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--- 懐疑の精神 ---

by 西尾幹二

懐疑の精神

ドイツ文学者・西尾幹二の評論集である。本書は昭和49年に発行された。本書には16の評論が収められている。

「老成した時代」。現代は老成した時代であり、情熱や決断にとって代わって、言葉の上の解釈や認識の圧倒的な分量に押しつぶされそうになっている時代である、と論じる。さらに、人間はなにひとつ行動できない時には、認識の方法だけが精緻をきわめるものである、と断ずる。

まさに現代の特徴を表した文章である。だがこれが昭和49年(1974年)に書かれたということは注目に値する。学生運動が下火になり、「しらけの時代」と言われ始めていたとはいえ、まだ「情熱や決断」は存在していたと思っていた。その時すでに「情熱や決断」が無くなっていると感じていたとすれば、社会に対してかなり鋭いセンサーを持っていた人であった、と判断せざるを得ない。

「人生批評としての戯作ーー新戯作派と江戸文学」。現代の戯作派と評される二人の作家・野坂昭如と井上ひさしの作品を俎上にのせ、彼らの作品を論じながら、山東京伝や恋川春町に代表される江戸時代の戯作文学を論ずる。

その前置きといった形で日本の代表的な哲学者・九鬼周造のベストセラー「いきの構造」を論ずる。その感想が面白い。

「芸者の世界に通暁したわけ知りの外人観光客が日本人に妓楼の隠語を現代語で教えようとしているようなもの」である。さらに、「彼は実は外人観光客を装った日本人であることは明らかで、彼は装っている自分にさえ気づいていない」とは徹底的に貶したものである。よほど著者かその著作が気に食わなかったのだろう。

「わたしの理想とする国語教科書」。著者は「自分の理想とする国語教科書を述べた後、他の教科が、理数科をも含めて、国語を基礎においているという考え方がもっと普及しなくてはならない」と述べている。これは数学者の藤原正彦が自分の著書で繰り返し主張していることと同じであり、もっともなことだと思う。事実、入試で国語の成績の良かった者は、電子工学等、他の教科でもいい成績をあげているという統計結果もあるようだ。

「批評の悲劇」「自己自身からの脱出」「高校教師としてのニーチェ」はいずれもニーチェについて語ったものである。「悲劇の誕生」でワーグナーについて語ったニーチェはベートーヴェンについてどのような意見を持っていたかについて語った「自己自身からの脱出」。高校でギリシャ語の教師をしていた頃のニーチェを語った「高校教師としてのニーチェ」。いずれも興味深い評論であった。

(2024.4.17)



--- 碁打ち・将棋指しの誕生 ---

by 増川宏一

碁打ち・将棋指しの誕生

昔の碁打ちというと、真っ先に思うのは碁聖といわれた本因坊秀策だ。秀策の布石は秀作流といわれ、なかでも独特のコスミは、AI時代の今でも盛んに打たれている有力な戦法である。秀策が活躍したのは江戸時代の1850年代、19世紀である。

著者によると囲碁ができたのは紀元とほぼ同時、場所は中国であった。将棋はそれより数世紀遅れてインドで考案された。日本に伝わったのは6世紀。遊戯目的であったそれらに専門家ができて、発展したのは15世紀、室町時代のことだった。

日本で最初の囲碁の専門家は時宗の僧侶、重阿弥であった。囲碁将棋に関わらず、当時の文化の担い手は貴族と僧侶であった。

17世紀になって徳川家康が碁打ち・将棋指しを保護した。初代本因坊が誕生したのもこの頃である。だが、碁の技倆は本因坊よりも利玄坊の方が上だったようである。

著者は昔の人の日記や書簡を丹念に読み解くことによって、当時の囲碁・将棋が行なわれていた情景を想像した。それによると棋士たちがプロ化したのは、徳川家康の保護によるものが初めのようである。日本のサッカー界がそうであったように、競技の技倆はプロ化すると飛躍的に高まる。その時代に本因坊が生まれたのも、プロ化による影響が大きかったに違いない。

(2024.4.13)



--- 立原正秋 風姿伝 ---

by 鈴木佐代子

立原正秋 風姿伝

著者は立原正秋が編集長をしていたころの同人誌早稲田文学の編集事務をしていた。同時期に作家の高井有一は同雑誌の編集委員をしていた。高井氏はその時のことを評伝「立原正秋」に書いた。「立原正秋」が男性目線から見た立原正秋ならば、本書は女性目線から見た立原正秋である。立原正秋という人はスター性のある作家といえる。

立原正秋という人は瞬間湯沸かし器のようにすぐ怒る人だった。男性の編集者たちからは腫れ物に触るように恐れられていた。女性たちの目からはその部分が違って見えるらしく、それほど恐れられてはいないばかりか、頼もしく感じられていたようだ。

高井有一は前書で朝鮮人と日本人のふたつのアイデンティティを持つ作家として立原を考察した。鈴木佐代子は家庭人としての立原を内側から考察している。2冊を併読すると日本に帰化した朝鮮人立原正秋の複雑な思いを理解することができる。

(2024.4.10)



--- マンスフィールド短編集 ---

by キャサリン・マンスフィールド

マンスフィールド短編集

本書にはキャサリン・マンスフィールドの15編の短編が収められている。

キャサリン・マンスフィールドはニュージーランド出身の作家である。彼女は「意識の流れ」を重視した作家で、主にイギリスで作品を発表した。

彼女は様々な場面における「心の揺れ」を描き出す作家である。その作風は彼女が目標とする作家チェーホフに似ている。

「園遊会」。主人公はローラという少女。彼女の家でガーデン・パーティをやることになり、天幕を張ったり、音楽のバンドを招いたりして準備している。最中坂の下の貧しい人々が住む地域で人が死んだという話が伝わってきた。ローラは気が動転する。そんな時にパーティなどしていいのかしら。しかし無事パーティは終わり、彼女は母親の言われてパーティの残り物を下の家に届けにいく。著者はパーティという華やかな催しと、葬式という正反対の出来事の間で、揺れ動く少女の心を描く。

「パーカーおばあさんの人生」。若い頃から苦労をして、13人の子を産み、7人を病気で亡くした。6人の子供たちは成人してそれぞれの道を歩み、そのうち一人の娘は子供を残して逝った。そして今、唯一の身内である孫を病気で亡くした。泣きたくても泣けない人生を送ってきたパーカーおばあさんは今泣きたい。が、どこで泣いたら良いのだろう。いくら働いても報われない人生を送ってきたパーカーおばあさんの悲哀は行き場のないまま続いていく。

「新時代風の妻」。妻のイザベラは何人かの芸術家たちと一緒に暮らしている。夫のウィリアムはふたりの子供たちと別の家で暮らしている。本書が出版された1920年代にはかなり新しい形の結婚形態であったろう。本物語では二重生活のための資金は全て夫の稼ぐ給料から出ている。妻やその仲間たちの生活を支える夫の気持ちは書かれていない。

「理想的な家庭」。会社を立ち上げ、長い間働いて、息子にそれを譲ることにした初老の男。若い頃は家の中心だった男は今、妻や娘たちからつまはじきされ、、息子からは憐れまれている。原題は「An Ideal Family」。

「声楽の授業」。ミス・メドウズは声楽の教師。婚約者から婚約破棄の手紙をもらった。今は授業の最中、生徒たちはミス・メドウズの冷たい対応に恐れおののいている。そこへ婚約者から電報が届く。あれは気の迷いだった、と。ミス・メドウズはウキウキする気分で残りの15分間の授業をする。

「小間使」。小間使いのエレンは小さい頃から除け者扱いされて育った。今は金持ちの夫人の小間使いをしている。出入りの花屋のハリーからプロポーズされた。一時は受けるつもりでいたが、老婦人のがっかりする様子を見て、プロポーズを断ることにした。

「ブリル女史」。オールドミスのブリル女史は毎週日曜日になると、公園のベンチで周りの人々の様子をうかがうのを楽しみにしていた。ある日曜日、近くにすわった若者とそのガールフレンドが彼女の悪口を言っているのを聞いた。

「大佐の娘たち」。父親の大佐亡き後、中年の姉妹が話し合っている。父親が生前どんなことを考えていたか。父親なしでは、ふたりでは何も決められない。ふたりの会話は延々と続く。

「初めての舞踏会」。初めての舞踏会で若い女性が感じたり考えたりすることを意識の流れを追って描いていく。ちょっとしたことで嫌になったり、帰りたくなったり、素敵な相手にめぐり会うと幸せな気分になったり・・・。

その他「若い娘」。「船の旅」。「鳩氏と鳩夫人」。「見知らぬ者」。「祭日小景」。「湾の一日」。の6編が収められている。いずれも日常の生活の一部分を切り取り、スケッチ風に描いている。

(2023.4.9)



--- メグレと善良な人たち ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレと善良な人たち

メグレは朝食の後「善良な連中がいちばんわれわれをてこずらせる」とつぶやく。

ある関係者はメグレに「あの家族には、他の家族と同じように、あの家族だけの不幸があります・・・」と供述する。

本書のテーマは上記の2行で言い尽くされている。

物語に謎らしい謎はない。メグレが被害者の家族に寄り添いながら、その周辺を捜査していくうちに、犯人は浮かび上がってくる。

悲しいといえば悲しい、だがなるようにしかならないという人生の法則のようなものが、物語全体を支配している。

(2024.4.7)



--- メグレと老外交官の死 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレと老外交官の死

引退した元大使が銃で殺された。現場には彼の家政婦がいるのみ。銃はどこからも発見されない。

捜査にあたったメグレは元大使の書斎になるべく長くとどまり、その雰囲気を体で味わおうとする。彼のいつものやり方だ。

元大使の周辺を捜査して、徐々に明らかになってきたのは元大使と友人の貴族、そしてその妻との関係である。貴族同士の複雑な関係にメグレはとまどう。

読者の前に不思議な結末が待っている。

(2024.4.6)



--- 重罪裁判所のメグレ ---

by ジョルジュ・シムノン

重罪裁判所のメグレ

物語の半分は法廷の場面である。冒頭から義理の姉と姪を殺し、金を奪った罪で捕まった被告ガストン・ムーランが法廷で審理を受けている場面から始まる。

メグレは検察側の証人として出席している。メグレは内心被告の有罪を疑っている。

裁判の結果、ガストン・ムーランは無罪となる。裁判の後メグレはムーランとその妻に尾行をつけて関係者をあぶり出そうとする。

著者はメグレの捜査を通して、生きることに不器用な額縁職人ムーランの人生を描いている。

(2024.4.5)



--- 霧の港のメグレ ---

by ジョルジュ・シムノン

霧の港のメグレ

本書は1931年の作である。シムノンは1931年に8冊のメグレものを書いている。多作派と言われるシムノンの本領発揮の年であった。

メグレは頭を銃で撃たれて記憶喪失になったジョリス船長を彼の故郷ウィストルアムへ連れていく。到着した翌日船長は何者かによって毒殺される。滞在中のメグレは捜査を始める。

捜査を進めるうちにメグレはジョリス船長を取り巻く複雑な人間関係を知ることになる。メグレはフランス北部の小さな漁村に滞在し、その雰囲気を体全体に受けながら捜査を進めていく。事件現場の雰囲気を感じ、被害者の人生を追うことで犯人にたどり着く、というのがメグレ警視のやり方である。

