(2023.2.13)



---火花---

by 又吉直樹

火花

漫才師のピース又吉が2015年に芥川賞を受賞した作品である。筆者は受賞以前も以後も漫才師としてのピース又吉は見たことがない。受賞以後はテレビやラジオに出演する機会が多くなったことは知っている。が、相変わらず漫才師としての又吉は見たことはない。

これは主人公の僕と神谷さんの10年間に及ぶ交流の物語である。僕はなりたての漫才師、神谷さんは4才年上の漫才師である。二人とも無名である。

神谷さんの舞台を初めて観た時に衝撃を受け、以後僕は神谷さんを師匠と呼んでいる。

小説は僕と神谷さんの芸道に関する議論に終始する。著者の又吉氏が普段考えていることをふたりの人物に振り分けて戦わせているようである。漫才のように。これを舞台にかけたら哲学的な漫才になるだろう。一部のひとにはウケるかもしれない。神谷さんの漫才のように。

聴衆の反応とか評判とかを気にせず、自分が面白いと思ったことをやり抜く神谷さんに対して、僕はどうしても聴衆のウケを気にしてしまう。エキセントリックな神谷さんに対して常識的な僕との対比。神谷さんを横山やすし、僕を横山きよしと仮定するとわかりやすいかもしれない。

芸人にとって永遠のテーマと思われることを生(なま)の形で書いた論文のような作品である。ラストは気に入らないが、好きな系統の作品である。

(2023.2.10)



---HONZが選んだノンフィクション---

by 成毛 眞・編著

HONZが選んだノンフィクション

成毛眞が主催する「HONZ」という書評サイトの中が100篇を選んだ本である。「HONZ」は「本'S」=「本たち」という意味だろう。このサイトはノンフィクションに限られている。

ノンフィクション100篇を「サイエンス」「医学・心理学」 「生物・自然」「教養・雑学」「アート・スポーツ」「社会」「事件・事故」「民族・風俗」「歴史」「ビジネス」の10項目に分けてある。自分の好みのノンフィクションにすぐたどり着ける。

読了後気がついたのだが、30人ほどいる書評家の職業はさまざまである。タレント、書店員、編集者、大学教授、無職、などなど。なかには元暴走族で自動車部品工場勤務なんてひともいる。どのひともプロの書評家と思われるほど対象の本について的確に自分の意見を述べている。

最初に挙げられた本は「スノーボール・アース」、地球の歴史上過去4回氷で覆われていたという説である。現在の人類の運命はそのことによって決定づけられたという。壮大な話である。同様な内容の本で「地球の履歴書」という本も紹介されている。

「LIFESPAN 老いなき世界」というのも興味深い。120才まで生きるには1.カロリーを減らせ 2.くよくよするな 3.運動せよの三つのことを実践すれば良いらしい。また予期せぬ出来事に出会った時、こっちの方がおもしろそうだ、と思うことも大切だ、と述べている。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本も興味深い。YouTubeで木村対力道山の試合を観てみた。木村は力道山の張り手一発でダウンしている。体格も力道山よりだいぶ劣っている。どうして木村に力道山が殺せるだろうか。逆にこの本の著者に聞きたくなった。

その他読みたい本がたくさんある。「ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい」「冒険歌手」「極夜ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」「人新世の資本論」「ブルシットジョブ」「全裸監督 村西とおる伝」「全世界史」、などなど。

(2023.2.9)



---遠い昨日、近い昔---

by 森村誠一

遠い昨日、近い昔

森村誠一の回想録である。1933年生まれの著者は第二次大戦を6才から12才まで経験した。記憶に残る年齢である。今年90才の著者の年代が戦争を語る最後の年代になるだろう。

本書は東京新聞に連載したものをまとめて単行本にしたものである。6才から現在に至るまでを回想している。著者がホテルマンから作家に転身したことは知られている。

ベストセラーになった「新幹線殺人事件」や「高層の死角」あたりからはほぼリアルタイムで読んでいたので、それ以前のホテルマン時代と作家になったばかりの苦労話が興味深かった。

初めての著作が「サラリーマン悪徳セミナー」でその次が「マジメ社員無能論」というのはおもしろい。給料はもらっても会社の奴隷になるな、という主張に満ちた本だったように記憶している。

