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--- 地図のない街 ---

by 風間一輝

地図のない街

本作のマクガフィンは山谷の住人の死の謎だが、著者が書きたかったのはそれではない。

著者は本書の三人の主人公たちの断酒までの生態を克明に描いている。三人は断酒をしている最中に謎を追いかける。

謎は最後になって取ってつけたようら解明される。主題は断酒の過程なのである。アルコール中毒者が断酒するまでの間にどんな恐ろしい目にあうかを著者は描き出す。まるで著者自身の経験であるかのように。

この本はミステリーの範疇には入るだろうが、ミステリーとしては出来が悪い。元々著者はミステリーを書こうとしていないのである。

(2026.3.25)



--- 漂泊者(ながれもの) ---

by 風間一輝

漂泊者

私立探偵とヤクザの組長が協力してある謎を追いかける。一見あり得ない設定だが、著者の風間一輝はそこに現実味を持たせる。一見本文とはなんの関係もなさそうに思えるプロローグもそのための伏線になっている。

本作の主人公は元プロボクサーで私立探偵の室井。彼はボクサー時代にジムの会長を殴り殺し、逃げている身である。15年の時効まであと2年余り、ひたすら警察を避ける生活をしている。

室井に協力するヤクザの組長・国分は東北大学法学部を出ている。父親の組長の跡を継いでヤクザになった。

その二人の出会いとなぜ協力することになったのか。それがこの小説の重要なモチーフになっている。

マレーシアの港町マラッカで私立探偵の室井とヤクザの組長・国分が別れていく場面は、映画「さらば友よ」でアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが別れる場面を彷彿させる。

本書はイラストレーターから作家に転向した風間一輝の、「男たちは北へ」「地図のない街」に続く3冊目の作品である。

(2026.3.24)



--- 漱石追想 ---

by 十川信介編

漱石追想

漱石を知る49人の追悼文を集めたものである。49人の中には漱石の弟子たちはもとより、俳句仲間や医師、植木屋、お手伝いさん、芸妓までいる。最後の章では妻や息子や娘も登場する。

彼らはいずれも親しみをもって師匠、旦那、患者、客、夫、父としての漱石を語っている。読んでいるうちに自分まで、夏目漱石の近くにいた者のように感じる。

【教師としての漱石】 先生の講義ぶりは実に要領を得ていて、どんな難解な句でも軽妙な比喩なんかで極めて平易に説明してのけられる。

【 〃 】 僕は先生の初めの一句の説明において、そのキビキビしたあかぬけの下、しかも真摯犀利な講義ぶりに参ってしまった。

【弟子の思い出】 この二葉の絵はがきは、今は永遠に先生の記念となって、僕が先生を想うのよすがとして持っている。ああ先生はついに逝かれたのである。

【 〃 】 先生は相手の心の動きを感じすぎるために苦しむ人である。先生は相手の心の純不純をかなり鋭く直覚する。

【編集者の思い出】 漱石はあの座談風の言葉を2000人もの聴衆で埋めている会場に行きわたるように発声することができる。これには全く驚かされた。

【同僚の思い出】 夏目漱石君は長者の風のある人、客扱いのうまい人、人によって話をせられる人であった。雄弁の人は概して客には話させないものだが、夏目君は客にも話させ、自分も話されるという方の人であった。

【痔の手術をした医師】 佐藤恒祐医師の話は「明暗」の冒頭で津田が痔の手術をしてくれた医師と会話する場面に生かされている。

【鏡子夫人の話】 鏡子夫人が娘の死を語る「雛子の死」は、「彼岸過迄」の中の一章「雨の降る日」で漱石が書いた娘の死とシンクロしている。

漱石は日記に「意識が滅亡しても、俺というものは存在する」と書いた。彼の作品群やこのような本がある限り、夏目漱石という存在は永遠にそこにある。

(2026.3.23)



--- フィリップ短篇集 小さき町にて ---

by シャルル=ルイ・フィリップ

小さき町にて フィリップ短篇集

29の短篇が収められている。ここに収められている短篇は著者の故郷であるフランスのセリイーという町に住む人々のことを描いている。老人もいれば若者も子供もいる。警官もいれば泥棒もいる。乞食もいる。ここには著者が子供時代に目にしたあらゆる人々が描かれている。1910年頃のフランスの片田舎の話なのであるが、筆者の子供時代の日本のことであっても不思議ではない。

本書は1908年頃書かれ、著者の死後1910年に出版された。岩波文庫版は淀野隆三訳で1935年に発行された。筆者が手に入れたのは1991年版第27刷の岩波文庫である。今年3月神保町の古本屋で手に入れた。購入価格は100円であった。

【帰宅】 菊池寛の「父帰る」のような話。黙って出てゆき、数年ぶりに帰宅した夫。妻は夫の友人と同棲していた。夜半家を出て行く夫。「父帰る」と違うところは夫を追いかける者がいなかったことである。

【ある生涯】 肉体労働者として働いたボネの生涯。彼は仕合わせにも働けなくなる前に死んだのである。という一行で結んである。男の一生としては、これに勝る幸せはない。

【片意地な娘】 【火つけ】 片意地になって損をする娘とマッチで火をつけて遊ぶ男の子。両方とも経験がある。人ごとではない。

【隣どうし】 隣あって住む一人暮らしの老女。反目しているが、一人が離れて住むことになった時・・・。

著者は1874年フランスのセリイーの町に、木靴師の息子として生まれた。1909年チブスに脳膜炎を併発して亡くなった。35才であった。

(2026.3.19)



