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鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 / アイアンクロー / PERFECT DAYS / PERFECT DAYS / PERFECT DAYS / 東京暮色 / 戸田家の兄妹 / 父ありき / 風の中の牝雛



--- 鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 ---


鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

ゲゲゲの鬼太郎の誕生秘話といった話である。主人公は鬼太郎のオヤジと水木という血液銀行の社員。

血液銀行の社員が製薬会社の会長の葬儀に出向く。会長の家は山奥の部落にある。

葬儀の最中に親族が殺されていく。相続争いに関係があるらしい。水木は一家の相続争いに巻き込まれていく。そこに幽界から妻を探しにきた鬼太郎のオヤジがからみ、事件はエスカレートしていく。

映画の冒頭、水木が山奥に入り込んでいくシーンが迫力がある。これから横溝正史の世界に入っていくぞ、という期待感が盛り上がる。旧家の相続争いはまさしく横溝正史の世界である。

鬼太郎のオヤジとその妻は亡霊を食い止めるために犠牲になり、水木は記憶を失う。そして墓場から鬼太郎が生まれるのである。

(2024.4.15)



--- アイアンクロー ---


アイアンクロー アイアンクロー

これはフリッツ・フォン・エリックというナチス・ドイツ風の名前でアイアンクローというプロレス史上最も恐ろしい技(武器)を使って一世を風靡し、地位と名誉と富を築き上げた男の栄光と没落の物語である。同時に強烈な父親を持つが故に滅亡せざるを得なかった息子たちの物語でもある。

フリッツ・フォン・エリックには6人の息子たちがいた。そのうちひとりが5才の時に事故死、二人が自殺、二人が薬をやりすぎて衰弱死した。生き残ったのはたった一人、次男のケビンのみであった。

ケビンは結婚し、4人の子供たちと13人の孫を持った。ここから新しいドラマは始まる。というところで映画は終わった。

実生活でのフリッツ・フォン・エリックは、その後離婚し、一人きりで68才の生涯を閉じた。

フリッツ・フォン・エリックを演じたホルト・マッキャラニーは映画の冒頭で迫力満点のプロレスシーンを演じた。本物顔負けの迫力であった。アイアンクローをかける時の表情も本物を思わせる迫力であった。

エリック兄弟

この映画で監督は一人の男の没落の歴史を描くか、強力な父親に対する兄弟の団結力を描くか、兄弟のそれぞれが父親の期待と圧力によって精神的に衰弱していく状態を描くか、いずれかを選ばなければならなかった。クリント・イーストウッド監督ならそうしたのではないだろうか。

筆者ならホルト・マッキャラニーを主役に据えて、フリッツ・フォン・エリックという個性的なレスラーの栄光と没落する有様を描くだろう。

ケビン・フォン・エリック

主役のケビン・フォン・エリックを演じたザック・エフロンは完璧な肉体を作り上げた。まさにプロレスラーの肉体だった。。

兄弟の中で唯一世界チャンピオンになったケリー・フォン・エリックを演じたジェレミー・アレン・ホワイトは身長170センチである。191センチ、120キログラムのヘラクレスのような肉体と、立っているだけで華やかな雰囲気を持つケリーを演じるにはだいぶ役不足であった。。

   ー ー ー ー ー

小学校に上がる前、祖父に連れられて近所のテレビのある家にプロレスを見に行った。行くとその家の奥さんが、見にきた20人ほどの観客にカルピスを配っていた。

当時テレビのある家は限られていた。20軒に1軒くらいしかなかったのではなかろうか。当時テレビと内風呂の普及率は同じくらいだったのではなかろうか。我が家にはテレビも風呂もなかった。

当時のプロレスの主役は力道山とルー・テーズだった。シャープ兄弟もいたかもしれない。デストロイヤーはいたが、フリッツ・フォン・エリックはまだいなかった。

祖父はプロレスの専門誌「ゴング」を毎月購入していたので、プロレスの知識はそれから得ていた。

   ー ー ー ー ー

フリッツ・フォン・エリック VS ジャイアント馬場

フリッツ・フォン・エリックが来日したのはジャイアント馬場の時代だった。この試合は自宅のテレビで、リアルタイムで見ていた。テレビはこの時代には、ほぼ全ての家庭に普及していた。