著者は小さな漁村の狭い人間関係を書くことで、そこに人間の普遍的な悲劇を描いている。

(2024.4.5)



--- 男の首・黄色い犬 ---

by ジョルジュ・シムノン

男の首・黄色い犬

【男の首】

これは1930年、メグレ・シリーズの第5作目の作品である。「男の首」とは印象的な題名である。今は死刑は廃止されたが、本書執筆当時にはフランスには死刑制度があり、その方法・斬首からきているのだろう。

本書には印象的な人物が登場する。自分は天才であり万能である、と自負する25才の元医学生ラデックである。もうひとりは花屋の店員ウルタンという人物で、彼はラデックと正反対で何事にも自信がなく、負け犬に甘んじている青年である。

著者はこのふたりの対照的な人物を造形するにあたり、ドストエフスキーの「罪と罰」から25才の元大学生ラスコーリニコフと落ちぶれた元下級官吏マルメラードフを借りてきたようだ。本書の中でラデックは独自の超人思想をメグレに演説する。それはラスコーリニコフが雑誌に投稿した「天才は全てのことが許される」という超人思想に似ている。

作中メグレがラデックに気づかれながらも無言でつけ回す場面があるが、これは手下にラスコーリニコフをつけ回らせて精神的に揺さぶりをかけようとした予審判事ポルフィーリーのやり方と同じである。

本書をジャンル分けするならばミステリーというより、犯罪心理小説という方が適当と思われる。

カベルー岬、コンカルノー

【黄色い犬】

「男の首」が「罪と罰」を下敷きにしたものなら、この作品は「モンテ・クリスト伯」であろう。

初期のシムノンはミステリーを意識した作品を書いていたようだ。最後の章でメグレは登場人物を一堂に集め、犯人を名指しする。エルキュール・ポワロのように。

フランス西部の一漁村コンカルノーのカベルーで連続殺人未遂事件が発生する。この事件は一見単純に見えて、実は根の深いものであった。

犯人探しのミステリーではあるが、読後深い感動を与えられる。

(2024.4.4)



--- メグレとひとりぼっちの男 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレとひとりぼっちの男

パリ中央市場でホームレスの老人が殺された。胸に3発の銃撃を受けて。

パリ司法警察のメグレはホームレスの身元を捜査するが皆目分からない。なにしろほとんど人付き合いをしなかった老人なのだ。

メグレは数少ない手がかりをたどりながら、被害者の身元を割り出していく。被害者の複雑な反省が徐々に明らかにされていく。

ある日メグレ宛に匿名の電話がかかってくる。ある者を調査せよ、という。急転直下犯人と思われる人物が浮上する。ここまでで本の半分くらいである。

ここから話はねじれ始める。最後に判明した真実は・・・。

シムノンは本書でも、なかなかすんなりとはいかない人生のありさまを読者に提示してくれた。

(2024.4.3)



--- メグレと首無し死体 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレと首無し死体

読み終えてみると、パリ郊外の運河の脇にある小さな居酒屋(ビストロ)の印象が頭に残った。

運河からバラバラの死体が発見された。ただ頭だけは発見されなかった。捜査陣には死体がどこの誰なのか、皆目分からない。

電話をするために入った運河脇の居酒屋に、メグレが強い印象的を受けた女性がいた。その後メグレは捜査の前線基地として、その居酒屋を利用することになる。初めは違和感があったが、徐々に居心地が良くなってくる。

印象的な文章がある。

「メグレは転落する人たち、とくに好んで自分を汚し、たえず下へ下へと転落することに病的なほど夢中になる人たちは、いつの場合でも理想主義者なのだと・・・」

この作品を象徴する文章である。

(2024.4.2)



--- メグレとベンチの男 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレとベンチの男

犯人は思わぬところから判明する。メグレが今まで捜査していたのは何だったんだろう。

シムノンがメグレ警視シリーズを書く目的はトリックや謎解きではないことがはっきり証明される展開である。

著者が本書で書きたかったのは被害者トゥーレの人生である。

トゥーレは勤めていた会社が潰れて、職を失ってもそのことを家族の誰にも言うことができない。毎日会社へ行くふりをして家を出るが、公園や映画館で時間を潰して退勤の時刻になると何食わぬ顔をして帰宅する。

だが蓄えた金が無くなるとそういうわけにはいかない。さてトゥーレはどうするのか。

メグレはトゥーレや彼の家族たちの生活を知ることで犯人を追及しようとするが・・・。

(2024.4.1)



--- モンマルトルのメグレ ---

by ジョルジュ・シムノン

モンマルトルのメグレ

パリ郊外、モンマルトルのうらぶれたキャバレー「ピクラッツ」。入り口はケバケバしいネオンに彩られ、内部はピンク色の照明に浮かび上がる舞台、仕切りで区切られたテーブル、ピアノトリオの生バンドの音、一晩に何回か繰り広げられるストリップショー。

その店の踊り子が殺された。彼女は亡くなる数時間前に警察にオスカルが伯爵夫人を殺すつもりだということを通報していた。

踊り子はなぜ殺されたのか。オスカルとは何者か。伯爵夫人とは?

メグレはキャバレー「ピクラッツ」に腰を据えて捜査にあたる。彼の目的は殺された娘の生前の姿を正確に描き出すことだ。捜査が進むうちに娘が生活していた様子が浮かび上がってくる。だが、オスカルについては皆目分からない。

読者はメグレと共に「ピクラッツ」の6番のテーブルでワインを飲みながら捜査の網が狭まってくるのを眺めることになる。

やがて事件は解決し、メグレはバリ警察の自分の部屋に戻る。「ピクラッツ」の6番テーブルに残された読者は一抹の寂しさを感じることになる。

(2024.3.31)



--- メグレ式捜査法 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレ式捜査法

南仏に浮かぶ小島のホテル「ノアの方舟」。事件はここで起こり、メグレはスコットランドヤードからメグレ式捜査法を見学に来た刑事パイクを連れて出張する。

ホテル「ノアの箱舟」は「港を見下ろす丘の上にある大きな建物」であり、室内には「ブイヤベースとサフランの匂いが漂っていた」。そこに泊まることになったメグレの部屋は一方の窓から広場が、もう一方の窓からは海が見える部屋だった。なんだか行ってみたくなるようなホテルである。

メグレは島に住む限られた住人の中から犯人を探すことになる。物語はクリスティの「孤島もの」のような雰囲気である。

とはいってもシムノンは本来謎解きやトリックの作家ではない。彼は島の住人ひとりひとりの経歴や生活を探ることによって、犯人をあぶり出していく。

章が進むに連れて、少しずつ緊迫感が増していく。そして突然大団円を迎えることになる。

(2024.3.30)



--- 父・こんなこと ---

幸田 文

父・こんなこと

本書にはふたつのエッセイかが収められている。「父 ー その死 ー」と「こんなこと」である。

「父 ー その死 ー」は著者の父親・幸田露伴の晩年の姿を描いている。露伴が亡くなったのは1947年7月であった。敗戦から2年目の夏であった。著者は戦争中から寝たきりになっていた露伴をかかえて、戦後市川市の菅野に引っ越す。著者はこのエッセイで菅野に移り住んでからの看病のありさまと露伴の死までを綴っている。

娘が父親を語ったものでは向田邦子の「父の詫び状」が有名であるが、幸田文の「こんなこと」もその系列に属する作品である。幼少の頃母親を亡くした著者は父親から生活に必要な「こんなことや、あんなこと」を習う。著者は14才から18才までの多感な時期に、掃除の仕方、障子の張り方、薪割り等々さまざまなことを父親から伝授される。そのありさまをユーモアを交えて書いたエッセイである。

幸田文の父露伴は向田邦子の父親とは違い、幼い子供たちとよく遊んでくれたようである。「こんなこと」の中の「ずぼんぼ」という章でその様子を描いている。露伴は厳しいばかりでなくユーモラスな父親でもあったようだ。

(2024.3.29)



--- 面とペルソナ ---

by 和辻哲郎

面とペルソナ

和辻哲郎は漱石の最晩年の弟子である。大学時代西田幾多郎のもとで哲学を勉強していた彼は文学にも興味を持っていたのだろう。

和辻の文章は哲学を論じるときでも自分の言葉で正しい日本語を使うので、我々部外者にとっても理解しやすい。それは彼が若い頃から日本語の文章に心を配っていたからに違いない。

本書には表題の「面とペルソナ」以下27編のエッセイが収められている。いずれも文学者のように美しい文章で、素直に心に響いてくる。

多趣味の人らしく、とり上げた主題は多岐にわたっている。「面とペルソナ」と「能面の様式」では能面の美と機能について、「六本の手の如意輪観音」では千手観音の手の様式と機能について、「自由劇場開演に際して」では日本の翻訳劇の現状と今後に対する展望を述べている。

「偶数と神々」の章で著者は、「東南アジアの国々は古来7と9を重んじてきた。唯一日本だけは偶数を重んじ、特に8は偶数の一番重なった数字として重んじられた。2の本性は共同であり、和睦である。これが日本精神史の最も古い起点である」、と述べている。確かに古来日本には八百万(やおよろず)の神々がいて、8という数を末広がりと言ってめでたがった。中国ではめでたがる7と9については不吉な数字としていた。

「寺田さんに最後に逢ったとき」は著者が軽井沢の軽便鉄道の車内で発車を待っているとき、後から入ってきた人を見ると寺田寅彦であった。そのとき元気だった寺田氏がその数ヶ月後には亡くなっていた。同じ漱石門下生の寺田寅彦と偶然会い、しかもそれが今生の別れになった。そのとき著者と一緒にいたのは谷川君というから、おそらく京都大学哲学科の同窓生・谷川徹三氏であったろう。

「青丘雑記を読む」において著者は、文章を書く上で大切なことをこう述べている。「文章の極致は透明無色のガラスのように、その有を感ぜしめないことである。脱我の立場において異境の風物が語られるとき、我々はしばしば驚異すべき観察に接する。人間を取り巻く植物、家、道具、衣服等々の細かな形態が、深い人生の表現としての巨大な意義を、突如として我々に示してくれる」。いかにして「脱我」を成し遂げるか。

「享楽人」で、著者は木下杢太郎を評して享楽人である、と評する。著者27才、木下31才の時である。17年後、著者は附記に木下を「享楽人」ではなく、単なる「ヒューマニスト」であったと書いている。「享楽人」とは人生を味わい尽くす人という意味である。

大正11年、著者33才の時「思想」に書いたエッセイ「天竜川を下る」は興味深い。仲間たち11人と信州飯田まで行き、そこから天竜川下りをする。誰がどうした彼がこうしたと書くが、それぞれ姓しか書いていない。小宮君とか高橋君とか・・・。下の名前を想像してみた。阿倍君→阿倍能成、小宮君→小宮豊隆、上野君→?、津田君→津田青楓、中君→中勘助、岩波君→岩波茂雄、速水さん→速水御舟、高橋君→?。上野君と高橋君以外は著者を含めて全員漱石山房の弟子たちではないか。和辻氏の文学的風土はやはりここにあったのだと思った。