「日本の企業は社員の労働力だけではなく、人格の支配までも求める。 たとえ自由時間であろうと、社員の意識は会社に向いていなければならない」と述べている。自分の頭で考え、自分の行動を自分で決めることができる人間、スピノザのいう自由人になれ、という。そのことは大なり小なり著者のすべての著作に表れているのではないか。時にはそのことが小説のバランスを崩すことがある。それが森村誠一の本を読むことであり、著者がベストセラー作家になった所以でもあると筆者は思っている。

「新幹線殺人事件」や「高層の死角」、「腐蝕の構造」、「人間の証明」「青春の証明」「野生の証明」の証明シリーズ、「棟居刑事シリーズ」はほぼリアルタイムで読んだ。今読むと物語の展開に荒さが目について最後まで読めないが、当時は少々の荒さよりもそれを上回る情熱に反応して、夢中で読んだ。その情熱はどこから来るかというと、サラリーマン時代の怨念が発生源なのだろう。

「悪魔の飽食」以降の作品は怨念が薄れてきているように思う。

回想録は2011年3月11日の東日本大震災と第二次大戦時代のシンクロさせて終わる。

(2023.2.6)



---俺のオーディオ テラシマ流最強システム構築ガイド---

by 寺島靖国

俺のオーディオ

オーディオ教祖寺島靖国のオーディオ・エッセイである。

話題はいきなりインシュレーターから始まる。もはやアンプやスピーカーではないのだ。本書を読む者はここで選別され、無用とみなされた者は排除される。

インシュレーターと言ってもゴムパッキンに毛の生えたようなモノではない。4個1組で5、6万円はするモノである。そのインシュレーターをスピーカーやレコードプレイヤーの下に敷くだけではない。アンプや電源ケーブルの下にまで敷いてしまうのだ。それで音が変わるらしい。

アンプを変えても音が変わったかどうかわからない筆者のような者には関係ない話である。だが読むと面白い。電源ケーブルを取り替えたら音がまるで変わった、と大真面目に議論する。筆者からすると針小棒大、白髪三千丈の世界である。その対比が面白くてつい読み進めてしまう。

Joni James

第3章はレコードについての話題である。「20年ほど前、私はある女に惚れた。惚れて惚れて惚れまくった。女はジョニ・ジェイムスであ る。ジョニ・ジェイムスを聴き、私は「ボーカルは声」という極意を得たのだ。誰がなんと言おうと、ボーカルの真意は声にありという天啓を示したのが彼女だった。500枚近い作品を吹き込んでいるが、ベスト中のベストがこれである。この中の「エンブレイサブル・ユー」はもはや人間ではない。なにか貴い生きものという感じがする」とまで褒め称えるレコードの題名は「When I Fall In Love」。

ユーチューブで聴いてみた。著者好みの美人系、美声系の歌手であった。歌声は心地よい。本アルバムの選曲は[1. When I Fall in Love 2. To Each His Own 3. I've Never Been in Love Befor 4. Embraceable You 5. I Coul Write a Book 6. Don't Blame Me 7. People will Say We're in Love 8. My One and Only Love 9. I'm in the Mood for Love 10. Love Letters 11. As Time Goes By 12. Where Can I Go Without You]となっている。著者が「もはや人間ではない。なにか貴い生きもの」と評した曲は4番目に入っていた。

筆者が良いと思ったのは2番目の「To Each His Own」である。1946年に製作・公開されたアメリカ映画で「遥かなる我が子」(原題:To Each His Own)のために作られた曲である。

11番目の「As Time Goes By」も良かった。もちろんハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演の映画「カサブランカ」の主題歌である。

(2023.2.5)



---戦争論---

by クラウゼヴィッツ

【序】

クラウゼヴィッツは1800年代前半、ナポレオン戦争時代のドイツの将軍である。その戦歴はナポレオン戦争を含めて130余の戦争に参加している。自分の戦歴から戦争について普遍的なことを考察したのが本書である。古い時代とはいえ130もの戦争に参加した軍人はそうはいないし、そのひとが哲学的な思考方法を持っていたことが本書を価値あるものとしている。

会社員が出社して、社内会議や得意先と会合したり、日常の業務をこなすことも戦争なのではないか。ひとつのことを深く考察することで普遍的なものに到達することができる。本書を読むとそれが真実であると思わざるを得ない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

    【上】

戦争論(上)

(第一篇 戦争の本性について)