この後、フリッツ・フォン・エリックの手が馬場の額をとらえ、額から血が噴き出ることになる。テレビではそれをアップで映していた。あまりの恐ろしさに震えた。震えはしばらく止まらなかった。

デストロイヤーやクラッシャー・リソワスキーも怖かったが、この時のフリッツ・フォン・エリックが一番恐ろしかった。

何年後かにフリッツの息子たち、ケビンや世界チャンピオンになったケリー、デビッド、が出てきた。皆ベビー・フェイス(善玉)で、それぞれ強かったが、オヤジほどの凄みはなかつた。

(2024.4.11)



--- PERFECT DAYS ---


PERFECT DAYS 画像 PERFECT DAYS 画像

3回目である。3回目は今までで一番面白く鑑賞することができた。

ヴェンダース監督は本映画に小津安二郎のことば「泥中の蓮を表現するのに、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法と、蓮を描いて泥土と根を知らせる方法とふたつある。自分は後者を取る」を実践していた。

まず「蓮の花」とは何か。それは主人公平山の日常生活だ。彼の日常生活は平和で安定している。そのウィークデイと休日の生活はまさにONとOFFを表現していてメリハリがある。

それではハスの花を咲かせている「泥土と根」とは何か。それは映画に現われない登場人物たちの生活である。

まず平山の過去の私生活。彼の家族は。彼の仕事は。父親との関係は。映画には彼の姪と妹しか出てこない。そこから想像するに、平山はかつて一流企業の第一線で働く企業戦士であり、裕福な生活を送っていた。ただ妻や子供との折り合いは悪く、現在は離婚又は別居している。父親との折り合いも悪く、何年も顔を合わせていない。

家出して平山のところに来た姪のニコちゃんと彼女の母親(平山の妹)の関係は険悪である。それはニコちゃんのセリフ「わたし、すっぽんのヴィクターみたいになっちゃうかも」からも想像できる。パトリシア・ハイスミスの「11の物語」の中の一篇「すっぽん」は最後にヴィクター少年が子供の気持ちに鈍感な母親を包丁で刺し殺す話である。

平山の同僚タカシはキャバクラのホステスあやちゃんと付き合っている。ある日平山の元にタカシから電話があり、仕事を辞めることにしたのであとはよろしくとのこと。翌日カセットテープを返しに来たあやちゃんは音楽を聴きながら泣いている。ふたりの間に何があったのかは説明されない。ただ破局に至る何かがあったに違いない。

休日に行く小料理屋のママと店にいた友山という男との関係は。平山とママとの今後の関係は。

本映画には映像として描かれていない物語が通奏低音のように渦巻いている。それらは水面に弾ける泡のように、平山の日常生活の表面に少しずつ顔を出している。が全体の姿を見せることがないまま映画は終了する。

   ー ー ー ー ー

小津安二郎

ヴェンダース監督は本映画を制作するにあたり、すべて実在の建物を使っている。

まず平山が住んでいるアパート。これは実在している。押上駅から徒歩10分くらいのところに天祖神社があり、その前にアパートがある。平山の部屋から見える景色は天祖神社の柵であり、屋根であり、木々である。実際にアパートの中から撮影していることがわかる。

休日平山がいく古本屋は浅草伝通院通りの「地球堂書店」である。その時自転車で渡る橋は隅田川にかかる歩行者専用の橋「桜橋」である。

三浦友和演じる友山と平山は桜橋の浅草側のたもとで影踏みをする。Yの字型になった特徴的な形から桜橋とわかる。

平山が日々清掃する渋谷区の公園のトイレはすべて実在のトイレである。昼食を食べる神社の境内も実在のものである。

   ー ー ー ー ー

平山が車で通勤の途中聴くカセットテープの音楽が映画音楽になっている。いずれも印象的な曲である。

筆者がYouTubeで何度も聞き返しているのは以下である。

  1. Pale Blue Eyes ーーー The Velvet Underground
  2. Perfect Days ーーー Lou Leed
  3. Sunny Afternoon ーーー The Kinks
  4. Feeling Good ーーー Nina Simone

(2024.4.5)