--- 片道切符 ---

by 風間一輝

片道切符

4篇の短篇が収められている。題名はすべて死に関係している。

【冥土の土産】 主人公は殺し屋の烏堂(うどう)勲。金で殺人を引き受けている。
本作は烏堂が借りている部屋につくりつけてある金庫の中身がマクガフィンになっている。マクガフィンをめぐって悪人たちがだまし合う。本作のマクガフィンがあまり説得力のないものなのが玉に瑕となっている。

【地獄の沙汰も】 殺し屋烏堂が凄腕の殺し屋「手長猿」に狙われる。神出鬼没の「手長猿」を相手に殺し屋としての技術を尽くして戦う烏堂の行動が本書の読みどころになっている。4篇の中で一番面白かった。

【三途の川】 前作で生き残った敵を相手に戦う烏堂の活躍を描いている。なかなか姿を現さない敵の正体は・・・。

【成仏しろ】 今回のターゲットは元米軍の海兵隊員である。戦いのプロを相手にしてひるむ烏堂の姿を描いている。

本書は生前の風間一輝が刊行した最後の作品である。
解説によると、風間一輝の本名は桜井(はじめ)という。1980年代角川文庫から出ていたユーモアミステリーの表紙を描いていたイラストレイターである。そう言われれば、彼の名前はなんとなく記憶の底に残っている。ハードボイルド作家・風間一輝と軽妙なイラストを描く桜井一は言われなければ結びつけることはできなかった。

(2026.3.15)



--- 河を渡って木立の中へ ---

by アーネスト・ヘミングウェイ

河を渡って木立の中へ

本書は「誰がために鐘は鳴る」の10年後、1950年に書かれた。第二次大戦の5年後である。

本書の約60パーセントが51才のアメリカ軍大佐と18才のイタリア人貴族の令嬢レナータの会話で成り立っている。会話の20パーセントが恋人同士の睦言、80パーセントが大佐が語る戦争体験のモノローグである。ヘミングウェイは自身の戦争体験を51才の大佐と18才の伯爵令嬢の会話を通して語りたかったようだ。

18才の女性が中年の男の戦争体験に興味があるとは思えず、無理な設定であった。さらに戦争を語りだけで表現するのは読者を退屈させる恐れがあった。本書は世界中の読者に受け入れられなかった。日本でも全集には入っているが、新潮文庫に入ったのは昨年のことである。

本書の前に書かれた「誰がために鐘は鳴る」は1973年に、翌年に書かれた「海流のなかの島々」は1977年に文庫化されている。

不評であったとはいえ、ヘミングウェイの作品である。会話は魅力的で、戦争に関するモノローグは説得力がある。退屈せずに読み終えることができた。特に小説の20パーセントを占める鴨猟の場面は臨場感があった。

筆者の好みとしては、本書の翌年に書かれた「海流のなかの島々」である。これは前作の反省からか、動きのある小説で、海洋冒険小説の先駆的な作品であった。

(2026.3.13)



--- 哲学入門 ---

by ヤスパース

哲学入門

ヤスパースによるラジオ講演「哲学入門」の全訳である。講演は1949年秋、バーゼル放送局から12回にわたって放送された。

ヤスパースは「哲学とは何ぞや」に始まり、「包括者について」「神と哲学」「無制約的な要求」を語っている。さらに本書の付録で、古代が現代までの哲学者の紹介と、彼らが哲学史に残した功績について述べている。

本書で著者は挫折について述べている。「人間が挫折をどのように経験するかということは、その人間を決定する要点であります」と。人生で何度も挫折を経験した著者は自分の体験からそう述べている。

この本を読むと哲学についての概要がわかるようになっている。だが難しい。「第三講 包括者」で脱落しそうになった。包括者という概念がどう考えてもわからなかった。

たまたま最近録画してあったTV番組「100分で名著」でヤスパースが取り上げられていて、その中で包括者についてわかりやすく説明されていた。それを見て包括者のイメージがつかめたので、その講を乗り越えて第十二講までたどり着くことができた。

哲学者はある概念を考案するがそれを言葉で説明することはない。哲学が難しいのは新しく考案された言葉の概念を、哲学者と共有することが難しいためだ。特にカント以降の教壇哲学者たちの言葉は難しい。

著者はこれから哲学を学ぼうとする若者たちに、どんな哲学者を選んだらよいかを語っている。著者はショーペンハウアーとかニーチェではなく、プラトンとかカントを学ぶべきであると述べている。彼らによってあらゆる本質的なことが獲得されるだろうと述べている。

本書は一般的な入門書ではない。ヤスパースがドイツの不特定多数の聴取者に対して、自分の哲学の全体を噛み砕いて説明したものである。いわばヤスパースの哲学の概論ともいうべき内容の本である。

(2026.3.10)



--- 宗方姉妹 ---

by 大佛次郎

宗方姉妹

本書は1949年に刊行された。序の章は著者によって1972年に加筆された。

序の章はある登場人物のモノローグになっている。彼は満州の安東市の副市長で区画整理事業の責任者でもある。事業の半ばで終戦となり、本土へ引き上げなければならなくなる。