軍人が上級の地位に達するや否や、下級の地位で示した有能な活動はもはや不可能になるという実例が決して珍らしいものではない、つまり彼の知見は、もはや上級の地位には堪えないのである。

このことはすべの組織に当てはまる。会社で平社員の時は良いひとだったのに、管理職になった途端、パワハラをやり出し、部下を何人もダメにした人物がいた。

逆に、或る種の地位におけばまだ輝かしい名声を挙げ得るような人物までも、実際よりも低く評価して冷遇する。こういうことも日本の企業では珍しいことではない。

(第二篇 戦争の理論について)

著者は将帥(しょうすい)は「観察者であることを要しないし、また人間の性格を鋭く(えぐ)る分析者である必要もない。しかし彼は直属の部下達の性格、志操と為人、彼等にそれぞれ特有な欠点と長所とに通暁せねばならぬ。 将帥は、車両の組立や火砲をく馬匹のがどのようなものであるかを知る必要はない。しかし彼は、種々な状況のもとで行われる一縦隊の行進にそれぞれ要するとひととなりころの時間を正確に判定できねばならない。およそこれらの知識は、自然科学の公式用したところで習得されうるものでない。この種の知識は、物事の考察と実生活において常に的確な判断の習練に努め、またこうして得られた正しい見解に則って才能をはたらかせることによってのみ獲得されるのである」と言い、組織の上に立つ者が心得なければならないことを述べている。

ナポレオンは1805年のアウステルリッツ、1807年のフリートラント、1809年にヴァグラムの戦いにおいて相手に和睦を迫って有利な条件で戦いを治めた。トルストイの「戦争と平和」やチャイコフスキーの「序曲「1812年」のテーマになった1812年の戦いでもロシアを相手に有利な和睦条件を相手に受け入れさせるつもりでモスクワまで攻め入った。ところが相手のアレクサンドル皇帝は和平を乞わなかった。当てが外れたナポレオンはモスクワから退却せざるを得なかった。9割の戦力を消耗したナポレオンはその後神通力を失ない、失脚した。

著者は戦争における不確実性の実例としてこの戦争を例にした。本書の30年後に出版されたトルストイの作品はなぜナポレオンが退却せざるを得なかったかをさまざまな観点から描いている。それだけでは足らず、小説の最後に独自の戦争論を述べている。トルストイの資料中重要な部分を本書が占めていたことと察する。

そしてこのことが現在進行中の戦争、プーチンによるウクライナ侵攻にも当てはまる。ナポレオンが210年前に犯した失敗をプーチンが今同じ道をたどろうとしている。すべての為政者は歴史に学ぼうとする気持ちを捨ててはならない。と200年前にクラウゼヴィッツは言っている。

著者は本書の1章分を批評についての考察に費やしている。「大方の批判的考察は、一種の虚栄心に促されて、徒らに着想の新奇を衒うようなたぐいのものばかりであった」とか「批評家が、出来事を一から十まで知ることによって得たところの知見を、あたかも彼自身の才能ででもあるかのような調子で得々と語るならば、聞き手は決してこれを快しとしないであろう」とか「批評家が、フリードリヒ大王やナポレオンのようなすぐれた将師の犯した誤謬を指摘したからと言って、批判した当人ならよもやかかる過失を犯さなかったであろうということにはならない。それどころか批評家は、もし彼がこれらの将帥の地位にあったとしたら、遥かに由々しい誤謬を犯したかも知れない、ということを認めざるを得ないだろう」と述べている。このことは対象が戦争ばかりでなく、あらゆることに関して評論家の陥りやすい誤謬となる、という観点から現代にも通じている。

(第三篇 戦略一般について)

「凡庸な指揮者は、危険と責任とから遠のいて、室内で作戦の効果を想像している時こそかろうじて正しい結論に達し得るが、・・・側近の補佐官によってかかる見通しを失わずに済んだにせよ、けっきょく決断がつかないだろう、何びとも決断の手伝いをするわけにはいかないからである」とは現代に生きる多くの凡庸な指揮者たちに言っているようである。