--- PERFECT DAYS ---


PERFECT DAYS 画像 PERFECT DAYS 画像

2回目である。2回目は全体の流れがよく分かっていたので、1回目よりさらに面白かった。

渋谷区の公園のトイレ掃除の男の名前は平山。小津映画の笠智衆の役名=平山昌吉と同じ姓である。彼の住処は曳舟のアパート、部屋は1階と2階があり、全体としては2DK。ただし、風呂はなし。彼が毎日行く風呂屋は曳舟の電気湯。ウィークデイの夕食は東京メトロ銀座線の浅草駅に隣接する地下街の中の赤提灯。週に一度行く古本屋は浅草の地球堂書店である。曳舟から浅草に行くのには自転車で白鬚橋と言問橋の間にある歩行者専用の桜橋を渡っていく。

   ー ー ー ー ー

小津安二郎

彼は判で押したように毎日同じ生活をしている、と思っていたが、よく見ると毎日違う。公園で出会う人々、晴れの日、雨の日。時には銭湯にも赤提灯にも行けずにアパートでカップラーメンをすする日もある。

シフトの若者が突然辞めてしまい、全てのシフトを自分がやる羽目になったりする。一番大きな変化は突然姪が泊まりに来たことだ。おかげで何年も会わなかった妹と会うことができた。

姪に海に行こうと誘われるが、彼は「今度ね」と断る。「今度っていつ?」と聞く姪に、彼は「今度は今度、今は今」と答える。

ラストシーンの彼の顔は、色々なことがあるが今日を精一杯生きようとする彼の心持ちを表している。「昨日は昨日、今は今」と。

   ー ー ー ー ー

猫とたわむれる研ナオコは顔を下に向けていて確認できなかった。駐車場の係員役の松金よね子は帽子を被り、マスクをしていて、しかも夜のシーンだったので確認できなかった。バーの常連客1役のあがた森魚は一瞬しか映らなかったが、顔をはっきり確認することができた。昔とそれほど変わっていなかった。彼のギターの伴奏で石川さゆりが歌う曲は「朝日があたる家」だった。これは良かった。CDかレコードにはいっていれれば買いたい。

写真屋の主人役の柴田元幸先生ははっきりと顔を見ることができた。まさしく、アメリカ文学研究者・翻訳家、東京大学名誉教授でポール・オースター、チャールズ・ブコウスキー、スティーヴン・ミルハウザーなど、特にポストモダン文学の翻訳を数多く行っており、村上春樹のアドヴァイザーでもある柴田元幸先生であった。

姪があのようにはなりたくないといっていたのは、パトリシア・ハイスミスの短篇「すっぽん」の登場人物ビクターであった。

(2024.3.14)



--- PERFECT DAYS ---


PERFECT DAYS チラシ PERFECT DAYS 映画館

オズ・ファンのヴィム・ヴェンダース監督が小津安二郎を意識して作った映画である。主演は役所広司。

一人暮らしの初老の男が早朝目覚めてから都内の公園のトイレ掃除の仕事に出かける。昼はコンビニでサンドイッチと飲み物を買い神社の境内で食べる。食べ終わると胸ポケットからフィルムカメラを取り出し、木漏れ日を移す。帰宅後近くの銭湯へ行く。その後自転車で吾妻橋を渡って東部浅草駅地下の食堂街へ行き、お酒を飲みながら晩飯を食べる。自転車で帰宅後、布団の中で文庫本を読む。そのうち、うつらうつらし始めると電気を消して寝る。ほとんど毎日同じような生活だ。

休日は朝からコインランドリーへ行く。洗濯をしている間、近くの古本屋に行き、100円の文庫本を一冊買う。夕方、自転車で吾妻橋を渡り、浅草辺の赤提灯へ行く。そこでお酒を飲みながら食事をする。時にはそこのママがギターの伴奏で歌を歌ってくれる。食事が済むと、自転車で住んでいるアパートに帰り、布団を敷いて文庫本を読みながら・・・。休日の生活も毎週同じ。

   ー ー ー ー ー

小津安二郎

まさかこれだけで2時間の映画は作れないだろうな、と思っていると、少しずつ変化があった。それは自分の変化ではなく、周りの変化だ。

ある時、一緒のシフトを組んでいる若者が、男の車で彼女になりかかっている女性を送ってくれと言ってきたり、トイレの部屋ら迷子の子供がいたり、公園で顔馴染みのホームレスを街で見かけたり・・・。

