昭和18年、15才の春。志願して満州へ渡った。兵隊と開拓農民の二束のわらじをはく屯田兵としてだ。午前中は銃の練習、午後は一町歩(約1ヘクタール)の石ころだらけの土地を耕した。幸い激しい戦闘に出会うこともなく昭和20年の終戦をむかえた。 だが満州の僻地、帰る手立ては無い。たちまちロシア兵に取り囲まれ、捕虜になった。ベッドの上と下で話をしていた同僚は話が途絶えたと思ったら下のベッドで死んでいた。栄養失調だった。栄養失調の死は苦しまないという。体が衰弱して痛みを感じなくなるからだ。2年間の使役で生き残ったのは約半数しかいなかった。親が丈夫な体に生んでくれたおかげで生き残り、帰国することができた。 帰国はしたが仕事が無い。やっと探し当てた仕事もシベリア帰りだとわかると一方的にキャンセルされた。アカの教育をされていると思われたためだ。知人のツテで線路工夫の仕事にありつけた。一日中つるはしとシャベルで線路の下の石をほじくり返す仕事だ。仕事場と下宿の間に新宿のハモニカ横丁があった。毎日のように飲んだ。 そのうちに行きつけの店ができた。9才年上の未亡人がやっている店だった。彼女は店をやめたがっていた。美容師の資格を持っていた。居ぬきの店がどこかに無いかと相談され、一緒に探してやることにした。山手線の内側にちょうどいい店があった。 店を手伝ううちに自分もやってみたくなり、美容師の免許を取った。もともと手先は器用なほうだった。店は順調に客が付いた。彼女と一緒に住んでいることが親に知られた。反対された。分かれろと言う。当時親の言うことは絶対だった。店と道具一切を彼女に譲り、家を出た。 線路工夫に逆戻りだ。体がきついので知人のツテで道路工夫をやることにした。だが道路工夫の給料では結婚もできない。金をため二種免許を取り、タクシーの運転手になった。 親の勧めで見合いをし、嫁をもらった。タクシーの合間にフィットネスクラブの送迎バスの運転手をやった。必死に働いた。家を買った。借地に四畳半のバラックだった。家を見に来た兄は「こんな惨めな生活をしているのか」と嘆いた。それでもはじめて持つ自分の家だ。愛着があった。金が貯まるにつれ家を大きくしていった。 今では土地付きの二階建ての家に住んでいる。65才を期に仕事をやめた。今、85才。かつて送迎バスの運転手をしていたフィットネスクラブに入会し、週6日通っている。やっている種目は水泳、ヨガ、筋トレ、空手、エアロヴィクスダンスと多岐にわたる。60才を過ぎてからはじめた尺八は師範の免許を取った。弟の葬式では出棺のとき故郷の歌「信濃の国」を吹いた。親戚は皆合唱した。 今日も病床の兄に「兄貴、生き返れよ」と激励してきた。叔父は柔らかな日の当たる縁側に座り、尺八を取り出すとアメージング・グレイスを吹き始めた。庭の向こうには薄いピンク色のりんごの花が一面に咲いている。
(2013.11.9)
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