「国民の精神を訓育するには、戦争よりほかに手立てがないと言ってよい、しかもそれは勇敢に指導された戦争でなければならない。勇敢な戦争を戦うことによってのみ、人心の情弱と安逸を貪る傾向とを阻止し得るのである。実際、かかる情弱と安逸を好む風潮とが、国内においては次第に増大する安寧に慣れ、また諸外国との活澄な交通を楽しむ国民をますます 墜落させるのである。国民の堅強な性格と戦争に慣熟することとが、不断の交互作用によって互に保ち合うときにの み、国民は国際政治の世界において強固な地位を保つことができるのである」とは平和に慣れ親しんだ日本国民に言っているようである。国民が誇りを持って自分たちの国を語れるようになるためには戦争が必要である、などと言えば非難されるに決まっているが、それ以外に惰弱な国民を立ち直らせる手立てがあるだろうか。

(2023.2.4)

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

    【中】

戦争論(中)

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    【下】

戦争論(下)

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---徳大寺有恒 ベストエッセイ---

by 徳大寺有恒

徳大寺有恒 ベストエッセイ

はじめて「間違いだらけのクルマ選び」が出版されたのは1976年。同書はその後毎年改訂し、2015年まで続いたらしい。

「間違いだらけのクルマ選び」は出版された時、大変な話題になった。ベストセラーになった。筆者も購入した。感心しながら読んだ。当時の若者が一番欲しいモノは自動車とステレオだった。

自動車評論家の徳大寺氏とオーディオ評論家の菅野沖彦氏はそれぞれの分野で若者の人気ナンバーワンだった。スピーカー自作派のアイドルは長岡鉄男氏だった。

本書は長年続いた「間違いだらけのクルマ選び」の記事、その他のメディアで発表された記事の中から抜粋したエッセイ集である。

著者の生き方を述べた文章が載っていた。「会社へ入る。 会社への服従をまず教えられる。 そいつが正しいか、正しくないかを判断する前に会社の命令だからということが優先する人間にならずにすんだのだ。会社の人間である前に自分、これは今も変わらない私のポリシーである」。著者は社会に出てから会社勤めをしたことがない。それは上記のポリシーによったものであろう。というか性格的にひとに仕えることができなかったのではないか。もうひとつ「大事なことは、その場や人の心を察知する感受性だ。こいつを養うには年季がいる」というのがある。ただのわがままでは社会に通用しないのだ。

「冷蔵庫やTVセットを買うのに印鑑はいるだろうか。クルマだって同じなのである」という文章がある。確かにそうだ。それに類することはたくさんある。少年法や憲法9条など、日本人は生活様式に合わなくなっても、古い法律を金科玉条のように守ろうとする傾向がある。一般的に30年経つと世代が変わり、価値観や生活様式が変化する。憲法もそれに応じて変化して当然であり、日本以外の先進国ではこの50年間で憲法は変化している。戦後憲法を一字一句変えていないのは日本くらいなものである。著者の真実を追求する目はクルマだけに限らない。

著者はクルマに限らずあらゆることにスタイリッシュに生きたひとである。ファッション、お酒、タバコ、等々。筆者の知る限り、スタイリッシュに生きようとするひとは子供を持たないひとが多いようである。

(2023.2.1)



---深夜の市長---

by 海野十三

深夜の市長

海野十三(うんの じゅうざ)は、1897年(明治30年)生まれ、1949年(昭和24年)に亡くなった。 1928年に探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表し、作家活動を開始した。 ジャンルはSF、探偵小説。漫画家、科学解説家としても活動した。 日本SFの始祖の一人と呼ばれる。

【深夜の市長】

1930年代の東京市の出来事である。ちなみに東京都になるのは1943年である。 物語ではT市と呼ばれる。 主人公は浅草に住み、昼間は公務員として働き、夜は東京市内を彷徨うのを趣味にしている。

ある夜、主人公は殺人事件に巻き込まれ、警察に追われていたところをルンペンに助けられる。ルンペンは自分を「深夜の市長」であるという。夜の闇社会を支配する者であるという。 主人公は夜の住人の仲間になり、事件の犯人を追う。いつのまにか、東京市を牛耳ろうとする巨悪の企みに巻き込まれる。・・・。