大きな出来事としては男の姪が家出をして男のアパートに泊まりに来たことと、休日に通っている赤提灯の店がある日閉まっていたこと。

基本的にはラストまで事件らしいことは何も起こらない。初老の男がなぜ独り暮らしなのかも説明されない。ヴェンダース監督は寡黙である。

彼は「泥中の蓮を表現するのに、泥土と蓮の根を描いて蓮を表す方法と、蓮を描いて泥土と根を知らせる方法とふたつある。自分は後者を取る」と「自分という小さな一個人の好悪の感覚を一途に掘りさげて行けば、絶対に何か大きなもの、深いもの、普遍的なものにつながるはずだ」という小津安二郎のことばを実践しているようだ。

   ー ー ー ー ー

役所広司扮する男の名前は「平山」。もちろん、小津安二郎監督の「東京物語」その他の作品における笠智衆の役名「平山昌吉」を意識している。ヴェンダース監督はあるインタビューで男の名前は平山以外考えられなかったと言っている。

男が住んでいるアパートは、自転車で橋を渡って浅草の地下街へ行けることから本所吾妻橋駅近くにあると思われる。ヴェンダース監督はインタビューで「押上のアパート」と言っていた。このアパートは古いが1階と2階が使え、2階にふた間あるから住みやすそうだ。

昼休み男が撮っているカメラはフィルム式のオリンパス・ミューだ。毎日同じ景色を白黒フィルムで撮っている。筆者も以前持っていたが売ってしまった。残念。

寝る前に男が読んでいた本は、ウィリアム・フォークナーの「野生の棕櫚」、幸田文の「木」、パトリシア・ハイスミスの「11の物語」であった。高校生の姪が男から借りて読んでいたのは「11の物語」のなかの「すっぽん」という短篇であった。彼女はこれを読んで、・・・にはなりたくないと言っていたが、・・・を覚えていない。

気が付かなかった俳優について。野良猫と遊ぶ女性=研ナオコ。バーの常連客1=あがた森魚。電話の声=片桐はいり。駐車場の係員=松金よね子。写真屋の主人=柴田元幸(俳優ではないが、英米文学の翻訳家。村上春樹の翻訳のアドヴァイザー)。

出番は少なかったが、赤提灯のママ役の石川さゆりとその昔の夫役の三浦友和が印象的な演技をしていた。ホームレス役の田中泯はあまりにピッタリすぎて本物にしか見えなかった。

題名の「PERFECT DAYS」は70年代に活躍したロック・シンガー ルー・リードの「Perfect Day」からとったものらしい。男が軽自動車で移動する時にかけるカセットテープはほとんど1970年代のロック・ミュージックであった。「Perfect Day」は一番最後にかかっていた。その曲を聴きながら運転している平山の顔を映しながら映画は終わる。

(2024.3.10)



--- 東京暮色 ---


白と黒の小津安二郎 東京暮色

これは1957年制作の映画だけにフィルムのいたみがほとんど見られない。小津の作品が作られた時の状態で見られることは観客にとってなによりもありがたい。

配役は笠智衆が父親、長女が原節子、次女が有馬稲子、男を作って出て行った母親が山田五十鈴という布陣。杉村春子、中村伸郎、信欣三、高橋貞二、宮口精二、藤原鎌足、山村聰その他名優たちが脇を固めている。配役を見ただけですばらしい映画になることが予想される。

カメラは次女の行動を追いかける。彼女が父親と住む雑司ヶ谷の家、彼氏が住む堀切(推測)のアパート、その近くのラーメン屋、仲間の溜まり場・五反田の雀荘、仲間がバーテンをしている新宿(推測)のバー、彼氏と会う予定の新宿の深夜喫茶。映画の舞台は有馬稲子分する次女が行くところがメインとなっている。そのどの場面も印象に残る。

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小津安二郎

高橋貞二という俳優がいる。彼の役は次女の仲間の一人だ。彼が麻雀をやりながら軽い口調で、次女と彼氏の馴れ初めから現在の状態(彼女は妊娠し、彼氏は彼女から逃げ回っている)を話す場面がある。これによって彼女の置かれた立場が観客に伝わるようになっている。

俳優のセリフで状況を説明することは、普段の小津監督ならしないだろう。ここでそういう野暮なセリフを書いたのは高橋貞二という特別な俳優がいたからこそだったろう。

彼はどんな重いセリフでも軽く言ってしまうという特技を持っている。というか、彼のキャラクターなのだろう。三枚目ではないがニ枚目でもない、軽演劇風でもコメディアンでもない。もちろんシリアスな役者でもない。独特の俳優というしかない。残念ながら32才の時、自分の運転する車で事故を起こし、亡くなってしまった。