本書の主な登場人物は女性三人、男性三人である。女性は節子、満里子の宗方姉妹と戦争未亡人の真下頼子。男性は姉妹の父親・宗方忠親、節子の夫・三村亮助、姉妹の幼馴染・田代宏である。田代宏は真下頼子の愛人であり、節子の恋人でもある。満里子も彼に憧れている。

安東市の副市長だったのは三村亮助で、彼はこの作品の裏の主人公である。表の主人公は題名通り宗方姉妹である。

真下頼子以外の登場人物は戦後満州から引き上げてきた者たちである。中でも三村亮助は事業の半ばで、すべて放り出して帰国しただけに精神的に立ち直れないでいる。最後に自殺のような形で亡くなったのはそのことが影響しているのだろう。

真下頼子はパリに滞在していた頃の田代宏の恋人である。親から引き継いだ会社を経営している。金持ちの遊び人として登場するが、物語が進むにつれて徐々に彼女の心の陰影が描かれてくる。宗方姉妹を表の主人公とするならば、裏の主人公は彼女であろう。

本書の解説者は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」と本書を俎上にあげて、満州という共通項を鍵に両作品を分析している。

筆者が以前勤めていた会社の創業者は満鉄出身の技術者だった。満鉄時代の数人の仲間と共に会社を立ち上げたのである。

筆者の父親は戦中兵隊として中国に駐留していた。戦後ソ連軍に捕えられ、シベリアに抑留された。生前その時の話をしたことがなかった。

小津安二郎は刊行の一年後に本作品を映画化している。配役は、節子に田中絹代、麻里子に高峰秀子、田代に上原謙、三村亮助に山村聰であった。山村聰はこの作品でブルーリボン賞の主演男優賞を受賞している。

(2026.3.6)



--- 旅路 ---

by 大佛次郎
旅路

著者の「帰郷」は長い旅から帰ってきた男の話であった。本書もその題名から同じようなテーマの話かと思っていた。違った。本書の旅路はリアルの旅ではなく、人生を旅に見立ててのことであった。

1980年代に読んだはずなのだが、内容をすっかり忘れてしまっていた。もしかしたら初めだけ読んで途中下車していたのかもしれない。

若い女性が鎌倉の叔父を訪ねてくるが、叔父は留守でいない。場面は変わって、老教授とその弟子が佐渡を出て新潟行きの船の中で何か哲学的な話をしている。旅路の話ではないな、と判断してその辺でやめてしまったのかもしれない。

今読んでみると、妙子と良助の若いコンビより、木津という老教授と岡田素六という老人の哲学的な会話の方が興味深い。本書は若者と老人のそれぞれのコンビの話が主体になっている。

若者の話は恋愛関係、老人の話は生き方の問題になる。両者がほぼ同じ割合で出てくる。もちろん若者と老人の絡みもある。

若者たちが直面する結婚観は小説が書かれた1952年当時では新しかったと思われるが、現在から見ると古臭く感じる。だが、基本的には同じかもしれない。

(2025.3.3)



--- 決闘・妻 ---

by チェーホフ

決闘・妻

【決闘】 重要な登場人物は3人。軍医のサモイレンコ、役所に勤めるライェフスキー、動物学者のフォン・コーレンである。物語の途中から登場するフォン・コーレンは初めからライェフスキーに対して悪意を持っている。悪意は徐々に成長し、最後には決闘ということになる。

両者の友人である軍医のサモイレンコは穏やかな人物である。二人のいさかいをなだめようとするが、ふくれ上がった憎悪をなだめることはできない。二人は破滅に向かって突き進んでゆく。

穏やかな作風と思っていたチェーホフに、このような作品があることに驚いた。

【妻】 六等官パーヴェル・アンドレーヴィチは妻と家庭内別居状態である。彼は用事にかこつけては妻の部屋を訪れるのだが、まるで相手にされない。彼はどうして自分が妻に嫌われているのかわからないでいる。

妻のナターリヤ・ガヴリーロヴナは、几帳面で自尊心が強いが、行動力が乏しい夫の性格に嫌気がさしているらしい。夫婦のやりとりを読むうちに、彼らが19世紀のロシアではなく、現代の日本にいるような気がしてきた。

(2026.2.24)



--- ともしび・谷間 ---

by チェーホフ

ともしび・谷間

【美女】 旅の途中、語り手が出会った美女二人について書いている。

【ともしび】 旅の途中、語り手は、鉄道建設中の工事現場で出会った技師と酒を飲みながら語り合う。技師は若いころ出会った女との一夜について語る。翌朝、工事現場は活気を取り戻し、技師は普段通り仕事についていた。

【気まぐれ女】 誠実な男と浮気な女の話。

【箱に入った男】 獣医イワン・イワーヌイチと中学校教師ブールキンは連れ立って猟に出る。その日は村長の家の納屋に泊まった。ブールキンは村長の内気な妻を見て、同僚のベーリコフを思い出す。あの男もまた・・・、と語りだす。

【すぐり】 獣医イワン・イワーヌイチと中学校教師ブールキンは猟の途中、知り合いのアリョーヒンの家に泊まる。イワン・イワーヌイチはブールキンとアリョーヒンに、自分の弟について語り始めた。