1930年代の東京市の様子が同時代に活動した作家によって生き生きと描写されている。浅草や丸の内や魔窟亀戸が別世界のワンダーランドのように思える。

東京都内を深夜散歩するというのは著者の趣味であったらしい。著者のおすすめのコースは「永代橋を深川の方へ渡るのである。すると橋の左のたもとに交番があるが、それに添って左折する。それから一つの橋を渡るが、その次にもう一つの橋がある。この辺から静かに歩いたり、立ち止ったりして、浅野セメントの工場を右に仰いでアスファルトの道を清洲橋のほとりまで歩くのである。きっと、諸君は自分が日本に在ることを暫くは忘れられるであろう」と書いてある。今では別の景色になっているであろう。だが地図で見ると東京の水郷と言っても良いほど、川の多いところである。今でも歩いてみれば面影が残っているかもしれない。ただし、著者のおすすめはそこを深夜に散歩することである。

本作品は1947年に川島雄三監督が映画化している。俳優として主人公に安部徹、深夜の市長役に月形龍之介、その他、三津田健、三井弘次、大坂志郎、山内明、坂本武、神田隆、日守新一らが出演している。

【空中楼閣の話】

ショートショート6篇。いずれも「えっどういうこと!」と発してしまう。奇想、というか斬新というか。

【仲々死なぬ彼奴(きやつ)

金持ちの老人と彼に可愛がられた喜助という書生の話。二人の関係性が現代的である。そこに遺産相続をめぐって老人と親戚の間にトラブルが起こる。終わってみれば奇妙な話である。

【人喰円鋸(まるのこ)

スプラッター・ムービーを思わせる展開。

【キド効果】

マッド・サイエンティストもの。最後にキド現象と名付けた嘘発見曲線をキド効果と名付ける主人公が元電気技術者だった著者を思わせる。

【風】

「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを著者独自の発想で短篇化した作品。

【指紋】

指紋が犯罪捜査に利用され始めた頃の作品なのであろうか。著者独自の解釈による指紋パズラーである。

【吸殻】

タバコの吸い殻にまつわる話4題。著者のタバコ好きが伝わってくる。

【雪山殺人譜】

雪山の鉱山町で殺人事件が起きた。高井戸警部は現場に向かう。この現場の様子がすごい。鳥居の下が雪道になっていてその下に町がある。街へ行くにはアリの巣のようになった雪道をいくしかない。著者のイメージが荒唐無稽に感じたり、古臭く感じたりしないのは文章がしっかりしているからだ。

【幽霊消却法】

男2人、女ひとりの三角関係。騙し合い。

【夜毎の恐怖】

男2人、女ひとりの三角関係。騙し合いと見せかけた著者独自のトリック。

(2023.1.30)



---エチカ -倫理学- ---

by スピノザ

 

    【上】

エチカ -倫理学(上)-

「エチカ」は五部に分かれていて、その前半の内容は、第一部「神について」、第二部「精神の本性および起源について」、第三部「感情の起源および本性について」となっている。

まずは第一部「神について」であるがこれは難しい。難しいというよりもピンとこない。こちら側に神の概念が欠けているからである。ただ読んだだけ、という読書体験になった。

西洋の哲学では神の概念を抜きにして語ることはできない。言葉の上で神を否定したニーチェでさえ根底には神の存在を肯定している。

第二部「精神の本性および起源について」も根本は神について書かれている。が、この章では少し感ずるところがあった。

「人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない」「身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従って、その精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになる」と述べている。スピノザは精神と身体をほぼ同一のものとして見ていることがわかる。

現代の教育は知育のみが重要であると考え、クイズに答えるような試験の成績のみで人間を判断している。脳だけを働かせて身体の作用を無視することがどのような人間をつくるのか。恐ろしいような気がする。

第二部「感情の起源及び本性について」でスピノザは感情の本質を「欲望」「喜び」「悲しみ」の3つに大分類し、「嫉妬」「怒り」「臆病」「謙遜」「愛情」「恐怖」「同情心」等々の感情はいずれもそれら3つの感情に含まれるとして、それを証明する。

この章はまるで数学の証明問題を解くように、人間の感情を冷静に仕分けする。

序言で述べているように著者はこの書で人間に関するあらゆることを網羅し分類し証明する。

(2023.4.15)

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

    【下】

エチカ -倫理学(下)-

ブックオフでたまたま手に取ったこの巻は「エチカ」の第四部「人間の隷属あるいは感情の力について」と第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」述べられたものであった。ここには、感情と知性という人間独自の脳の働きについてスピノザがどういうふうに考えているかが書かれている。

「エチカ」は五部に分かれていて、その前半の内容は、第一部「神について」、第二部「精神の本性および起源について」、第三部「感情の起源および本性について」である。

スピノザは第四部冒頭の「序言」で「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである」と述べている。