著者は「学生検挙事件所感」で社会主義暴力革命について論じ、「文化的創造に携わる者の立場」においてヨーロッパ諸国だけが先進国ではない、と論じた。時代の風潮や雰囲気に流されないで、自分の意見を堂々と述べる、そのことが彼を右翼とか反動主義者とかいって貶めようとする勢力を生んだのだろう。「河上博士に答う」で共産主義者・河上肇のいわれなき非難に長々と答えざるを得なかったのもその結果である。

現在の時点から俯瞰すると、暴力的共産主義に対する、そしてヨーロッパやアジアに対する日本の立場の特殊性について、和辻氏の考察は時代を超越していた、ということは明白である。

(2024.3.27)



--- メグレと殺人者たち ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレと殺人者たち

メグレ警視宛に、命を狙われている、という電話がかかってくる。彼は街のにぎやかなところを移動しながら電話してくるらしい。

初めは「いたずらかな」と思ったメグレは、男の真剣な口ぶりから徐々に信じ始める。そして電話は途切れ、彼の死体が発見される。

地道な捜査を続けていくうちに、徐々に大規模な殺人集団の存在が明らかになってくる。その陰に潜む女性たちの存在も。

1947年、比較的初期の作品である。後期のものに比べて事件の規模が大きい。後半メグレ率いる捜査陣が犯人たちを追い詰めていく描写は手に汗握る。

(2024.3.25)



--- メグレ罠を張る ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレ罠を張る

メグレ警視ものを読む時は、本の半ばまで実り少ない地道な捜査を記述する退屈な場面を覚悟しなければならない。

途中捜査は急展開し、トリックも謎解きもないまま、自然に犯人が浮かび上がることになる。そのことも覚悟しなければならない。

問題は犯人が浮かび上がってからである。現像紙に画像が浮かび上がってくるかのように、じわじわと犯人像が鮮明になっていく。その過程はシムノンの独壇場である。

本書の犯人像は衝撃的である。メグレがじわじわと犯人に対して迫っていく場面は読んでいてドキドキする。メグレは犯人にこういう。「この女たちは、二人が二人とも君が一人前の男になるのを邪魔していたのだ」。

すべてが終わり、帰宅したメグレを迎えた夫人は「なぜか夫が遠くから帰ってきた人のような気がしていた」と感じる。

本書を読み終えた読者もメグレ夫人と同様のことを感じるだろう。

(2024.3.24)



--- 立原正秋 ---

by 高井有一

立原正秋

同人誌時代の後輩・高井有一による立原正秋の評伝である。立原の生前かなり親しく付き合っていた著者によるものであるだけに、立原の文壇における立場や彼の人となりについて詳しく述べている。

立原正秋という人は、その出自や性格がかなり複雑な人だったようだ。

出自については本人は日本人と韓国人のハーフであったといっているが、実は両親とも韓国人であった。解説の尹学準も立原の作品を読むと、彼がハーフであったはずはないとはっきり書いている。

なぜ立原が自分の出自を正直に書かなかったかったかは、著者が本文中で、日本人に対する劣等感と見栄がそうさせたのだと分析している。

立原は反りの合わない人に対する狷介な面とそれに反して気を許した友人たちには人懐こい面を持ち合わせていた。また尊敬する年上の人に子供みたいに甘えるところがあったようだ。

末尾の解説は通常褒めるものだが、本書では故人を「自分が属している民族の歴史も文化も知らない立原」とか「植民地人間乗り悲しい虚栄であり、憐れである」とか、徹底的に貶し、果ては個人が隠しておきたかった出自を暴くなど、尹学準氏は立原正秋、本名を金胤奎といった人物に対して謹慎増悪のようなものを抱いていたようである。

(2024.3.22)



--- 芥川龍之介の推理 他六篇 ---

by 土屋隆夫

芥川龍之介の推理 他六篇

「芥川龍之介の推理」

ある町で20日ばかりの間に自殺者が3人出た。皆10代の若者だった。その数はこの小さな街にしては多かった。

所轄署の江田は夜中に芥川龍之介の遺書「ある旧友へ送る手記」を読みながら、3人の自殺者たちのことを考えた。彼らの自殺の原因と動機はなんだったんだろう。・・・。

芥川龍之介は、意思に反して公表された遺書の中で、どうやって自殺しようかと思い悩んだ有様を述べている。江田はその中から若者たちの自殺の動機を探り出そうとした。

芥川龍之介の推理 他六篇(裏表紙)

「縄の証言」

無実の罪で死刑囚となった男は獄中で病死した。彼の娘は父親を裁いた判事と検事に復讐を誓った。7年後・・・。

「三幕の喜劇」

アガサ・クリスティのミステリー「三幕の悲劇」をもじった表題。コソ泥の話。

「夜の判決」「沈黙協定」「正当防衛」「加えて、消した」。いずれもある人物の自殺とその原因と動機が書かれている。新聞の三面記事のような事件の裏側に隠された真実の姿が描かれている。

表題につられて読んだが、いずれの話も文学的というよりも普通の中間小説のような作品であった。

(2024.3.20)



--- 覇王の家 ---

by 司馬遼太郎

覇王の家(上) 覇王の家(下)

本書は関ヶ原の戦い以前の徳川家康と豊臣秀吉の戦いを描いたものである。家康と秀吉の直接の戦いは「小牧・長久手の戦い」であるが、これは小競り合いの末、勝敗が決していないにも関わらず、家康が秀吉ら人質を差し出す形で終わった。両者、政治的な決着に逃げたものである。その後家康は秀吉が死ぬまで戦うことはせず、秀吉の死後、石田三成と戦った「関ヶ原の戦い」を勝利することによって天下を取る。

本書で著者は「関ヶ原の戦い」までの家康がたどった道を追う。著書としては関ヶ原の戦いを描いた「関ヶ原」が先に出版され、その7年後に本書が出版された。

本書は秀吉が家康を籠絡させようと苦心する様子を描いた章「都鄙物語」から、いきなり家康の死の前後を描いた章「その最後」に移る。その間に「関ヶ原」の3冊が挟まれることによって物語が完成する。

著者は武士たちの様々なエピソードを語りながら、読者の興味をつないでいく。ひとつひとつが興味深いエピソードでとても書ききれない。

著者によるエッセイ的な文章も数多くはさまれており、興味深かったのは以下の文章であった。

* 信長の祖先は越後から尾張へ流れてきた神主、秀吉の氏素性は水呑百姓以下の流浪人、徳川家の始祖は流浪の乞食僧であった。

* 世におそろしいのは勇者ではなく、臆病者だ。

* 徳川300年間が功罪ともなって日本人の性格を変えた。
  功は文化文政時代における独特の文化や教養の普及である。
  罪は天文年間から慶長年間にかけての日本人の民族的性格が矮小化され、奇形化された。極端に自己保存の神経と過敏な性格は、家康の個人的性格からきている。それは昭和期になっても継続している。

(2024.3.19)



--- 闇のオディッセー ---

by ジョルジュ・シムノン

闇のオディッセー

カミュの「異邦人」は太陽が眩しかったから、という理由で殺人を犯した異邦人ムルソーの話だった。

本書の主人公シャボは病院をいくつも経営するエリートの産科医である。妻以外の女性にも不自由しない。

そのような彼の生活が彼にとって落とし穴となる。著者はエリート医師シャボの生活を丹念に描くことによって、彼がなぜ殺人を犯すことになったのかを追う。

読み終えてみても彼がなぜ殺人を犯したのかわからない。人生全体に対する絶望感というしかない。それは読者それぞれが判断することだろう。

本書は「太陽が知っている」のジャック・ドレー監督がアランドロン主演で映画化している。

(2024.3.15)



--- 倫敦(ロンドン)から来た男 ---

by ジョルジュ・シムノン

倫敦から来た男

まるでフランスのフィルム・ノワールを観ているような作品である。実際に本作は過去3回映画化されている。1作目は1946年にフランスで、2作目は1948年にイギリスで、そして3作目は2009年にハンガリーで映画化されている。確かに映画化に向いている作品である。

映画「倫敦から来た男」

舞台はフランスの港町。そこにそびえる15メートルの高さの転轍(てんてつ)作業の監視塔がある。監視塔からは本作の主な舞台である港町と港の様子が一望することができる。

ドラマは監視塔の下で進み、監視塔からそれを見ている者がいる。転轍手のマロワンだ。物語はマロワンの視点から語られる。

監視塔の下で殺人が行われる。それを見ていたものはひとり、監視塔の上にいたマロワンのみ。だが、犯人はそれに気づいていた。まるでヒッチコック監督の映画「裏窓」のような展開だ。

物語は強烈なサスペンスとともに進んでいく。読み始めたら途中で本を置くことはできない。

(2023.3.14)



--- メグレと若い女の死 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレと若い女の死

本書にはロニョンという刑事が登場する。雨に濡れてヨタヨタ歩いているヤセ犬といった感じの人物である。本書ではこの脇役の男がいい仕事をする。決して報われることはないのだが。

被害者は社会の吹き溜まりの中でいつもはじかれている女性である。メグレは彼女が生きたいた頃の足取りを追おうとするがなかなかつかめない。

同時に所轄署のロニョンもじみちに彼女の足取りを追う。物語は「頭がよく、パリ警察で最も良心的な刑事だが、みんなが彼のことを馬鹿者だと思っている」ロニョン刑事と被害者の女性をシンクロさせながら進んでいく。

ロニョンの追求とメグレの追求が出会った時、事件は明らかになる。そして、今回もロニョンは報われないのだ。

(2024.3.13)



--- 関ヶ原 ---

by 司馬遼太郎

関ヶ原(上) 関ヶ原(中) 関ヶ原(下)

戦国時代を制した織田信長が天下を統一し、その後を豊臣秀吉が継いだ。秀吉が亡くなると、当然次の覇者は徳川家康だろう。

だが、歴史の流れはそう簡単には進んでいかない。秀吉が信長を殺した光秀を討って天下を取ったように、秀吉の家来の大名たちを納得させなければならない。

関ヶ原は秀吉の跡目を息子の秀頼に継がせようとする勢力と自分が跡目を継ごうとする家康との最後の戦いの場所である。岐阜県の大垣市と滋賀県の米原市の中間にある狭い盆地である。冬に新幹線で関ヶ原を通過する時、前後は晴れていてもここだけはいつも雪が降っていたのを思い出す。

物語はグランドホテル形式で進んでいく。諜報活動を駆使し、技をかけまくって優位に立とうとする家康と、正攻法というか愚直に突き進んでいこうとする石田三成、それぞれの陣営の様子を描いていく。

戦いそのものは早朝に開始され、午後の早い時間には決着がついてしまう。約半日の出来事であった。

著者は戦いに至るまでの各陣営のエピソードを細かく積み上げていく。

印象に残るエピソードは細川ガラシャ夫人の焚死。山内一豊の出世話。真田昌幸、幸村父子の話。九鬼嘉隆、守隆父子の話、等々。これらのエピソードの積み重ねの果てに関ヶ原の戦いがある。

家康の諜報活動によって裏切り者が続出し、豊臣側は到底勝てる見込みはないだろうと思われた。が、戦ってみると数的には劣勢の豊臣側が優勢になった。数は少ないが三成の家来たちのモチベーションが高かったためだ。