【恋について】 翌日、アリョーヒンはイワン・イワーヌイチとブールキンに、自分の若いころ経験したある人妻への恋について語り始めた。

【谷間】 ある一家の歴史を描いている。ロシアの庶民の典型的に暮らしである。

【僧正】 僧正が亡くなる前の一日の生活を、彼自身の視点から描いている。

【いいなずけ】 結婚式直前にマリッジブルーになったナージャは婚約を解消し、ペテルブルグに発つ。ナージャの行動に「かもめ」のニーナの姿がダブる。精神的に独立しようとする女性の姿を描く。

チェーホフは人間の暮らしをありのままに表現する。大げさな表現をせず、話にオチもつけない。なるべく自分の感情を加えず、状況を正確に書こうとする。それでいてどこかあたたかい視線を感じる。 日本の作家でいえば志賀直哉や国木田独歩のようである。

(2026.2.20)



--- フロベールの鸚鵡 ---

by フローベール

フロベールの鸚鵡

ジェフリー・ブレイスウェイトという引退した医師を語り手として、15章にわたってギュスターヴ・フロベールという作家のさまざまな側面を描いている。

小説は「フロベールの鸚鵡」から「そして鸚鵡は・・・」までの章で、時にはエッセイ風に、時にはフロベールの愛人の手記の形で、時には年譜風の形式で、フロベールに関する話題を提示している。

フロベールという作家は文学史の中で特定された位置に置くことのできない人であるようだ。トルストイやツルゲーネフのようなロマン派ではなく、ジェイムズ・ジョイスのような前衛派でもない。「近代リアリズム小説の巨匠」といわれたり、「現代小説の先駆者」といわれたりもする。

いわばぬえのような立場にいるらしい。筆者には「ボヴァリー夫人」や「感情教育」のどこが特殊なのかわからない。それらはごく普通の小説に思える。

著者ジュリアン・バーンズにとって、フロベールという作家は、それを題材にして小説を一冊書いてしまうほど興味深い人物であった。

筆者にとっては本書はその形式の斬新さからも、フロベールという人物を知るという意味においても、実に興味深い作品であった。

筆者が本書の存在を知ったのは、本書が発行された1989年であった。週刊誌の書評で本書を知り、興味を持った。図書館で読んだのか、書店で立ち読みしたのか忘れたが、なんだか難しい本だなと思い、パラパラめくったきりでそのまま読まずにいた。つい最近、古書店で見つけて購入した。37年ぶりに本日完読した。本との出会いは読んだものも読まないものもそれぞれだと思った。

(2026.2.16)



--- 大石良雄・笛 ---

by 野上弥生子

大石良雄・笛

【大石良雄(よしとも)】 大石内蔵助が山科で蟄居しているころの、彼の心境を描いた中編である。

「ひたすら安易な束縛のない生活が送りたかった」、「できることならば、そんなことは当分忘れていたかったのである」、「考えるだけでも億劫で、非常な重荷に感ぜられた」、という考えは何かやらなければならなくなった時に普通に考える。

赤穂藩の家老大石内蔵助は討ち入りという大事を、一年以上心の中に抱え込んでいなくてはならなかった。ものすごい重圧だったろう。時には妻を相手に爆発することもあったが、最終的に彼はそれを成功させた。雌伏時代の大石の心境を描いている。

【笛】 著者の女の一生ものの一編である。著者には他に「或る女の話」「鈴蘭」「染井より」「こころ」などがある。

子供が結婚した時、親が同居するしかなかった時代の話である。小津安二郎監督は「東京物語」で同様の問題を描いている。経済の問題ばかりではなく、精神の独立の問題として、現代でも通用する問題である。

(2026.2.14)



--- ねじの回転 心霊小説傑作選 ---

by ヘンリー・ジェイムズ

ねじの回転 心霊小説傑作選

【ねじの回転】(The Turn of Screw) 本作は40年前に送られてきた家庭教師の手紙という形で構成されている。昔あるところでこういうことがあったという形式である。そこで起きたことは固定化され、一般化されることになる。

当時(19世紀)、英国に限らずヨーロッパでは教養のある女性が職業を持とうとすれば、家庭教師になるしか道はなかった。家庭教師は主人より下、家政婦や召使より上という立場であった。彼らの生活はシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」やドストエフスキーの「未成年」で知ることができる。

語り手の家庭教師は20才を過ぎたばかりの女性である。彼女はマイルズとフローラという兄妹を託される。主人はロンドンにいて、屋敷には家政婦のグロースさんと召使、それと兄妹が住んでいた。マイルズは10才、フローラは8才であった。この屋敷には以前クイントという召使とミス・ジェスルという家庭教師がいた。二人とも亡くなっていた。

このような状況の中で家庭教師はさまざまなことを考える。クイントとミス・ジェスルはどういう関係だったのか。二人はなぜ死んだのか。子供たちとミス・ジェスル、子供たちとクイントとの関係はどのようだったのか。そのうちに家庭教師はクイントやミス・ジェスルの姿を見るようになる。

手紙の文章がそのまま家庭教師の不安な意識の流れを表現している。すでに亡くなっている人物を見るようになったのは、家庭教師の追いつめられた神経によるものであろう。なぜ追い詰められるようになったのかは書かれていない。当時の家庭教師の不安定な立場や、20才を過ぎたばかりの若い女性が大きな屋敷で中間管理職的な立場に立たされたことの不安など、さまざまな問題があったのだろう。