感情に支配される人間はそれだけで悪に近づいているという強烈な意見である。雨の日、電車の中で傘の先を押し付けられただけて逆上した筆者はその瞬間悪の権化となっていたのだろう。

【第四部 人間の隷属あるいは感情の力について】

スピノザは理性によって生きることが人間本来の道である、とする。だから「希望および恐怖の感情は・・・認識の欠乏および精神の無能力を表示するものである。 そして・・・安堵、絶望、歓喜および落胆もまた無能な精神の標識である」と述べる。「謙遜と後悔」もまた理性とは相反するものである。

さらに「最大の高慢あるいは最大の自卑は自己に関する最大の無知であり・・・精神の最大の無能力を表わす」と述べる。

「感情ないし意見のみに導かれる人間は・・・奴隷、理性に導かれる人間は・・・自由人」とし、自由人が奴隷の中で生きるにはある種のテクニックを必要とする、と述べている。自由人は無知な人々から恩恵を受けたり親切にされたりした時、それ以上巻き込まれないように当たらず障らずの行動をとるべきである、と述べる。無知な人々からの憎しみを受けないためにはできれば彼らからの親切はできるだけ避ける方が良い、とも述べている。

スピノザは付録の第四項で「だから人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福は存する」と結論づける。

付録の第一九項で性欲の愛は容易に憎しみに移行する、と述べ、今日のストーカーを予見している。

付録の第二七項では身体の機能を促進することによって、精神の機能が増大する、と述べ、今日行われているエアロビクス運動や筋肉トレーニングの大切さを予見する。

スピノザの「エチカ」の主要テーマである「倫理学」はこの第四部に集約されているように思う。

【第五部 知性の能力あるいは人間の自由について】

この章でスピノザは繰り返し「精神の最高の徳は神を認識することにある」と述べる。物事を理性的に正しく認識することと神の存在が切っても切り離せないという考え方は納得できない。17世紀のオランダに生まれたスピノザと20世紀の日本に生まれた筆者では、神に対する認識はあまりにも違いすぎて理解するのは不可能である。これはニーチェやショーペンハウエルのようなヨーロッパの哲学者たちが最後には神を持ち出すのが、筆者には理解できないのと同様である。

読後、17世紀の哲学者の書いたものが意外に現代と通じるものがあったことを知った。カント以降の哲学者、ハイデガーやヤスパースなど、大学に勤める哲学者たちの書いたものがやたら学究的で難解なのに反して、それ以前の哲学者たちの書いたものはわかりやすい言葉で書いてあるので特別な勉強をしていない者にもある程度理解しやすい。

(2023.1.26)

 



---旅のつばくろ---

by 沢木耕太郎

旅のつばくろ

著者がJR東日本の車内誌「トランヴェール」に載せていたエッセイの中から自選したものである。すべて旅ん関係したエッセイである。

本州の最北端龍飛崎へ行くまでの旅の出来事が数篇載せられている。太宰治の生家のある金木や「津軽」の重要な舞台蟹田へも寄る。

「ごめんなすって」という章では小説「春に散る」の舞台になった多摩川の土手の桜並木へ行く。

「葉桜の季節に」という章では東京芸術大学の美術館へ「雪村展」を見に行く。たまたま筆者もその展覧会へ行っていた。もしかしたら沢木氏とすれ違っていたかもしれない。筆者が行ったのは2017年5月13日、まさに葉桜の季節だった。

「今が、時だ」では、20代の時に行けなかった場所に何十年か経ってから行った時に、あの時行っておけば印象が違っていたろうに、と思うだろう。だが「今も時だ」という考え方もある。今行ってこそ良いのだ、と考えることにする。

北上市の日本現代詩歌文学館に行った時の話。北上市の詩歌の森公演の中にある記念館。井上靖の記念室に行き、井上氏と飲みに行った時のことを思い出す。筆者も昨年写生旅行が目的で北上市へ行った。暑くて人通りもほとんど無かったせいで、殺風景なところだな、と思った。この場所をその時知っていれば北上市の印象も変わったのに・・・。

著者は次章で、若いころ旅の途中北上駅の構内で受けた親切が元で、旅における「性善説」の信奉者になった。そのことが後にユーラシア大陸を旅した時に役立ったと述べている。暑くて動くのが億劫だった筆者の経験とは雲泥の差である。