このままだと豊臣側の勝利かと思われた時に最後の裏切り者、小早川秀秋の背後からの襲撃によって散り散りバラバラになってしまう。勝敗はあっけなくつき、家康が天下を取り、小早川秀秋は裏切り者の代表として歴史に名を残すことになった。

ちなみに小早川秀秋は秀吉の甥であり、のちに養子となり、小早川隆景の養子になる前は羽柴姓を名乗っていた人物である。三成は味方中の味方に裏切られたことになる。

著者は石田三成の人望のなさを至る所で述べている。「三成という男がこれほど明敏な頭脳をもちながら、人間に対する認識が、欠落したように暗い」とか「ナタや斧ならば巨木を切り倒して、どのような大建築をも作事することができるが、かみそりはいくら切れても所詮はひげを剃るだけの用しかできない」と評している。また、「三成は高級官僚であり、理屈でのみ物事を判断し、思い込みが激しい人物であった」と述べている。

歴史は戦国時代から織田、豊臣、徳川と続き、明治、大正、昭和、平成、令和とつながっている。同時にそこに生きる人間たちもつながっていることを考えると、現代において同じようなことが行われていることを思わざるを得ない。

(2024.3.12)



--- 子犬を連れた男 ---

by ジョルジュ・シムノン

子犬を連れた男

これはジョルジュ・シムノンのメグレもの以外の著作である。シムノンには約400冊の著書があり、そのうちメグレものは85冊である。それ以外は普通の小説である。

シムノンといえばメグレという印象だが、メグレものは意外に少ないのに驚く。

本書はある男の11月13日から11月25日までの13日間の日記から成り立っている。ところどころ日記を書かない日があるから実際に書かれた日記は10日間前後である。

これは殺人の罪で刑務所に5年間服役した男が出所後、以前売春宿を経営していた女性が経営する書店に勤め始めてから8年後の日記である。男は48才になっている。

日記には現在と過去の男の生活が描かれている。現在の日記では、男と彼が飼っている犬、男と書店の経営者の女性の関係が描かれている。

過去の描写では、男の子供時代から現在までの生活、結婚生活、事業の様子などが描かれている。

日記は殺人の場面でクライマックスを迎える。彼が誰を殺したのか、なぜ殺したのかが男の日記全体から推測することができる。著者はそれを目指して本書を執筆したのだろう。

メグレは出てこないし、警察小説でもないが、本書はメグレものの雰囲気が濃厚に漂っている。

(2024.3.8)



--- メグレとワイン商 ---

by ジョルジュ・シムノン

メグレとワイン商

本書は謎解きではない。司法警察局警視メグレが事件を追う。調査するうちにメグレの前に数々の事実が現れてくる。読者はメグレと共にそれを追えば良い。

成功したワイン商が殺された。事件を担当したメグレは被害者のことを知ろうとする。被害者のことを知ればおのずから犯人のことがわかる。メグレはそう信じている。

物語が進むにつれて読者には被害者と彼の関係者の人生が浮かび上がってくる。同時に犯人のそれも。

「メグレは周囲のものすべてを攻撃する臆病な人間たちにほかにも出会ったことがあった」という描写に犯人像が見事に浮かんでくる。だけどこの犯人像って現在日本で起こっている犯罪事件のほとんどの犯人像とも共通しているのではないだろうか。

物語は古典落語の人情噺のようにジワーっとした感動と共に幕を閉じる。

(2024.3.7)



--- 和辻哲郎全集 第七巻 ---

by 和辻哲郎

和辻哲郎全集 第七巻 和辻哲郎全集 第七巻 和辻哲郎全集 第七巻

 ◇ 原始キリスト教の文化史的意義  ◇

 * 原始キリスト教の文化史的意義 

2,000年前、中東のヨルダン川西岸に突如として発生したキリスト教は数世紀後には世界中に広まり、世界宗教になった。創始者はユダヤ教からでたイエスという名前の男としか明らかになっていない。彼は書物を残さなかった。彼は創始者であるが、キリスト教は彼の死後、弟子たちによって整備され、広められた。誰もが彼は誰だったんだろう、と思う。和辻氏もそういう思いから本書を執筆したに違いない。

著者は「福音書に描かれたイエス」と「福音書を書かせたイエス」がいたと説く。「福音書に描かれたイエス」は新約聖書の4人の使徒たちによって、また使徒行伝に描かれたイエス像である。これには伝道のための脚色が含まれている。

著者は「福音書を書かせたイエス」とは何者であったのかを追求していく。

著者はその人物について、「人類の作ったいかなる芸術も比肩し得ないほどの深さ、強さ、美しさ」と「力強い人格をもつ」者であろうと想像する。さらにその者は衣食住に対する欲を捨て、「神を愛すること」と「おのれのごとく隣を愛すること」を実践する革命家であろう、と想像する。

キリスト教はイエスの直接の弟子ではない使徒パウロによって広められた。パウロはユダヤ人であったが、ギリシャ的教養を持っていた。ユダヤ教から派生した一分派に過ぎなかったキリスト教がローマに伝わり、さらに世界宗教になったのはパウロの働きが大きく作用した。

原始キリスト教はその内的必然性によってカトリック教会を生み出した。この教会はギリシャ精神やキリスト教の価値高き概念や力を曇らせ、覆いかくした。が、その潜勢力を保持した点において意義あるものであった。

 * 童貞聖母 

四つの福音書のうち聖母マリアの存在が記述されるのはマタイによるものとルカによるものである。マタイが記述したマリアは夫ヨセフの陰に隠れて目立たない。ルカが記述したマリアは聖母として大きく取り上げられている。

聖母マリア像は西洋の美術品に大きく取り上げられている。絵画においてはキリスト像よりマリア像の方が圧倒的に多い。

処女マリアは何を象徴しているのか。

古代社会において性=生存と食物=飢餓の回避が重要な要素であった。世界各地に処女懐胎の伝説が残っている。人間の生存への要求が処女マリア像を産んだのではないか。

 ◇ ポリス的人間の倫理学  ◇

著者はまず古代ギリシャに発生したポリスとは何かを述べる。次にそのポリスで生まれた哲学者たち、ソクラテス、プラトン、アリストテレスについて述べる。そこで生まれた哲学はニーチェ、ヘーゲル、ハイデガーといった現代の哲学者たちにも大きな影響を及ぼしている。

ポリスは都市国家と訳される。その規模は1万人前後だったらしい。紀元前数世紀のギリシャにはそのくらいの人口を持つ独立した都市が数100存在した。

ポリスの特徴はそれに属する者に自由を与えないことだったようだ。ポリスの掟やしきたりに反する者はポリスから出ていかなければならなかった。ソクラテスが逃げられたにも関わらず、その場にとどまって毒杯を仰いだのはそのことと関連している。

著者は「伝承は史実を伝えないが、かかる伝承を発生せしめた人物はいたのである」と述べる。イエスや釈迦や孔子やソクラテスは果たして実在の人物であったのか。「ソクラテス問題はイエス問題よりも困難である」そうだ。筆者はイエスよりソクラテスの方が実在性があると考えるが、専門家に言わせるとそうでもないらしい。

プラトンはその著書「国家」で理想的な国家の姿を描いた。それはポリスの特徴である教団的性格を持つ全体主義的な性格を帯びていた。彼の国家の指導者となるべき人物は哲学者でなければならなかった。

アリストテレスは43才年上の師プラトンの説を発展させ、ポリス的人間学の最終的な姿をとなえた。彼はその著書「二コマコス倫理学」と「国家学」で「人間関係が自覚的な組織にもたらされるとき国家になる。だから国家は卓越せる意味において人倫的組織である」と述べた。

ポリス的倫理はアリストテレスの時代で終わり、その後のギリシャ哲学は個人主義を重視するストア派、質素で原始的な暮らしをめざすキュニコス派を経て、友愛による快楽主義を重んじるエピクロス派へとつながっていく。

和辻氏は本書で世界の4人の聖人のうちイエス、ソクラテスの二人について論じた。残る二人、孔子と釈迦についてはそれぞれ別の書籍「孔子」と「原始仏教の実践哲学/仏教哲学の最初の展開」で論考している。

(2024.3.6)



--- フルトヴェングラーかカラヤンか ---

by ヴェルナー・テーリヒェン

フルトヴェングラーかカラヤンか

著者はフルトヴェングラーの元で8年間、カラヤンの元で30年間、ベルリン・フィルのティンパニー奏者をしていた。同時に楽団幹事を務めていた。一般の楽団員よりも深く指揮者と付き合わねばならなかった著者は、二人のカリスマ指揮者のことを誰よりも良く知っていた。

著者は一言で二人の指揮者の特質を言い表している。

フルトヴェングラーは「音楽への情熱的な没頭」。カラヤンは「多方面にわたる完璧さへの愛と、何よりも自己愛」。

それは表紙の写真を見るだけで納得できる。フルトヴェングラーはオーケストラになんとしてでも良い音を出させようとしている。カラヤンは自己陶酔そのものである。

またカラヤンについては「彼が好むのはいつでも喜んで家来になるような音楽家だった」と述べ、彼はベルリン・フィルの独裁者になろうとしていたと書いている。

フルトヴェングラーについては、オーケストラが他の指揮者で練習していた時に、彼が部屋の片隅に現れただけで「突如として音色が一変した」と書いている。

著者がどちらの指揮者を敬愛していたかは一目瞭然である。

現在筆者が持っているクラシック音楽の多くはヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の演奏である。フルトヴェングラーは一枚もない。ほとんど全ての演奏がモノラル録音だからだ。読了後、これは考え直さなくては、と思った

(2024.2.27)



--- 20世紀イギリス短篇選(上) ---

by サマセット・モーム他

20世紀イギリス短篇選(上)

12篇の短編が収められている。

ラドヤード・キップリングの「船路の果て」は原題が「At the End of the Passage」。植民地時代のインドに駐在している役人たち4人が週に一度集まって情報の交換や飲んだり食べたりする。いろいろなことを話し合うだけなのだが、彼らにとっては唯一の楽しみだ。本国ではそれほど仲が良くなくても海外に出ると親しみが湧く。一時的に一体感ができるのだ。

本作品のハミルのように突然怒りっぽくなったり、ケンカっ早くなったりする者もいる。気候に慣れずに部屋に閉じこもってしまう者もいる。キップリング自身インドに長い駐在経験がある。そういう情景を描いた作品である。海外駐在経験がある者にとっては懐かしいような、身につまされるような作品である。

サマセット・モームの「ルイーズ」は身近にいる者は自分に奉仕するためだけに存在しているのだ、と思い込んでいるルイーズというエキセントリックな女性の話。

「上の部屋の男」。P.G.ウドハウス作。O.ヘンリーの「賢者の贈り物」を思い出す。最後の1行が効いている。

「痛ましい事件」。ジェイムズ・ジョイス作。家族主義が根強く残っている東洋と違い、個人主義の発達した西洋社会では、絶対的な孤独が存在する。本書の主人公は中年の銀行員、ダフィ氏。近親者のいない彼はダブリン市内で一人暮らしをしている。ある日コンサートで同年輩の婦人と知り合い、交際が始まる。知的なつながり以外の求めていなかった彼とそれ以上のものを求めていた彼女との間に食い違いが生じ始める。・・・。社会生活とは個人主義と家族主義の間を行ったり来たりするものだということを考えさせられる。