追い詰められた神経によって幽霊を見る、ということは三遊亭圓朝の「真景累ヶ淵」の主題になっている。「真景累ヶ淵」は「ねじの回転」が書かれた1898年よりも40年前の1859年に作られている。本作やマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」、ヴァージニア・ウルフが「灯台へ」とつながる意識の流れをモチーフにした作品が三遊亭圓朝から始まっているとはいえないかもしれない。だが、ヨーロッパの絵画界に革命をもたらした印象派が日本の浮世絵から始まっていることは定説になっている。一見関係のない事柄が底の方でどのようにつながっているかはわからない。

【古衣装の物語(ロマンス)】(The Romance of Certain Old Clothes) 姉妹と一人の男の三角関係。ヘンリー・ジェイムズ25才の時の作品である。直接的なホラーものである。

【幽霊貸家】(The Ghostly Rental) 幽霊話であるが、幽霊は登場しない。主人公の娘はどうして幽霊のふりをしたのか、毎月父親に渡す金をどのようにして稼ぐのか、彼女の婚約者はどうなったのか。そのような疑問に著者は答えてくれない。

【オーウェン・ウィングレイヴ】(Owen Wingrave) オーウェン・ウィングレイヴは軍人になるための養成所から、突然脱退した。それは教師にも家族にも予想外であり、期待外れであった。その後に彼がとる行動も誰にも予想がつかないものであった。

【本当の正しい事】(The Real Right Thing) ジョージ・ウィザモアはある作家の伝記を書くために、その作家の書斎を借りて執筆をしていた。彼は執筆が進むにつれて、人の気配を感じるようになった。亡くなった人の気配で、その意思を感じとるという、著者の特色が色濃く出た作品である。

ヘンリー・ジェイムズはラヴクラフトやクライヴ・バーカーやリチャード・マシスンのようなホラー作家にはならなかった。彼はジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフやウィリアム・フォークナーの先駆者として、二十世紀文学の創始者となった。彼は「意識の流れ」を書くという現代文学に欠かせない手法の創始者となった。

(2026.2.13)



--- 作家の顔 ---

by 小林秀雄

作家の顔

表題の「作家の顔」は5、6ページの短いエッセイである。北条民雄、フローベール、D.H.ロレンス、正宗白鳥について思いつくままに書いている。作家の顔についての考察が書かれているわけではない。

「思想と実生活」 トルストイ、ドストエフスキー、フローベールについて、彼らの文学と実生活について考察している。彼らの性格や実生活が、その作品ほど立派なものではないということは周知のことである。作家ばかりではない。大哲学者といわれる人たちについても同様のことがいえる。カントは変人、ニーチェは偏屈、ハイデガーは利己主義者でナチズムの信奉者であった。

「志賀直哉」「志賀直哉論」 同時代人としての志賀直哉についての考察である。

「菊池寛論」「菊池さんの思い出」 同時代人としての菊池寛について書いている。編集者と書き手としての関係のあった菊池寛について、その私生活について貴重な思い出を語っている。

「中原中也の思い出」 中原中也と小林秀雄は長谷川泰子を挟んで特別な関係にあった。当時、中原中也と長谷川泰子は同棲していた。中也17才、泰子20才であった。中也の友人であった小林秀雄が泰子に惹かれた。その時小林は22才であった。小林は泰子を奪い、同棲した。年齢的にはこちらの方が釣り合っている。その後小林は泰子から逃げた。奈良に逃げて、2年間帰ってこなかった。小林は本章で「中原に関する思い出は、このところを中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は・・・」と書いている。さらに「驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書きのこしていない」と書いている。

三人の関係については2025年に公開された映画「ゆきてかへらぬ」に描かれている。監督は根岸吉太郎、長谷川泰子役に広瀬すず、中原中也役に木戸大聖、小林秀雄役に岡田将生が扮した。筆者は興味はあったのだが、配役がそれぞれのイメージに合っていないと思い、見に行かなかった。

「ニーチェ雑感」 ニーチェの一生で、彼を本当に驚かした書物が三つある。21才の時に読んだショーペンハウエルの主著(「意志と表象としての世界」と思われる)、35才で出会ったスタンダールの「赤と黒」、43才、偶然フランス語訳を手にしたドストエフスキーの「地下室の手記」・・・。という前書きから「地下室の手記」についての考察が始まる。小林秀雄はドストエフスキーに対する思考性が強い。

本書には、そのほか「ランボオについて」「パスカルのパンセについて」「チェーホフについて」のエッセイが入っている。

(2026.2.6)



--- 大絵画展 ---

by 望月諒子

大絵画展

ゴッホの「医師ガシェの肖像」をめぐるコン・ゲーム小説である。

扉に「ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードに捧ぐ」と記されている。もちろん二人が主演した映画「スティング」に敬意を表した表題である。

「スティング」が1973年に公開された時、ポール・ニューマンは48才、ロバート・レッドフォードは37才であった。映画はアカデミー賞作品賞を受賞している。公開当時、筆者はロードショーで見たが、すっかりだまされてしまった。

