日比谷線中目黒駅を降りてすぐのところに都内にしては大きな寺があった。敷地もゆったりとってある。タワービルが立ち並んでいるすぐ近くにこのような憩いの場があるのは東京の特徴かもしれない。
一番手は古今亭菊之丞の「錦木検校」である。「品」というテーマを出されてこの噺を選んだのだろうが、あまり品のある話とは思えない。酒井雅楽頭が部屋住みの頃馴染みにしていたあんまに「俺が大名になれたらお前を検校にしてやる」と言った言葉を真に受けたあんまが大名になった酒井雅楽頭に掛け合って検校にしてもらう。以前から納得できない話だと思っていた。むしろ品のない噺ではないのか? と今でも思っている。貧乏はしていてもいわれのない金はいただけないと断る「井戸の茶碗」の主人公の方が品があるのではないか。
対するお坊さん代表は浦上哲也師。亡くなった時に来る「お迎え」には上中下、さらにその中に三段階合計9段階の階層がある。上の上は24人の菩薩が賑々しくやって来る、下の下は死ぬ間際にハスの花が一輪眼に浮かぶだけという。自分が死ぬ時にはハスの花がいいな、と思った。上品(じょうひん)という言葉は上品(じょうぼん)から生まれた言葉だそうである。浦上哲也師は静かに話しても朗々としたいい声で聞き惚れてしまった。
落語家の二番手は桂雀々師匠で噺は「一文笛」。噺に入る前のまくらがすごかった。雀々は小学校6年生の時に母親が、中学校1年の時に父親が蒸発し、以後一人で生きてきたという。時には借金取りから金を借りてまでして生き延びてきたそうである。噺は入れ子細工のようになっている。良かれと思ってやったことがとんでもないことになる。シェイクスピア悲劇のような噺である。主人公のスリが自分の指をストンと落とすところが迫力があり、雀々という噺家の「おもろい」だけではない底の深さを感じた。
最後は村井惇匡師。師の子供時代の頃の話である。事前に相談したわけではないだろうが雀々の子供時代と共通するところがあり興味深かった。「みっちゃんの話」は悲劇なのだがその中に宗教の根本に関わる教えがあり深いものを感じた。
今日の会は企画した人の勝利である。寺の本堂で聞く落語と説法、どちらもおもしろく、退屈するどころではなかった。土曜日の午後、正覚寺の本堂には小雨が降りしきる外とは別の時間が流れていた。
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