「指ぬき」。D.H.ロレンス作。戦争で負傷して容姿の変わってしまった夫を以前と同様に愛せるか、という問題を抱えた妻の話。

「脱走」。ジョイス・ケアリー。社会的に成功した男が、ある日家族の誰もが自分を頼りにしていないことに気づき、会社も家族も捨てて遠くの街に逃げる。東洋西洋を問わずありえる話である。熟年離婚とはいつの間にか夫に、または妻に頼りにされていない自分を発見した時に起こることだろう。その頃はもちろん子供たちからは頼られていない。

エリザベス・ボウエンの「幽鬼の恋人」は恐怖小説。中年の女性が戦争中婚約者だった男から切手のない手紙をもらった。戦後25年経っている。そんなはずはない。手紙には約束の時間に迎えに行きと書いてあった。そして・・・。ゾッとする話。

H.E.ベイツの「単純な生活」は田舎暮らしに生きがいを見出す夫と便利な生活が好きな妻の話。海岸沿いの沼沢地に別荘を持つ夫は休暇のたびにそこを訪れる。妻もついては行くが酒を飲むばかり。手伝いに来た隣家の若者を誘惑する。価値観の違う者同士が一緒に住もうとするとすれ違いや摩擦が生ずる。著者はその様子を淡々と描く。

その他アーノルド・ベネット、E.M.フォースター、ヴァージニア・ウルフ、オルダス・ハックスリーの作品が収められている。

(2024.2.25)



--- ABC殺人事件 ---

by アガサ・クリスティ

ABC殺人事件

「アクロイド殺人事件」以外のクリスティの作品はたいてい犯人を忘れてしまっているから、何度でも楽しむことができる。本書も前回読んでから数年経っているので犯人は誰だかわからない。読み始めたら夢中で読んでしまう。

地名と頭文字がアルファベット順に殺人が起こる。Aから始まる地名でAから始まる名前の人が。次はBからはじまる地名で・・・。犯人の動機と目的は?

登場人物の中にカスト氏という人がいる。筆者が10代の頃、初めて本作品を読んだ時に印象に残った人物がカスト氏であった。いつも自信がなくオドオドしていて、他人に利用されてしまう弱い人物である。体も弱く、頭痛持ちである。ポワロは彼にメガネを替えることを勧める。それが馬鹿に印象に残り、物語の内容は忘れてもこの場面だけは鮮明に覚えている。

今回クリスティはカスト氏に対してポワロの激励の言葉だけでなく、もう一つの贈り物をしていたことに気づいた。第28章でリリー・マーベリーという下宿屋の娘がカスト氏に電話をかける場面がある。このことが最後のページでカスト氏の幸せにつながってくる。

本書ではもう一つのカップルも誕生していた。Bで始まる被害者の婚約者ドナルド・フレーザーに亡くなった女性よりも彼に相応しい聡明な女性が現れる。クリスティの作品は最後に幸せなカップルが誕生することが多い。そういえばポワロの友人ヘイスティングスが彼の妻と知り合ったのは処女作「スタイルズ荘の怪事件」でだった。

(2024.2.23)



--- 審議官 隠蔽捜査9.5 ---

by 今野 敏

審議官

本書には竜崎ものの短篇が9篇収められている。・・・。

「空席」。竜崎は警視庁大森署から神奈川県警に移動になった。大森署に新任の署長が来るまでの一日、署長の席は空席になる。本作では空白の一日に大森署に起きた出来事とその始末が語られる。神奈川県警の竜崎部長はどうする・・・。

「内助」。竜崎の妻冴子は夫が扱うことになった事件のことを考えていた。事件に既視感を持ったからだ。冴子は過去の新聞記事を調べ始めた。すると・・・。変形のアームチェア・ディテクティブもの。

「荷物」。竜崎の息子邦彦が友人から白い粉末約1キログラムを預かった。なんとなく覚醒剤のような気がする。もしかしたら・・・。邦彦がかつてヘロインをやっていたことが原因で竜崎は降格になった。大変なことになった。俺はまた親父にダメージを与えることになるのか・・・。

「選択」。竜崎の娘美紀は会社でのパワハラと警察との関わりあいの板挟みになっていた。八方塞がりの美紀は・・・。

「専門官」、「参事官」、「審議官」、「信号」では個人と組織の兼ね合いの問題について、「非違」では竜崎が去った大森署の様子を描いている。

長編9冊、短篇3冊の「隠蔽捜査シリーズ」は終始、組織と個人の在り方について問題を提示し、理想の在り方を竜崎の生き方と絡めて描いてきた。当初は組織に対する竜崎の苦闘を描いていたが、徐々に彼の思想が周囲に浸透して、周囲から認められるようになった。時間の経過と共にそれが苦闘ではなく当たり前になってきた。竜崎が去った後の大森署を見ると、竜崎のシステムに慣れた署員にはそれが常識化しているが、そうではない署員にとっては異質のものとして認識されている。組織と個人の問題は常に組織と個人の対決という形でしか解決しないものだと思う。

(2024.2.22)



--- 20世紀アメリカ短篇選(下) ---

by 大津栄一郎編訳

20世紀アメリカ短篇選(下)

戦後のアメリカの短篇14篇が収録されている。かず多くの短篇の中から編者独特の視点から選ばれた14篇である。

ナボコフの「ランス」は宇宙飛行から帰国した息子を前にした両親の視点から語られている。一読した限りではこの息子が生きているのか死んでいるのか、あるいは大怪我をしたのかよくわからない。普通小説なのか、SFなのかもよくわからない構造になっている。

マラマッドの「ユダヤ鳥」は迫害されているユダヤ人を鳥に託して語った作品である。マラマッド自身ユダヤ系ロシア人の生まれなので物語は辛辣である。

ジーン・スタフォードという作家の「動物園で」という作品は豊かで進歩的というイメージのアメリカの実像をリアルに描いている。中年の姉妹が一年に一度会う街の動物園でシロクマを見ているうちに、彼女たちが少女時代に知り合ったマーフィーさんを思い出す。記憶はマーフィーさんからミセス・プレイサーに移り、彼女たちの惨めだった少女時代の思い出がよみがえってくる。貧しかった頃のアメリカの大多数の人々の生活が、今からは想像できないほど惨めなものだったことを描いた作品である。

「木・岩・雲」。新聞配達の少年が配達を終えた後、早朝のカフェに入る。暖かいコーヒーを飲んで出ようとすると、奥に座っていた老人が話しかけてきた。「息子よ・・・」。原文だと「My Son」だろう。日本語だと「おい少年」くらいの感じだろう。少年と老人、それとカフェの主人との緊張感あふれる会話が始まる。緊張感は老人がカフェを出ていくまで続き、少年の最後の一言で解放される。短いが、緊張感に満ちた短篇。カーソン・マッカラーズは只者ではない。現題は「A Tree, A Rock, A Cloud」。

「ミリアム」。トルーマン・カポーティ作。これはゾッとする話だ。老女に付きまとうミリアムと名乗る少女は実在しているのか。それとも孤独な老女の幻覚なのか。真相は最後までわからない。現代の孤独な人々とSNS文化を先取りした小説である。

長年住み慣れた田舎で暮らすのが良いのか、全てに便利だが他人に関わることのない都会の暮らしが良いのか。田舎には人と人との濃密なつながりがある。だが、日常の買い物や医療の面では不便なところである。年をとっても田舎で暮らしていくには、大家族を維持するしか仕方がない。1946年に発表されたフラナリー・オコーナーの「ゼラニューム」は現代の家族の在り方を鋭く考察している。

本書にはそのほかソール・べロウ、J.D.サリンジャー、カート・ヴォネガット・ジュニア、ジョン・バース、フィリップ・ロスらの作品が収められている。

(2024.2.21)



--- 名演! Modern Jazz ---

by セレクト・ジャズ・ワークショップ

名演! Modern Jazz 名演! Modern Jazz

ジャズ評論家たちによるお勧めジャズ名盤集である。

それぞれの評論家たちによる思い入れを込めたお薦めである。ジャズ愛好家たちにとっては有名なアルバム、たとえばマイルスの「カインド・オブ・ブルー」、コルトレーンの「至上の愛」、ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」などが主流であるが、なかには「そういうのもあったのか」的なセレクションもある。

たとえば、ロイ・ヘインズの「ウイ・スリー」、チャールス・ロイドの「フォレスト・フラワー」、ワーデル・グレイの「メモリアル Vol.1」など。

その他聴いてみたいと思ったミュージシャンはアーマッド・ジャマル、ドナルド・バード、レスター・ヤングなどなど。

ジャズの世界は奥深い。

(2024.2.20)



--- ジャズマンとの約束 ---

by 中山康樹

ジャズマンとの約束 ジャズマンとの約束

元「スウィング・ジャーナル」の編集長、ジャズ評論家の著者が今までに交流したジャズ・ミュージシャンたちのひとこまを文章でスケッチしたエッセイ集である。

著者は彼らの楽屋で、録音中のスタジオで、ホテルの部屋でインタビューする。こんな大物の自宅にまで招待されていたのか、と驚く。

有名なジャズ・クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」のインフォーメーションにはこう記載されているそうだ。「当店はあらゆる年齢の方を歓迎します。含む、静かな子ども」

80年代の半ば、マイルスのバンドにも参加し、名も売れているギタリストのジョン・スコフィールドの自宅でインタビューした時、奥さんが部屋の外の廊下の端でインタビューが終わるまで泣いている赤ん坊をあやしていた話。アルト・サックス奏者のアート・ペッパーの葬式に行った時、奥さんが案内してくれたペッパーの墓はそれ専用のロッカーのボックスだった話。クリフォード・ブラウン、ケニー・ドーハム、ウエイン・ショーター、リー・モーガンなどなどジャズのビッグ・ネームたちを生み出したドラマーのアート・ブレイキーがアメリカでは全然知られていないこと。ジャコ・パストリアスが35才で野垂れ死したこと。・・・。ジャズマンはお金と名声に縁がなかったようだ。

筆者などはアート・ペッパーやアート・ブレイキーが来日するたびにコンサートに出かけて行ったものだし、クリフォード・ブラウンやリー・モーガンのレコードやCDを何枚も持っているので、彼らが本国で無名の存在とはとても信じられない。

ジャズは人生を豊かにしてくれるものだ、と信じている者として、彼らの演奏と共に彼らの逸話の数々も大切にしたい。

(2024.2.19)



--- バスク、真夏の死 ---

by トレヴェニアン

バスク、真夏の死

単純なボーイ・ミーツ・ガールものとして読んでいたが、物語が3分の2ほど進んだあたりから様子が変わってきた。語り手の青年が自分の過去の出来事を話し始めたあたりから俄然緊張感が出てきたのだ。

トレヴェニアンは凡庸な作家ではない。「アイガー・サンクション(1972)」「ルー・サンクション(1973)」「ザ・メイン(1976)」「シブミ(1979)」といった彼の過去のどの作品を見ても、ひとつとして単純明快な作品はなかった。