ゴッホの絵はゴッホ生存当時1、2点しか売れなかったのは有名な話である。新宿のSOMPO美術館の出口付近にゴッホの「ひまわり」が展示されている。ひまわりのわりにはくすんだような色合いで、当時80億円で購入したということを知らなければ素通りしてしまいそうな絵である。本作のモチーフになっている「医師ガシェの肖像」もイラストのような絵で、大きさも10号前後と小さい。取引価格を知らなければ素通りしてしまうのではないだろうか。

本書を読むと絵画界と絵画取引の裏側がわかる、という副産物がある。

(2026.2.4)



--- 紛争でしたら八田まで ---

by 田 素弘

紛争でしたら八田まで1 紛争でしたら八田まで2

総選挙の最中、麻生太郎元総理のインタビューをユーチューブで見ていた。さまざまな質問のあい間に、最近読んだ漫画は?、と聞かれた。漫画オタクの麻生氏は、おめえらにはわかんねえだろうな、という表情で、本書の題名をあげた。すぐ次の質問へ移り、麻生氏の予想通り質問した記者はこの漫画を読んでいないようだった。

筆者も子供時代以外にはほとんど漫画には触れていない。漫画に関して何を言われても、へー、としか答えられない。

どんな質問にも皮肉を効かせてまともに答える麻生氏のような人が感心する漫画というのはどのようなものなんだろう。興味津々で購入してみた。

漫画とはいっても内容は硬派で、スラスラと読み進むことはできなかった。絵を見ながら、じっくり文章を読んでいくというやり方で、一冊読むのに結構時間がかかった。

第1巻は「ミャンマー企業紛争編」「タンザニア魔女狩り騒乱編」、第2巻は「イギリス酒場で酔狂乱闘編」「ウクライナ愛と暴力と資金提供編」となっている。それぞれの紛争地帯で地政学リスクコンサルタントの八田百合が大活躍する。彼女の武器はプロレス技。1、2巻で繰り出した技は「シャイニング・トライアングル」「チキンウィング・スープレックス」「アナコンダバイス」「スリーパーホールド」「後ろ回し蹴り」など。銃器は苦手である。

日本は現在紛争地帯とはいえないが、尖閣列島や北方領土がいつ紛争地帯になるかわからない状況である。台湾海峡が紛争地帯になっただけでも、石油タンカーの航路が阻害され、日本経済に大きいダメージを与える。地雷が埋まっている地域を無防備で歩いているような状況ともいえる。世界で起きていることはいずれ日本でも起きる。すべての日本人はその意識を目覚めさせておく必要がある。

(2026.2.3)



--- ヘンリー・ジェイムズ短篇集 ---

by ヘンリー・ジェイムズ

ヘンリー・ジェイムズ短篇集

【私的生活】(The Private Life) スイスの景色の良いリゾートホテルに滞在中の男女。知り合い同士の何組かの男女が旅先での交際を楽しんでいる。語り手は作家。彼以外はカップルで滞在している。メリフォント卿は画家、クレア・ヴォードレーは作家、ブランチ・アドニーは女優、その夫はヴァイオリン奏者である。

ある時、ブランチ・アドニーは「クレア・ヴォードレーがふたりいるとすれば、メリフォント卿は結局ひとりもいないのではないかしらと思うのよ」と言い、それがこの小説のテーマになっている。公的生活と私的生活をはっきり区別する英国人の生活様式は、アメリカ人である著者には興味深いものがあるものと思われる。

著者はアメリカ人だが、最終的に英国のロンドンに永住した。作品のほとんどが英国を舞台にしている。

【もうひとり】(The Third Person) 2人のオールド・ミスが英国の古い屋敷を相続する。2人はいとこ同士だがそれまで面識はなかった。2人は屋敷を金に変えて分配するのではなく、そこに一緒に住むことにした。

小説は孤独な女性2人の共同生活を描いて、心の交流とすれ違いを書いている。原題「The Third Person」というのは、どちらかの部屋に現れる先祖の幽霊のことである。幽霊が若い男性であるので、2人の老嬢は大きな影響を受ける。幽霊が実在するものであったのか、老嬢たちの心に浮かんだ幻影であったのかはわからない。その辺の描写は「ねじの回転」の著者が得意とするところである。

【にぎやかな街角】(The Jolly Corner) ブライドンは33年ぶりにアメリカのブロードウェイにある古い屋敷に戻ってくる。そこは彼が子供時代に過ごした家だった。屋敷を相続した兄弟たちが亡くなり、彼が相続することになったからだ。彼はそこを売らずに、住むつもりでいる。その屋敷には何者かがいる気配がした。真夜中に彼がそこを訪れると、気配は実態となって姿を現した。指が2本かけていて怖い顔をした男だった。

アメリカに生まれ、33才でロンドンに移住した著者は、亡くなるまで英国で生活した。この小説はそうした彼の体験を小説化したものだろう。

【荒涼のベンチ】(The Bench of Desolation) 婚約不履行で訴えたケイトはハーバートから多額の賠償金を獲得した。ハーバートは長年の間少しずつ賠償金を支払った。結婚して子供も生まれたが、生活は貧乏だった。10年の間に子供は死に、妻も亡くなった。孤独になったハーバートのもとにケイトが現れた。「なぜ?」。いぶかる彼にケイトは、あなたの世話をしたい、という。