次女の仲間の一人で新宿のバーでバーテンをしているのがいる。須賀不二夫という俳優だ。彼がメフィストフェレス(悪魔)となって次女と彼氏を結びつける。直接的には何もしないのだが、そうなるように仕向ける。いつもニヤニヤ笑って、状況をシニカルに観察しているように見える。彼が現れる場面はどの場面も興味深い。

堀切の踏切の近くのラーメン屋「珍々亭」の主人・藤原鎌足は物語の舵を切る重要な役である。物語の前半は逃げ回る彼氏を追いかける次女が様々な場所へ出向くが会えない。物語の中盤になって初めて彼氏と出会うのがラーメン屋「珍々亭」である。そして堕胎してやけ酒を飲む彼女とばったり出会うのもこの場所。彼女はここを飛び出して踏切で電車に轢かれてしまう。自殺か事故死かどうかはわからない。いずれの場面もラーメン屋の亭主・藤原鎌足が軽妙な演技でリードする。深刻な場面であるが、彼のセリフで癒される。

五反田の雀荘のマダムで二人の娘の母親・山田五十鈴は複雑な役を自然にやっている。次女の死を知らされ、静かに雀荘の階段を降り、近くの寿司屋のカウンターで酒を飲む。手酌でお猪口に酒を注ぎ、無表情で飲む。家族を捨ててから今までの自分の運命をじっと味わっているかのように感じた。

夫と二人の娘を置いて男と駆け落ちする女の役は、山田の実人生と重なるところがある。山田は4度結婚しているが最初の夫との娘・嵯峨三智子は山田よりも早く亡くなっている。死ぬまで山田を許さなかったという。映画の中で亡くなった次女のために手向の花を届けたとき、長女役の原節子から冷たい目で拒絶される。この母親の役をよく引き受けたものだと思う。配役した監督がプロなら引き受けた山田五十鈴もプロだった。

深夜喫茶で次女が宮口精二の刑事に補導される場面。山田五十鈴が現在の夫・中村伸郎と再起を図るため、北海道へ向かう夜汽車の座席でウイスキーを飲む場面。等々どの場面をとっても興味深く、いわゆるダレ場は皆無であった。

この映画は興行成績が悪く、失敗作と言われているそうだ。深刻な内容を観客に生で提示するような映画は、小津の他の作品ではあまり見られない。それは映画が公開された1957年という時代が原因しているのではないかと思う。未婚の女性の妊娠や堕胎、はては自殺で終わるという内容。父親は最後に一人になり、長女は娘のために仲の悪い亭主の元に戻り、母親は男と都落ちする。未来に希望が持てる話はひとつもない。だがこの映画を観て、それが現実だ、人生とはそういうものだ、それでもひとは生きていかなければならない、と小津は訴えているように筆者には感じられた。むしろ小津作品のなかでも上位に属する作品なのではないかと思った。

(2024.1.26)



--- 戸田家の兄妹 ---


白と黒の小津安二郎 戸田家の兄妹

1941年、開戦前夜の作品である。小津としては日中戦争から復員してからの第1作目に当たる。

経済界の大物戸田家の当主が亡くなり、その子供たちが財産を相続することになるが、当主は大きな借金を抱えていてそれを支払うため、家屋敷を売らなければならなくなる。残されたのは母親と末の娘であった。誰かが面倒を見なければならない。相続人たちは父親のおかげで皆裕福な暮らしをしている。

まず長男が母親と末娘を引き取る。だが、長男の嫁と母親がうまくいかない。次に長女が引き取る。勝気な長女はことあるごとに母親に辛く当たる。次女は初めから相手にしようとしない。母親と末の娘は相談してふたりで鵠沼の別荘に住むことにする。この別荘だけ古くて価値がないので売られずに残っていたのだ。

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小津安二郎

そこに天津に赴任していた次男が帰ってくる。この様子を見て憤慨し、兄妹たちを罵った後、自分がふたりを天津に連れて行き、面倒を見ようという。

次男役の佐分利信が兄妹たちをひとりずつ罵るシーンは痛快である。が、痛快なだけでは済まない問題を抱えている。次男が鵠沼海岸へ出て行くシーンで物語は終わっているが、いずれ彼の背中に重いものがのしかかって行くのを感じる。