本書(1983)は彼の5作目の作品である。

原題は「The Summer of Katya」。「カーチャの夏」、カーチャはヒロインの名前である。本名はオルタンスだが、なぜかロシア風にカーチャと名乗っている。

過去凝りに凝った作品ばかり発表してきたトレヴェニアンの作品だ。今回もやっぱりそうだったか、とわかるのは最後になってからだ。その時に「カーチャの夏」という題名の意味するところや、なぜ彼女が自分のことをカーチャというようになったかが判明する。

本書を読んでなぜかバルザックの「谷間の百合」と1969年のアメリカ映画「去年の夏」を思い出した。

(2024.2.18)



--- 三遊亭圓朝の明治 ---

by 矢野誠一

三遊亭圓朝の明治

演芸・演劇評論家の矢野誠一が書いた三遊亭圓朝である。小説家の小島政二郎が書いた「円朝」は脚色された部分や想像で書いた部分があったように思うが、本書は当時に近い時代の資料を掘り起こして書いたものである。

おおむねは小島政二郎の「円朝」と似通っている。若い頃から師匠として多くの門下をしたがえ、落語家の王道を歩んだ圓朝は、亡くなるまで息子の朝太郎の行状に苦しんだ。

産みの母親から遠ざけられ、幼少時から祖父母に育てられた朝太郎は生まれた時から不自然な育ち方をせざるを得なかった。著者は朝太郎にも同情している。

当時の落語家にも圓朝以外にも園遊や圓橘など優秀なひとがいたが、現在残っているのが圓朝だけであることの原因は、圓朝の落語を速記して記録したものが残っていて、それが日本の近代文学に大きな影響を与えたことがあげられる、という著者の指摘は鋭い。

「芝浜」「死神」「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「鰍沢」等々、現在どこかの寄席で毎日のようにかけられている古典落語は圓朝が作ったものだ。このことだけでも圓朝の偉大さがわかる。

(2024.2.15)



--- ソー・ザップ! ---

by 稲見一良

ソー・ザップ!

「Tho-Zap」というのは撃った弾丸が相手に当たった時に感じる音のことを言うらしい。手ごたえのようなものか。

これは見知らぬ男から決闘を申し込まれた4人の男たちの話である。

4人はそれぞれ人を殺すための得意技を持っている。手裏剣投げ、銃、素手による戦いなど。

見知らぬ男は4人をある山奥に誘い込み、それぞれの得意技で一人ずつ戦っていく。ギャビン・ライアルの「もっとも危険なゲーム」と同じシチュエーションだ。著者はライアルの小説に触発されてこの小説を書いたそうだ。

舞台がフィンランドの荒野ならともかく日本でこのような決闘小説なんて、と思ったが読み始めると夢中で読んでしまった。バカバカしさを感じなかったのは細部が徹底的にリアルだったからだろう。神は細部に宿る、だ。

だが決闘シーンだけではない。山奥に進んでいくにつれて徐々に男たちの背景がわかってくる。見知らぬ男の背景も書かれているが、決闘を申し込んだ動機は書かれていない。これによって本書の最後の文章が際立ってくる。

著者は「ダック・コール」で山本周五郎賞を受賞したが、本書もそれに劣らぬ名作だと思う。

(2024.2.14)



--- 孤愁 ---

by 稲見一良・小川竜生他

孤愁

「孤愁」という表題に相応しい短篇が12篇収録されている。

「曠野」は父と息子の話。アメリカの父と息子である。息子に好きなようにやらせておいて、息子がどうしようもなくなって助けを求めてきた時に父親はどうするか。ヘミングウェイの作品を彷彿させる。

「海の龍」。フィリピンに遊びに行ったヤクザが現地で強盗に遭う。さて・・・。

「象の夜」。主人公は日本人の種子採取業者。スマトラ島のジャングルでランの種を採りに行った先で象の大群に取り巻かれる。恐怖の一夜。

「口笛」。特徴的なメロデを口笛で吹く女を探している男。目的は・・・。

「黒い白髪」。殺人事件の被害者の車に隠してあった一束の髪の毛。事件の鍵を握る唯一の証拠だが、なんのために・・・。

「傷ついた魂」。 家出した少女を探す私立探偵。鍵を握るバイク乗りの男。

「私に向かない職業」。 男の事務所を訪ねていくと、彼はナイフを胸に刺されて倒れていた。一命を取り留めた彼の背後を探る男。男の正体は・・・。

「煤」。 社長に頼まれたOLが社長の自宅へ行くと、突然火事が起こり、家が全焼する。焼け跡からは社長の奥さんの焼死体が・・・。

「日吉町クラブ」。 競馬場で知り合った4人の男たちがある男の誘拐を計画する。計画は細部に渡るまで事前に検討し・・・。現実に起こっていそうな話。

「清洲橋」 と「なれのはて」は三角関係の男と女の話。

「矢尻」。 昔の女と再会した男の話。

いずれも読み出すと次から次へと読まずにいられなくなる。収録作品と著者は以下の通り。

  1. 曠野 - - - 稲見一良
  2. 海の龍 - - - 小川竜生
  3. 象の夜 - - - 岡村 隆
  4. 口笛 - - - 風間一輝
  5. 黒い白髪 - - - 黒川博行
  6. 傷ついた魂 - - - 斎藤 純
  7. 私に向かない職業 - - - 真保裕一
  8. 煤 - - - 多島斗志之
  9. 日吉町クラブ - - - 高村 薫
  10. 清洲橋 - - - 貫井徳郎
  11. なれのはて - - - 花村萬月
  12. 矢尻 - - - 樋口修吉

(2024.2.11)



--- 漂泊者(ながれもの) ---

by 風間一輝

漂泊者(ながれもの)

主人公は池袋の裏通りにあるボロアパート「深志荘」の住人・室井。41才、元プロボクサー、現在は悪徳私立探偵。ボクサー時代、オーナー兼トレーナーを殴り殺して警察に追われる身になっている。室井という名は偽名。

横浜の教会から依頼を受ける。内容は教会が建てる予定の障害者更生施設の建設反対運動について相談に乗ってほしいというもの。調査をすると、裏にヤクザが絡んでいることがわかる。

そのうちに牧師の娘が誘拐され・・・。

室井と国分がマレーシアのマラッカで別れるシーンは、映画「さらば友よ」のチャールズ・ブロンソンとアラン・ドロンの別れのシーンを彷彿させる。

この著者の登場人物はいずれもアウトローだが、ときどき本質をついた独白をする。たとえば、「好きなように生きる。嫌いなことは絶対にしない。それができれば苦労はない、と物知り顔に言う人間は多いが、そうした生き方に挑戦する人間は少ない」とか「いらないと言うと遠慮しているように受け取られる。遠慮すると言うと断定的に断られるように受け取られる」など。

本書の主人公・室井は「海鳴りに訊け」に、副主人公の国分は「雨垂れ」に再登場する。

(2024.2.10)



--- されど卑しき道を ---

by 風間一輝

されど卑しき道を

「よくある話」「雨垂れ」「国道四号線」「疾走」「湖畔亭の客」「夜行列車」「されど卑き道を」の7篇が収められている。

「よくある話」。主人公は池袋の裏通りにあるボロアパート「深志荘」の住人・滝川。63才、エロ雑誌専門のカメラマン兼詐欺師。騙されて金を取られたヌードモデルの仇を打つために、クラブ経営者を騙して金をむしり取る話。皮肉なオチがついている。

「雨垂れ」。神戸のある酒場の一夜の話。酒場のマダムを大原麗子、客を高倉健、バーテンを柄本明の配役で映画を作ったら、洒落た作品になりそう。

「国道四号線」。これも洒落た話。「男たちは北へ」の桐沢が登場する。あの小説の中で国道四号線を黙々と歩いていた浮浪者風の男が主人公である。物語は男のモノローグで進む。「男たちは北へ」の中で男と桐沢は道路上で4回出会う。その時のありさまを男の側から描く。

「疾走」。競技用の自転車(トラックレーサー)で高速道路を逃げる男の話。

「湖畔亭の客」。湖畔亭の食堂で日に2本来るバスを待つ男。彼が誰で何の目的でそうしているかは最後まで説明されない。

「夜行列車」。夜行列車のデッキに同乗したストリッパーとヤクザと逃げる男の話。一幕ものの舞台のよう。ストリッパーを森下愛子、ヤクザを安藤昇、逃げる男を堺雅人で観てみたい。

「されど卑き道を」。警察小説。舞台は青森市か。著者は最後にじっくり泣ける短篇を持ってきた。

全篇アメリカの短篇小説のような洒落た話。日本の小説でこのように乾いた筆致で突き放した描写の作品に出会うことは稀である。

(2024.2.9)



--- 私の時間 ---

by 吉田秀和

私の時間

音楽評論家・吉田秀和のエッセイ集である。

中身は4つに分かれている。「木目と年輪」「いのちの響き」「優しい風景」「創る心伝える心」の4つである。

「木目と年輪」では自分自身の今までたどってきた人生について、「いのちの響き」では「モーツァルト」「ホロヴィッツ」「グレン・グールド」「ブルーノ・ワルター」について語っている。「優しい風景」と「創る心伝える心」では身の回りのことや普段考えていることについて語っている。

「長い交友関係が続いているのは、お互いの細君と衝突しない関係に限られている、という事実に気づいた」。また、「自分が年と共に人生から学んだものは、ごく少ししかなかったということに気づいた」と言語っている。確かにその通りだと思った。

「自分では絶対にわかるはずのないもののために人生の大きな部分を費やしていることになりはしまいか」とも語っている。何のことを言っているのかというと、「自分の姿が他人の目にどう映っているのかを知ること」だという。これも確かにその通りだと思った。

吉田氏が幼少時から音楽に親しめる家庭に育ち、奥さんがドイツ人であったこともこの本で知った。

(2024.2.7)



--- 今夜も木枯し ---

by 風間一輝

今夜も木枯し

名作「男たちは北へ」(1989年)の著者・風間一輝の1997年の作品である。

主人公は池袋の裏通りにあるボロアパート「深志荘」の住人・仙波。30代後半。百科事典のセールスマンをして全国を渡り歩いている。

「深志荘」といえば、「男たちは北へ」の主人公・桐沢が住んでいたところだ。このアパートは2階建で階下に5室、2階に5室、合計10室あり、そこには売れない小説家、流行遅れのイラストレイター、自転車狂のグラフィック・デザイナー、悪徳私立探偵、アル中の画家、エロ雑誌専門のカメラマンなどが住んでいる。

仙波が群馬県舞橋市(前橋市ではない)のビシネスホテルに滞在していた時、ふとしたことからヤクザに追われたタイ人のジャパ行きさんをかくまうことになる。加えて彼女は警察にも追われている。彼の役割は彼女を舞橋市から外に連れ出すこと。

簡単そうに見えてこれがなかなかうまくいかない。あの手この手で市街へ出ようとするが、追っ手に見つかってしまい、逆戻りということになる。密室状態となった舞橋市から外へ出ること。それがこんなにむずかしいとは・・・。これは典型的な巻き込まれ型の冒険小説である。