   ー ー ー ー ー

解説者はヘンリー・ジェイムズの文学の特徴に、

  1. 筋(ブロット)がない。
  2. ロマンス性、物語性を脱却した言語世界を構築している。
  3. 時空を超えた意識の世界を表現している。

の三つの要素をあげている。彼をジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナーの先駆者として、二十世紀文学の創始者である、としている。

プロットが明確でロマンス性があり、登場人物たちは明確な意識を持ち、思い通りに行動する。19世紀の小説はわかりやすく、とらえやすかった。そういう小説を読みつけると、プロットがはっきりせず、登場人物たちはあっちへ行ったりこっちに来たり優柔不断で、フラフラしている思考をそのまま表現する20世紀小説は読みづらくもあり、新鮮でもある。数年ぶりにヘンリー・ジェイムズを読んで、以前読んだ時より主人公たちのことが理解できたかな、と思った。「ねじの回転」ももう一度読み返す必要があるだろう。

(2026.2.2)



--- カラマーゾフの兄弟 ---

by F.ドストエフスキー

カラマーゾフの兄弟(上) カラマーゾフの兄弟(中)

本書は第一部から第四部とエピローグという構成をとっている。第一部から第三部までは一日一部で、第一部から第三部までは三日間の出来事である。いろいろなことが起こるので、とても三日間の出来事とは思えないのだが。

主人公はドミートリイ・カラマーゾフという28才の退役軍人である。ドストエフスキーは前書きで、本書は主人公アレクセイ・カラマーゾフの青年時代の話である、とことわっている。

 

カラマーゾフの兄弟(下)

だが、本書の構成を考えると、第一部ではドミートリイと父親フョードルの財産争いが描かれ、第二部ではゾシマ長老の青年時代の話、第三部では3,000ルーブルを求めるドミートリイの奮闘とフョードルの死、ドミートリイの逮捕に至るまでのできごとが描かれる。第四部では殺人犯として起訴されたドミートリイの裁判の様子が描かれている。

かいつまんでいうと、本書はカラマーゾフ家の長男ドミートリイの災難と奮闘の物語である。

それだけでは世界文学の最高の作品といわれることはないだろう。太い幹にはさまざまな枝葉が生い茂って大樹となっている。物語はドミートリイの家族やその知り合いの関係がからみ合い、複層的に進んでゆく。

あまりにさまざまな話が出てくるので、時にはこの物語がドミートリイの冤罪事件であることを忘れてしまう。次兄イワンが「大審問官」の話を語りだすと、読者は思わず引き込まれてしまうだろう。筆者は、ゾシマ長老が若い時に出会った「神秘的な客」の話を読むたびに強烈な印象を受ける。また、三男アリョーシャが体験した「小悪魔」の章を読むとドキドキしてしまう。グルーシェニカが語る「一本の葱の話」に触発された芥川龍之介は「蜘蛛の糸」を書いた。

第四部の裁判の場面の長い論告シーンは退屈である。だがイワンが法廷で陳述しながら徐々に狂っていく場面と、それに呼応して冷静だったカテリーナが狂乱状態に変化する場面は迫力満点である。この部分を読むと、ビリー・ワイルダー監督の映画「情婦」の法廷の場面を思い出す。

イワンは「神がなければすべてが許される」といい、ドミートリイは「神がいなければ人間はどうやって善人になれるんだ」という。これは殺人の思想的な背景となっている。無神論者の筆者には理解できない考え方である。フョードルは「俺の考えでは寝入ったきり、もう二度と目をさまさない、それで何もかもがパアさ。供養したけれゃするがいいし、したくなけりゃ勝手にしろだ」という。登場人物の中で唯一無神論者なのが、殺されたフョードルなのは皮肉な話である。

もう1人無神論者がいる。アリョーシャの友人、グルーシェニカの従兄弟でもあるラキーチンだ。彼は「神がいなくたって人類を愛することはできる」という。彼はどこへでも出入りし、探り出したニュースを面白おかしく脚色して、雑誌に売り込む。まるで現代日本の新聞記者のような人物である。150年前に書かれたものであっても、作品が古びることがないのは、そこに生きている人間の本質は変わらないからであろう。

エピローグは、アリョーシャが12,3人の中学生とイリューシャの墓の前で将来の再会を誓う場面で終わる。いよいよ次の作品ではアリョーシャが主人公となり、別の物語が始まるのだ、という予告みたいな場面である。ドストエフスキーは本書を書いてから1年後の1881年、次の作品のノートを残して、59才で永眠してしまう。

(2026.1.26)



--- 文章読本 ---

by 向井 敏

文章読本

このHPで良い文章を書きたいのだが、どうとたら良いのかわからないでいる。何度か読み返してみて、不自然と感じないところでアップロードするようにしている。その文章も何時間か、あるいは何日か経つとなんとなく変に思えてくるので困っている。

著者は「文章のもつ快さ、あるいは不快さは作者の精神のあり方の如何にかかわるものであって、扱われている題材やテーマの暗さ明るさとは本来関係がない」と述べている。「精神のあり方」が重要とのことである。