(2023.1.18)



---薬石としての本たち---

by 南木佳士

薬石としての本たち

著者が今まで影響を受けた本を9冊採り上げ、読んだ時の思い出とともに書いた書評である。

「哲学の使い方」は著者が出張中、松江のホテルで読んでいるうちに本書の構想がわいたという本で冒頭に挙げるにふさわしい。鷲田清一氏は臨床哲学・倫理学の研究者である。「哲学の使い方」は岩波新書なので内容もそれほど専門的ではないはずである。

「Roentgenologic Anatomy opf the Lung」は胸部X戦写真を解読するための基本的な解説書で著者が大学卒業後勤めた病院で必要に駆られて読んだ本である。英語で書かれた本であるし、専門書なので我々が読んでも何もわからないだろう。

「村で病気とたたかう」は著者が勤めている佐久総合病院の初代院長・若月俊一氏の書いた本で、筆者が若い時ベストセラーであった。本章には我々の知らない若月院長の思い出がたっぷり書かれている。

薬石としての本たち75ページ

「アタラクシア (快)」は休日蓼科山に登りながらいろいろなことを考える。特に昔のことなど。そうこうするうち前を登る女性の太ももの張りが気になり出し、後をついて行くうちついオーバーペースになってしまう。中腹の休憩所で読んだ本がこの本である。

「身体の健康と心境の平静こそが生きる目的である」とか「死は恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何ものでもないものである」とか、生きる上で有用なことが書かれた本である。

 「わたし」は「からだ」。著者がこれまでさまざまなところで書いてきた自分の生い立ちを述べ、そこに養老孟司氏の著書を関連づける。

曇天の霹靂(へきれき)。著者の思い出を語るうちに何ヶ所か大森荘蔵の「流れとよどみ 哲学断章」の一節が出てくる。著者の著作はすべて自分の生い立ちか医師として経験したことを私小説として書いたものであるので、その著作の半分くらいを読んだことがある筆者は南木佳士という作家、そして霜田哲夫という医師について親戚と同じくらい知っている。もともと学生時代、若月俊一氏の講演を聴いたり、岩波新書の「村で病気とたたかう」を読んだりしていた関係で、佐久総合病院の存在を知っていた。本を読んでいると、著者が建てた家の間取りや庭の様子なども頭に浮かんでくる。

「ようこそ先輩」。著者がNHKの「ようこそ先輩」という番組に出演した時の話である。「マンネリズムのすすめ」に「身体」とか「肉体」と書くひとは日頃運動をしていない。コンスタントに運動しているひとは「からだ」と書く。という記事から、自分の言葉で話すひとの対極にいる者に、書物からの引用をするひとがいる。彼または彼女は実践力がない。そういうひとを「発信系」のひとと称している。という話題に転じた。「発信系」のひと。確かにいた。言うだけでやらない人だ。

旧石器時代の「わたし」。「脳を鍛えるには運動しかない」を読み、脳には血流が必要だ、と判断した著者は病院までの通勤手段を自転車から徒歩に変える。

乳房を読む。著者が若い医師たちに混じって、マンモグラフィ認定試験を受験した経験を述べている。

   

   【各章で紹介された本】

  1.  前口上 --- 哲学の使い方 --- 鷲田清一
  2.  医者の背骨を作った教科書 --- Roentgenologic Anatomy opf the Lung --- HIDEKI YAMASHITA
  3.  これもなにかの縁 --- 村で病気とたたかう --- 若月俊一
  4.  アタラクシア (快) --- エピクロス 教説と手紙
  5.  「わたし」は「からだ」 --- 脳と自然と日本 --- 養老孟司
  6.  曇天の霹靂(へきれき) --- 流れとよどみ 哲学断章 --- 大森荘蔵
  7.  ようこそ先輩 --- マンネリズムのすすめ --- 丘沢静也
  8.  旧石器時代の「わたし」 --- 脳を鍛えるには運動しかない --- エリック・ヘイガーマン
  9.  乳房を読む --- マンモグラフィのあすなろ教室 --- 石山公一他
  10.  納口上

本書のタイトルの【薬石】とはデジタル大辞泉によると、1 いろいろの薬や治療法。2 身のためになる物事のたとえ。3 禅寺で、非時の戒を守って夕食をとらなかったため、飢えや寒さをしのぐために温石として腹に当てた石。転じて、夜食の粥かゆまたは夕食。と出ている。著者がどの意味で使ったのかは不明である。