シチュエーションとしては、追っ手を巻きながらある人物をフランスからリヒテンシュタインへ運ぶという、ギャビン・ライアルの「深夜プラス1」に似ている。「深夜プラス1」の主人公が使ったのは1台のシトロエンだが、本書の主人公は徒歩、車、電車、バスその他あらゆる手段を使う。舞橋駅から両毛線で桐生市へ、そこから東武桐生線で太田市へ、さらに東武伊勢崎線で羽生市へ、次に秩父鉄道で熊谷市へ、そこからJR高崎線で上野へ出る、という案を実施したがうまくいかず、最後の手段として・・・。

「深夜プラス1」もびっくりの脱出・冒険・活劇である。

(2024.2.6)



--- 小津ごのみ ---

by 中野 翠

小津ごのみ

最近立て続けに小津映画を4本見た。古いものは画面に雨が降っていたり、音声が聞き取りづらくなっていたり途切れたりしていたが見始めると全然気にならなくなる。その中には本書の著者・中野翠氏が評価しなかった作品が2作あったが、筆者には両方とも非常に面白かった。特に「東京暮色」は中野氏の評価も、世評も良くなかった作品であるが、筆者には面白かった。面白いというより興味深いとか真剣に見てしまったという方が適切だろう。

小津映画は汲んでも汲んでも汲み尽くせないものを持っている。著者自身が初めて小津作品を見た時はそうでもなかったが、今見ると非常に面白い、と言っている。

著者が小津映画見て興味深く感じたのは、女優たちの着物の柄だったという。どの作品でも女優たちが着ているのは縞柄か格子柄で、手拭いやタオルの柄も縞柄か格子柄だったという。それが花瓶や電気スタンドのかさの柄にまで及んでいるのには驚いた、いう。同じ花瓶を別の映画で使っていることもあったそうだ。これは著者が女性だからか、それともそのくらい細かいところまで見ないと評論は書けないということか。その両方かもしれない。

筆者が共感したのは小津映画の言葉づかいだ。小津映画の登場人物たちは「やめる」の代わりに「よす」、「寝る」ではなく「休む」、「帰る」ではなく「おいとまする」という。「・・・させていただく」なんていう気持ち悪いセリフは決していわない。小津は正しい日本語にこだわった。

著者は「ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従がう。重大なことは道徳に従がう。芸術のことは自分に従がう」と「泥中の蓮を表現するのに、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法と、蓮を描いて泥土と根を知らせる方法とふたつある。自分は後者を取る」という小津のことばを取り上げて、彼の映画への取り組み方を分析している。中野氏は「東京暮色」や「風の中の牝雛」はあからさまに泥土や根を表現しているようで好きになれないのだろう。小津自身も失敗作だったと思っているようで、その後はそういう傾向の映画を撮っていない。

「自分という小さな一個人の好悪の感覚を一途に掘りさげて行けば、絶対に何か大きなもの、深いもの、普遍的なものにつながるはずだ」。小津にはその確信があったはずだ。というのが著者の結論である。我々が小津作品を鑑賞するということは、小津の感情や趣味や生活信条を鑑賞するということにつながる。

(2024.2.5)



--- 黒船以前 パックス・トクガワーナの時代 ---

by 中村彰彦・山内昌之

黒船以前

歴史小説・時代小説を中心に執筆している直木賞作家中村彰彦と日本の歴史学者(中東・イスラーム地域研究・国際関係史)山内昌之が徳川時代の政治に関するあれこれを語った対談である。

まず副題の「パックス・トクガワーナ」であるが、これはラテン語の「Pax Americana」(アメリカの平和=アメリカの覇権)から来たものである。もともとは約200年もの長きにわたって平和な時代を築いたローマ帝国を指してパックス・ロマーナ(Pax Romana)といったことから発生した言葉であったらしい。徳川幕府はローマ帝国よりも長い260年間という安定政権を築いた。まさに「Pax Tokugawana」といっても良い。

徳川時代の日本は初代の家康から始まって、15代の慶喜まで15人の将軍によって統治されていた。名君もいれば箸にも棒にもかからないような人物もいたらしい。なかには5才で跡を継ぎ、8才で病死した第7代将軍・家継のような者までいた。よく織田信長や豊臣秀吉のように1、2代で失脚することなく260年間も続いたものだと思う。

二人の著者によると家康、秀忠、家光の3代でしっかりした制度を築き上げたため、その後の将軍たちはそれに乗っかっていれば良かったらしい。

老中という、政務を統括する最高職をおいたことが大きかった。これはアメリカでいえば大統領を補佐する国務長官のようなものである。優秀な国務長官がいればジョージ・ブッシュやカーターのような凡庸な人間が大統領でも国の運営は問題なくできる。

徳川幕府には歴代、本多正信、安藤直次、本多正純など優秀な老中がいた。なかでも役職はなかったが、秀忠、家光を補佐した保科正之は優秀な人物であったらしい。中村彰彦は保科正之についての本を何冊も書いている。

この本は知っていると思っていたが実は知らなかった、徳川幕府や江戸時代に関しての興味深い話が満載されていておもしろかった。

(2024.2.4)



--- 日本倫理思想史【ニ】 ---

by 和辻哲郎
日本倫理思想史(二)


     日本倫理思想史【二】



       (2024.2.1)



--- 雀鬼五十番勝負 ---

by 阿佐田哲也

雀鬼五十番勝負

純文学でデビューした色川武大は原稿料を稼ぐために阿佐田哲也のペンネームで麻雀小説「麻雀放浪記」を書いた。これが大ヒットし、映画にまでなった。色川氏のもとには本業の純文学ではなく、麻雀小説の注文が殺到した。さらに週刊誌の麻雀大会の解説や対談などの仕事が舞い込んだ。筆者は1970年代に「週刊ポスト」に連載された「麻雀勝抜き戦」の「観戦記」を読んで阿佐田哲也の名前を知った。麻雀指南書「阿佐田哲也のAクラス麻雀」はその頃麻雀をするサラリーマンたちのバイブルであった。著者も購入し、熟読したが、麻雀が強くなることはなかった。

本書には阿佐田氏が体験した麻雀の勝負にまつわる話が50話はいっている。これを読むと阿佐田氏は昭和20年代のほとんどを麻雀のゴト師として過ごしている。ゴト師とはイカサマなんでもありで麻雀で生活する者のことである。

また著者の麻雀小説に書かれたことはほとんど真実か、真実を少し脚色した程度の話であることがわかる。あの「麻雀放浪記」に出てくる化け物のような雀士たちは実際に存在したのである。

阿佐田氏の雀士としての活動期間が昭和20年代で終わっているのもうなづける。戦後いたる所にあった原っぱと呼ばれる空き地や、夕暮れ時になるとどこからともなく路地に出没した紙芝居屋がいつの間にかいなくなったのと同様、化け物のようなあぶれ者たちが生息する場所が無くなってしまったのだ。

そして色川氏は1977年「怪しい来客簿」で第5回泉鏡花文学賞を、1978年「離婚」で第79回直木賞を受賞し、文学の世界に復帰したのである。

(2024.1.24)



--- 日本倫理思想史【一】 ---

by 和辻哲郎
日本倫理思想史(一)


     日本倫理思想史【一】



       (2024.1.23)



--- 現場者(げんばもん) 300の顔をもつ男 ---

by 大杉 漣

現場者

2018年に亡くなった俳優、大杉漣の自伝である。自分が今まで出演した舞台、映画等の裏話や共演者とのやり取りをメインに書いてある。

彼は37才まで転形劇場という劇団に所属していた。ほとんどお金にならないので、奥さんのアルバイト収入を頼りに生活していたという。

1980年から1985年までは、劇団と掛け持ちで「女子大生 淫らなキャンパス」とか「OL変態色情」という煽情的な題名のピンク映画に出演し、その後は1993年までマイナーな映画に端役で出ていた。

1993年、42才の時に北野武監督の「ソナチネ」に出演し、注目された。北野監督の次の作品「HANA-BI」では足が不自由になった刑事・堀部の役でキネマ旬報の助演男優賞を受賞している。その後の彼は我々が知っている通りである。

彼はプロローグで「22歳の時から十数年、小劇団にいたり、自主映画やピンク映画に出たりしたが、それは何かを目指して耐えながらやってきたわけではない。自分でやりたいと思ったことをやり、その場その場でおもしろさを発見してきただけのことだ」と述べている。

ことば通りピンク映画に出演している時でも現場では監督はじめ皆一生懸命で、浮ついた雰囲気は一切なかったという。確かにその時の監督を挙げてみると、高橋伴明、中村幻児、井筒和幸、滝田洋二郎、周防正行といったそうそうたる顔ぶれである。みんな才能はあったが金がなかっただけのことなのだ。

彼が大学を中退して小劇団に入った動機は「劇を行うにふさわしいものはおそらくこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちである」という転形劇場の主催者・太田省吾氏のことばであった、と本書の中で何度か述べている。彼は最後までその考えは変わらなかったと、あとがきで奥さんの大杉弘美さんが書いている。

「現場で学び現場で傷つきそして現場で生きる。ぼくは現場者(げんばもん)だ」

これは誠実に人生を生きようとする者、すべての者のことばである。

(2024.1.18)



--- ギンギラ★落語ボーイ ---

by 三遊亭白鳥

ギンギラ★落語ボーイ

ハチャメチャな展開ではあるが、要所要所は間違ったことは書いていない。当然だ。著者が落語家だからだ。

最後まで読むと、これは一人の青年のBildungsroman(成長小説)になっていることがわかる。落語の知識がふんだんに詰まったビルドゥングスロマンである。

山場は最後に来る。ニコニコ亭で行われる「落語新人王決定戦」に今まで出てきた二つ目たちがせいぞろいする。

最後まで勝ち抜くのは誰か。そして、さげは・・・。落語家たちの話だ。さげがなければならない。

最後まで読めば泣けるのは間違いない。

著者の三遊亭白鳥は落語家であるのと同時に新作落語の作家でもある。今まで数百の新作落語を作ってきた。最近は女性落語家たちに自分が作った噺を提供し、彼女たちのための落語会を開いている。

(2024.1.17)



--- ハックルベリ・フィンの冒険 ---

by マーク・トウェイン

ハックルベリ・フィンの冒険

ヘミングウェイはアメリカ文学は「ハックルベリ・フィン」から生まれた」と言った。そのあと「ただし、黒人ジムが売られるところまでね」と付け足したという。たしかに第31章までのリアルな内容とそれ以降は違う。前半は黒人奴隷の問題、土地争いによる殺人、白人優位主義者による殺人、幼児虐待、詐欺師たちのやり口と生活などなど、シリアスな内容を含んだ話だが、後半は児童文学になってしまう。前半のハックは野生児だが、後半は飼い慣らされた猫だ。

解説の加島祥造氏によると、そのまま進めていくとジムは奴隷として売られ、ハックは浮浪者となって野たれ死ぬしかない。ハッピーエンドにするためにはこれしかなかった、ということだ。

第16章では連結した筏を操りながらミシシッピ川を下っていく男たちの生活が、第19章ではハックとジムの筏の上での一日の生活が描かれる。H.D.ソローの「ウォールデン 森の生活」と重なるものを感じた。いずれも19世紀半ばのアメリカの辺境地域での生活だ。