著者は悪文の代表として野間宏と大江健三郎の文章を、明晰な文章の代表として倉橋由美子の文章を取り上げている。

それらの例文を読んでみると、前者は何を言いたいのかよくわからないのに対して、後者は言いたいことがはっきりわかる。前者は文章がくねくねとあっちへ行ったりこっちに来たりしてつかみどころがない。これは著者が自分の言いたいことがはっきりしていないためか、あるいは読者を混乱させることで、自分を高く見せようとしているのか。いずれにしても健全な精神でないことが推測される。

著者は「文体」について、「文章の気品」について、「文章のおしゃれ」について、「文章の効率」について述べ、最後に「起承転結の重要性」について述べて本書を締めくくっている。

著者の言葉に忠実に従えば、自分にも良い文章が書けそうな気がしてきた。

(2026.1.6)



--- モンテ・クリスト伯 ---

by アレクサンドル・デュマ

モンテ・クリスト伯(一) モンテ・クリスト伯(二) モンテ・クリスト伯(三) モンテ・クリスト伯(四) モンテ・クリスト伯(五) モンテ・クリスト伯(六)

本作はアレクサンドル・デュマが39才から43才までに書いたものである。トルストイが「戦争と平和」を書いたのは36才から41才にかけて、ドストエフスキーが「罪と罰」を書いたのは45才の時という具合に、作家が彼の代表作を書く年齢は30代後半から40代までであろうと考えられる。

ダングラール、カドルッス、フェルナンという三人の若者が旅館「ラ・レゼルヴ亭」の脇の葡萄棚の下でワインを飲んでいる。「ラ・レゼルヴ亭」ではエドモン・ダンテスとメルセデスの婚約パーティが行われている。ダングラールはエドモンをおとしめるための密告状を書いている。

モンテ・クリスト伯(七)

ダングラールが丸めて捨てた密告状をフェルナンが拾う。カドルッスはそれを見て見ぬふりをする。こうしてこの裏切りと復讐の物語は始まる。

この場面はまるで舞台劇のようで、シェイクスピアの悲劇のはじまりを彷彿させる。

ダングラールは年下のエドモンが自分を抜いて船長に抜擢されることに嫉妬し、フェルナンはプロポーズしたメルセデスがエドモンと婚約したことに嫉妬している。カドルッスはエドモンに悪意を持っていないが、心の弱い事なかれ主義の男であった。

世の中の悪は嫉妬心から始まる。傍観者はたいていの場合、悪い方に味方する。というテーマでこの長大な小説は始まる。

シャトー・ディフ

ダンテスは14年間の牢獄生活を脱出し、10年かけて自分を落とし入れた4人に復讐する。復讐の方法はモンテ・クリスト伯爵として彼らに近づき、人為的とは思えないやり方で、彼らの運命の方向を少しだけ変えてやる。今ではそれぞれ社会の上層階級にいる裏切り者たちは少しずつ不幸になってゆく。

結果2人が亡くなり、1人は気が狂い、1人は社会的に破滅する。

本書は「巌窟王」として年少者向けに抄訳された、単純な復讐物語とは本質的に違う。デュマはモンテ・クリスト伯爵という超人を核にして、19世紀のフランスの風俗を描いたのだと思う。本書には風俗ばかりではなく、ミステリーや冒険や恋愛が含まれている。

モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンもの「奇岩城」、ジュール・ヴェルヌの「海底2万里」や「80日間世界一周」、エラリー・クィーンの「Yの悲劇」は本書に影響されて書かれたものと推測されるし、「海底2万里」のネモ船長や「80日間世界一周」のフィリアス・フォッグ氏にはモンテ・クリスト伯爵のイメージがある。さらに「Yの悲劇」の真犯人は本書の登場人物〇〇のイメージそっくりではないか。

三遊亭円朝が1859年に作った落語「真景累ヶ淵」の構造が本書に似ているというのはどうだろうか。グリム童話から「死神」を、モーパッサンの「親殺し」から「名人長二」を、サルドゥの「トスカ」から「錦の舞衣」を翻案した円朝である。本書にたびたび出てくる因縁奇縁の挿話を参考にして、あの壮大な因縁噺を作ったと考えるのもありではないだろうか。本書が出版されてから14年後に作られているので、可能性としてはあると思う。

本書に登場する山賊の首領ルイジ・ヴァンパは読書家で、あるときはシーザーの「ガリア戦記」、あるときはプルタルコスの「英雄伝」という具合に、登場するときはたいてい本を読んでいる。しかも通俗本ではなく、古典である。いずれも岩波文庫で出ているので、そのうちに読んでみようかと思う。

シャトー・ディフの牢屋でダンテスに学問を教えるファリア司祭はこういう。「世の中には物識りと学者のふた色があってな。物識りをつくるものは記憶であり、学者をつくるものは哲学なのだ」。180年前からすでに物識りが学者より巾をきかしていたのかもしれない。

アンドレアとの結婚を結婚式直前でキャンセルしたダングラールの娘ユージェニーは、女友達のルイーズ・ダルミイー嬢と一緒に逃げる。書かれたのが1945年だから直接的には書いていないが、この2人はレズである。180年前からそういう関係は存在し、それを小説に書いたデュマはジャーナリステックな小説家であったといえる。

この長大な物語の最後は「待て、しかして希望せよ!」という言葉で終わっている。これはエドモン・ダンテスの生涯を支えた言葉であり、180年後の読者に向けたデュマからのメッセージでもある。

(2026.1.3)


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