(2023.1.9)



---澤野工房物語---

by 澤野由明

澤野工房物語

澤野工房といえば大阪通天閣の足元にある新世界というアーケード街の中心近くにある履物屋さん。その四代目を継いだ著者がジャズのCDを製作販売する時のレーベルである。その中身がヨーロッパのピアノトリオに限定され、ミュージシャンがほとんど無名、というところが特徴である。全国で3万人しかいないジャズファンを相手に、さらにターゲットを狭くした商売をしてはたして儲かるのか、という疑問が湧いてくる。

年月とともに所属ミュージシャンを増やし、ライブ演奏をしたり、その模様をDVDにして販売したりと手広くやっているところを見ると、どうやら儲かっているらしい。彼らは全国で3万人しかいないジャズファンだけを相手にしているのではなく、今までジャズに無縁であった女性ファンを開拓するのに成功したらしい。

いまや「アトリエ・サワノ」「hand-made JAZZ 澤野工房」というロゴはどのCDを買っても間違いない、という信用の証明となっている。

澤野工房シール

澤野工房の社長・澤野由明氏はどのようにして履物屋からCDのレーベルを立ち上げることになったのか。その間どのような苦労があったのかを自ら述べている。澤野工房に関心のある者ならぜひ知りたい内容が詰まっている。

ここには澤野氏がどのようにしてレーベルを維持しているのかが述べられている。買い付けはフランス在住の弟・稔氏、そこで買い付けた原盤(マスターテープ)を澤野氏がCD化する。ジャケットデザインは外部に委託する。販売と宣伝は澤野氏と娘さんが行い、履物屋の維持は奥さんが行う。

澤野工房CD

外部の協力者は場合によってさまざまだが、基本は家族で維持しているらしい。

いつか新世界の澤野履物店でCDを購入した時、カタログを見せてくれたり、デモ盤のCDをサービスしていただいたのは娘さんであったか。もうひとりの女性は奥さんだったのだろう。その時は澤野さんはいらっしゃらなかった。

一枚だけ著者の父親が写真を撮ってCDのジャケットにした盤があるという。ジョー・チンダモトリオの「The Joy of Standards Vol.2」である。モデルは弟・稔さんの長女、澤野さんの姪御さんだそうだ。たまたま、最近よく聴いているアルバムである。(写真左上)

(2023.1.7)



---リジーが斧をふりおろす---

by ウォルター・サタスウェイト

リジーが斧をふりおろす

題名は恐ろしいが、中身は正当的なミステリーである。語り手は13才の女性・アマンダ。大人ではなく、子供でもない中間の視点を狙った存在、そして彼女の視点から語られる物語は一幕ものの舞台劇のようである。語り手が保護されるべき13才の少女という立場なので、舞台はアマンダとレジーが暮らす家の居間に限定され、警官や弁護士、探偵などの登場人物は入れ替わり立ち替わりそこに出入りして意見を交換する。

物語は語り手のアマンダと過去殺人罪で起訴されたことのある女性リジー・ボーデンの会話から始まる。この会話がなんとも魅力的である。13才と60才の女性同士の会話は少しも不自然なところがない。この章を読み終えた時、はて、これはミステリーだったのかな、と思ったくらいである。

普通の小説を読むモードに入っていたので、次章の冒頭でいきなり残酷な殺人事件が起きた時は軽いショックを受けた。

本編の副主人公リジー・ボーデンという女性は実在の人物であり、アメリカでは有名な存在である。彼女はバレエ、小説、映画、舞台などあらゆる媒体に取り上げられている。本書の冒頭に載せられているマザー・グースは彼女のことを歌ったものである。

本書で描かれたリジー・ボーデンは洞察力に満ちた、毅然とした人物である。13才の主人公アマンダを補助し、犯人を指摘する。「斧を持ったミス・マープル」として活躍する。

リジー・ボーデン事件が起きたのは1892年、本書で13才のアマンダが遭遇した事件はその30年後の1921年に起こり、そのことを10年後の1930年に結婚したアマンダが回想する、という形式になっている。

年月が経つことによって、当時よりも物事がはっきり見えるようになる、ということは世の中によくあることである。

(2023.1.3)


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