小津はこの映画の12年後の1953年に同様のテーマで「東京物語」を作る。次男=佐分利信の代わりに次男の嫁=原節子を、末娘=高峰三枝子の代わりに香川京子を配している。「東京物語」で次男の嫁は啖呵を切ったりする代わりに諦念の微笑みでそれを表現する。小津監督の12年後の結論であった、と思う。

(2024.1.25)



--- 父ありき ---


白と黒の小津安二郎 父ありき

父は中学校の数学教師38才。息子は小学生12才。母親はいない。(年齢は推定)

映画はふたりの日々を濃密に描いていく。

13年後。父は東京の工場で働いている。息子は仙台の大学を出て秋田の高校で化学の教師をしている。ふたりは年に一度泊まりがけで温泉に行っている。

5年後、息子は1週間の休みをとって東京の父のもとに泊まりにいく。その間に父は脳溢血で亡くなる。息子は亡くなる前に父の紹介で婚約した女性と父の遺骨を連れて秋田に帰る。

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小津安二郎

物語は父と息子の18年間を淡々と描いていく。印象的だったのは二人が渓流釣りをするシーン。12才の息子とのシーンでは川は左から右へ流れていく。25才の息子とのシーンでは右から左へ流れていく。流れる方向は反対だが父と息子の関係は相変わらず濃密である。釣りのシーンの前に息子は教師を辞めて東京で父と一緒に住みたいと提案する。父はお互いに一生懸命に生きていこう、と言いこの提案を退ける。

12才の息子ならともかく、25才の息子が父親と同居したがるのはどうも嘘くさい。

11年後の1953年に公開された「東京物語」では息子たちはいずれも父親との同居に難色を示している。こちらの方が真実味がある。

笠智衆の演技は素晴らしかった。38才の彼は毅然としてはいるが優しさも忘れない態度で、生徒たちから尊敬されていただろうと思わせた。また、56才の彼は背中が丸まりかけているが、慈愛溢れる表情で、良い歳の取り方をしてきたんだろうと思わせた。彼の表情を見ているだけで、音声や映像の劣化が気にならなかった。

(2024.1.24)



--- 風の中の牝雛(めんどり) ---


白と黒の小津安二郎 風の中の牝雛

「めんどり」を漢字変換すると雌鶏とか雌鳥とか妻鳥しか出てこない。「牝雛」と書いて「めんどり」と読ませるのは小津安二郎監督の意図があるのではないか。小津監督は自分のなかの「めす」を利用してでも「ひな」を守り、育てることを。同時に自分もまだ「ひな=未熟者」であることを表現したかったのではないか。

復員した夫に対して「めす」であり、「ひな」でもある自分をぶつける妻の姿を田中絹代は全身で表現する。夫役の佐野周二もその妻を全身で受け止める。

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小津安二郎

映画が作られた1948年にはまだ復員兵の姿はどこにでも見られたはずだ。戦死したと思われて、妻が自分の弟と結婚していたなどという悲劇が存在した時代である。

妻が子供を守るために女としての自分を利用するようなこともあったに違いない。それに向き合わざるを得なかった夫婦が、本気で対処しようとすればするほどお互いの人間性を剥き出しにせざるを得ない。

悩める夫と妻の戦いは夫が妻を急な階段の上から突き飛ばすシーンでピークを迎える。超ローアングルから階段を見上げたカメラは、上から落ちてくる田中絹代の姿をありのままに捉える。落ちた田中絹代はしばらくうずくまったのち、動かない右足をかばいながらゆっくりと階段を這い上がったいく。ゾッとするシーンである。

ショックを受けた夫と妻はやり直すことを誓い合う。

筆者は好々爺としての佐野周ニと優しいおばあさんとしての田中絹代しか知らない。真剣に男と女を演じる二人の演技に鬼気迫るものを感じた。

晩年の小津監督は感情を直接的に表現するような映画は作らなかった。1948年の小津監督は階段落ちのシーンも含めて、生の感情をぶつけ合うシーンが結構あるということを発見した。44才の時の笠智衆が佐野周ニの同僚役で出演していた。髪はふさふさで黒く、若々しかった。彼が独特の熊本弁で佐野周二を慰めるシーンでは緊張感がほぐれ、ホッとした。

(2024.1.23)


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