現代人が憧れを感じる生活様式だが、自分の安全は自分で守らなければならないという、自己責任の重さも付帯していることを忘れてはならない。

自由の裏側には必ず自己責任の厳しさがアメリカの開拓時代にはあった。ヘミングウェイ、フォークナー、メルヴィル等々、のちのアメリカ文学には、そのことがいつも通奏低音のように流れている。

(2024.1.15)



--- 落語の凄さ ---

by 橘 蓮二

徳大寺有恒 ベストエッセイ

写真家の橘蓮二と五人の落語家との対談集である。それぞれの落語家たちが若い頃から付き合ってきた写真家が相手なので落語家たちも気を許してしゃべっている。

登場する落語家は春風亭昇太、春風亭一之輔、笑福亭鶴瓶、桂宮治、立川志の輔の五人である。出版されたのが2022年だから対談も最近されたものである。すでに桂宮治が真打になっていて、笑点にも出演している。

一之輔との対談で話題になったが、2019年に日本武道館で「らくごカフェ10周年記念 平成最後の武道館落語公演」という催しがあり、観客が8,000人集まったという。出演者は立川志の輔、立川談春、春風亭一之輔その他であった。「らくごカフェ」は神保町にある満員で50人ほどのこじんまりしたカフェだが、そこの店主がそんな派手なことをやったのか、と驚いた。人気者を集めたとはいえ8,000人もの観客が集まったことにも驚いた。

志の輔は、「落語は日本で生まれた、日本人による、日本人のためのもので、日本人が一番人間らしく、楽に生きられる知恵が山のように詰まっている」と言っていた。我々は普通に寄席やホールで落語を聴いているが、言われてみれば世界中でこういう楽しみ方をしている民族は他にはいない。

どういう楽しみ方かというと、舞台でおじさんがひとりでしゃべっているのを聴いている観客が、それぞれの頭の中のスクリーンに情景を思い描いて笑ったり、泣いたり、怒ったりしている。スクリーンに映った情景は、観客が50人いれば50通りの、8,000人いれば8,000通りある。外から見ればさぞや不思議な光景だろう。

(2024.1.14)



--- 「落語家」という生き方 ---

by 広瀬和生

「落語家」という生き方

柳家三三、春風亭一之輔、桃月庵白酒、三遊亭兼好、三遊亭白鳥という現在最も活躍している落語家と、現在最も活躍している落語評論家の広瀬和生が高座の後対談した。その記録が本書である。

さすがに旬の落語家たちである。落語も面白いが対談も面白い。話す言葉がそれぞれの落語の特徴と一致している。三三、一之輔、兼好、言葉を読むだけでそれぞれの顔が浮かんでくる。

中でも一番興味深かったのは白鳥だった。落語はこの中で一番面白くないと筆者は思うが、対談の内容は面白かった。彼は元々は作家を目指していて、仕方がないから落語家にでもなるか、という動機で落語家になった。彼が新作落語をやっているのは、話を作るのが好きだったからである。

彼が作った「任侠流山動物園」を三三、一之輔、喬太郎等々さまざまな落語家たちがやっている。人間国宝になった五街道雲助までがやっている。女流落語家たちの会を主催して、自分が作った噺を彼女たちにやらせてもいる。落語作家としての白鳥はこれからますます旬になっていくようだ。

(2024.1.13)



--- 読書狂(ビブリオマニア)の冒険は終わらない! ---

by 三上 延・倉田英之

読書狂の冒険は終わらない!

ライト・ノベル系作家ふたりによる読書談義である。

難しい本は出てこない。「第1章 モダンホラーは最高だ!」「第2章 乱歩と横溝と風太郎と」「第3章 映画と本の怪しい関係」といった調子で全10章に及んで本と読書に関する楽しい話が続いている。

赤川次郎はすごい、という話がある。累計発行部数が3億3千万部を突破し、75才にして今だに現役という息の長さ。初期の作品「三毛猫ホームズシリーズ」や「幽霊シリーズ」ははるか昔の作品ということになる。

「人はいつ本好きになるのか」という章で三上氏は両親と兄は本を読まないのに自分だけが物心ついた時には本好きであった、と述べている。本好きのDNAをもって生まれついた者だけの特権であるのかもしれない。

(2024.1.8)



--- それは誠 ---

by 乗代雄介

それは誠

現在の著者の最新作である。

「神は細部に宿る」式の著者の方法は本書でも健在である。舞台は高校生の修学旅行。班決めから始まって自由時間の行程の相談、そして旅行中の出来事。

細部にこだわる著者の姿勢は徹底している。だからこそ仲が良いわけではない女子3人、男子4人のバラバラな様子が読者に伝わってくる。自分たちが高校生だった頃を思い出す。班って必ずしもツーカーの間柄ではなかった、ということを。

著者の筆致が細部にこだわり続けているうちに、この7人の間になにやら別の感情が滲み出てくるのを読者は感じはじめる。著者は決して「友情」とか「連帯感」というような陳腐な言葉は書かない。著者は登場人物たちのぎこちないセリフの行間にそれを滲ませるのに成功している。

本書は第169回芥川賞(2023年7月)の候補になった。受賞したのは市川沙央氏の「ハンチバック」であった。

(2024.1.7)



--- 十七八より ---

by 乗代雄介

十七八より

乗代氏の処女作である。著者は本書で第58回群像新人文学賞を受賞した。

本書の主人公は阿佐美景子、高校2年生。彼女は著者の後の作品で何度も登場する。「最高の任務」では23才になっている。叔母の「ゆき江ちゃん」も登場する。後に癌で亡くなることになる「ゆき江ちゃん」はこの時はまだ生きている。「掠れうる星たちの実験」に収録された「フィリフヨンカのべっぴんさん」がこのシリーズの最新の作品か。

物語は「高校生の時の阿佐美さんの生活と意見」という内容である。叔母との対話、国語の教師とのやりとり、病院での出来事など、彼女の普段の出来事を追いながら阿佐美さんの内面のつぶやきを記述して行く。著者独特の「神は細部に宿る」方式で。

これはJ.D.サリンジャーが「グラス家サーガ」で用いた方法と同じである。著者は「最高の任務」の後、「姪と(すでに亡くなっている)叔母」シリーズを続けて行くのであろうか。

(2024.1.6)



--- 掠れうる星たちの実験 ---

by 乗代雄介

掠れうる星たちの実験

本書は著者の論文プラス創作を集めたものである。

本書のタイトル「掠れうる星たちの実験」は唯一の論文である。これは柳田國男とJ.D.サリンジャーの共通点について論じたもので、一見何の関係もなさそうなふたりの間にある共通点について述べている。

作家でなければ行きつかないような微妙な点、柳田の「常民」という概念とサリンジャーの「生きたものの痕跡」という概念を突き合わせて比較する。著者は柳田の若年における恋愛とサリンジャーの戦時中のPTSDからふたりの共通項を見いだす。

著者はサリンジャーの全著作と柳田國男全集を読み、それを元に考察を進めている。作品数の少ないサリンジャーはともかく、柳田國男全集全36巻を読みこなすことはなかなか困難なことである。読者はただただ著者の論旨を追いかけるしかない。それでも偉い民俗学者柳田國男ではなく、ひとりの男松岡國男の生き方を想像し、彼を身近に感じることができた。

書評は本書の約半分を占めている。著者の関心はさまざまな方面を向いている。ざっと見渡しただけでも、村上春樹、J.D.サリンジャー、柳田國男が取り上げられ、さらに梯久美子、たかたけし、いがらしみきお、ウラジミール・ナボコフ、D.H.ロレンス、フェリスペルト・エルナンデスと続いている。

著者はサリンジャーの著作3作、サリンジャーに関する評論1作、合計4作品を取り上げている。冒頭の論文と合わせて5作品がサリンジャーを論評するものになっている。彼がサリンジャーから強い影響を受けていることがわかる。そういえば乗代氏の作品はいずれもサリンジャーの作品の傾向「神は細部に宿る」的なものである。

筆者にとって興味があった本は「ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実」ベン・マッキンタイアー著、これは実話である。2022年にコリン・ファース主演で映画化されている。「揺れうごく鳥と樹々のつながり 裏庭と書庫からはじめる生態学」吉川徹朗著。「ウォークス 歩くことの精神史」レベッカ・ソルニット著。ルソーやキエルケゴールが何を考えながら散歩していたかを考察し、歩行の歴史を説く。「鴎外随筆集」などである。興味が持てなかった本もあるが、本への意欲はその時の自分の状態によって変化するので油断はできない。

「創作」の章では2つのエッセイと7つの短篇が収められている。

「This Time Tomorrow」はエッセイである。著者は英国のロックバンド・キンクスの曲から芝浦工大付属柏高校に通っていた時代のことを思い出す。自転車通学は禁止されていたので、自転車を南柏駅の路地に隠しておき、それに乗って新柏駅の横を通り、団地の前の道から左手にある竹林の脇の細道を抜け、ゴルフ練習場の前から増尾城址公園へ行き、そこの駐輪場に自転車を置いて、公園の裏手にある高校へ通っていたが、3年になってバス通学にしたら・・・、という思い出話を語っている。

このエッセイが印象に残ったのは、筆者が以前ほぼ同じ経路を自転車で走っていたからである。筆者の目的は日立台のスタジアムに柏レイソルの試合を見に行くためだったが。

「フィリフヨンカのべっぴんさん」は「ゆき江ちゃん」シリーズである。語り手の名前は出てこないが、若くして癌で亡くなった「ゆき江ちゃん」は「最高の任務」と「未熟な同感者」の阿佐美ちゃんの叔母のことであろう。

(2023.1.4)



--- 旅する練習 ---

by 乗代雄介

旅する練習

主人公はふたり。小学校6年生の亜美(あび)とその叔父(作家)。

二人の家は都県境に川を対時している、と書いてある。具体的な地名は書いていないが、江戸川の矢切の渡しを隔てて葛飾区と松戸市に住んでいるようだ。

著者の乗代雄介氏は北海道江別市出身、東京都葛飾区在住となっているから今住んでいるところを語り手の住まいとしたんだろう。

ふたりは(たぶん)常磐線の松戸駅のホームで待ち合わせて、我孫子へ行く。我孫子で下車してそこから歩いてサッカーの聖地・鹿島アントラーズ・スタジアムをめざす。ふたりには目的がある。サッカー少女・亜美はドリブルで、語り手は各地を文章でスケッチしながら歩いて行くことだ。

もともとの目的は亜美が鹿島アントラーズの合宿所の図書室で黙って持ってきてしまった本を返しに行くためだが、それだけでは面白くないので上記の趣向になった。

叔父と姪の3泊4日の行脚が始まる。ロード・ノベルあるいはロード・ムービーの常道ではあるが、道中ふとしたことから道連れができる。就職先が内定したばかりの女子大生・みどりさんだ。

三人の徒歩での旅。事件らしい事件はなく淡々と進む。著者の本領は事件ではなく会話の描写にある。ふたりの会話、あるいは三人の会話を通して、それぞれの性格や人生観、そしてそれがお互いに及ぼす影響力の強弱などを描写することにある。

三人はそれぞれの目的を達成し、それぞれの家に帰る。そして・・・。

この著者の本は読後、こころに何かを残してくれる。乗代雄介氏は今年6月で38才になる。

(2024.1.1)


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